六、座敷童子の姉弟
発表会まであと三日となった日の夜。いつものようにあばら屋を訪れた唄織は歌の練習をしようとしたが、疲れ切った身体は自然とマットレスの上に倒れ込んだ。
今日は気分転換という名目で、団員は午前中から昼過ぎまでハイキングに行っていた。体力のない団員はその疲れが顕著に出て、宿舎に帰って合唱の練習をしている最中に舟を漕ぐ者もいたほどだった。
合宿中のハイキングは今後休止した方がいいかもしれない。
そんなことを考えながら唄織は目蓋の重さに耐えることができず、そのまま睡魔に身を委ねた。
「…………ん」
自分の身体が揺さ振られている。そう唄織が気づいたのは、彼女が眠りについてちょうど三十分が経ったときだった。
「起きてください。起きてください」
幼い少女の声が聞こえて唄織が目を開けると、視界いっぱいに見知らぬ少女の顔が映った。一瞬団員が急用で来たのかと思ったが、これほど幼い少女はいなかったはずだ。目を擦りながら唄織は上体を起こし、七歳くらいの少女を見つめる。そして尼削ぎにした黒髪、赤い小袖を着ている姿とどこか浮世離れした雰囲気に「ああ」と納得したように頷いた。
「お前は座敷童子か」
「はい。そうです」
「それで、何の用だ」
「弟の塩梅が悪いんです。どうか先生、治してやってください」
そう言われて、唄織は少女の後ろに隠れるように座り込んでいた少年に初めて気づく。黒い絣の着物を着た四歳くらいの少年は、肩で呼吸をしながらぶるぶる震えていた。顔色も悪い。
妖怪も病気になることがあるのかと意外に思いながらも、唄織は首を横に振った。
「悪いけど、ここは病院じゃないうえにわたしは医者じゃないよ。何をどう勘違いすればこのあばら屋が病院で、わたしが医者に見えるんだ」
唄織の言葉に座敷童子の姉はわずかに瞠目して、それから必死な声で言った。
「確かに先生はお医者様ではありません。でも、先生はここに来てから毎晩あんなに皆さんの病気を治していたではないですか」
「何のことだかさっぱりだよ」
「だって先生のおかげで狸和尚様の腰痛もよくなりましたし、山姫様の熱も下がりました。産女様の赤ちゃんまで治していただいたのに、この子だけを助けてくださらないなんて……あんまりに可哀想じゃないですか」
今にも零れ落ちそうなほど涙を溜めた大きな目で見つめられ、唄織は戸惑う。
「それはきっと何かの間違いだよ。わたしはまだ狸和尚やら山姫やらに会ったこともないんだから」
すると座敷童子の姉は弟を抱きしめながらぼろぼろと涙を零し始めた。
「ああ、どうせ病気になるなら今日ではなく昨日だったらよかった……! 昨日までは休むことなく夜毎あんなに歌っていらしたのに、弟の塩梅が悪くなった今日の夜からもう歌っていただけないだなんて……」
「なんだって?」
唄織は目を瞬かせて訊ねた。
「お前達妖怪は人の歌を聴けば病気が治るとでも言うのか」
座敷童子の姉は涙を拭って答えた。
「はい、その通りです。この辺りに棲んでいる妖怪は今まで塩梅が悪くなると山を二つ越えた先に棲んでいるお医者様に診てもらうしかありませんでした。でも最近、唄織先生が来てからは決まって夜このあばら屋のすぐ近くまで来て、歌を聴くようにしているのです」
「まさか、本当にそれで治るのか?」
「そうです」
「…………でも、それなら何もここじゃなくて宿舎に行けばいいじゃないか。そうすればわたしより歌の上手な団員が大勢歌っているのに」
「いえ、それでは駄目なんです。誰の歌でもいいというわけではありません。先生お一人の歌でなければ意味がないんです」
「そうだったのか。――わかった、じゃあ歌うよ」
唄織はマットレスから足を下ろすと深呼吸をして《アメイジング・グレイス》を歌い始めた。その最中、座敷童子の姉弟は並んで床に座り込み、じっとしていた。
やがて一曲歌い終わり、座敷童子の弟を見てみるとすっかり顔色がよくなって震えも止まっていた。
「よくなったの?」
姉が訊ねると、にっこりと笑顔を浮かべて弟は頷いた。
「うん、お姉ちゃん。ぼく、よくなったよ。ありがとう先生」
「ああ……よかった……!」
弟をぎゅっと抱きしめて、姉は泣きそうな声で言った。
「先生、どうもありがとうございます。ありがとうございます。本当にありがとうございます」
何度も頭を下げられ、唄織は気恥ずかしい気分になって視線を彷徨わせた。するとテーブルの上に置いたままにしていた荷物が目に止まる。
「お前達はビスケットを食べられるのか?」
ふと思いついた唄織が訊ねると、座敷童子の姉は吃驚したように目を丸くしてから答えた。
「ビスカウトのことですか? 小麦粉で作られたさくさくとした洋菓子でとても美味しそうだとは知っていますが、食べたことはありません」
「では食べられるということだね。ちょっと待ってて」
テーブルの上に置いていた荷物からビスケットの袋を取り出し、唄織は開封したそれを姉弟の前に差し出した。
「ほら、食べなよ」
「……いいんですか?」
座敷童子の姉がおずおずと確認する。唄織は微笑んで頷いた。
姉弟はそっとビスケットを一枚ずつ手に取って口に運んだ。さくりとした食感に目を瞬かせながら、そのあどけない顔は柔らかく綻ぶ。そんな二人を見つめる唄織も同じように顔が柔らかく綻んだ。
袋に入っていたビスケットをすっかり平らげると、姉弟は再び頭を深々と下げた。
「ありがとうございました。こんなによくしていただいて、このご恩は決して忘れません」
「先生、ビスカウト美味しかったよ。ありがとう」
「……うん」
唄織は座敷童子の姉弟と接しているうちに、どことなく自分の中で失われていた自信が取り戻されていくのを感じた。
こんな自分でも誰かの役に立っているのか。
そう思うと嬉しくなり、ふっと笑みが零れた。唄織はあばら屋を出ようとしている姉弟の頭を優しく撫でた。
「ああ、先生。今夜は本当にありがとうございました」
「おやすみなさい」
「おやすみ。座敷童子」
座敷童子が去った後で、唄織はマットレスの端に置かれている石に気づいた。片手で握り込めるほどの大きさでやや縦長の形をしている水晶だ。そっと手に取り、ランプの明かりを近づけてみると透明な水晶の中、緑鮮やかな山の幻影を思わせる模様が存在している。
「山入水晶だ」
ぽつりと呟いた唄織は、しばらくその水晶の中に見える山の幻影に見入っていた。