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七、唄織の歌

 鳴り止まない拍手を浴びながら、黒鶫合唱団は公会堂の舞台から控え室へと移動した。四十人の少年少女は頬を火照らせ、各々安堵したような表情で息を吐いたり、額の汗を拭ったりした。そうしている間にも客席では嵐のような拍手が続いている。

「皆、今日は本当によくやったぞ」

 団長は滅多に見せることのない満面の笑みを浮かべ、太い声で言った。

「もしかしたら今までの合唱で一番素晴らしかったかもしれない。団長として、私は今すごく嬉しい」

 指揮者も伴奏者もそれに同意するように笑顔で頷く。唄織はそれをどこかぼんやりとした気分で冷たい壁に背を預け、眺めていた。

「よし。帰る前に、皆にアイスクリームを奢ってやろう!」

 団長の言葉に団員は歓声を上げて喜んだ。そのとき黒い礼服の司会者が控え室にやってきて、団長に声をかけた。

「先ほどは素晴らしい合唱でとても感動させていただきました。それで、お客様がアンコールを求めているのですが、お願いしてもいいでしょうか」

「ああ、構いませんよ。おい唄織」

「えっ」

 それまで天井からぶら下がった白い照明を見上げていた唄織は突然名前を呼ばれ、はっと我に返った。きょろきょろと辺りを見回してから、団長に大きく見開いた目を向ける。

「な、なんですか?」

「きみが今から出て、なんでもいいから一曲歌ってくれるか」

 てっきり何か注意されると思っていた唄織は自分の耳を疑った。

 黒鶫合唱団では今までにも合唱を披露した後にアンコールを求められることが何度かあった。その際、一番歌が上手なアリスティドが独唱することが恒例だった。

「わたしですか?」

 呆気にとられていると、不意に唄織の前にアリスティドが立った。彼は唄織と目を合わせるよりも先に彼女の腕を掴んだ。

「きみだよ、唄織。早く行って聴衆を満足させるんだ」

 そう言うとアリスティドは司会者が開けた扉から唄織を舞台へ押し出した。再び強い照明が唄織の目を眩ませ、聴衆の大きな拍手が鼓膜を震わせる。大勢の視線が自分一人だけに向けられているというのは、唄織にとって初めてのことだった。しかし彼女は深呼吸を一つすると、落ち着いて舞台の中央に立った。

 もう一度《アメイジング・グレイス》を歌うべきだろうか、と考えた唄織だったが、ふと脳裏に別の曲名が浮かび上がった。唄織は迷うことなく、《烏の羽衣》を歌った。鬼が龍笛を吹いている姿を思い出すと、そこから続けて河童が開いた宴会、狗賓の遠吠え、猫又が披露した踊り、座敷童子の姉弟との出来事が次々と浮かんでくる。そのうち聞こえないはずの龍笛の音色が聞こえてくるような気がして、唄織は伴奏のない独唱を歌い切ることができた。

 歌い終わると、それまでしんとしていた聴衆は一斉に立ち上がって手を打ち鳴らした。《アメイジング・グレイス》の合唱が終わったときよりも凄まじく感じる拍手と喝采に、唄織は一礼すると素早く控え室へ戻った。すると真っ先に団長が唄織に近づき、彼女の肩に大きな手を置いた。

「とてもよかったぞ、唄織! 聴いたことのない歌だったが優しくてどこか懐かしさを感じさせるいいものだった。それにしてもたった一週間でよくここまで成長したものだ。以前とはまるで別人じゃないか」

 他の団員も唄織に「すごかった」、「感動した」と口ぐちに言ってきた。

「あれは《烏の羽衣》ですね」

 そう言ったのは司会者だった。

「この地域に随分昔から伝わる民謡ですよ。あまり有名ではないのに、余所からやって来られた黒鶇合唱団の人が歌ってくださって……とても嬉しいです。お客様も非常に喜んでいるみたいですね。一体どこでご存知になったので?」

 鬼から教わった、とはとてもではないが言う気になれない。唄織は曖昧に微笑んで誤魔化すことにした。

 その後黒鶫合唱団は宿舎に戻ると荷物をまとめ、団長から奢ってもらったアイスクリームを食べながらバスに乗り込んだ。唄織は梨味のアイスクリームを舐めつつ外を眺めていた。その視線はこの合宿中彼女が歌の練習をし、寝泊まりするのに使ったあばら屋に向けられている。アイスクリームを持つ右手とは逆の左手には、座敷童子の姉弟からもらった山入水晶を握っていた。

「唄織」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、蜜柑味のアイスクリームを片手に持つアリスティドがいた。彼の紫水晶の輝きを持つ灰色の瞳と、唄織の藍晶石の輝きを持つ黒色の瞳が互いの顔を映す。しかし彼は今までの冷笑とは全く違う優しい微笑を浮かべて唄織を戸惑わせた。

「隣、座ってもいい?」

「……好きにすれば」

「うん」

 アリスティドが隣に座ってからも、唄織は窓から見えるあばら屋の方を向いていた。

「きみは変わったね」

 その独り言のような呟きが自分に向けられていると一拍遅れて気づき、唄織はアリスティドに視線を移した。

「どういう意味」

「まさかとは思うけど、自分で気づいていないのか」

 アリスティドは不思議そうに唄織をじっと見つめた。

「団長も言っていたけど、短い間によくそこまで成長したと思うよ。前までの唄織は、いつも失敗に怯えていて、肺活量は少なかったし、歌を楽しんでいる様子が感じられなかった。音程も外れていて、何より自信を持っていなかっただろう。でも、きみはその全てをたった一週間で克服したんだ。本当にすごいよ」

 やがてバスがゆっくりと動き始めた。バスが徐々に速度を上げていくに従い、美男葛の蔓に包まれたあばら屋は小さくなっていく。唄織はそのあばら屋が見えなくなると口を開いた。

「ありがとう」

 窓の外に向けた唄織の呟きを聞き取れなかったらしく、アリスティドはわずかに小首を傾げた。しかし何を言ったのか訊ねようとはせず、彼は唄織に言った。

「唄織。今度一緒に歌の練習をしないか?」

「…………」

 いつもならこの誘いをすぐ断っていたはずの唄織だったが、それまでアリスティドを密かに恨んでいた気持ちが今はどうでもいいことのように思えた。そんな自分の胸中を不思議に思いながらも、唄織は頷いた。

「いいよ」

 するとアリスティドは嬉しそうに微笑み、つられるように唄織も微笑んだ。そして再び窓の外に視線を向ける。そんな彼女の横顔をしばらく見つめた後で、またアリスティドは唄織に声をかけた。

「本当に、一体何があったんだ」

「――――歌ってやった。ただそれだけだよ。でも不思議。わたしの方がたくさんもらっていたんだから」

 八月の眩しい日差しが唄織の顔を照らしていた。


 

《夜のあばら屋で歌う》完結致しました!

 これは初めてレビューをいただくことができた作品で、私の作品では最も短い期間で書き上げた小説です。


《セロ弾きのゴーシュ》は宮沢賢治の作品でもかなりの上位に食い込むほど好きな物語です。アニメ映画を見て子狸と野鼠のシーンが頭から離れず、繰り返しそのシーンばかり見ていた頃がありました。

 あのほのぼのとして、それでいて主人公を成長させている物語に惹かれ、自分でもあんな作品が作れたらいいなと思って書き始めました。主人公を交響楽団のセロ弾きから合唱団の少女、主人公と交流する存在を動物から日本の妖怪へと変え、そしてアリスティドという登場回数は少ないけれどそれとなく存在感がある少年を登場させました。オマージュ作品を作るのは初めてだったのですが自分では満足しています。


 ちなみに私自身は高校のとき選択授業で声楽を一回選んだくらいで、合唱に関する知識はほとんどありません。本当の合唱団員がこれを読んだら変に思われるところもあるかもしれませんが、これはそういう現実的なものを頭から追いやってから読む物語だと思ってください。唄織と妖怪との交流に少しでも面白さを感じてくだされば、それだけでも作者の私は十分嬉しいです。

 もし読者様の中で《セロ弾きのゴーシュ》を読んだことがない方がいましたら、ぜひ読んでほしいです。


 最後に、本作を読んでくださった方に両手いっぱいの感謝を捧げます。ありがとうございました!


 

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