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一、唄織の歌

 唄織(うたおり)は黒鶫合唱団に入って二年になる。しかし彼女は今年から新しく入ってきた年下のどの団員よりも歌が下手だった。合唱の練習中、団長から注意を受ける回数は唄織が一番多いと、黒鶫合唱団の誰もが知っていた。

 じりじりと容赦も慈悲もなく照りつけてくる太陽の熱を遮断した涼しい室内で、この日も黒鶫合唱団の十歳から十五歳までの少年少女が夏の発表会に向けて練習に励んでいた。唇を大きく動かし、ピアノの旋律に《アメイジング・グレイス》の歌詞を重ねる。

 不意に、彼らを傍で見つめていた団長が大きく両手を鳴らした。指揮者がタクトを振るっていた手を止め、ピアノの伴奏と少年少女の歌声はぴたりと止まる。しん、と音の止んだ室内に団長の太い声が低く響いた。

「唄織。前も言ったがきみは息継ぎのタイミングが他の子とずれているんだ。それに回数も多い。だからこの合唱がまとまりのないものに聴こえてしまう」

「すみません」

 唄織はぎゅっと目を閉じて頭を下げた。

「きみくらいの年齢なら本来もっと肺活量があるべきなんだ。それに音程が妙に外れていた。もうドレミファソラシドまで教えてもらう年齢でもないだろう? ――では、最初からもう一度」

 伴奏者はピアノの鍵盤を叩いて前奏を奏で、指揮者もそれに合わせてタクトを振るい始める。唄織は楽譜のブレス記号を意識して歌った。しかしすぐにまた団長が手を打ち、声を張り上げた。

「唄織、さっきよりも声が小さくなっているじゃないか。毎回毎回誤魔化せると思っているのか? 真面目にやってくれ」

「はい」

 顔を赤くしながら唄織が答えると、団長は眉間に寄せた皺をそのままに顎髭を弄りながら溜め息をついた。唄織は一度注意されると次の練習で声を小さくしてしまう癖があった。自分の下手な歌声が目立たないよう身体が無意識にそうしているようでもある。それは彼女の失敗に対する恐れや自信のなさが原因だと団長から繰り返し指摘されてきたが、なかなか歌が上達しない唄織はそれを直すことができなかった。

「こら、そこっ。私語をするんじゃない」

 小声で囁き合っていた少年三人に注意をして、団長はもう一度やり直すよう言った。

 その後、今日はこれで最後になるという曲の半分まできたところで団長は「駄目だ!」と靴を荒々しく踏み鳴らした。団員も指揮者も伴奏者も驚いたように団長を見た。

「駄目だ駄目だ。今の部分はこの曲で最もいい響きになるはずなのに……これでは《アメイジング・グレイス》のよさを引き出せないじゃないか。特に唄織」

 びくりと肩を震わせ、唄織は俯く。叱責されるとわかっているから、怒っている団長の顔を見ることができない。

「きみは皆と合わせるどころか、皆の足を引っ張っているんだ。肺活量が足りないから息継ぎでタイミングが若干遅れてしまうし、声が美しく響かない。加えて音程がところどころ外れるうえに楽しそうじゃない。黒鶇合唱団は皆が楽しく歌わなければいけないんだ。そんな調子ではこの合唱がきみ一人のために台無しになってしまうんだよ」

「はい……。すみません」

「いいかいきみ達。合宿も今日で三日目、本番までの練習期間はあと一週間だ。休み時間にも各自でしっかり練習をするように。では、今日はここまで」

 四十人の団員達は団長にお辞儀をして、各々練習室を後にする。団長も指揮者や伴奏者と今後のことについて話し合いながら、まだ楽譜を手に佇む唄織をちらっと一瞥した。

「出るときは冷房と明かりをちゃんと切っておいてくれよ」

 それだけ言って団長は扉を閉めた。一人残った唄織はきゅっと唇を強く引き結び、よれよれになった楽譜を睨むような目つきで見つめる。それからふうっと息を吐き、もう一度練習しようと口を開き――同時に扉が開く音が聞こえて声が引っ込んだ。驚いて扉の方へ顔を向けると、ハニーブラウンの髪をした少年が入ってくるところだった。アリスティド、と唄織は声に出さず少年の名前を呟いた。

 アリスティドは唄織より一つ年上の十四歳で、黒鶫合唱団の中では誰よりも歌が上手な団員だ。ついさっき友人と一緒に練習室を出ていったはずの彼が何故戻ってきたのだろうかと思っていると、アリスティドは部屋の隅にある棚に手を伸ばした。どうやら自主練習をしようと思い立ち、メトロノームを取りに戻ってきたらしい

「ねえ、唄織」

 そのままさっさと部屋を出ていってほしい。そう願っていた唄織の胸中を無視して、アリスティドは彼女に声をかけた。

「何」

「ぼくは今からテラスで練習をするつもりなんだけど、きみも一緒にどう?」

「ふうん。それで、わたしを笑い者にするつもりか。練習なら他の子を誘いなよ」

「そう……残念だな。気が向いたらテラスに来てよ」

「…………」

 唄織は返事をしないことで拒否の意思を示した。それでもアリスティドの去る気配がしないことに苛立ち、ついに唄織は振り返って彼を見た。二人の視線は正面からぶつかった。灰色の瞳の中心にある紫水晶(アメジスト)の輝きが唄織の顔を映し、黒色の瞳の中心にある藍晶石(カイヤナイト)の輝きがアリスティドの顔を映す。するとアリスティドは冷笑を浮かべ、何事もなかったかのように部屋から出ていった。彼は唄織と真っ直ぐ目が合うと、決まって冷笑を浮かべる。その理由はわからないが、そのたび唄織は胸が冷たくなったように感じて不快だった。

「あいつのせいで気分が削がれたじゃないか」

 すっかり練習する気が消沈してしまった唄織は舌打ちをした。

 唄織の失敗に対する恐れや自信のなさはアリスティドに原因がある。それを自覚していないだろう彼にわざわざ文句を言うつもりはないが、唄織はアリスティドを密かに恨んでいた。

「きみは歌が下手だね」

 半年前、唄織はアリスティドから面と向かってそう言われた。元々下手の横好きで黒鶫合唱団に入団した唄織だったが、それまで周囲は気遣っていたのか、それとも以前の方がまだよかったのか、面と向かって「歌が下手だ」と言われたことは一度もなかった。団長からの注意も今ほど厳しくはなかったように思える。だからこそ入団したてのときは楽しく活動していたのだが、アリスティドのたった一言がきっかけでそれは崩れた。団員の中で一番歌が上手な彼が言ったのだから、きっと皆も同じように思って軽蔑しているのかもしれない。そう考え始めた途端失敗に怯えるようになり、自信を持てず、余計なことが思考を覆って合唱に集中することができなくなってしまった。それ以来団長から厳しく注意されることが増え、好きであるにも関わらず歌うことを楽しめなくなっている。

 棚からメトロノームを取り出し、唄織は冷房と蛍光灯の電源を切った。練習室から出てすぐ手前にある階段を下りて、廊下を進んだ先の部屋に入る。すでに中にいた三人の少女が談笑する楽しそうな声を聞きながら唄織は静かに自分のベッドへ寝転び、メトロノームを枕元に置いた。

 黒鶫合唱団では夏と冬に合宿を一回ずつ行うようになっている。唄織の生まれ育った町からバスで二時間半ほど揺られた先にある辺鄙な土地が夏の合宿場所だった。大きな山と澄んだ川のすぐ近くに建てられた宿舎に寝泊まりし、合唱の練習だけでなくハイキングや花火、釣りなど林間学校じみたこともするこの行事はそれなりに人気がある。唄織も初めてのときは戸惑うこともあったが、合宿を楽しむことができた。しかし今年は初日から億劫な気分が続き、全員で食堂に集まっての食事や四人一組の部屋で眠ることにもわずかな苦痛を感じていた。


 

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