重大な忘れ物
或るうららかな日
9:00
小鳥が楽しそうに囀る朝、珍しく平和な時間が二人の少女の間に流れていた。一人はティーカップに紅茶を注ぎ、もう一人はお茶請けとして広げられたリッツを上品につまんで口へと運んでいる。
「春だねぇ……」
ふと紅茶を注いでいた方——クロスが口を開いた。
彼女はそのまま紅茶に何も入れずそれを口に運んだ。飲んだ後にまるで老人が緑茶でも啜った後に吐き出すようなため息をつく。
反対に、ソラは一杯で二万は下らないそれに躊躇いなく牛乳と砂糖をどぼどぼと注ぎ、机の端に置いてあるスプーンに手を伸ばした。
「春ねぇ……何かあった気がするんだけれども」
透き通った紅色から哀れにもベージュに染まったティーカップの中身がソラによって無慈悲にかき混ぜられるのを横目に見つつ、クロスはあー、と声を上げた。
「あれちゃう、ルーチェの生誕祭」
「せやったせやった、もうそんな時期か」
王女であるルーチェの誕生日は、明確な祭典こそないものの立派な祝日となっている。クロスがわざわざ“生誕祭”などという恭しい呼び方をするのもそのためであった。
また、祭り程規模は大きくないものの、今年の令嬢たちはその日、誕生日パーティを企画していた。主役にはルーチェは勿論のこと、同じ月に誕生日を迎えるファルルも含まれている。二人にプレゼントを渡し、国一番のパティシエが作ったケーキを食べ、肌を犠牲に夜通しどんちゃん騒ぎをしようという計画だった。
楽しみやなぁ、とソラが笑い、クロスが穏やかに同意する。
部屋の窓から見える外庭に植えられた桜の花びらが一枚、はらりと部屋の中に入り込んできた。それをクロスが微笑ましくつまんで眺めるというなんとも穏やかな時間が流れていた矢先、ソラの手のスプーンがかちゃりと音を立てた。
その音に釣られて桜の花びらからソラへと視線を逸らせたクロスの瞳に、スプーンをカップに突っ込んだまま突如全ての動きを止めたソラが写る。
刹那、重々しくソラの口から言葉が零れた。
「なぁ姉様」
「うん?」
「今日何日?」
「……7日やなぁ」
日付なんていちいち覚えていないクロスは左手首に付けていた時計をちらりと見た後答えた。ソラはその答えを聞いて更に顔を強張らせ、しまいには顔色までなんだか悪くなったような気がする。
何事かと首を傾げるクロスに構わず、ソラはさらに続ける。
「で、生誕祭は?」
「そりゃ勿論8日に決まって……うん?」
今度はクロスが動きを止める番だった。ご丁寧に血の気も引いている。
「明日だよなぁ?」
ソラが諦めたかのような空笑いと共に、決定的な一言を吐いた。クロスは青ざめた顔でゆっくりと頷く。
「そして一つ伺いますが姉様はプレゼントの用意を済ませていらっしゃいますかね」
「済ませていらっしゃらないんですよね」
その言葉を最後に、部屋の空気は重く沈む。
二人はそれぞれのティーカップの中身を一気に飲み干した後、どちらからともなく目を合わせた。
「行くか」
「おん」
急用が決まったからにはこれ以上の長居は無用とばかりに、二人はお高い椅子を蹴り倒さんとせんばかりに立ち上がる。
迅速に用意を済ませた二人は足早に部屋の端に取り付けられている扉へと急ぐ。そこで不運にもteaパーティに参加しようと扉から現れたウィンディの腕を両側から引っ掴み、二人……否、三人は城門へと走り出した。
4月7日、10:00
ウィンディを両脇に抱えたまま風のごとく走り去ってから小一時間。目的地に到着したのか速度を緩めた二人に、ここぞとばかりに彼女は口を開いた。
「よく分からんけど急いでいる感じやったから抵抗はせんかってんけど……どうしたん?」
「あんさ……明日って何があるか知ってる?」
肩で息をしつつ、クロスは質問を質問で返した。隣のソラは普段から鍛えているからかケロっとしている。
「生誕祭やろ?それがどうしたん?」
「…一つ質問なのですが、お嬢さんは彼女たちのためのプレゼントは用意されました?」
疲れたと言わんばかりに壁にもたれかかったクロスの代わりにソラがこれまた質問で返した。ウィンディは意味が分からず首を傾げて戸惑いがちに答えた。
「用意……したけど?」
言ってから二人の境遇を察したウィンディは笑いを堪えつつ一言…今の二人には心臓にクリーンヒットする一言を呟き、優雅に扇子を取り出し立ち去って行った。
「君たち二人以外は皆用意してたよ。ま、頑張って」
明日の主役に似合う物は何かとくっちゃべっていた二人はふと良さげなアンティーク屋を見つけた。
「ここに何かしらはありそうやねぇ」
「あ、ここの店長はハルと同じ野球球団のファンやで」
せやから店の一角に球団のグッズ売ってんねん、とソラが救世主でも現れたかのような顔をして続ける。
目的に準ずる場所があるのならば入らない理由はない。二人は年季の入った扉に手をかけ、ゆっくりと店内に足を踏み入れた。カランカラン、と心地よいベルの音と共に程よく流されているBGMが彼女らの耳に入る。
それと同時に今一番聞きたくなかった声も。
「な、な、何でハルここにおるん!?」
「いや、まぁ、ちょっと考えたら分かるけどな……」
思わず物陰に隠れた二人は小声で動揺を言葉に表した。幸い、ハルと店長は楽しく談笑していて二人には気づいていない様子だ。
たとえ幾ら好物のプレゼントだったとしても、本人に中身を知られていては歓喜の感情は半減する。ましてや誕生日パーティが明日だということを今の今まで気づかなかっただなんということが本人にバレたら……彼女たちの脳内は、どちらかといえば後者の理由に支配されていた。
示し合わせたわけでもないが、二人は無言でこっそりと逃げ出した。
11:00
店を出た二人は、また宛てもなく道を歩き出した。やがて二人は飲食店やガラス細工などを扱う雑貨屋、果ては何に使うのかもよく分からない物体を売る店などが立ち並ぶ商店街へと足を向ける。生誕祭前日とあって、商店街はいつも以上の賑わいを見せている。すれ違う人々も、どこか浮かれている様子だ。そんな中、肩を落としながら歩く二人はどこか異様な空気を醸し出していた。
「そこのお姉さんたち、俺らと一緒に…」
「「あ、結構ですすみません失礼します」」
寄ってくるナンパをばっさりと切り捨てながら、二人は淡々と進む。
「どうする、アニマイトでも行く?」
ソラの言うアニマイトとは、漫画などに関する商品を販売する店である。明日の主役二人が今ハマっている漫画は、クロスとソラも把握していた。アニマイト城前店は、丁度二人が進む道の先にある。
「アニマイトなぁ…」
難色を示すクロスに、ソラが首を傾げる。
「何か不都合あるん?」
「あー…。まず、ルーチェに遭遇しかねへんのが一つと」
「それは確かに」
ルーチェの脱走癖は令嬢全員の知るところだ。なかでもアニマイトでの目撃報告は数多い。
「あと、カーレスがアニマイトでプレゼント買ったって言ってた」
「やめとこか」
プレゼント被りはできれば避けたいところだ。二人はアニマイトと群がる軟派な男たちを華麗に無視し、なおも足を進めた。
「というか姉様がその話聞いた時点でプレゼント買ってればこんなことにならなかったのでは」
「言うな。あーでも、そしたらソラが今日一人でプレゼント探すことになってたで」
「君が忘れてたことを神に感謝するよ。…あ」
からからと笑うソラが、唐突に足を止めた。つられて、クロスも立ち止まる。ソラの視線の先には、一軒の何の変哲もない本屋があった。
「すまん、ちょっと待っててくれんか?」
「…ここでか?」
クロスが自分の肩越しに親指で後ろを指さす。そこには未だめげない絶賛彼女募集中の人間たちの塊があった。
「まあ、何かあったら殴れ」
ソラは薄情にもそう言い捨て、店にすたすたと入っていく。
そしてクロスが三人程の男性を投げ飛ばした頃、ソラが一冊の本を抱えて出てきた。表紙には「贈り物大全」とある。
「とりあえず、そこ入って読もうぜ」
ソラが目線で指した先には、某ファミレス(サから始まってゼで終わるあれ)があった。
「ああ、まあお腹減ったしな」
クロスが短針と長針が真上できっかり重なった時計を見やる。
店に入った二人はあれこれ議論の末プレゼントを決定、その足で購入し、帰城した。あとはパーティーの成功を祈るばかりである。
「じゃ、ぬかるなよ」
「任せろ」
4月8日 20:00
目を開けると、まるで盲目にでもなったかのように一面が暗闇に包まれていた。最後に覚えているのは体に嫌な衝撃が走った後にぼんやりと見えた、あの義姉妹の顔だった。
少し頭が働いてきたころ、自分の身に一体何が起こっているのか何とはなしに把握した。耳と目の周りから微かに感じる布のような質感、後ろ手に括りつけられた縄の麻のようなザラザラとした肌ざわり、そして全身から嫌と言うほど伝わってくる堅い感触は、恐らく木でできた四角い椅子。腰を下ろすクッションの部分はふかふかだ。
口には何もされていない、大抵のこういう状況……いわゆる誘拐されて拘束された状況では本来周りに気づかれないように口を封じるはずだ。しかも今回なんて……
「どちら様でいらっしゃいましょうか」
「……!!」
さっきから隣でゴソゴソと服が擦れるような音が————それこそドレスの裾でも擦れたような音だが————この沈黙の空間では煩いほどに聞こえていた。
「ハ、ハル!?」
「え、ルーチェ?」
聞きなれた声に驚く二人。折角口が自由なので、どうせだからと記憶の示し合わせをすることにした。
「最後に見たのはなんやった?」
「例のサイコパス義姉妹ですよ」
「あー同じや」
彼女たちがやったのならここも大して危険な場所ではないであろう……散々サイコパスと言っておいてなんだが、彼女らには謎の信頼がある。人知れず二人は胸を撫で下ろしていた。
しかし、そんな空気の流れは一瞬にして吹き飛ばされることとなる。
「そろそろお喋りは終わりにしようか、お嬢さん方」
聞こえたのは、酷く歪んだ、人間離れした音声。恐らくは変声機を使用しているその人物は、微かに笑いを込めた声で続ける。
「おっと、動いてくれるなよ?勿論喋るのもなしだ」
かつかつという靴音が、やけに頭の中で響く。その気配は二人の中間、二脚の椅子の真横で止まった。
「今俺はお前らのうちの片方の首にナイフを突きつけた状態だ。いわばこっちが人質だな。お前ら二人の片方でも動いたら…分かるだろ?」
瞬間、部屋の空気がピリと張り詰める。声も出せないこの状況では、どちらが狙われているのかを判断するすべはないに等しい。そもそも下手に動けば自分、もしくは親友の命が危ういとなれば、迂闊に行動することもできない。正体不明のこの誘拐犯の言いなりになるしかない現実に、二人は唇を噛んだ。
「とはいえ俺は今気分がいい。今日はお前らの生誕祭なんだろ?片方だけに開けた視界をプレゼントしようじゃないか」
くつくつという笑い声が背後に回る。顔を覆う布が少し引っ張られる感覚がした、刹那。
明転。
「Happy birthday to you!! 」
パーン、とクラッカーが響く。一気に明るくなった視界に、飾り付けられた部屋を背景に満面の笑みを浮かべる親友たちが映った。
「「そういうことかー…!」」
本日の主役の二人は、揃って脱力し、堅い椅子にもたれかかった。
「はーいちょっと動くなよー?」
ソラが二人の腕を固定していた縄をざくり、と切り落とす。
「一応縄も下処理しといたからそんなに痛くはなかったと思うんだが」
「…妙なお気遣いどうも…」
二人の腕を検分するかのように眺めるソラに、ファルルが疲れた様子で形だけの感謝を述べる。ソラはにこりと笑って、結構大変やったんやぞとどこかずれた言葉を返した。
「やー、楽しかったわー」
背後から雑音交じりの声が響く。誘拐犯もどきを演じていたクロスは、そこでようやっと変声機を口元から下ろした。
「いや、君らやろうとは思っとったけど!思ってたけどね!?こっわ!」
ルーチェがいつになくハイテンションで叫ぶ。
「一応、どっちにもナイフは当ててなかったんやで…?」
「当ててたら絶交やわ!」
宥めるように、言葉通り“一応”ウィンディが弁護したが、ファルルがそれにツッコミを入れる。
「流石にやりすぎた感はあるんで、今度からは縄はビニールテープにしようと思う」
「気にするところそこ!?」
ソラは二人の反応を見て神妙な顔で頷いたが、この発言にもファルルの元気なツッコミが入る。
「とりあえずケーキ食べようやー!」
わいわいと騒ぎ出した令嬢たちを、カーレスが制した。ぶんぶんと手招きをする彼女の傍には、国一番のパティシエが作った見目も麗しいケーキが鎮座している。
年頃の少女たちがその甘い誘惑に勝てるはずもなく、一旦休戦という形をとった令嬢たちはケーキに舌鼓を打ち始めた。
「やばいこれめっちゃ美味しい!!」
「人生で食べたケーキの中で一番美味しいかも知れん…」
甘いケーキが舌の上でほどけると同時に、高ぶっていた感情も穏やかになっていく。
和気あいあいとした空気が流れ出したのを見計らい、ウィンディが主役へのプレゼントを取り出した。
「はいこれ、二人に」
ウィンディが取り出したのは、南国風の羽飾りの付いた髪留めだ。ルーチェの分には白と赤の羽が、ファルルの分には金色と桃色の羽が飾られており、それらが華やかに、しかしセンスよくまとめられている。流石はウィンディというべきか、実用的でなおかつ喜ばれる、お手本のようなプレゼントだ。
「じゃあ私もー!はいこれ!」
カーレスがいそいそと取り出したのは、お馴染みアニマイトのグッズ詰め合わせだ。
「はぁー!推しが尊い!」
「ほんまそれなー!」
それぞれ推しのグッズを手に取り、主役二人は「尊い」と連呼している。アニマイト常連であるカーレスの選んだプレゼントは、しっかりと二人の心を掴んだようだ。
「じゃあ次は私やな。はい、どうぞ」
クロスが二人に差し出したのは、ガラス細工のネックレスだった。ルーチェのものには金の十字架が、ファルルのものには黄色と黒の見事な虎がついている。
「十字架のネックレスってお守りにもなるらしいから、ルーチェのはそれにしてん。でもハルには、虎の方がお守りになりそうやろ?」
クロスはそう言って薄く微笑む。ネックレスは二つとも、商店街の雑貨屋で購入したものだ。
「ちなみに私のもお守りやぞ」
ソラがそう言って差し出したのは、なんと装飾つきの短剣だった。
「ハルがよく行ってるアンティークの店で買ったんだよ。刃物は総じてお守りになるらしいから、来年は日本刀にしようかと思う」
余談だが、クロスとソラの十字架や刃物に関する知識は全て「贈り物大全」から入手したものである。
「よし、じゃあプレゼント交換も終わったし遊ぼうや!」
カーレスの一言で、世にも楽しいどんちゃん騒ぎが幕を開けた。
…翌日令嬢たちの肌が荒れに荒れたことは言うまでもない。
遅れてすまんかった。