三、狗賓の遠吠え
この日も唄織は夕食と入浴を済ませるとあばら屋で練習を始めた。歌っている最中、扉の方から音が聞こえてメトロノームを止める。
「河童。また宴会を開くつもりなら、今夜はもう駄目だよ」
そう言って練習を再開しようとするも、また音が立て続けに聞こえてきた。しかし昨日のようなノックをするような音ではなく、かりかり、と引っ掻くような音にも聞こえることに気づき、唄織は扉を開けた。
扉の向こうには河童ではなく、一匹の狼がいた。黄褐色と灰色が混ざり合ったふさふさの毛は、野生であること疑ってしまうほどに綺麗に整っている。琥珀色の瞳にじっと見つめられ、唄織は肩を竦めた。
「河童の次に狼が来るとは思わなかったよ」
「いいえ、唄織さん。私は狼ではありません。狗賓です」
「ぐひん?」
「知りませんか。これでも天狗の仲間ですよ」
唄織は何度か瞬きをして、目の前の狼をまじまじと見つめた。
「嘘をつくなよ。天狗っていうのは赤くて鼻が長い山伏みたいな姿だろう。あるいは半人半鳥で翼を持っているはずだ。それなのにお前はただの狼にしか見えないじゃないか」
「唄織さんが言っているのは著名な霊山を拠点とする大天狗様や小天狗様のことですね。私達狗賓は狼の姿を持ち、日本各地の名もない山奥に棲んでいます。それに天狗としての地位は最下位です」
「ふうん。それで、その狗賓が一体何の用なんだ」
「あなたに音楽を教わりたいのです」
その言葉に唄織はむっとして「馬鹿にしているのか」と怒鳴りたくなったが、昨夜の河童達との出来事を思い出して自分を抑えた。
「……まあ、とりあえず中に入って」
狗賓をあばら屋に入れ、詳しく話を聞くことにした。
「お前のような妖怪も、音楽を勉強するのか」
「はい」
「言っておくけどわたしは歌が下手だよ。しかも黒鶫合唱団の中で一番だ。教えられることだってほとんどない。それでもいいのか」
「構いません」
澄ました顔で返した狗賓に唄織はふっと笑った。
「それで、何を教わりたいんだ」
「声が上手く響いているかどうかです。私達はこんな身なりですから、よく仲間と遠吠えをします。それが人間で言うところの合唱のようになるのですが、私はもっと正確に声を響かせたいのです。なのであなたと一緒に練習をさせていただきたい」
いきなり自分の苦手なものを出されたが、唄織は後に引けなくなっていた。しばらく唇を真一文字にして考えて、狗賓に言った。
「じゃあ、まずはお前の遠吠えを聞かせてくれるか」
「わかりました」
狗賓は首をほぼ真上に仰け反らせるようにして、遠吠えをした。その高い声はあばら屋の空気全体を小刻みに震わせ、長く響いた。
「どうでしょう」
その遠吠えに思わず聞き惚れそうになっていた唄織ははっと我に返り、狗賓から目を逸らした。
「何が、どうでしょうだ。お前の遠吠えは完璧なほどよく響いているじゃないか。ここで教わるものなんて何もない。帰れ」
「いいえ、これでは駄目なんです」
「駄目なものか。さっさと帰ってしまえ」
唄織は自分が歌声を上手く響かせることができないことから、狗賓に劣等感を抱いてしまっていた。そのことを察したのか、狗賓は行儀よくその場に座って唄織に言った。
「私の父に言われたのです。唄織さんはいい人だから、きっと一緒に練習をしていくうちに上達するはずだと」
「何を勘違いしてるのか知らないが、わたしはいい人なんかじゃないよ」
「本当にいい人はそんなふうに自分から言い出しはしません。唄織さん、お願いします。あと四回付き合ってくださったら、あとはもう帰りますから」
深く頭を下げるようにした狗賓に、唄織は仕方なくその頼みを引き受けた。
「わたしはどうすればいい」
「では《あ》の声を響かせてください。その後に私が続いて遠吠えをします」
「わかったよ」
唄織は口を大きく開け、高音を響かせた。しかし何度繰り返してもすぐに息が続かなくなり、声は長続きしないまま終わってしまう。自分の後に響く狗賓の遠吠えが羨ましく感じた。
「これで四回目。ありがとうございました」
「――狗賓」
扉の方に向かっていこうとした狗賓はいきなり呼び止められ、驚いたように足を止めた。
「なんでしょう?」
「まだ消灯時間にもなってない。だから、もう少し練習をしてもいいよ」
それを聞くと狗賓は喜び、尻尾を千切れそうになるほど激しく振って頷いた。
狗賓の練習に付き合っていくうちに、唄織は自分も遠吠えのように声を出せば高音が響くのではないかと思い始めた。試しに狗賓の遠吠えを真似てみたが、あまり上手くいかない。
「唄織さんは胸郭を下手に動かしているから声帯が緊張しているんですよ。ちょっと失礼」
狗賓は前脚を持ち上げて身を起こし、唄織の腹部に片耳を押し当てるようにした。
「息を吸うときにはお腹を膨らませ、吐くときには凹ませるよう意識してごらんなさい。私達も遠吠えの前にはまず呼吸を整えるんです。さあ、どうぞ」
唄織は言われた通りの呼吸を始めた。それに慣れを感じた頃、狗賓はそっと離れた。
「そろそろいいでしょう」
そしてまた遠吠えをする。唄織がそれを追うように真似してみたところ一回目よりも声が長く響いた。
「どうです。息がよく続くでしょう」
「うん。本当だ」
遠吠えの真似を続けているうちに、唄織は自分が狼になっていくように感じた。狗賓の遠吠えも最初に聞いたものよりもよく響き、長く続いて聞こえるようになった。
「ありがとうございました。もう十二時を回ったでしょうから、そろそろ失礼します」
「ああ。確かにもうこんな時間だね。お前は満足したか」
「それはもちろん。父の言った通りでした」
狗賓は頭を下げ、あばら屋を出て山の方へ歩いていった。その姿が見えなくなって唄織はふと思いつき、開け放った扉から外へ出て、山に向かって遠吠えの真似をしてみた。すぐに狗賓の遠吠えが返され、唄織は満足した気分で扉を閉めた。