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五、鬼の龍笛

 次の夜も唄織はあばら屋で練習を続けていた。五回繰り返し歌ったところで休憩のため宿舎から持ってきた冷たい檸檬水を飲んでいると、今までに聞いたことのない大きな音があばら屋全体に響いた。驚いた唄織はコップの檸檬水を零しそうになった。

「な、何?」

 どんどん、と荒々しい音が聞こえる方を見ると扉がかすかに揺れていた。一拍置いてそれがノックなのだと気づく。唄織はそっと閂錠を外し、拳が入るくらいの隙間を開けた。

 外には鬼が煙管を右手に立っていた。

「っ!」

 唄織は顔を強張らせてすぐに扉を閉めようとした。しかし完全に閉まる寸前、外から鬼が人差し指を差し込んできたかと思うと、扉は勢いよく指一本の力で全開になった。

「何故閉めようとした」

「……食べられたくないから」

 黒い蓬髪に隠れそうになる金の瞳に見下ろされ、唄織は正直に答えた。

 両眉の上に一本ずつ中指ほどの長さがある角を生やし、唇の間から鋭い犬歯が出ている。肌は銀朱色だ。それ以外は秀麗な顔と逞しい肉体を持った二十代後半の男に見える。赤襦袢に黒の羽織りと草鞋姿だが、上半身は完全に肌蹴ているため半裸に近い。

「俺がお前を食べると思ったのか」

「お前はどこからどう見ても鬼じゃないか」

「鬼が皆人食いだと思っているのなら、それは誤解だ」

 煙管から吸い込んだ煙を吐き出し、鬼は気怠げにそう言った。自分より頭二つ分近く背が高い鬼を見上げ、唄織は若干逡巡して訊ねた。

「わたしを食べるつもりじゃないなら、鬼が何の用でここに来たんだ?」

「これだ」

 鬼は煙管をしまうと代わりに取り出したものを唄織に突きつけた。横長の細い筒に見えたそれは龍笛だった。

「わたしの持ち物じゃないよ」

「知っている。これは俺の龍笛だ」

「……それで、その龍笛とお前がここに来たことに何の関係がある。わたしは歌の練習をしないといけないんだから、早く帰ってくれ」

「俺の龍笛に合わせてお前が歌うんだ」

 その言葉に唄織は目を見開いた。鬼は先ほどから仏頂面のまま、彼女を射抜くような目つきで見下ろしている。金の瞳は爛々と輝いているようでもあった。

「わたしが歌う曲の伴奏をするつもり? 馬鹿なことを言うなよ。どうせ、どんな曲か知らないからそんなことを言えるんだろう」

「ジョン・ニュートンが作詞した《アメイジング・グレイス》、和訳は《素晴らしき恩寵》。米国で最も愛唱されている賛美歌だ。違うか」

 平然と答えた鬼は唄織を絶句させた。

「龍笛と賛美歌が絶対に合わないと言い切ることは、鬼は皆人食いだと言っているようなものだ」

「なら……何故わたしのところに来たんだ。わたしは黒鶫合唱団の中で一番歌が下手なんだよ。どうせなら、もっと歌が上手な団員のところに行けばいいだろう」

 そこまで言って、唄織の脳裏にアリスティドの顔が映った。今日の昼間も偶然目を合わせてしまい、彼がいつものように冷笑を浮かべたことを思い出し、小さな溜め息をつく。鬼はそんな唄織のことなど気にした様子もなく、無遠慮にあばら屋の中へ入っていった。

「なんて不躾な鬼なんだ」

 ぼやきながら扉を閉めて鬼を振り返ると、彼は唄織が寝台として使うマットレスに腰を下ろしていた。

「言っておくけど、龍笛の楽譜はないよ」

「構わん。では吹くぞ」

「…………」

 有無を言わせない態度に呆れながらも、唄織は鬼が龍笛を吹き始めると気を引き締めた。しかし龍笛の音色が《アメイジング・グレイス》とは違う、全く聴いたことのない曲を奏でていることに唄織はすぐに気づいた。

「ちょっと待て。これは《アメイジング・グレイス》じゃない」

「ああ。楽譜を渡していなかったな」

 そう言って鬼はどこからか折り畳まれた紙を取り出し、唄織に渡した。その紙を開いてみるとそこには龍笛の譜面が歌詞と一緒に書かれている。

「《からすごろも》……? こんな曲、聴いたことがないよ」

「いいから、まずはそれを歌え。《アメイジング・グレイス》はこれを歌い切った後だ」

 それを聞いて唄織はふと気づいた。もしかしたらこの鬼も狗賓や猫又と同様、自分の練習に付き合ってほしいと思っているのかもしれない――と。

「わかった。まずはこれを歌う」

 唄織が答えると、鬼は再び龍笛を奏で始めた。そして一曲の演奏が終わると彼はしばらく顎に片手を当てて思考していたが、やがて唄織に言った。

「おい。ハニホヘトイロハをやるぞ」

 唄織は一瞬きょとんとしたが、すぐに得心した。

「ああ、ドレミファソラシドのことか。なんでそれを?」

「俺が吹いた後にお前が《あ》の声を響かせろ」

「理由を聞いてない」

 鬼はすぐに龍笛の歌口に唇をつけ、息を吹き込んだ。唄織は次から次へと傍若無人に振る舞う彼に苛立ちを覚えたが、龍笛の音が消えるとドの音階を《あ》の声で響かせた。それから鬼はレ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ドと吹き、そのたびに唄織は声を響かせた。

「もういい?」

「いや、まだだ」

 鬼は何度もドレミファソラシドを繰り返し、唄織にも繰り返すよう強要した。最初は辟易しつつも鬼の機嫌を損ねないようにという思いで唄織は声を出し続けていたが、そのうち鬼の吹く龍笛の方が正しい音程に聴こえてきた。繰り返せば繰り返すほど、自分の外れていた音程を自覚させられたようになり、妙に恥ずかしくなった唄織は途中で口を噤んだ。

「唄織、何故やめる」

「……………」

「俺の仲間はどんなに意気地がなくても歌が好きなら喉から血が出るほどに声を出す。それなのにお前は意気地なしですらないのか」

「っ、ちが、う」

 唄織は消えそうなほどに小さな声で言った。そしてテーブルに置いたままにしていたコップの檸檬水を飲み干し、彼女はもう一度鬼に向き合った。するとそれを合図に鬼は再び龍笛を吹き始める。それはドの音ではなく、《烏の羽衣》を奏でていた。唄織は歌詞を見なくても歌えるようになるほど鬼の龍笛に合わせてその曲を歌い続けた。ようやく《アメイジング・グレイス》を歌うことができたのは日付を跨いでからだった。

「もうこんな時間か」

 鬼は時計らしきものを持っていなかったが、まるで正確な時刻がわかったかのように呟いた。龍笛をしまい、煙管を取り出して口に銜える。ようやく終わったとスツールに座った唄織はぼんやりとその光景を眺めていた。頭の中に自分の声と龍笛の音がまだ響いているような気がした。

「では、邪魔をしたな。唄織」

 煙の匂いだけを残して鬼はあばら屋を去った。

「………………」

 しばらく放心していた唄織は閂錠をかけた後、倒れるようにマットレスに寝転んだ。

 眠りにつくまで煙の匂いはしつこく唄織の鼻についたが、朝目覚めるとその匂いは嘘のようにすっかり消えていた。


 

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