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第拾弐話 無視された幽霊

久々の更新です。




 台風である。





「あちゃあ……天気予報みるの忘れてた」


 あの着ぐるみバイト事件より各自で金を稼ごうという話になり、今日が初めての日雇いアルバイト記念日であった。しかし、出掛ける前までは雨など降る素振りも見せなかった空は見事に裏切り、アルバイト終了時間にはすっかり暗くなってしまっていた。


「ひっでぇ雨だよ。秋の空は女の恋心ってやつ?」


 店先から一歩でも踏み出せば土砂降りの雨が容赦なく目の前の道路に降りつけ、車道の車が波を立てながら前進している。ばしゃん、と大きな音とともに汚い土色の水が僕へと降り注いだ。


「……ちっ」


 ぺっぺっと口に入った水を吐き出し、イライラと足踏みをする。霧がかかったような街中を睨みながら、背後で「せんぱぁい、帰宅難民ってやつっスかぁ」などと茶化してくる馴れ馴れしい年上後輩にも腹が立ってきていた。

 このバイトは年齢不問でありながらシフト制でペットボトルにシールを張り付けたり廃棄処分になったスマートフォンの検品など簡単な作業を行って時給1000円という手ごろなアルバイトだ。出来るなら明日も来たいところだが、本日付で僕と一緒に入ってきた年上の男性が底意地の悪い笑みを浮かべて邪魔をしてくるものだから、鬱陶うっとうしくて敵わなかった。背後の奴が「せんぱぁい」と粘着質な声で呼んでくる愛称も皮肉めいた温度を持っていることも気に食わない。


「けど、まぁ、今のところ近いバイト先ってここしかないんだよなぁ」


 当面は収入源がここしかないから、明日も来なくちゃいけないんだけどな。厳しい現実を前にして溜め息を吐き、改めて直視する。

 こういう雨の日って、得体の知れないものとかが混じっている場合もあるからあまり好きになれない。あーぁ。ほら、もうあの横断歩道の向こう側で信号機の下に髪の長い女が居るし。ちっとは遠慮してくれよ。

 別の道を走って帰るか、と腹を括ったとき、ふと自分が選んだ道の先に何か黒い人影が見えたような気がした。よく見てみようと眼を細めてみると、そいつはこの土砂降りの中を暴風でひっくり返った傘を差しながら僕の方へと歩いてきている。この周辺に駅があるから誰かの迎えだろうか。


 びしゃん、びしゃん。ばちゃばちゃ。


 そいつは上体を大きく左右に揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。ぱっと眼を逸らして別の道を見てみるが、信号機の下に居る女性も何事かとそいつの方を見ていた。

 あ、あれ幽霊じゃなかったんだと考えながらまた顔を戻すと、そいつとの距離はだいぶ縮まってきている。


 びしゃん。ばちゃばちゃ。ずるっ、ずるっ。


 近付いてきたのか、別の音までもが聞こえてきた。重いものでも引き摺っているらしく、上体は左右ばかりでなく前後にも揺れている。だが、そいつの輪郭はまだはっきりとは分からなかった。地面に落ちた雨が激しく跳ねて、横殴りの雨が僕の顔までも濡らしていく。眼を細めたままではダメだ。もっと眼を開かなくちゃ。


 ずるっ、ずるっ、ばちゃん。ばちゃっ。


 そいつはゆっくりとした歩で進んでいたが、少しのけぞった顔を真正面に戻すと、一気に僕の方へと走ってくるようになった。


 ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん。ずるっ、ずるっ、ずるっ!


 引き摺っているものに重心を奪われて身体はがくんがくんと揺れていたが、駆け寄る足を止めようとはしない。それどころか速度を上げたような気もする。

 見知らぬ人影が豪雨の中こちらへ猛ダッシュしてくる様は異様だった。思わず店の中に戻ろうとしたが、駅へ出向かえする人なら通りすぎるだろという謎の発想に僕は身動きもとれなくなる。

 

 ばしゃん。


 一際おおきな雨音をさせたそいつは、僕の目の前に来た。なおも暗い中に佇むそいつの動きに固唾を飲んで見守ること数秒。ずいっと僕の前に引き摺ってきた何かを突きだし、嬉しそうに笑った。










「イトー、傘もってきてやったぞ!!」





 にこにこと笑って差し出されたそれは、雨をしのぐための小間が破れて水分をたっぷりと含んだボロボロの傘だった。唖然として傘ともいえぬお粗末なそれを見てから、目前に立つ人物を見比べる。


「いやぁ、礼なんていいって。アイスおごって!」


 僕が感謝でもしていると思ったのか、乍原は「オレってば優しさの権化ごんげだよなー」とかほざきながら、まるで散歩中にはぐれた犬が「迷子の主人を迎えにきた」とでも言わんばかりの笑顔で僕を見ていたから、ひとまず一発だけ殴っておく。


「な、なんでだよぉっ?!」


 その顔がむかついたから、ということは伏せておこう。














◇◇◇




「でも、よくあそこが分かったな?」

「亥唐ってば、机の上にチラシ置きっぱだっただろ」

「あぁ、それで」

「それでマンガ読んでたら雨降ってきたからお迎えに!」

「ならせめて壊れてない傘で来いよ」

「迎えの途中でT.M.Revolutionごっこしたら壊れた!」

「……壊したんだろ」

「壊れたんだ!!」


 裏返った傘の下では野郎と相合傘どころか雨風も凌げないまま歩く帰り道。雨のせいでいつもよりえた臭いや消臭剤としてのしきみの臭いやら地面の土の臭いやらが混じって鼻が馬鹿になりそうだ。

 それでも、台風来襲ということもあって、いつもの帰り道には人の姿はまばらだった。車道の車は相変わらず水を飛ばしてきたが、乍原という盾のお蔭でいくらかマシになった。その点だけは感謝しよう。

「お前な、真面目にアルバイト先とか……ぶぇっくし!!」

「わははっ、亥唐また風邪ひくぞー」

「おかげさまでな!!」

「おおっ、今だけ亥唐もオレと同じ体温だ!!」

「うぎゃっ! ばか、つめてぇから触んなって!!」

「……あっ、ごめん」


 いつの間にか肩に回されていた乍原の手の甲が僕の首筋に当たり、その死人のような冷たさに首筋の肌が粟立つ。いま思い出したけど、そういえばこいつ、死んでたんだっけ。あまりにも僕の日常に溶け込みすぎてて忘れていたけど、僕はこいつの葬儀にも出席して位牌いはいも見てるんだよな。

 あの乍原が、今こうして隣に居るのは本当ならおかしな話だ。だけど、今の僕にはこれが当たり前なのであって。それって、何だか。


「早く帰ってあっためないとなー」


 そう言って少しだけ寂しそうに微笑む乍原の表情が、意味もなく脳裏に焼きついた。声色もいつもより少し元気が無いように感じたのは、僕の気のせいだろうか。

 やや落ち込み気味な乍原を元気づけようと、僕は必死に頭を回転させる。もともと僕はそれほどお喋りをする方でもない。気が利く様な人間でもない。だけど、今だけは「乍原の気の利く友人」になりたかった。



「あ、じゃ、じゃあ、帰ったらー……鍋でもするか!」

「……えっ。いま夏だぞ?」

「……世間は今を秋というんだよ」

「鍋……そっか、鍋かぁ。鍋もいいなぁ!」

「つっても、冷蔵庫にあんま残ってなかったから余り物だけどな」

「なっべ、なっべ、なっべだぁー!!」

「あ、ちょ、待て、乍原ぁ!!」



 みるみるうちに機嫌を良くした乍原が鼻歌を歌いながら傘の下を飛び出していく。途端に全身がずぶ濡れになっていったが、乍原は気にせずスキップをしながら家まで駆けて行ってしまっていた。


「……コンロとかどこにあるか分かってんのかよ」


 やれやれ、と一人ごちて重くなった傘から溜まった水を降ろす。ざばぁっと音を立てて地面に落ちていく簡易的な滝を見ながら、僕は乍原の昔と変わらぬ馬鹿さ加減と優しさに、ふっと笑みを溢した。

 乍原と再会してまだ半年も経っていないのに、随分と長い間ともに過ごしているような気になって仕方がない。それだけあいつが昔と変わらなかったということだ。

 本当に、何であいつは死んだんだろう。直接あいつに死因を聞いたことはないが、こっそり調べてみるか。

 つらつらとそんなことを考えていると、不意に向かい側から乍原が走ってきていた。今度は何事かと見守っていると、息を切らした乍原はぜいぜいと息を荒げながら顔を上げた。まるで餌をおあずけされた犬のような顔をして。


「ごめん、亥唐。鍵ちょーだい」


 やっぱり、そんなことだろうと思った。









 ぎいいと立てつけの悪い扉を開けて室内の電気を点けると、あの男と見知らぬ人が座って僕らを見ていた。一瞬だけその影にぎょっとしたが、すぐに阿伽奇さんではないと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。

「やぁやぁ、こんばんはー!」

「こ、こんばんは」

 当然のような顔をして玄関先に立つ僕らへ振り返る伊司荼いしだ青年と、見た目は青年と同い年のような印象の人がおずおずと振り返った。短い髪は綺麗に耳の後ろに揃えられ、睫毛まつげが長くやや垂れ目のその人は少年とも少女ともつかぬ人相である。


「……ちょっと、伊司荼さん。不法侵入ですよ」

「こちらは今日から越してきたという苑道えんどうさんです!」

「あ、あの、よろしく……」

「いいから伊司荼さんは話を聞いてください。通報しますね」

「引っ越してきたからには歓迎会をしようと思いまして、そこでこちらへ伺ったわけなんですよ!!」

「だからといって犯罪を犯していい理由にはならんでしょ?!」

「苑道さん。彼はこんな人間だけど、よろしくやってくださいね」

「は、はい。こちらこそ」

「苑道さん、苑道さん、僕こっちですから!」

「ふ、ふつつかものですが、なにとぞぉ!!」

「やったね、亥唐! お隣さんが増えたぞー!!」

「だ、誰か……誰でもいいから話を聞けぇ!!」


 長時間も外で濡れてしまったせいか、叫ぶと喉がヒリヒリと痛み、身体がポカポカと熱を帯びだした。もう風邪をひいてしまったのかもしれないが、この無遠慮な二人は自室へと帰る気配は一切ない。しかも、二人の前にある机の上には、僕がコツコツと溜めていたスナック菓子やジュース類が散乱してしまっている。さては、冷蔵庫とキッチンの隙間に隠していた菓子類を手当たり次第に食いやがったな、こいつら。


「さぁ、さっそく夕飯にしましょう! 亥唐さん、夕飯なんですか?」

「はいはいっ、オレん家は鍋だってー!!」

「そ、その、ゴチになります!!」


 もはや有無を言わさずご馳走になる心算らしい。

 ええい、もう。こうなれば、もう自棄やけだ。




「……鍋にするからさっさと机の上のお菓子類を片付けろぉ!!」




 その一声で、乍原さはら伊司荼いしだ苑道えんどうさんも子どものように嬉しそうに笑った。

 翌日になって熱を出したことも、言うまでないだろう。






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