第拾漆話 夢で伝えたいこと
ひどい、嵐の夜だ。今は冬なのに僕が着ている服は半袖シャツだったから、すぐにこれは夢だって気が付いた。ぜいぜいと息せき切って暗い森の中を駆け抜ける僕の足は、今の僕よりも随分と幼くて、止まればすぐに膝が笑いだすことは想像が出来るほどに疲れきっている。それでも、僕、いや、彼の足は止まらない。
背後から響くのは、曇天から降りしきる雨の音と、足元で跳ねる水溜りの音。それらに混じって、数分前に祖父母を殴り、手にした鉈で惨たらしく殺した父の不気味な金切り声が、どこへ逃げても、どこまでも追って来ていた。
「待たんかぁあ、耕太ぁあああああ!!」
ばちゃばちゃという水溜りの音が。
顔にぶつかる豪雨が。
空を覆うほどの大きな生き物に、滅茶苦茶に掻き回されているように揺れる木々の音が。
絶え間なく漂ってくる土の臭いが蛇のように巻き付いて、オレから離れてくれない。
疲れのせいで縺れる足が、ぐしゃぐしゃになった土に何度も捕まってしまう。
「逃げても無駄だって言っとるだろぉおおがぁああ!!」
どうして、こんなことになったんだろう。口の中に土が飛び込んできて、じゃりっと歯噛みする。最悪だ。口の中も切れたらしい。慌てて口内の土と血を水溜りに吐き出して、すぐにまた暗い森の中を走り出した。
びしゃびしゃと雨に打たれて頻りに首を垂れる茂みを掻き分け、前につんのめりながらも、一寸先の闇の中へと身を投じる。後ろから追いかけてくる変わり果ててしまった親父から逃げるには、そうするしかないと思っていた。距離は空けている筈なのに、すぐ後ろで聞こえてくる声が、だんだんと人ではないものになっているような気がした。
「ぜぇえったぁああい、逃げられんぞぉぉおおお!!」
オレがまだ小さかった頃に、こんな夜更けにこの森に入ればすぐに怒った母も、そんな母を諌めてくれる優しい父も、仕方がないなって笑っていたおじいちゃんもおばあちゃんも、もう居ない。全部、何もかもを、あの優しく笑っていた父が、壊してしまった。
どうして、こんなことになったんだろう。中学に入りたての頃までは、まだみんな笑っていた。中学二年生の頃には、父が仕事中に怪我をして、入退院を繰り返していたが、まだ笑っていた。だけど、その後で父は酒を飲むようになり、少し前までなら絶対に口にしないようなひどい言葉の羅列を並べ始めた。母は悲しい顔が多くなり、おじいちゃんやおばあちゃんは母の傍に寄り添うようになった。それが気に食わなかった父は、よりひどいことをするようになって、今日、母は家を出て行ってしまった。烈火のごとく叱りだした父は、母を追いかけようとするおじいちゃんやおばあちゃんを。あの優しくて大きな手で。首を絞めて、壁にあった鉈を振りかぶって。オレに手を伸ばしたんだ。「おいで」って。
みんな、みんな、オレが中学に行き出したの頃のことだ。それなら、自分が知らないだけで、オレが何か悪いことでもしてしまったのかもしれない。オレが、みんなのピリピリした空気に堪えられなくて茶化したり、笑ったり、家に帰る時間が遅くなったから。オレが、中学校に行き出したから。
だから、だろうか。こんなにも視界が滲むのは。
前も見えないひどい雨のせいで、頬を伝う雫は涙なのか、雨なのかも分からない。ただ、心臓を視えない手で鷲掴みされたような痛みや、走り続けたせいで朦朧とした意識が、現実を教えてくれる。ばしゃばしゃという雨音に混じって、鉈で木々に八つ当たりをする父の怒声が耳にこびり付く。
「ひっ、ひぃっ……!」
ひくっと上下する喉の動きをどこか他人事のように感じながら、必死に足を動かす。既にもうどこへ向かって走っているのか、どうすれば良いのか分からないまま我武者羅に走り続ける。今のオレは、そんな単純な事しか出来なかった。
「……わぶっ!」
その時、ふと足に何かが引っ掛かって、疲れた身体は無抵抗に地面へと倒れ伏せた。ばしゃんと大きな音がして、真っ暗な視界と鋭い痛みと小石が肌に食い込む痛みが襲い掛かってくる。
慌てて身を起こそうとしても、全身は痙攣するだけで、動きそうにない。仕方がないから匍匐前進で、前へ、前へと進ませる。この鬼ごっこにも、ついにサヨナラを告げるときがやってきたのかもしれない。
「……そんなん、アリかよ」
ぴしゃん、と雷鳴が辺りで轟き、後頭部から追い風が吹き荒れる。耳元でごうごうと風が鳴き、ばたばたばたっと雨脚が強くなる。しかし、それよりも目の前に聳え立つ絶壁に、言葉を失くした。
どこにも、逃げ場はないぞ。そんな声が、耳元で聞こえたような気がした。はっとなって身体を反転させると、林の奥からは鉈を持った幽鬼のような男が、近付いてきている。素早く周りを見回すが、小石ばかりで何も身を守れるようなものなどない。
男が、地面の感触を確かめるように一歩ずつ、踏みしめてやってくる。男が足を降ろす度に跳ねる水溜り。背後の道には鉈を引き摺った後に、ひっきりなしの雨がその溝を埋めるように空から降り注ぐ。項垂れた男の表情は分からないが、見慣れた父のものではないことは、空気で分かった。
どうして、と胸の奥から吐き出す。轟音のせいで聞き取れる筈がないのに、男はオレの声を聞いた瞬間に、少しだけ笑った。にたりと笑ったせいで、男の黄ばんだ歯が暗闇の中で鈍く光る。
「父ちゃんは……」
それを見て、オレはまた泣いてしまった。もう二度と、あの優しい時間が戻ってくることはないのだと。一緒に遊んでくれて、たまに厳しいことも言ったけど決まって温かい掌で頭を撫でてくれる父はいなくなってしまったのだと。悟ってしまった。
「もう、いないんだね」
目の前にまで迫った男の顔は、絵本の鬼のようで。
背後に雷を背負い、鉈を振りかぶる姿は、オレの記憶にはない父だった。
眼を大きく瞠って、父を眺めた。父は、鉈を振りかぶったまま、立ち尽くしている。その眼には、先ほどまでのおぞましい笑みはどこにも見当たらず、代わりに恐怖が浮かんでいた。その眼が持つ感情の意味を理解する前に、背後の絶壁から地を揺るがすほどの轟音が周辺を支配する。
父の顔が、オレから絶壁へ。オレも絶壁へと向けた瞬間。見渡す限りの暗闇が、大きな波となってオレと父に覆い被さろうとしていた。夜の闇とはまた違った暗さだ。その景色は、まだ小さかった頃に遊びに行った海の波を思い出させる。あの時も、たしかこんな波にさらわれて、沖の方へ流されたっけ。
あっという間に真っ暗になった意識の中で、「土砂崩れ」の単語が浮かぶ。
浮かんで、次には。
「また、海に行きてぇな」
その声は、土石流に呑みこまれて、消えた。
◇◇◇
飛び起きた。呼吸が乱れ、額から噴き出した汗や眦から零れた涙が、頬を伝い落ちる。ぼんやりとする頭を振り、壁にある時計を見てみる。とっくに朝になっていた。カーテンのせいで暗い室内を見回し、部屋の隅で犬猫のように丸くなって眼を瞑っている乍原の姿を認める。
「……」
黙って乍原の傍に寄ろうとしたら、跳ね除け損なった布団に足を取られた。布団をはがす動作すらもどかしく、勢いよく布団を蹴り飛ばす。立ち上がろうにも足に力が入らなかったから、肘で前へと進み、乍原の前まで来た。
そっと乍原の口元に手を当てる。死んだように眠る乍原が怖くて取った行動だったが、しなければ良かった。当たり前のように、乍原は呼吸をしていなかった。
乍原は、あの夜に、土砂崩れに巻き込まれて死んだのか。前にお節介な双子の姉からあんな話を聞いた後だったから、余計に先程の夢の内容がリアルで、怖かった。あれが乍原の記憶かどうかは分からないが、状況は非常によく似ていたと思う。
「……おい、乍原」
絞り出した声は震えていて、蚊が鳴くような、か細さだった。そんな声で乍原が起きる訳もなく、閉じた瞼はぴくりともしない。不意にこいつの葬式が頭を過ぎった。木の棺に横たわって今にも鼾を掻きそうな間抜け面が、見たことも無い花々に包まれている。その中でも、あいつの枕元に花が一本だけが凛と咲いていたから、それが無性に気になった。姉に聞いてその正体を知った。
あれは、樒という仏花だ。
あれはね、あの子を守ってくれる花なんだよ。
「おい、乍原。朝だぞ」
今度は腹から声をだし、肩を揺する。当たり前のように、その肩は冷たい。何だか死体に話しかけているような気になってきて、体の芯からぶるりと身震いをする。今まで乍原が先に起きていたから何も思わなかったけど、こいつがいつ目を覚まさなくなっても、おかしくないんだよな。
「おい、寝坊助。さっさと起きろよ……!」
夢の内容がフラッシュバックし、じわりと躰の奥から焦燥感が滲んでくる。このまま眼を開けなかったら、どうしよう。また目の前でこいつが死ぬのを見届けるのは、ごめんだ。
ここでこいつが眼を開けさえすれば、そんな不安はどこかに消してしまえるのだ。
だから、早く起こさなくちゃ。
「……いい加減にしろ、僕はお前のお母さんじゃねぇんだよ!」
先程よりも強く肩を揺すり、声を張り上げる。焦燥感と恐怖が躰の内側から咆哮するように、肩を揺する力を強め、必死で頭を働かせた。何かを言い続けなくちゃ、こいつはきっと目を覚まさない。そんな予感がしたから、思いつくままに声をかけ続ける。
「お前いっつも寝坊してもちゃんと学校に来てただろ!」
「お前が寝てると朝ごはんが片付かねぇから困るんだよ!」
「ていうか、お前ちゃんと昨日は風呂に入ってねぇだろ、くせぇなぁ!」
「狸寝入りとかしてたらお前マジでぶっ飛ばすからな!」
「履歴書もまだ書きかけだろ、清書しなくちゃ目も当てらんねぇことになってんぞ!」
あとは、あとは。
「……生き甲斐とか、欲しいんじゃ、なかったのかよ」
だんだんと目線が畳の縁に向かい、肩を揺する力も弱まる。もう、掛ける言葉が思いつかない。僕は、こんなにもボキャブラリーが少なかっただろうか。いつも履歴書の志望動機を埋めることで頭がいっぱいになる程度の頭だ。自分の不甲斐なさと、こんこんと眠り続ける友達に、胸が痛む。
「……乍原」
ぎゅうと眼を固く瞑り、肩を掴む手に力を入れる。泣いてしまうのは、夢だけで良いのに。こうでもしないと目に溢れた涙が零れ落ちそうだった。
「なぁ、亥唐」
唐突に訪れた小さな声に、弾かれたように顔を上げる。顔を上げた先に、泣きたいのに泣けない子どもの顔があった。眼は、開いている。どうやらまだ生きていたようだ。ほっと胸を撫で下ろし、安堵の溜め息を漏らす。しかし、乍原は僕の仕草に気付かなかったのか、弱々しく微笑んで呟く。
「オレさ、海に行きたい」
その身体から絶えず香っていた筈の樒の香りは薄まり、凝縮された死臭に顔を顰めた。常よりも強く発する臭いにつられて思い出したのは、あの夢の最後だ。迫りくる土砂崩れを前にして、こいつが最期に願ったこととは、何だったか。
「なぁ、亥唐ってば」
思案に暮れる僕へ、焦れた乍原がそろりと手を伸ばす。しかし、乍原の指先は常よりも溶けて、畳の上に指先だったものがどろりと落ちるばかりだった。それでも乍原は縋るように手を伸ばす。伸ばした手の指先からどろどろと液状化したものは、伸ばした先からゆっくりと畳へ零れ落ちていく。そのため、乍原の手が僕へと届くことは、ついになかった。
眉根を寄せて唇を横に引き結ぶ乍原の顔は、どこか死を目前にした老犬に似ている。足掻いても無駄な努力と知りながらも、懸命に手を伸ばし続ける姿に堪えきれず、僕は乍原の腕をそっと掌で包み込んだ。
すると、乍原はいつものようにぱっと笑みを浮かべるのではなく、安堵したような表情を浮かべる。その表情の変化に、僕は予感めいたものを胸に抱いた。
「……あぁ」
もう、こいつはそう長くはないのだ。すう、と深く息を鼻で吸い込む。こうでもしなければ、胸の奥にしまった言葉を引き摺りだせそうになかった。
「いいよ。海に行こう」
◇◇◇
その日の昼過ぎに、二次面接を受けた会社からの「合格通知」が届いた。
まるで乍原の死と引き換えに手に入れたような気がして、僕は玄関先で立ち尽くしたまま紙切れを握り潰す。
「……言えるかよ」
窓から差し込む春の日の光は、暗く底冷えのする玄関先には届かなかった。




