第拾壱話 真夏の真昼はきぐるみで 後編
前回の続きでやや長めです。最後にギャグあります
「軽い熱中症ですね」
がさごそとどこからか引っ張り出してきた扇風機をつけながら、童顔の青年は水桶に浸しておいた綿紗を僕の額に置いた。ひんやりしてて気持ち良い。
「こんな暑い中で三時間も突っ立ってたら熱中症にもなりますよ」
「……でも」
「当分の間はそうやって横になっててください。念のため病院を」
「待って。あ、その、保健証とか、ない……」
「……えぇ?」
「すいません、病院だけは……病院だけはぁ!」
「病院に行けば費用が掛かり、ましてや阿伽奇さんに見つかるかも」という恐怖心だけで久々に腹筋を使って飛び起きると、手当てをしてくれた青年は「分かりましたから」と若干引き気味で了承してくれた。そう言ってくれるということは、本当に大したことは無いのかもしれない。
「しかし、よくもまぁ、こんなアルバイトをしようだなんて思いますよね」
「……えーと」
「恐らくこの炎天下の中で子どもたち相手に動き回っていたことが原因でしょうが」
「……まぁ」
気持ちが悪いのと頭が働かないのとで曖昧な返事を返せば、青年は「やっぱり」としたり顔で頷く。正確に言えば、外気温35度を越す中で乍原が子どもたちにやっていたというバク転を交代で入った僕にもやってくれとせがまれてやったところ、案の定失敗して何度も繰り返すうちに貧血と暑さで倒れてしまったようなものだ。要約すれば、この青年の言うこと通りなのだろう。
僕だってこんな暑い日にこんな暑いことなんてやりたくはなかったが、乍原と大学生活を繰り広げるうちに、生活費に充てていた貯金が底を尽き始めたのだ。路上生活に慣れている乍原は「もっと贅沢がしたい」などとほざき、冷凍庫に入りきらない数のアイスを買い占めたことが大きな要因だろう。かといって、この近辺で働き始めて阿伽奇さんに出くわすことも出来れば避けたい。では、どうするか。
あの悪夢のような館から逃げ出して早や一か月。流石にもう忘れただろうと踏んで、乍原が見つけてきたものが、この短期アルバイトのきぐるみショーの中の人だった。
今年の夏にオープンしたサーカスで、客の呼び込み用にきぐるみを使って子どもたちに風船を配ったり、一芸を披露したり、エトセトラエトセトラ。採用に面接は一度だけという舞台に一芸のない僕は乍原に任せ、乍原は持ち前のアウトドア技術で乗り切ったらしい。しかも乍原は面接官とも仲良くなったのか「乍原さんの紹介なら」ということで僕は面接を免除され、今に至る。本当に友達ながら謎の多い奴だ。
「で、こちらの方は……」
「おっす! オレ友達の乍原! よろしくな!」
「あ、はい。もう分かりました離れてください」
今まで蚊帳の外だった乍原が急に話題を振られ、満面の笑みで青年の耳元で元気よく挨拶をすると、青年は遠慮なく乍原の頬に片手で向こうへと押し遣る。ぐいぐいと押しやられてもめげないのが乍原である。反対にぐいぐいと青年へと顔を近付け、なおも大声で受け答えを交わす。
「なぁなぁ、あなたのお名前なんてーの?」
「あ。え、えぇ、ボクは伊司荼です」
「そう。あなた、トト〇ってゆーのね!!」
「いえ、違います、伊司荼です。人の話聞いてくれません?」
「トート〇っ」
「わざとですか? わざとですよね?」
「トート〇っ!!」
「何なんですか、この人?!」
「あおぉおんって、返事は?!」
「しませんよ、そんなこと!!」
ぼんやりとした意識の外では、そんな騒がしいやりとりがなされ、何だかやっと神経が真面な人に出会えたような気になってきた。こちらへ話題が降られたのかと思って乾いた笑みを浮かべると、それまで対眼に居た乍原が僕の傍に座り込み、僕の方へと見上げてくる。包帯で巻かれていない方の眼が、きらきらと子どものように輝き、いつかの期待に胸を膨らませた子どもを連想させた。
僕もまた、新しい人に出会えたということで胸の奥がじんとなり、徐々に涙が込み上げてきた。この涙は安堵ではない。「ツッコミ」が増えたことへの喜びである。
「なぁなぁ、亥唐。オレまた友達増えたー!」
「……良かったなぁ」
「えっ、初対面ですよね、ボクたち?!」
「あー……先生。申し訳ないけど、コイツ、そういう奴だから」
「ちょっと、あなたまでなに受け入れたような顔になっているんですか?!」
「うっ……ううっ。苦節三か月。やっとまともな人に会えたぁ」
「ちょ、泣かないでください! それ以上に水分減らしてどうするんですか!」
「うえぇ……ツッコミ疲れたんだよぉ」
「あんた、この十一話まで一人でやってたでしょ!!」
「それ言っちゃダメなやつですよ、先生」
「なぁなぁ、トト〇、木の実とか好き? 好き?」
「あなたは徹底してトト〇呼びしますね……いい加減にしてください!!」
「別に見た目も太ってないでしょ」と憤慨する青年は、たしかに僕からすれば「イケメン」に分類されるような見た目だった。年は僕よりも二、三歳ほど上だろうが、清潔感のある短い黒髪で、利発そうな大きな黒い目と白衣と救急箱の手慣れてる感はこれでもかと「医者の卵」という印象を醸し出している。何はともあれ、これでツッコミ不足は解消されそうだ。よかった、良かった。
さて。
「……もう五時かぁ」
ぎゃあぎゃあと二人がやりとりをしている間に、僕は外されて今は伊司荼さんの手元にあるトレーの上にある腕時計に目を遣った。時刻は十七時。そろそろ上がる時間だ。もう少しすればこのテントにも人が戻ってきて、十八時のサイレンとともに今日はお開きになるはず。
耳を澄ませば、何時の間にやら蝉の声は種類が変わり、今では夕暮れを告げるひぐらしの声が物寂しく鳴いていた。昔から実家でもよく聞いていたが、どうしてひぐらしの声って悲しくなるんだろう。二人の口喧嘩に合わせるかのようにひぐらしの声が重なり、気が付くと、テントの外では人の声がまばらに聞こえるようになってくる。
アルバイト仲間も、どうやらもう戻って来たらしい。初日ということで早めに切り上げさせてもらったのだろうか。やがて人の声ははっきりと聞こえだし、会話の内容まで聞こえるようになってきた。やれどこそこの銭湯は気持ちが良いだとか、釣りに行ったときに大きなタイを釣っただとか、そんな日常的な会話にほっこりしていると。
「おっ、もう先人さんが居ったか!!」
やけにがっしりとした体格の男性が僕らを見るなり、楽しそうに笑った。後から入ってきた人たちも「なんだなんだ」と顔をぞろぞろと覗かせては、一様にクーラーボックスの周りへと集まりだす。皆それぞれのキャラクターの頭を持っているから、一見すると狩猟でもしてきたのではないかと思うほどの年代の男性たちで、猟でもやっていそうな程の逞しい身体つきだった。最初に顔を合わせたときは場違い感に悩みこそしたが、皆気の好い人たちだ。
そんな中でもひときわリーダー格と思しき男性が、僕たちの方を見て片眉を上げる。
「……おめさんよぉ」
少し訛りの入った口調に、僕は顔だけ男性に向ける。向けた拍子に額に乗せていた綿紗がずるりとやや下がった。
見てみると、リーダー格の男性もとい「おやっさん」は、険しい顔つきで僕たちを見ている。いや、僕と乍原ではない。青年の方だ。
あぁ、そうか。部外者が入ってきたと思っているのだな。違うんだ、この人はこのテントに運ばれてきた時には既にここで医師として待っていてくれてたんだ。
そう言おうとして口を開けた瞬間。僕は凍りつく。
「おめさん、誰だ」
え、と間抜けな声を出すと、おやっさんが「いや、従業員さんは顔見知りなんだが、そいつだけ知らねぇ顔でよぅ」と仲間から手渡された炭酸飲料水の蓋を片手で開けて、僕たちを指すように向けてくる。
「新人が入るだなんて話も聞いちょらんし」
「それに、今日の医療班は別のテントで休んどったぞ」
「ちゃんと名簿にも出欠は取ってあるでなぁ」
次々と背後のみんなの声が飛んできて、僕は目の前に黙ったまま立っている青年を見上げる。それから、あることに気が付いた。おやっさんたちの立っている場所からして影は僕の方へと差しているのに、あの乍原の影さえ見つかるというのに。
青年の影は、どこにも見当たらない。そのことに気が付いた途端に手の中に冷や汗が伝い、口の中の唾液はすっかり干からびてしまった。どくどくと心臓が大きく脈打ち、息を呑むのもやっとだ。ごくりと喉を鳴らし、乍原へと目線を配る。すると、乍原も僕と同様に眼をかっと開いて口を真一文字に引き結んでいた。
恐々と視線を乍原から、青年に移す。青年は、にたぁ、と薄気味悪い笑みを浮かべるばかりで身じろぎ一つしない。それだけのことなのに、まるで腹の底を冷やりとした手でなぞりあげられるような不快感と、寒気が全身を襲った。
「……なぁんだ」
小さくも、はっきりと耳に届く声量で、青年は先ほどと変わらぬ声で呟く。
「もうバレちゃったかぁ」
ぞっとするような笑みだった。粘り気のある声質で、爽やかさとは程遠い雰囲気が青年にまとわりつき、何物も映さぬ黒い鏡がこちらを見て、笑っているような。そんな気にさせられた。
青年はにたにたと笑ったまま、唖然とするおやっさんたちを押しのけることも無くテントから出て行ってしまう。どん、と最後尾にいた男性とぶつかった後で、その男性が「げぇっ」と短い悲鳴を上げる。おやっさんが「どうした」と一声かけて、おやっさんも動きが止まった。
その男性の下腹部には、つい今しがた出来たような、赤い血がべっとりと付着している。しかし、その男性が出血したという訳でもなく、ただ「付いただけ」のものらしい。僕は慌てて這いつくばるようにベンチから身体を起こしてテントの外に出てみると、青年が去ったと思われる方向には、赤い血が点々と連なっていた。
「……やっぱなぁ」
僕の後を追いかけてきた乍原が呟く。なにが、と聞こうと振り返り、乍原の表情に何も言えなくなる。
「見つけて欲しかったんだろうなぁ」
いつもは馬鹿みたいに笑う乍原は、どことなく懐かしいような、淋しいような表情で青年が消えた方向を見つめていた。何故こいつがそんな表情をするのか分からず聞こうかとも思ったが、今のこいつに何を話しかけても無駄だと悟り、僕は口を噤む。
それから、夕日が完全に暮れるまで僕たちは青年が消えた方向を見つめ続けた。
◇◇◇
二人で微妙な空気の中で帰路に着くと、不意に階下の部屋が騒がしいことに気がついた。未だ家賃を納めていないため無言で顔を見合わせた僕らは、そろしそろりと階段を上ろうとすると、背後から聞き慣れた声が飛んでくる。
「あっ。昼間の人じゃないですか。これからよろしくお願いしますよぉ」
飄々(ひょうひょう)とした明るい声。その声を聞いて真っ先に思い出したのは、あの数時間前まで一緒に居た青年だった。
ぎょっとして振り返れば、予想に反することも無く昼間の青年が小さなダンボール箱を抱えたままこちらへ大きく手を振っている。思いがけない再会に、僕らは混乱したまま青年へと近づいた。
間違いない。足はある。ちゃんと目の前にいる。じゃあ、昼間のあれは。
「いやぁ、ボク実はコスプレが大好きでして。あっ、これ今やってるアニメ『狗神跋扈隊』っていうのに出てくる黒山先生のコスなんですよ。ちょっと影のある医師なんですけど、ボクもお医者さんを目指してましてね、それで……」
あの夕暮れに掻き消えるように不気味に去った張本人とはとても思えぬ饒舌ぶり。
ひょっとすると見た目が良く似た別人なのではないかと疑うほどに明るく爽やかだった。
「えっ、あのっ、……えっ?!」
「いやぁ、久しぶりにサーカスもいいなぁと思って行ったら倒れてたんで、あ、丁度良いやって思いましてね」
「はぁ?!」
「それでそれで、適当に診断したら当たってたみたいで。いやぁ、良かったですね!」
「は、え、……なに、あんた人のこと適当にやってたって?!」
「ボクこう見えても医学の勉強してるんですよ。でも自信がなくって」
「いや、いやいやいやいやいや、何あんた人を練習台にしてんだよ!!」
「だから病院に行こうって言ったじゃないですか」
「あんたあんとき自信ないまま言ってたのかよ?!」
「だって所詮はコスプレですし。あ、それと、乍原さんってお風呂入ってます?」
「えっ、あ、うぅん。オレまだ三日目」
「入った方がいいですよー。あのテントの中なんかゴミ収集車と同じ臭いでしたから」
「う、うん。ぜ、善処します……」
「それじゃ、今日はこの辺で。おやすみなさーい」
「あ、おやすみなさい……?」
くるりと伊司荼青年は踵を返し、さっさと部屋の中へと入ってしまう。
後に残された僕らは青年の変貌ぶりに愕然として、しばらくは立ち尽くしていた。
「……頼むから、紛らわしい消え方をせんでくれ」
そう言い残した僕の声は、宵闇の中へと風に乗って消えてしまう。




