四、猫又の踊り
次の夜、唄織があばら屋で練習していると案の定扉から音が聞こえた。昨夜と同じような、かりかり、と引っ掻くような音だ。
「今夜は一体誰だ」
唄織は扉を開けたが、誰もいない。きょろきょろと辺りを見回していると彼女のすぐ足元から声が聞こえた。
「ここですよ」
視線を下ろすと、ミルクのような真っ白な毛並みに青玉のような青い瞳を持つ美しい猫がいた。何やら風呂敷らしきものを首に巻き、尻尾の先は二つに分かれている。
「どうもこんばんは、唄織さん」
「お前は猫又だね」
「はい」
「生憎とここに魚はないよ。以前河童からお礼としてもらった鮎だって、あの日のうちに団員皆で食べてしまったからね」
唄織が言うと、猫又はなんとも心外だと言わんばかりに首を横に振った。
「いいえ、そんなつもりで参ったのではありません。確かにお魚はとても美味しいものですが、あたし達は人様のお魚を盗むような泥棒猫なんかじゃありませんよ。長く生きている分、それなりに誇りを持っていますので」
「そうなのか。気分を害したのなら悪かったよ」
「わかっていただけたのならいいのです」
「それじゃあ、お前は何をしに来たんだ」
「唄織さんにお願いがあって参りました」
「お願いって?」
「あたしは踊りの練習がしたいのです。唄織さんの歌に合わせるので、歌ってくださいますか」
夜毎妖怪が訪問して歌を依頼するのはこれで三回目だ。そのため唄織はあまり抵抗を感じることなく訊ね返した。
「わたしが歌うのは《アメイジング・グレイス》だけど、いいのか?」
「ええ。どんな歌でも構いません」
「そうか。なら入りなよ」
「お邪魔します」
それまで四つ足を地面に着けていた猫又はひょいと立ち上がり、人間のような二足歩行であばら屋に入った。
「これはお土産です。どうぞ食べてください」
猫又が首に巻いていた風呂敷を解くと、中には赤い鶯神楽の実がいくつも入っていた。どれもよく熟していて透明感があり、ランプの明かりに近づけると透き通って見える。
「これはもしかして、狗賓の棲んでいる山で採ってきたものか?」
「そうですよ。狗賓様はあたしのような一介の猫又にも慈悲深いですからね。唄織さんのお土産にちょっと分けていただいてもいいですか、と訊ねたら二つ返事で許可をくれました。自分はお礼を差し上げることができなかったから多めに持って行ってくれと言われましたよ」
どうやら猫又が話した相手は昨夜あばら屋に訪れた狗賓だったらしい。
「わざわざありがとう」
唄織はそれを受け取り、テーブルの上に置いてから《アメイジング・グレイス》を歌い始めた。すると猫又は歌に合わせて手足を伸ばし、時々身軽に飛んだり跳ねたりしながら踊った。二つに分かれた尻尾の先から耳まで神経の行き届いたしなやかさで軽やかに身体を動かす。そんな猫又の踊りを見ているうちに唄織は面白くなり、いつしか自然と微笑を浮かべながら歌っていた。
このままずっと猫又の踊りを見ていたいという気になったが、唄織の歌が終わると当然猫又も踊りを終えた。
「唄織さん、さっきよりも今の表情がいいですね」
「え?」
「とても楽しそうな顔してますよ。そちらの方が、ずっとあなたらしい」
「……そう」
唄織は若干照れ臭くなって、テーブル上の鶯神楽の実を一つ口に入れた。ほんのりとした甘さが口に広がる。
「ところで、あたしの踊りはどうでしょう」
「素晴らしいと思うよ。もう一度見たいくらいだ」
「そうですか」
猫又は嬉しそうに頷くとテーブル脇に置かれていたスツールに飛び乗り、音を立てることなくテーブルへと移った。
「では、もうしばらくお付き合いしてくださいますか?」
「ああ。いいよ」
唄織はもう一度歌い、猫又はもう一度踊った。それが終わると唄織は《アメイジング・グレイス》以外の歌も何曲か続けて歌ってみたが、そのたびに猫又は違う振り付けを歌に合わせて踊っていった。
「今宵は楽しいですねえ」
休憩に入った猫又は伸びをして言った。唄織が首の下を優しく撫でてやると気持ちよさそうに目を細め、ごろごろと喉を鳴らす。
「ところでお前はどうして踊りの練習をしに来たんだ?」
「我々は月に一度集会を開くんです。そのときに何か出し物をする決まりになっていて、次の集会ではあたしが踊りを披露するんですよ」
「へえ。踊りを選んだ理由はあるのか」
「そりゃあ決まっていますよ。好きだからです」
「…………!」
「あたしは踊りが好きです。自分が好きなものを大勢の方に披露するというのは、とても幸せなことだとあたしは思うんですよ。たとえそれがお金にならなくても、名誉にならなくても。
そんなふうにあたしが踊りを好きなように、唄織さんも歌が好きなのでしょう」
猫又の言葉を聞いているうちに唄織はきゅうっと胸を締めつけられたように感じた。ぐっと下唇を噛んで、深く頷くと涙が一粒零れ落ちた。
「唄織さん。どうしました?」
猫又は心配そうに唄織の顔を覗き込む。慌てて唄織は涙を拭い、ふうと息を吐く。
「いや……なんでもないよ」
「あたし、何か粗相をしましたか?」
「そんなことはない」
「大丈夫ですか? 塩梅が悪くなったのでしたらお暇しましょうか」
「大丈夫だよ。わたしはもう少し歌うから、猫又も踊ってくれ」
唄織が言うと、猫又は「喜んで」と答えた。
最後に《アメイジング・グレイス》を踊り終えた猫又は深々とお辞儀をした。
「今宵はどうもありがとうございました」
「構わないよ。わたしも楽しかったから」
「それはよかった。では、おやすみなさい」
猫又はあばら屋から外へ出ると、再び四つ足をついたかと思うと近くの茂みに飛び込んでいった。唄織は猫又が言っていた集会はどこで開かれるのだろうかと気にしながら扉を閉めた。