二、河童の宴会
夕食と入浴を済ませた唄織は、消灯までの自由時間をトランプや雑談に興じる気など起きなかった。彼女はメトロノーム、楽譜、タオルケット、ランプなど、必要最低限にまとめた荷物を持って一人宿舎から出た。
宿舎から漏れる明かり以外、街灯もネオンもない夜道をしばらく歩いた先に一軒のあばら屋が存在する。唄織はこの合宿の一日目から夜をここで過ごすようになっていた。大人達は当然気づいているのだろうが、唄織の複雑な胸中を察してか黙認している。
花を咲かせた美男葛の蔓が包み込むように絡み合い、朽ちかけた枯茶色の木材が濃緑色と淡いクリーム色に彩られているあばら屋は最初、静けさの中で眠るように息をしている印象を唄織に抱かせた。好奇心旺盛な子供達ならすぐにでも侵入したがるだろうと思われたが、実際には不気味がって誰も近づこうとしなかった。しかし唄織はこのあばら屋に不気味さを全く感じず、二日前に一人で侵入を試みた。てっきり埃や黴だらけだと思っていたあばら屋の中は、意外にも人が住んでも問題がなさそうなほどに綺麗だった。まさか本当に人が住んでいるのではないかと団員達は噂したが、このあばら屋に出入りする人間を見た者はいない。
「お邪魔します」
誰もいないことを知っていながらも、唄織は扉を開ける際に必ずそう述べた。初めて訪れたときは外されていた粗末な木の閂錠をかける。
あばら屋の中には四角いささくれ立った鬼胡桃のテーブルとスツールが中央に置かれ、壁側にはあちこち破れた剥き出しのマットレスがあるだけで他は何もない。隙間風がひどいため夏はともかく冬だったら決してこのあばら屋で眠ることなどできなかっただろう。けれども自分以外誰もいないこの空間を唄織は好ましく思っていた。このあばら屋にいるときだけ、窮屈な合宿の間ようやく解放された気分になれるからだ。
唄織はランプをテーブルの上に置き、火屋を外した。昨年の合宿で大人から教わったやり方で燈心に火を点け、再び火屋をかぶせる。透明に磨かれたガラスの中でとろりとした炎が揺らめき、真っ暗だった部屋を橙色に明るく照らした。それまで木の匂いしかしなかった部屋にかすかなアルコールの匂いが漂った。
荷物から取り出したメトロノームをランプの隣に置き、振り子が揺れるテンポの調節をする。それから《アメイジング・グレイス》の楽譜を手に、唄織は練習を始めた。団長から注意された息継ぎや声の響きなどを意識して、繰り返し三回歌ったところで休憩に入った。そっと座らなければひどい軋みを立てて不安にさせるスツールに腰掛け、楽譜を見つめて溜め息をつく。
「全然駄目だなぁ……」
ぽつりと呟いて頭を軽く振った。そのとき突然、こんこん、という物音が扉の方から聞こえてきた。
「団長ですか?」
あばら屋の扉がノックされた音だと気づいた唄織はとっさにそう訊ねた。しかし返事がない代わりにもう一度、こんこん、とノックの音が響く。不思議に思いながら唄織はメトロノームを止めるとスツールから立ち上がり、閂錠を外して扉を開けた。
「あっ」
思わず唄織は声を上げた。
扉の向こうに立っていたのは河童だった。唄織よりも頭一つ分低い背丈の全身は孔雀石を溶かして塗りたくったかのような深緑色でぬめっている。口は短い嘴のようで、頭には平べったい皿、背中には亀のような甲羅、手足には水掻きがあった。
「こんばんは、唄織さん」
「河童が何の用だ」
その河童から漂う生臭い匂いと一人の時間を邪魔されたということに苛立ち、唄織は険のある声になって言った。
「ぜひとも中に入れていただきたいのです。今から仲間と宴会を開きますので、唄織さんにはいつものように歌っていただければと思いまして」
「馬鹿なことを言うな。河童なら水中で宴会を開けばいいだろ。すぐそこに川があるじゃないか」
「確かに我々は普段あの川を棲み処にしています。しかし今夜は唄織さんの歌を聞きながら美味しいお酒を飲みたいのです。唄織さんは水中で歌を歌えないでしょう」
「当たり前だ」
「ですから、こちらで宴会を開かせてはいただけませんか? この空き家は唄織さんが一時的に借りているだけで、本来は誰にも所有権などないはずです。あなただけが独占していいものではないでしょう」
「……それもそうだね」
至極真っ当な意見に渋々ながら唄織はそう返した。
「でもわたしはお前のような生臭い奴を何人も入れる気にはなれないよ」
すると河童は気分を害した様子もなく頷くと、くるりと踵を返した。あばら屋から十歩ほど歩いた場所でいきなりしゃがみ込み、足元に生えていた植物を引き千切るとまた立ち上がって戻ってきた。
「それは?」
「シダの葉ですよ。まあ、見ててごらんなさい」
河童はそのシダの葉で頭を二、三回撫でるようにした。すると河童の姿は一瞬で日焼けをした肌にタンクトップとニッカーボッカーズという格好の青年に変わった。同時に生臭い匂いは跡形もなく消えて、唄織を絶句させた。
「これなら問題ないでしょう」
ついさっきまで唄織より頭一つ分背が低かった河童は、今では彼女より頭一つ分背が高くなって見下ろしている。唄織が小さく頷くと、河童は突然振り返って叫んだ。
「おい皆! 宴会を開いてもいいってよ!」
すると川の方から五人の河童が歓声を上げて駆けてきた。その手には陶製の徳利と縄で括った何本もの胡瓜がある。彼らも一様にシダの葉で頭を撫で、青年の姿に化けた。唄織は仕方なく河童をあばら屋の中に入れた。河童は床の上に直接胡坐をかき、徳利の酒を猪口に注ぎ、胡瓜の縄を解き始めた。
「では唄織さん。どうぞ」
「何がどうぞ、なんだ。宴会が終わったらさっさと帰ってくれよ」
唄織が冷たく言うと、彼はわずかに戸惑った様子を見せた。
「言ったではないですか。我々は唄織さんに歌っていただきたいのですよ」
「本気でそれを言ってるのか。お前達全員、わたしを馬鹿にしてるんだろう」
「何を怒っているのですか?」
きょとんとした顔で小首を傾げる河童に、唄織は今までの鬱憤を吐き出す勢いで怒鳴った。
「そんなに宴会で歌が聴きたいのなら居酒屋にでも行ってこい! よりによってなんで歌の下手なわたしを選ぶんだ! それにわたしが歌う曲を知っているなら、その曲が宴会に合うものじゃないことも知ってるだろう! 宴会を開くことは許可したが、これ以上わたしを馬鹿にするつもりなら帰ってくれ」
そう言い終え、スツールを軋ませながら座り込む唄織に河童達はおろおろと顔を見合わせた。しかし最初に訪問してきた一人が口を開いた。
「いえ、我々はあくまであなたの歌声を聴きたいのです。居酒屋の女将さんが歌うのでは意味がないのですよ。宴会の雰囲気に合う合わないも関係ありません。お願いします。どうか一曲だけ」
すると他の五人も同じように懇願してきた。その様子があまりにも必死だったため、唄織は悩みに悩んだ末一曲だけという約束で引き受けることにした。河童は子供のように喜び、ようやく宴会を始めた。猪口に注いだ酒を煽り、胡瓜を齧り始める。
「では、歌うよ」
すうっと息を吸い込み、唄織は《アメイジング・グレイス》を歌い始めた。しばらくすると一人が肩を震わせた。伝染したように他の河童も肩を震わせ、くつくつと喉を鳴らしていた彼らは歌が半分まで終わると弾けたように声を上げて笑い出した。
河童を気にしないように目を閉じて歌い続けていたが、笑い声を聞いて胸がざあっと冷たくなるのを感じた唄織はスツールを蹴り飛ばし、だんっ、と足を踏み鳴らした。しん、と河童達は静まる。
「――――帰れっ!」
唄織はそれだけ叫んで床にしゃがみ込んだ。
結局この河童達は自分の下手な歌を笑うために来ただけだった。一体この仕打ちはなんだと言うのだろう。
そう考えているうちに目が熱くなり、鼻の奥がつんとした。途端にぼろぼろと涙が零れ落ちた。唇を強く噛み締め、嗚咽を堪えて泣く唄織に河童は口を開いた。
「唄織さん。あなたはこうやって、自分の歌が失敗することで人から笑われることを怖がっていたのでしょう?」
「失敗してはいけないと自分に精神的な重圧をかけては、自由に歌えなくなってしまいます。そんな必要ありませんよ」
「よく考えてごらんなさい。合唱を聴きにやって来る人間なんて、我々のようにいきなり笑い出すことのない真面目な生き物じゃないですか」
「それでももし唄織さんを笑うような聴衆がいたとしても、もう平気でしょう」
「あなたは今夜河童から笑われたのです。それなのにまだ人間から失敗を笑われることが怖いのですか?」
唄織は顔を上げた。涙が溜まった目元を拭うと、河童が優しげな笑みを浮かべてこちらを見つめている。そのうちの一人と目が合ったが、不思議と彼らの存在は不快に感じられなくなっていた。
その後唄織は無言で河童の楽しげな宴会を眺めていた。やがて酒と胡瓜が尽き、河童達は立ち上がってお暇を告げた。
「ああっ!」
不意に、気持ちよく酔っ払っているようだった一人の河童が大声を出した。
「な、何?」
吃驚した唄織が訊ねると、彼は他の五人に向き合った。
「大変だお前達! 我々としたことが唄織さんにお礼として渡す分の胡瓜まで食べてしまった!」
すると五人はきょろきょろと辺りを見回したかと思うと急に血相を変えた。慌てた様子でどうしようどうしようと囁き合う河童達に唄織は遠慮がちに声をかける。
「ねえ。お礼って……」
「すみません唄織さん。歌っていただいたお礼に我々が育てた胡瓜を五本差し上げるつもりだったのですが、ついうっかり食べてしまって」
「別にお礼なんていらないよ」
「いえ、河童は元来義理難い妖怪なのです。明日代わりのものをご用意しておきますので、今夜はこれで失礼します」
河童は唄織にお辞儀を二回繰り返し、あばら屋から出ていった。その後ろ姿が次第に元の姿へと戻っていくのを眺め、唄織は扉を閉めた。
「河童が訪れるなんて、不思議なこともあるんだな」
どことなく疲れた気分で息を吐き、右手首に巻いた腕時計を見るとすでに宿舎の消灯時間を過ぎていた。唄織はランプの火を消すとすぐにマットレスの上に横になった。荷物から取り出したタオルケットを羽織り、そのまま眠りについた。
翌朝、明け方に目を覚ました唄織があばら屋を出ると、ちょうど扉を出たところに水の入ったバケツが置かれていた。覗き込んでみると、水の中には近くの川で獲ってきたばかりと思われる鮎が何匹も窮屈そうに泳いでいる。
「なんだ、これは」
この合宿中団員達は自由に川釣りをしてもいいことになっている。今までにも誰かが釣った魚がその日のうちに宿舎の食堂で調理され、団員達の食卓に並んだことがあった。しかしこれほどたくさんの鮎を釣る団員がいたのか、と唄織は意外に思った。
ふと、地面に何か文字が書かれていることに気づいた。
唄織サン
昨夜ノオ礼デス 食ベテクダサイ
河童一同
木の枝で書かれたその文字に唄織は声を上げて笑い、荷物と一緒にバケツを持って宿舎へ戻った。恐らくこの鮎は昼食に焼き魚として食べることになるだろうと考えながら。