第2話 見知らぬ世界
大志と幸枝が通う県立高校は、丁度自転車通学をする程でもない距離にあった。
朝の独特な空気の中、二人はいつも通っている通学路を並んで歩いている。
一見するとカップルに見えそうだが、二人にそんな雰囲気は無かった。
「ねえ大ちゃん、昨日の話なんだけど」
幸枝は一夜明けて少しまた照れくさそうにしていた。
きっとあれからも、その事ばかり考えていたのだろう。
「お願いね。そんでまた帰りに教えてね」
「うん。分かった」
大志は短く応えただけだった。
その話を学校に着くまでしたくなかった。
幸枝は気付いていなかったが、頭一つ分背の高い大志は先ほどから10メートル程先を歩く瀬尾に気付いていた。
幸枝にはその事を言わず、大志は瀬尾の後ろ姿をじっと見ていた。
昨年からのクラスメートなのに、こんなにしっかり観察したのは初めてだった。
友達と歩きながら登校している。
なにを話しているのかはさっぱり聞き取れないが、時々笑う横顔が妙に爽やかで、大志はちょっとカッコいい奴だなと思ってしまったのだった。
大志は男なんか別に見たくは無かったが、幸枝の頼みで仕方なく瀬尾を観察し続けた。
瀬尾は大志が何となく考えていたのよりいい男だった。
まず、すっきりとした感じのいい顔立ち。鼻筋が通っているのが目立っていた。背だって大志程ではないがそこそこ高い。
そしてなんとなく人当たりもいい。
大志には考えられない事だが、大概の女子生徒と気兼ねなく普通に話す。そして話しかけられている。
幸枝意外まともに女子生徒と話した事など無い大志には、それだけでも凄い奴だった。
先生からも信頼されている。なるほど生徒会に入っているのも納得できた。
多分勉強もできそうだな。
大志は頭はいい方だと自分では思っていたが、テストではいつも下から数えた方が早かった。
制限時間の有る問題を解くのが大志は苦手だった。時間さえあれば大体解けるのだが、いつも半分もできずに時間切れになっていた。
周りには頭の回転が遅い奴だと馬鹿にされていたが、幸枝はじっくりやったらできる人と言ってくれていた。
大志はしつこく瀬尾を観察し続けているうちに、一つ気付いた事が有った。
それは瀬尾のことを目で追っている自分に関しての事だった。
俺、なんかあいつと自分を比べてしまってる……。
一体どこで勝てるのかと劣等感を抱きながら、大志は頭を振ったのだった。
昼食をとって午後からの授業は体育だった。
大志は憂鬱な気持ちで少し風の有るグラウンドに出て行った。
「二週間後の球技大会に向けての練習だ。今日は紅白戦をやるから本番だと思ってしっかりやれ」
体育教師の坂口に檄を飛ばされ生徒たちは、グラウンドに散っていった。
「嫌だな。なんで野球なんだよ、冗談じゃないよ」
クラスで唯一気軽に話ができる葛西洋介が大志に不満をぶつけた。
「俺に言われても、俺だって嫌だよ」
大志と洋介は柔道部の仲間だった。弱小柔道部の汚名を創設以来引き継いできた柔道部。
狭い柔道場で少林寺拳法部の邪魔にならないように、週三回稽古していた。
部として定員ギリギリの柔道部に、二年は大志と洋介の二人だけだった。
そして滅茶苦茶弱かった。
遠目に投球練習し始めた野球部のエースに苦々し気な目を向けて、洋介はさらに毒づいた。
「あんなもん野球やってる奴が多いクラスが勝つに決まってるんだ。お前もそう思うだろ」
「賛成だな。違いない」
洋介の不満には大志も同意見だった。そもそも野球センスの有る奴ばかりが集まっている様な、この学校の野球部の連中に敵う訳がない。
小学生ならまだしも、高校生できつい練習を毎日こなしているあいつらにとっては、野球部のメンバー以外は足手まといに見えるに違いない。
結構体つきだけは一人前の二人だったが、球は取れない、投げれない、打てないの駄目な方の三拍子だった。
洋介の野球センスは本当に酷かったが、さらに言えば大志はまだその先を行っていた。
飛んできたボールは取ったことが無いし、投げてもボールは届かないし、バットを振ってもかすりもしなかった。
「ああ、帰りたい」
洋介は冗談抜きで言っている様だ。
「いや、今日こそは打つ」
大志は無理と思いつつも自分を奮い立たせる。
「前向きな奴だ。ちょっと分けて欲しいよ」
「ああ、半分やるから持ってけ」
そんな不毛なやり取りをしている間に試合が始まり、味方チームの打席に瀬尾が立っていることに気付いた。
大志は話を止めてじっと見る。
「あいつ、前も結構いいの打ってたな。野球やってた感じだな」
洋介の言葉を聞き流し大志は視線の先に集中した。
ピッチャーの球はそこそこ速かった。
キン!
瀬尾の弾き返した白球は、ラインを割ってファールになった。
「惜しかったな。大分飛んだのに勿体ない」
味方のベンチから残念そうな声が上がった。
綺麗に弾き返されて警戒したピッチャーは、外角低めを狙って投げる。
「ボール」
二球連続で外れた弾を瀬尾は見逃した。
そして次の球が甘く入ってきた。
瀬尾が振り抜いたバットが爽快な音を立てる。
ひと際甲高い金属音を残して、白球はライトとセンターの間にライナー線の放物線を描いて飛んでいった。
ベンチが盛り上がる。
瀬尾は土埃を上げて走り抜け、二塁ベースに滑り込んだ。
「おっしゃー!」
味方の歓声が上がる。
また報告する事が増えた。
ベンチが盛り上がる中、大志は内心複雑だった。
その後、取って取られての展開が続き、最終回の裏の攻撃が始まろうとしていた。
一点差で負けている。
この回で二点取れればこちらの勝利だった。
しかし……。
「やっぱり駄目だった」
豪快な空振りで三振した後、洋介は戻って来た。
「凄いスイングだった」
大志が親指を立てると、うるせえと返ってきた。
「余裕こいてるけどひょっとしたら回ってくるかもよ?」
「いや、まさか……」
大志が言った後すぐに味方の打撃音が聴こえて来た。
「あ……」
大志の視線の先でショートとサードの間を白球が抜けていく。
大志の予想では、三振している筈の粕田がどういうわけか塁に出ていた。
「丸井、ボーッとしてないで準備しとけ。もう一人出たら回ってくるぞ」
体育教師の坂口に言われ大志はおたおたし始めた。
「さっきの台詞、今度は俺が言ってやるよ」
洋介はごつい顔を厭味たっぷりに歪めて笑顔を作った。
そして次の打者は英語研究部の田代だった。
大志の未来予想図では粕田に続いて、田代は絶対打たない筈だった。
キン!
打った。
ぼてぼてのヒットはサード側に転がっていき、塁に出ていたランナーを気にしていた守備の投げる判断を鈍らせた。
「セーフ!」
審判をしていた生徒が高らかに声を上げた。
大志は死刑宣告が近づいてきていることを感じていた。
「大ちゃーん」
聞き覚えのある声に振り向くと、フェンスの向こうに人だかりができていた。
時間ぎりぎりまで試合をしている自分達とは違い、別のクラスでは試合が終わっていたのだろう。
集まったのは、盛り上がっている大志のクラスを覗きに来た生徒達だった。
その中に幸枝の姿があった。
「おーい、大ちゃーん」
聴こえているが聴こえていないふりをする大志に、幸枝はしつこく声をかけ続ける。
頼む、打ってくれ。
大志は打席に入った野球部の片山に向かって願った。
片山が打ってランナーが二人帰れば自分の出番は無くなる。
盛大な空振りをして、チームの全員から大ヒンシュクを買う事もなくなるのだった。
そして幸枝の前で恥を晒す事も無くなる。
「大ちゃーん」
しつこいので仕方なく、余裕の無い笑顔で手を振ってみた。
「いいとこ見せてよ」
長い付き合いで分かってるはずなのに、いったい何を期待してるんだとため息が出た。
ネクストバッターズサークルで、大志は見たくないものを見ていた。
疲労困憊で球が走らなくなっていたピッチャーの杉田が、片山を前にして息を吹き返したのだった。
そうか、あいつら……。
大志は思い出した。あの野球部の二人は永遠のライバルと誓い合ったディープな二人だったのだ。
試合そっちのけで二人は闘志を燃やす。
杉田の球はその球をさっき投げてたら、もう試合は終わっていたような凄い球だった。
たった三球で片山は盛大に三振した。
熱いライバルの戦いの余韻に観客が酔いしれる中、場違いな雰囲気を感じつつ嫌々大志は打席に立った。
「いけーやっちゃえ!」
ほぼ全員が諦めムードの中、幸枝だけが盛り上がっていた。
そして一球目が飛んでくる。
杉田の球は大志には殆ど見えなかった。
「スットライーク」
気が付くと背後のミットがいい音をさせている。そんな感じだった。
それでも二球目思い切り振ってみた。
「スットライーク」
かすりもしない。
マウンドの杉田は余裕の笑みを浮かべている。
片山以外歯牙にもかけていない杉田にとって、遊びで相手をしてやっているように見えた。
次の球も見えなかった。
気付くとミットに高い音がしていた。
「ボール」
「大ちゃん! 打てるよ! 私……」
背中に幸枝の声がする。
くそっ! せめて当たってくれ!
杉田が振りかぶる。
「信じてる!」
幸枝の声が届いた瞬間、大志の頭の中で何かがゴトリと動き出した。
耳鳴りがする。キーンという細く鋭い、何かが高速で回転するような音。
大志はバットを振り抜くため足を踏みこもうとして異常に気付いた。
なんだ?
ボールがやってこない!
よく見ると誰も動いていない。
音もあのキーンという細く鋭い回転音しかしなかった。
自分以外の誰も動いていない!
大志は総毛だった。
守備をしている者も、周りで見ている生徒たちも、静止画の様に止まっていた。
一番奇妙なのはボールだった。
落ち着いてみると、さっきからゆっくりとこちらに向かって回転しながら飛んできている。
その気になればペンで落書きが出来るぐらいに、ボールはゆっくりとキャッチャーミットに向かって浮遊していた。
大志はその間抜けな白球を打ってやろうと構えた。
そして思い切り振りぬいた。
殆ど止まったボールだったが、それでも普段味わう事の無い感触は結構気持ち良かった。
そして高速で回転していたような鋭い音が唐突に止んだ。
「あれ?」
杉田がピッチャーマウンドで首を傾げる。
杉田の視線の先にはキャッチャーミットが有ったが、そこに収まっている筈のボールはどこにも無かった。
ガシャン。
音のした方を皆が一斉に振り返る。
絶対に届くはずのない奥のフェンスに直撃した白球を目にして、杉田だけで無くそこにいた全員が言葉を失ったのだった。