第21話 滅茶苦茶いい人だった
一時間のサイン会の間、教授は熱すぎるぐらい熱く加速理論を語った。
意外だったのは晴香の集中力だった。
必死でメモを取り、時々的外れな質問をする。
教授はその度に分かり易く解説を入れて説明してくれたのだった。
本気出すと言っていたが本気も本気だった。
隣の新進気鋭の恋愛小説家と整頓術のカリスマ主婦に、人気ときらびやかさは完敗しているものの、ここでそれをやるのかという熱い語り口に誰もが足を止めたのだった。
そういった意味で多少なりとも遠目に見ている人はいたものの、結局のところ教授目当てで書店に足を運んだのは大志と晴香だけだった。
教授は一時間のサイン会が終わった後、コップの水を一気にがぶ飲みした。
「ふー。君たちみたいに熱い生徒さんは大学にもいないよ」
一息ついた教授の額にはうっすら汗が滲んでいた。
「名刺を渡しておくから何か聞きたいことがあったらいつでも連絡してくれたまえ」
最期に固い握手を交わして教授と別れた後、お昼ご飯に行こうと晴香に誘われた。
ここがいいと先に入っていった晴香に続いて、ビルの一階にあったちょっとおしゃれな洋食店に入る。
「あー疲れた。でも収穫有りましたよね」
席に着くなり足を伸ばした晴香に倣って大志も足を伸ばした。
「うん。参考になった。当たりだったよ。ありがとう」
素直に礼を言われて晴香は照れくさそうに笑った。
「へへへ」
こうして見ると普通の可愛らしい女の子だった。
「ここは俺が奢るよ。色々付き合ってもらったし」
「やった。じゃあどうしようかなー」
晴香はメニューを真剣な表情で見始めた。
「おや」
お手洗いの帰りか、通りがかったのは篠田教授だった。
「またまた奇遇だねえ、これから昼食かい?」
「はい。先ほどはありがとうございました」
二人は立ち上がってお礼を言った。
「こちらこそだよ。久々に楽しくって時間を忘れちゃったよ」
教授はまだ食事がこれからの二人を見て提案をした。
「君たちさえ良ければもうちょっと話さないか。お昼ぐらいご馳走するよ」
大志と晴香は二つ返事でご馳走になる事にしたのだった。
「色々話し過ぎて整理が難しくなってしまったかな?」
食べ終えてから一時間ほど話した後、教授は時計を見た。
「そろそろ新幹線の時間だな。なんだか名残惜しいが行くとするか」
「すみません。ご馳走にまでなって」
「いいんだよ。君らみたいな学生と出会えてこっちこそ得したよ。話をしてるうちにまた頭の中が整理されたみたいで、今またちょっとひらめきかけてるんだ」
どうやらお互いにいい一日になったみたいだった。
大志と晴香は顔を見合わせて笑顔を見せた。
外に出て、二人は教授にもう一度今日のお礼を言った。
「じゃあ行くよ。ホント遠慮なく連絡してくれ。待ってるよ」
教授はスーツケースを持つ反対の手を振った。
「君たちお似合いだね」
そう言い残して教授は雑踏の中に消えて行った。
その背中を見えなくなるまで見送った後、二人ともちょっと黙り込む。
「なんか勘違いしてましたね」
「ああ、あの位の歳の人にはそう見えるんだよきっと」
教授の残した言葉をはぐらかしつつ、二人は駅に向かって歩き出した。
大志は紙袋に入っている教授のサイン入りの本を大事にしようと思った。
計二時間半にわたる加速理論の講義の中には、大志に当てはまる物が幾つも有った。
その一つに世界の時間の流れを止めることは不可能であると教授は解説していた。
しかし個体に個性があるようにそれぞれの個体には、基準となる世界の時間の進み方とは別の時間の進み方がある事を教授は力説していた。
つまり人を例にとるとするなら1の時間の流れを持つ者もいれば1.1の速さの者もいる。もし2の速さの流れを持つ者がいたとすれば1の者の2倍普段から加速していることになる。そしてその逆、つまり1の者より2倍遅い減速しているタイプの者も理屈では存在することになる。
倍の加速、あるいは減速というのは極端な例だが、より個性的な時間の流れを持つ者の存在も否定はできないそうだ。
個性的な時間の流れというものがあるとするなら、それを自分にも当てはめて考える事もできそうだと思った。
また、普段の生活の中で、あっという間に時間が過ぎたとか、あれ、まだこんな時間かなんて感じる事が有る。そういう時はある一定の間、何かのきっかけでその個体の通常感じている時間の流れが異常をきたした時だと教授は力説していた。
とんでもない異常に、つい最近三度も遭遇してしまっている大志には、ずいぶん興味深い説だった。
先日、自分の身に起こった事がその異常状態だったのかどうかを突き止めたいと思い、そしてその異常状態がなぜ起こるのかが大志にとって一番興味深いものだった。
帰りの電車の中、夕日が差し込む車内で二人は並んで座っていた。
大志は隣でうとうとしかけている晴香に声をかけて、今日取ったメモを見せてらう。
「凄いな。びっしり書いてある」
「でしょ。これが記者魂ってやつです」
晴香はちょっと眠たそうにそう言った。
「えーと、この世界の基準の時間の流れこそが自然時間流である。個体の持つ時間の流れには必ずズレがあり、それによって常に不自然が生じ続けている。そしてそのズレが一定を越えた時に、基準の時間に戻ろうとして時の流れの異常状態を誘発する……」
「そんな事言ってましたね……」
相槌を打ちつつ、晴香は大欠伸をした。
「通常は気にならない程度で済むらしいが、個体によっては異常なほど時間の流れに障害を持っている者がいる」
大志はメモを読みながらその一文に興味を覚えた。
「普段の生活に支障をきたすほどの時間異常を抱えている者は、稀にその反動で通常追いつくことは出来ない自然時間の流れに迫る時間加速をしてしまう事が理論上起こりうる……」
大志はそこまで読んでから晴香が寝息を立てているのに気付いた。
大志の肩に晴香の頭がもたれ掛かってくる。
仕方ないな。
きょう一日相当な頑張りを見せた晴香に、降りるまでの間、肩を貸してやることにしたのだった。




