キルザキング
橋本由紀夫は動揺していた。それは他人から見て感じ取れるようなものではない、小さな揺らぎであったが、橋本は自身の中の小さなさざ波に気を割いていた。
橋本は冷静な男である。高校二年生という若者というより子供といった方が近い、わずか十七年分の経験しか持ち合わせていなかったが、彼は同世代の中では抜きんでて大人びていた。それも、この年頃の少年が持ち合わせる、大人願望に引きずられ傍からは滑稽な背伸びを試みるような、表面的なものではなく、もっと達観した成熟さを身に着けていた。
橋本は決して大人ぶろうとはしなかった。むしろ、誰よりも年頃の少年を演じていた。流行のテレビ番組やゲームに熱中し、ラジオや楽器などに手を出し、同級生と馬鹿をやる、どこにでもいるような男子高校生になりきっていた。それが「自然」だと考えていたからである。橋本は自宅でもその性質を剥がすことはしなかった。両親も、歳が二つ離れた弟も、それが橋本の本質だと認識していた。
橋本の中には「不自然」は忌避されるものだという認識が強く存在していた。その認識を裏付ける経験もなしに、橋本は「自然」を受け入れた。何故なら大衆は「違和感」を恐れ、迫害するものであったから。
橋本は常に他者を見下していた。どんな人間にも橋本に勝る長所の一つや二つを持っているということを認識しつつも、同時に大衆とは、たいしたことのない、取るに足らない存在で、本質において橋本よりも数段劣っているものだという感情を抱いていた。
橋本の夢は王になることだった。勿論この日本に人の上に立つ王たる王は存在しない。
そんなことは重々承知だった。しかしだからといって王になる夢を諦めるつもりはなかった。確たる目標がないのなら、橋本自身が思う王たる振る舞いをしていくに他ないと考えた。そうしていけば自然と王になれるはずだからだ。そのための第一段階として橋本は凡人を演じることにした。同じ立場にあると認識させつつも、哀れな大衆を利用されていると感じさせることなく使役することが王に必要な素質だと考えたからである。
その試みは想定以上に上手くいっていた。役職につくこともなく、橋本の能力は傍から見て数字に表せるものにおいて突出したところはなかったが、人望と言うただその一点において、橋本に勝るものはいなかった。
しかし、橋本は満足していなかった。橋本を嫌う生徒がただ一人いた。それが妬みや嫉みなどの感情なら問題視しなかったが、その生徒は橋本の本質を見抜き、嫌悪感を抱いているように思えたからである。
それは一つ下の女子生徒で、橋本の友人の部活の後輩だった。出会いは偶然、教室に居残って勉強会と言う名の馬鹿騒ぎをした帰り、校門での出来事だった。橋本とその友人二名に対し相手は友人とその女子生徒であった。行き先は駅までと皆同じであったため、自然と会話が始まった。駅までの十分間という短い中でのさらに刹那の出来事であった。橋本と後輩女子の目が合った。橋本の全身に電流が走った。その女子生徒の目に、侮蔑と嫌悪が浮かんでいた。しかしそれはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には純真無垢な後輩女子の目に戻っていた。
橋本は確信した。この女性生徒は自分と同類であると。同類は橋本が最も恐れる存在であった。それは王たろうとする橋本の覇道の障害となりうる唯一の存在であったからである。同類の前に橋本の詐称術は通じない。どんなに装飾を凝らした仮面でさえもいとも簡単に外されてしまう。橋は積み上げてきたこれまでの全てを瓦解させかねない事態を危惧した。そんな不安を一切漏らすことなく、橋本は巧みに会話を盛り上げつつも後輩女子を観察し、帰路についた。
女子生徒の名前は岡崎知子といった。様々な策略が浮かんでは消えていった。橋本がこれまで操り、洗練させてきた詐称術は全て大衆向けのものであり、何一つ同類に効果があるようには思えなかった。夜を明かし、悩みに悩み、考えに考え、橋本が出した結論は、相手の思考を乱すことだった。同類と言えども人間であることに変わりは無い、人間が人間たる特徴は思考である。思考を崩された時、人間はその価値を落とす。
しかし正攻法では同類を乱すことなど到底叶わない、奇策を用いて相対するしかないと橋本は覚悟を決めた。
その週の金曜、橋本は岡崎を校舎裏に呼び出した。何ともありきたりすぎて単純なセッティングだと我ながら呆れたが、橋本が演じる橋本由紀夫はそういう単純一途な男であった。
岡崎は呼び出し時間より十五分遅れて姿を現した。臆して逃亡を決めたと思ったのだが、その一分の動揺も見られない姿から、向こうも何か策略を練ってきていると確信した。
「今日は来てくれてありがとう。ごめんね、いきなり呼び出したりして……」
橋本由紀夫はおずおずと切り出した。岡崎は何も言わなかった。
「その、どうしても伝えたいことがあってさ」
橋本は呼吸を止め、岡崎の顔を真っ直ぐ見つめた。岡崎の曇りのない目が橋本を見ていた。橋本は視線を地面に落とした。
大丈夫だ、俺はやれる。橋本は自分にそう言い聞かせた。たとえ同類だとしても、そこにも優劣は存在する。自身がこの目の前の少女に劣っているはずがない。自信がむくむくと湧き上がってきた。橋本は再び、睨み付けるようにして岡崎の顔を真っ直ぐと見た。
岡崎の目は宝石のように透き通っていた。顔がかあっと赤くなるのがわかった。呼吸を止めていた効果が出たと、橋本は内心にやりとした。誰が見ても橋本は純情に追い立てられる少年のように映っているだろうと考えた。橋本の人生の中でも一、二を争う完璧な演技だった。
橋本の策略は次のようなものだった。岡崎は女、そして自分は男である。異性間において思考を鈍らせ乱れさせるものは一つしかない。恋愛である。橋本はまだ恋愛というものを経験していなかったが、その抜きんでた観察眼で恋煩いというものがいかに厄介なものかは理解していた。岡崎を自身に惚れさせる。それが橋本の計画だった。正直なところ自信はなかったが、理知的な自分ならどうにかできる、今はどうにかしなければいけない試練の時なのだと覚悟を決めた。そして惚れさせる第一段階として突然の告白を選択したのだ。勿論断られることは織り込み済みである。まずは告白したという既成事実を作ることが重要であった。告白された程度で同類の岡崎に揺らぎが生じるとは考えていなかった。客観的に見て、岡崎に対して自身が上回っているものは人望であった。周囲の力を借りることによって岡崎の心を乱す、少しでも隙が生じれば一気にその思考を瓦解させることが出来る手腕があると橋本は自負していた。
「一目惚れしたんだ。――良かったら俺と付き合ってくれないか?」
橋本はゆっくりと頭を下げた。ゴメンナサイ。その一言を受けて頭を上げ、その場を立ち去る予定であった。
だが、岡崎が発した言葉は、橋本の予想の斜め上をいくものであった。橋本はそうなる事態を一切想定していなかった。
「……はい」
橋本が驚いて顔を上げると、少し頬が紅潮した、岡崎の顔があった。
「よろしくお願いします」
岡崎は首を少し傾げて、にっこりと笑った。
橋本は動揺していた。決してその動揺を表に出すような愚かな真似はしなかったが、自身の中の揺らぎがどんどん大きくなっていくのを感じていた。