アカシック・レコード
1
爽やかな朝日に反して、鉛のような空気が漂っていた。
それを溶かし貫く熱い三つの視線は、生憎と憤怒と軽蔑を燃料にしている。
たった四人で集まるには寂しすぎる横長の部屋には、このまま放っておけば数十年動かないのではと思わせる意地の張り合いが行われていた。
最初に痺れを切らしたのは円形の机を隔て、アキラの前に座る三人の内、左端。
骨ばった顔に眉根を寄せる卑屈そうな男が、万年筆で机を叩いていた。
「何か言ったらどうなんだ!」
広い空間に男の鉄を千切るような耳を突く声が木霊する。
大仰に耳を傷めた演技をやって見せると、アキラは肩を竦め、
「何か」
と、言ってやった。
アキラの興味ないと言わんばかりの仕草に卑屈な男の血管が切る。顔を真っ赤に染め上げ叫びだそうとした男を、机が叩き折れるのではないかという音が止めた。それは右端に座る鋭角なサングラスをした体格のいい男だった。アキラが務める会社の裏部隊を指揮する強面だ。
「カズト、テメェ、何でここに呼ばれたのか分かってんだろな? 返答次第じゃ……」
アキラはまったく別の名前を言われたことにさして動揺せず、強面の視線を受ける。
これ見よがしに手を掲げると、拳を作り骨をパキパキと鳴らした。唸るような低い声に、サングラスの奥からでも分かる鋭い視線は猛獣を思わせる。
ライオンにも勝負を挑みそうな男は、しかし隣で上がった手に委縮する。肉が削ぎ落ち、皺が寄った手がライフルにでも見えているのか、卑屈と強面は唾を飲むと体を石に変える。
それは真ん中に座る車椅子の老人だった。オールバックにした白髪の下で、アキラの態度にも眉一つ歪めることなく不敵な笑みを浮かべるが、その目から放たれる磨り潰されそうな眼光は王の威容を見せた。
「話せ、すでに調べは付いている」
にやりと皺を作りながら笑う老人に、両隣が額に汗を浮かべる。
獣さえ尻尾を振る重圧の中で、アキラは臆することなく机に両手を叩きつけた。
「ならば率直に言わせてもらいます! ボス、貴方は《自治区》の長という立場を利用して区外の人間に武器を売っていますね! そして間接的にロシアの《統括区》を間接的に攻撃しようとしている! これは明らかな犯罪行為だ! 釈明があるなら聞かせて下さい!」
アキラの真剣な物言いに答えたのはレルドではなく、その隣でガタガタと震えていた卑屈な男だった。手に持った万年筆が二つに折れる勢いで床に投げつける。青ざめた顔と震える体は一見すると寒そうに見えた。
男は隔てていた机をぐるりと回ると、
「釈明があるなら聞かせて下さい、じゃねぇよ!」
やけに骨が飛び出た拳でアキラの頬を殴りつける。鈍い痛みが広がる。
アキラは瞬時に反撃しようとした腕を抑え、怒りを眠らせ成すがままにされる。ここで男に危害を加えようものなら、瞬時に雇っている兵士がやってきてアキラを捉えるだろう。そうしたら、もう二度とレルドと直接話す機会がなくなる。
「キサマは誰に口を聞いてるのか分かってんのか!? 我らがボス、レルド様だぞ! 拷問に、拷問を重ねて殺しても償えねぇぞ、ゴラァァ!」
再び拳を振り上げた男が、アキラを殴りつけようとした時、
「五月蠅いぞ、セブコム。今は私が話しているんだ。邪魔だから席に座れ」
決して大きな声ではなかったが、独特な低さを持つ声はセブコムの怒鳴りを簡単に押し退けた。このまま消滅してしまうのではないかと思うほど縮小したセブコムは、はい、と掠れ声で答えると音を立てないよう慎重に足を運び、座った。
一時の静寂が訪れ、それを破ったのはレルドであった。
「それで、カズト。どうしてこんな話をした? 自分がどうなるかなど分かるようなものだろうに。あまりにも無謀な行動だな」
見定めるような視線を受け、アキラはぼかしながらも真実を強く語った。
「私は自分の親と友達を《自治区》と《統括区》との争いの為に喪いました。これ以上そんな犠牲は見たくないからです!」
アキラの言葉に反応したのは、強面と卑屈だった。驚愕に目を見開いたかと思うと、横目でちらちらとレルドの顔を窺っている。その媚びるような弱々しい視線は、アキラには家畜のように映った。
レルドはそれらを気にも留めず、憐れみの光と共に鼻を鳴らした。
「カズト、君がそんなに愚かな人間だとは思わなかったよ。国連法? 無能な政治家達が勝手に決めた法に、何故私が従わなければならないんだね? むしろ、それは逆であるべきだ」
淡々と自己中心的主張を繰り返すレルドに、アキラの歯が軋む。
「十五年前、《情報戦争》が終戦した時には世界はバラバラだった。政府の治める《統治区》と我々のような革命の主導者が数多くの《自治区》。近年《統括区》は国力強化の為に多くの税金を掻き集めている。そんな傲慢な手から私はこの場所を守らなければいけないのだ」
そう言うとレルドは車椅子を動かし、景色を一望できる大きな窓に近づいた。日光が燦々と部屋を射し、青空と街並みが見える。その中、頭一つ飛び出た塔の上で、この会社のマークが翻っていた。
「今こそ圧政を布く政府を打倒し、我々が未来について考える番だとは思わんかね。愚かなる国を正し、我々が導いていかねばならんのだ」
レルドの言葉には、確かに一理ある。多くの領土が《自治区》となり、貧困に瀕した政府は高い税金で国民から金を奪い。払えない貧乏人は区外へと追放される。それもいずれは正さねばならない課題の一つだ。
しかし、アキラは、レルドを睨むと声を張り上げた。
「確かに今の政府のやり方は間違ってる。あんたは結果的にはここを守っているかもしれない。けどな、そんなのは所詮あんたの利益の為だろうが。この街を守ってる? だったら卑怯な手段なんか使わずに堂々としろよ。武器の売買なんてしないで自分の区に目を向けてみるよ。それが出来ないのは、あんたが利益を独占したいだけの、ただのせこくて、汚いジジィの証拠じゃねぇのか!」
シーン、と可視化されるほどの静寂がこの部屋に降りてきた。息遣いの音も、布の擦れる音さえも聞こえない。まるで氷の彫刻になってしまったかのようだ。
それを自力で砕いて這い出たレルドは、顔に地割れのような深い皺を刻み、まるで溶岩でも流れてくるようだった。
顔を険しくしながらも、その声音はあくまで落ち着いてる。
「しゃしゃり出過ぎたなカズト。そんな青臭い理想しか持てない小僧がいい気になるものじゃない。いつまでも夢を見るのはいいが、お前のような無力な小僧に現実を教えてやるのは、導く者の務めだ」
レルドの憤怒のオーラにサングラスをずり下げながら、強面が指を鳴らす。すると、両端に付いたドアが勢いよく蹴り開けられた。そこからまるで蟻の行軍のように黒スーツ達が銃を構え突入してくる。四方を囲まれ、絶対絶命のピンチに、アキラはさして動揺もせず落ち着いて周りを見る。
「あんたこそ、こんな程度で世界を導くなんて青臭いこと本気で思ってるのか?」
「ふっ、確かに単なる武力ではさすがに負けるだろう。しかし、私はいずれ必ず《アカシック・レコード》を手に入れる。それさえあれば世界を牛耳ることなど、今のお前を殺すことよりも簡単だ」
レルドはにたり、と両頬に沢山の皺を集め、影を落とすいやらしい笑みを浮かべた。
アキラはそれを上回るよう、さらにいやらしい笑みを浮かべながら耳に手を当て喋った。
「聞いただろ、ハル。本人からの堂々とした国連への宣戦布告。証拠としては申し分ねぇ」
周囲の人間がこぞって首を傾げる中、
『分かってます。当たり前のことをべらべらと得意げに話さないでください。聞いているこちらが恥ずかしいです』
少女の声が機械を通して、ノイズと共に聞こえてくる。声の主を知らないレルド達が周囲を見渡す。しかし、部屋には何もない。
「な、何だこの声は!? 一体誰だ!」
卑屈な男が見えない何かに怯えるように机の下に身を隠す。動じることなく、しかし油断なく構えるレルドの周りを強面の男が片手に銃を持ちながら警戒する。
その時、強面がサングラスを床に落とすと、気にするそぶりもなく、震える指を窓に向かって持ち上げた。
「な、何だあれは!?」
強面の叫びに呼応するようにババババ、という激しい風切音が響く。生えてくるように出て来たのは、陽光を鈍い黒に反射させる物体。その正体は数々の武装を施した装甲ヘリだ。あまりにも予想外の珍客に、レルドさえも言葉を失っている。
瞬間、絶好のチャンスを逃す手はなく、アキラは腰を落とすと囲んでいた黒スーツに飛びかかった。突然のヘリに呆けていた黒スーツはアキラの動きに反応出来ず、ほぼ同時に床に崩れる。それに気付いた強面が銃口を向ける。しかしアキラは机を飛び越え、銃を蹴飛ばすとその顔に横蹴りをかます。
「ナイスタイミングだ、ハル」
気絶した強面を確認しながら、アキラはヘリに向かって笑いかけた。
『貴方が遅すぎるので催促に来たまでです。謝辞はいいですから、早くレルド・アレクセエヴナ・トルストイを拘束してください。さっさと本部に帰投しますよ』
「ほ、本部だと!? カズト、お前一体!?」
この時になってレルドはようやく焦った声で狼狽えていた。
「《UNMO》の《ラウンダー》だ。違法物取引、殺人、殺人教唆、恐喝、詐欺その他もろもろと反逆罪で、お前を逮捕する。残念だったな、世界を導けなくてよ」
「き、貴様! 国連の犬―――」
長くなりそうなレルドの罵倒を手で強制的に抑えると、気絶させそのまま屋上へと向かった。この手の罵詈雑言はもう嫌気すらしないほど聞き飽きていたのだ。
アキラは小さくなっていく屋上を見詰めていた。
特に思い入れがあったわけではないが、今度はちゃんとした統治者に治められることを願うばかりだ。
会社すら見えなくなったところで、うん、と体を伸ばす。約半年間の潜入捜査は中々に骨が折れるものだった。素性の偽装、隙を見ての調査、特に悪事を働いている幹部達に会っても笑顔を取り繕わなければならないのは一番しんどかった。
ガチガチに身を固めるスーツのネクタイを鬱陶しげに緩めていると、
「ここで脱ぎ捨てないでくださいね。子どもじゃないんですから自分の洗濯物くらい自分でやってください」
優しげく、品の良さを感じさせる声が、口調とは合わない冷たい言葉になった。
「それが半年間の長期任務から返ってきた相棒にかける言葉かよ、ハル」
苦笑いを浮かべながらネクタイを指先で回すと壁に設置された椅子に座った。アキラの向かい側にはパソコンを膝に置き、絶え間なく叩く音を鳴らす少女がいる。
まるで雪が浸透したかのような白いセミロングの髪。権威の縮小したイギリスで未だ男爵の爵位を持っているという貴族の家柄で、それをうなずかせる彫刻のような優しげな微笑を浮かべる小柄な少女。潜入してスーツ姿のアキラとは違い、白を基調とした《UNMO》の制服を着ていた。
今回の作戦のレポートでも作ってくれているのだろう。それをわざわざ邪魔する必要もないので、アキラは疲れをとろうと仮眠をとろうとする。
「一つ、忠告しておきたいのですが」
しかし、珍しいことにハルの方から声をかけてくる。
その声に固い印象を感じたアキラは怪訝そうに聞き返した。
「……何だよ」
「今回の任務、一年を最低期限の目安としていたはずです。しかし、アキラはそれを先ほどの強引な駆け引きを行い、半年で終らせてしまいました」
ハルの鋭い指摘に体が硬直する。
それを覚られないようなるべく声を抑えた。
「別にこれといった問題はなかったんだから別にいいだろ」
「ええ、それに関しては問題はありません。早く片付けてくれたおかげで、私達の評価も高くなったでしょう。出世への大きな助けになりました。そこは感謝しています」
そう言うと、ハルはパソコンから顔を離し、にっこりとアキラに微笑んだ。普通の男なら勘違いしそうな天使を思わせる笑み。しかし完璧すぎる故にアキラは好きではなかった。
「しかし、今回作戦を大幅に早めたのは、私怨があったように思えます。アキラとは単なるパートナーですので、あまり踏み入ったことは言いたくありませんが、こんなことを続けていては死にますよ。この世界がそんなに甘くないのは貴方だって知ってるはずです」
ハルの冷ややかな声は、厳しくも正しい。
ぐうの音も出ないアキラは両手を降参のポーズを取り、
「ああ、そうだな。確かに今回はちょっと焦りすぎた。心配させて悪かった。けど、そんなこと言ったらお前だって俺が危ない時に助けてくれたじゃないか」
アキラが黒スーツに囲まれた際、それこそ危険を承知で現れたのは他でもないハルだ。一つ間違えば大事故にまでなりかねない無謀を犯してくれたからこそ、アキラは無傷でこのヘリに乗っているのだ。
アキラの答えに、ハルは無言を強要する笑みを浮かべた。
「何のことでしょう。別に私は心配してませんよ」
まるでハルの口から吹雪が吹いているようだった。
アキラは引きつった笑みで自分の失言を躱し、話題を強引に変えようと口を動かす。
「え、えっと、そ、そう言えばお前っていつも出世、出世って言ってるけど何でそんなに出世したいんだ? 何かわけでもあるのか?」
引き気味の声の質問に鋭い返しでも来るかと身構えたが、タイピングの音が止まっただけだった。急に静けさを帯びた空気に、アキラは戸惑いの視線を向ける。
「アキラには関係のない話です」
そう言って俯くと、
「……それに、知ったところで軽蔑するだけですよ……」
と小さな声が漏れた気がした。
「ん? 何だ? 何か言ったか?」
「いいえ、何も。ともかく、任務お疲れ様でした。今後も世界の安定の為に頑張りましょう」
まったく言葉の意欲を感じない台詞を口にするハル。
だがしかし、ハルの言う通りであった。
低迷を続ける世界で、唯一治安維持機関として機能しているのは《UNMO》だけだ。
それは、自分の力が少なくとも世界を救うのに役立ってる、そんな自負をアキラに与えていた。父や名も知らない友のような馬鹿げた事件を繰り返さない、その正義感を再び燃やし、アキラは本部へと帰還した。
2
太平洋海上にぽつんと、しかし雄大に一つの超高層ビルが建っていた。
筒状のビルは、その周りを全て鏡のような反射度を持つ特殊強化ガラスで覆われている。空と海の青を跳ね返すビルは擬態のように自然と混ざり合っていた。
北海道と同規模の広大な人口大地を敷いた、国連治安維持機関、通称《UNMO》。
国連から世界の治安を任された組織である。
「はぁぁ、ようやく報告終わったな」
溢れ出る溜息と共に体を伸ばしながらアキラは呟いた。
「一年かかると思われていた任務を半年で終らせたので、色々と聞かれて長くなってしまいましたね」
そう言いながら窓を見るハルの髪が、淡い焔色に変わる。太陽が地平線に沈みかけているので、時刻は五、六時といったところか。実に二時間以上縛られていた計算である。
全百階ある本部は一階から二十九階までは事務処理や受付、言ってしまえばデスクワーク専用。三十階から六十九階までがアキラ達の住む居住区だ。そこから上は会議室や作戦準備室、最上階付近が長官、次長といった管理職の執務部屋である。
アキラ達は報告の為に二十八階を訪れていた。
いつもは静寂極まりない階に多数の同調した足音が響いている。アキラの額から汗が一筋流れ、顔が強張る。
「何だか、途轍もなく嫌な予感しかしないんだが……」
「奇遇ですね。何故だか私もですよ」
さすがに疲れているのか、ハルも微笑の中に溜息を零した。
逃げよう、という意識を、言葉を交わすことなく共有した二人が足を踏みだした。
その時―――
「おや、ハルにアキラじゃないか。なんだい、長期任務から帰っていたのなら一つ連絡でもくれればいいのに。水臭いじゃないか」
聞こえてきたのは、おっとりとしながらもきちんと通る女性の声。
げっ、と蛙のような声を出しながら見たのは、アキラを鍛えてくれた鬼の師匠、クロム・デュオニソスだった。腰以上に伸びる長髪はウェーブが掛かっており、瞳は憂いに満ちたように垂れ、微笑む唇は聖母を連想させる。出るところの出た艶めかしい曲線を描く体をワンピースのような服に、白の上着で包んでいた。
「お久しぶりです、クロムさん。すみません、つい先ほど返ってきたばかりで連絡する暇もありませんでした」
「ふむ、そうか。まぁ、何はともあれよく戻ってきたな、ハル。よく頑張った」
近くまで来たクロムは試練に打ち勝った弟子を褒めるように丁寧にハルの頭を撫でた。
すると、その後ろを二列で並んでいた女性列、およそ二十人から強烈な怒気が発せられる。大方、崇拝のクロムのなでなでを受けられるハルが妬ましいのだろう。
「っていうか、親衛隊の人数さらに増えてねぇか。一体どこまで行くんだ、こいつ等……」
「アキラ、君は半年ぶりにあった私に何の挨拶もないのかい?」
まるで拗ねるかのような声で尋ねるクロムに、アキラは背筋がちぎれるほどぴんと立ち、ぎこちなく顔を向けた。しごかれた本能が、理性よりも先に反応してしまった結果である。
「そ、そんな訳ねぇだろ、や~、久しぶりに師匠にあえてうれ―――」
と、後頭部を掻きながら口にした時、クロムの手が煌めいた。口の中にサクッとした感触がする。初めはクッキーかとも思ったが、すぐに甘い幻想は死滅し、舌を無数の針で貫かれるような拷問に等しい痛みが襲った。
「ゴホッ、ガハッ、テ、テメェ、一体、何を、食わせやがった……」
アキラは堪らず膝を折り、四つん這いの姿勢で毒薬を吐き出した。
そんなアキラを面白そうに眺めながら、クロムはなお穏やかな口調で告げる。
「私の教えを忘れた馬鹿弟子に、手料理を振るったまでのことさ。何度も私を師匠と呼ぶなと言っているだろう。師という響きは年寄っぽい。先生か、お姉さんにしろ。あ、ちなみに今食べさせたのはホワイトチョコレートクッキーだったのだが……どうだろうか、少しは味が改善されたかな?」
「されてねぇよ! 反応見て分かるだろ! 何の劇薬かと思ったわ!」
涙ながらに訴えるアキラの意見は、しかし後ろに親衛隊の罵詈雑言の嵐を呼んだ。
「クロム様の手料理を食べておきながらなんて言いぐさ!」
「男なら幸せで爆発ぐらいしてみなさいよ!」
「クロム様、このような下賤な輩と会話してはなりません!」
「おい、待てっ! この反応見てどっちが被害者か分からねぇのか!?」
不当な悪罵を受け、アキラはこの世の理不尽の一端を垣間見た気がした。優れた者は全て優れてると決められ、弱き者は全て弱いと決めつけられる理不尽だ。
しかし、このファン達のリアクションも決して馬鹿には出来なかった。
クロムは現で実力、名声共にトップなのだ。羅刹のように強く、韋駄天よりも早く問題を解決する手腕、そして凛々しくも優しげな面差しは、女性の人気を一手に担っている。
だが、民の思い描く英雄像は一様に美化されるものだ。学校を飛出し、《UNMO》に殴り込んだ結果、クロムの弟子入りしたアキラはそれを身に染みて痛感していた。鬼すらも逃げ出す地獄の特訓、料理という名の毒の試食。思いだしただけでもはらりと、涙が一つ零れる。
「ふむ、ここでは落ち着いて話せないな。そうだ、今から私の部屋に行くとしよう」
クロムの決定に親衛隊だけでなく、アキラも不満を滲ませる。
「いや、さっき言ったよね。俺等、今さっき長期任務から帰ってきたばっかりだからメッチャ、メ~ッチャ疲れてんだけど」
「心配ない。疲れに良く効くハーブを取り寄せているからね」
「察してくれよ、心情を! ハル、お前からも何か言ってやれ!」
「アキラ……クロムさんを前に常識は霞と消えるのですよ」
いつも愛らしいハルの微笑が、今だけ少しハードボイルドに見えた。
「《アカシック・レコード》について?」
アキラは重い身体に鞭打って、ガラスの円卓の上に三つのカップを置いた。ほんのりと立ち上る湯気からする茶葉の香りは、固まった筋肉をほぐしてくれるようだった。
アキラはそのお茶を底知れぬ安堵と共に飲む。全身全霊でクロムをキッチンから遠ざけた甲斐があったというものだ。尤も、そのせいで余計に疲れたのだが。
「クロムさんは《アカシック・レコード》について探っているんでしたね」
「まぁ、任務は原則として口外厳禁だから言えないが、そうだ」
「普通に言ってるじゃねぇか。確かにレルドが《アカシック・レコード》について世界を牛耳るやらなんやら言ってたけど、それ以上は知らねぇ。尋問で何か言ってねぇのか?」
クロムは長い髪を揺らしながら首を振った。
「今は何も。少し調査に手間取っていてね。まったくどれだけ用心深いんだか」
クロムの愚痴のような言葉に、二人は驚きに目を見開いた。
二人ともクロムとは長い付き合いだが、愚痴という愚痴を聞いたのは初めてだった。
「珍しいですね。クロムさんが愚痴なんて零すとは」
「仕事のしすぎなんじゃねぇのか。ぶっ倒れちまうぞ」
二人の心配の声に、クロムは気持ちよさそうに笑うと、
「ふふ、私も周囲に持てはやされるほど万能ではないということさ」
そう言うとクロムは目の前に置かれたカップをそっと持ち上げ、口を付ける。そして舌と喉を通るお茶の味を堪能するように笑みを漏らすと、うまいと一言。
アキラはその仕草を何となく凝視する。これといった何かがあるわけではないのだが、クロムが愚痴を零すというのは相当なことだ。それとも、相当なことをしようとしているのか。
漠然とした疑問が形になる前に、軽快なチャイムが響いた。
「誰だい? ……おや、お前か。ふむ、まぁ、入りたまえ」
クロムの付けている腕時計型デバイスに立体映像が映ったかと思うと、消える。訪問客を確認し、開錠したのだろう。
誰が来たのかと、振り返るアキラの視線の先で、金の光芒が弾けた。そして演技じみた声が寒気のする言葉を並べる。
「やぁ、クロム。今日も見目麗しく、その可憐な微笑は天界に咲く花よりも神々しいよ!」
げっ、と本日二回目の蛙の声真似をするアキラ。
相手もアキラの存在に気付いたのか、晴れ晴れとした笑みに雷を落していく。
現れたのは癖のある金髪を目に痛いほど輝かせる長身の男。キリッとした輪郭に怪しげな切れ長の目と整った顔。紺色のスーツを着込む体はすらりと細いが、戦闘能力に関しては相当なもので、クロムに追い付くかもしれない、と言えるほどだ。
「テメェはまたし……せ、先生を口説きに来たのか?」
後ろからの殺気に慌てて訂正するアキラを、男はあからさまに嫌そうな顔を作ると、
「貴様は本当に上司に対しての口のきき方がなっていないな。エルティム次長だ。次長」
そう、この毎日のようにクロムに迫り適当にあしらわれ、その弟子であるアキラを毛嫌いするこの男は、《UNMO》の次長、ナンバーツーなのだ。
「こんにちは、エルティム次長。こんなところで会えるなんて光栄です」
出世の鬼であるハルは先程までの疲れで垂れ下がる眉を、一瞬にして笑みに変えた。その身の代わりようは、最早感服に値するレベルだ。
「ああ、ご苦労。それにしても貴様のような輩がいるせいで、この調和のとれた部屋が汚れてきてるじゃないか。少しはクロムの下で品を身につけることを学んだらどうだ、うん?」
「うっせぇな。何か用件があってきたんだろ、それ言ってさっさと帰れ!」
アキラは犬を追い払うような仕草で、エルティムを追いだそうとする。
しかしその言葉をエルティムは軽く避け、視線はクロムに向いた。
「おや、クロム、君が新しいイヤリングをするなんて珍しいね」
「おい、さっさと本題に入れよ!」
「ああ、これはいつも後ろにいる彼女らから貰った物でね。気分転換みたいなもんだ」
「し……先生も答えんなよ!」
ちらっと見ると、確かにいつも装飾品の類は付けないクロムの右耳に剣を模した耳飾りがしてあった。長髪で耳が隠れているのに、よく見つけられたなと少しエルティムを感心してしまう。
「それで、何のようだい、エルティム」
カップに残ったお茶を飲みながらクロムが尋ねた。
「ああ、何でも長官が君に頼みたい任務があるようでね。最上階までご足労願えないだろうか?」
エルティムは手を腹前で折るとダンスに誘う貴族のように恭しく頭を下げた。
「いやだ」
と、我儘な子どものように即答するクロム。
「生憎と私は今別件で忙しくてね。他のことに時間をかまけている暇はないのさ。それに、私は長官が大嫌いだからね」
《ナンバーズ》のトップがそれでいいのかと、呆れ果てもするが、トップだからこそ、このような我を通せるのかもしれない。尤も、自分にはあまり関係の薄い話だし、アキラも長官は嫌悪の部類に入る人間なので、大人しく茶を啜った。
「う~ん、確かにクロムには別の任務があるのだが、こっちもそう後回しに出来る内容ではないらしい。閉じている蕾を無理やり咲かすのは無粋という物だが、何とか頼まれてはくれないか?」
エルティム自身、次長という立場で無下には扱えないのだろう。中間管理職の辛い所だ。しかし、いくら必死に懇願しても、この鬼の師匠の横に振った首が曲がったところを見たことない。まぁ、精々がんばれ、と冷ややかな声援を送るアキラは、しかし次の言葉でいきなり断頭台に立たされてしまう。
「ふむ、確かに簡単に任務を断っては他の《ナンバーズ》に示しがつかないからな。よし、アキラを貸そう。それで手を打ってくれ」
喉越しの良いお茶が突如濁流と化したように激しく咽る。
「おい、いきなり何言ってんだ、あんたは!?」
「あの、それって私もいかないと行けなんでしょうか?」
さすがのハルも微笑を崩しかけている。長期任務から帰ったばかりと考えたら当然のことだろう。
「いや、連れて来いと頼まれたのは、一人だけだしな。クロムの変わりが、こいつとはあまりにも遺憾なことだが、折れてくれそうにないことだし」
「それでいいのかよ! もう少し粘れよ!」
今だけはアキラは、全身全霊をもってエルティムを応援する所存だ。
「あ、それなら良いです、じゃんじゃん使ってください」
答えを聞いたハルは途端に笑みを戻し、茶をお変わりした。
「おい! あっさりと裏切るなよ!」
場の流れがアキラが行くことで解決しそうな雰囲気になっていく。
冗談ではない、とアキラが反駁しようとしたところに、
「しかし、アキラ。もしかしたらこれは重要な任務かもしれないんですよ。長官直々の依頼ですし、もしうまく成功させたら私達の株も上がって、昇格もぐんと近くなるかもしれません」
「そう思うならせめてお前も一緒に行けよ!」
次にクロムが説得まがいの押し付けを語る。
「なに、心配することはない。私が鍛え抜いたんだ、君の実力はそこいらの《ナンバーズ》よりも上だよ。それにもしこれが重要な任務だとして、それは世界の治安に繋がることなのではないかい? 私はこの任務を中断すべきではないと考えている。ならばあとをまかせられるのは信頼に足る愛弟子に、と行きたいのだが?」
クロムのさり気ない褒め言葉に思わず顔がにやけそうになった。それを鋼の精神で踏みとどまる。
しかし、クロムのいうことも一理あると理解もしていた。本当にこれが重要な任務であれば、クロムがするべきだ。だが、クロムは他にも大切な任務を抱えている。ならばこそ、師匠への恩返しと、世界の治安の為に体に鞭を打つべきではないのか。
そんな葛藤が生じては、脳裏に父と名も知らぬ友人の顔が浮かぶ。
それは決して消えることのない、アキラの正義の為の指針である。
がっくりと項垂れ、虫の羽音のような掠れ声から、
「……分かったよ、ったく、やればいいんだろ!」
空元気の大声を出す。
エレベーターが上昇するたびに、気分が地に落ちていくのを感じる。
それは勿論、この狭い密室にエルティムと二人でいることも関連するが、もっと大きな理由は最上階で踏ん反り返っている長官のせいだろう。
ピン、とアキラの思いに反し、エレベーターは瞬く間に百階に上り詰めた。
ドアが開くとそこは一つの部屋。かなり広い間取りだが、その部屋には家具や生活感と言った物は皆無で、一つの照明と電子式のドアがあるのみ。
エルティムは慣れた足取りで進むと、ドアの横のスライドキーに一つのカードを通す。認識されたのか、ピーと音が鳴るとそこから入れ、と低い男の声が。
「行くぞ。長官はこのすぐ先だ」
今さら逃げようなどと未練がましくはならないが、それでも溢れる溜息は止まることを知らなかった。《UNMO》の長官とは直接の面識はないとはいえ、演説や年に数回開かれるパーティでよく目にしていた。その印象を語るにはたった一言で足りる、嫌な奴と。
「長官、連れてきました」
エルティムに続いて、アキラは始めて長官室に足を踏み入れた。
そして、目の前に広がった光景に唖然とする。
足の疲れを吸収するような心地よい触感が伝わる。見ると、そこにはどこの俳優だとツッコみたくなるような鮮やかなレッドカーペット。円に広がる室内の端を見渡すことは出来ないが、恐らくはすべて覆われているのだろう。中心部を貫くエレベーターの内壁には高そうなワインのコレクション。壁に面する外側は一点の曇りないガラスを張り、地上何百メートルという絶景をほしいままにしていた。覗く床や柱は大理石。何ともまあ、成金趣味だ。
そんな予想の斜め上を行く内装に辟易するアキラの目を、一つの物が奪った。
何かは分からない。かなり大きく、所々凹凸が見られる。そして何よりも違和感をにおわせるのは、それに一枚の布が隠すようにかぶされていることだ。豪華を絵にかいたような部屋で、それは圧倒的な不協和音を生出していた。
「どういうことだ。私はクロム・デュオニソスを呼んで来いと言ったはずだが」
異様な物体に注目していたアキラに、低く、しゃがれた声が不満げに震えた。前を見直すと、そこには職人芸を思わせる細かい細工の施された漆塗りの机。それに合わせたような黒皮の椅子が、苦しそうに一人の男を支えている。
椅子の上で踏ん反り返ったブルドックのような面持ちをした長官、エルゴ・プラントン。頬などは皮下脂肪で垂れ下がっているも体格はよく、昔は軍人でもやっていたのではないかと思わせる。威圧的に細められた目の周りはどれほど人を睨んできたのか、深い皺が彫られていた。厳しい、というよりは傲慢に見える顔だ。
口にくわえた葉巻を苛立たしげに手に持つと、燃えている先をエルティムに向ける。
「申し訳ありません。クロムはただ今、別の任務があるとのことで、エルゴ様の命令は拒否すると。代わりにこの《ラウンダー》を使ってくれとのことです」
確かにエルゴは《UNMO》では一番偉いが、それでも《様》を付けるのは常軌を逸している。王に傅く臣下のようなエルティムに、当然とそれを受けるエルゴ。二人の薄ら寒いやり取りに、アキラは鳥肌を立てながら早くも引き受けたことを後悔し始めた。
「別の任務だと? ふざけおって! 私の命令よりも優先される物はない! これだから戦うしか能のない蛮族は嫌になる。《ナンバーズ》で成績を上げているからとあまり調子に乗らすな!」
まるでここにいないクロムに唾を吐くかのような態度と台詞は、アキラの顔を後悔と憤怒で塗りつぶしていく。確かにクロムも長官の命令を断るならば、それ相応の礼を尽くさなければならないのかもしれない。しかし、クロムを罵倒し、怒る権利をエルゴが持っているのだろうか。ここで踏ん反り返るばかりのエルゴとは違い、クロムは最前線で危険な任務に臨んでいる。アキラさえ青ざめるような仕事量を一人でこなし、滅多なことでは愚痴も零さないのだ。
何より、師匠を馬鹿にされ、弟子が黙っている道理もない。
一言言わなければ気が済まなかった。しかし、その前にエルティムが口を挟む。
「この《ラウンダー》はクロムから直々に訓練を受けています。腕の方は保障できますので、エルゴ様のご要望にも当てはまるかと」
エルティムの乱入で、怒るタイミングを逃してしまったアキラは、苛立ちながらも腕を組み、気を抑える。
エルゴはその言葉を聞くと、数秒考える素振りをした後、下卑た笑みを浮かべた。
「ほう、あの女の……なるほど、それはそれで面白いことになりそうだな。まぁ、良いだろ。下がっていろ」
はっ、と軍隊のような返事を返し、静かにドアを閉め出ていくエルティム。
エルゴは落ち着いてきたのか、葉巻を再び口に含むと、アキラの前で白煙を吐いた。
「あ~、お前、名前はなんだ、さっさと言え」
どこまでも傲慢な物言いに、アキラの眉がピクピクと震える。
「……アキラです。來栖アキラ」
「……ふむ、中々優秀な成績を収めてるじゃないか。まぁ、これなら任せてもいいか。おい、え~、アキラ、お前に一つ任務をやろう。そうだな、これを無事に成功させたら《ナンバーズ》にしてやってもいい」
は? と短い息が口から漏れる。
この男は今何って言った? と脳内で確認を取り合う。《ナンバーズ》にしてやってもいい? ふざけるな! と火を噴く口をギリギリで噤む。してやってもいいなど、そんな軽い覚悟で目指しているのではない。皆、それぞれ胸に抱いた思いの為に努力を重ねているのだ。こんな男の気まぐれで軽く決められるなど冗談ではない。
「俺はそういうことの為に貴方の任務を引き受けようと思ったんじゃない。そんな報酬は結構だ!」
声を張り上げ、アキラは真っ直ぐにエルゴを睨んだ。罵倒の一つでもしてくるかと思ったが、返ってきたのは、
「ふん、せっかくのチャンスを棒に振るとは。お前は出世できないタイプだな」
アキラは歯を噛み締めるも、すぐにそれを解いた。あまりエルゴに突っ掛ってもいいことはない。アキラ個人の問題ならいくらでも突っ掛ってやるが、そのせいでパートナーのハルまでマイナス評価を貰うのはいただけない。
ハルは何故か分からないが、本気で出世を目指しているのだ。その目標をアキラの勝手な行動で潰させない為ならいくらでも我慢する。
一人でこの任務を受けて良かったと思う。ハルの目標がこんな物だとは知られたくなかった。
「お前に行ってもらうことは一つ。ある取引を今日の零時に行うことになっているのだが……お前にはこの取引に同行してもらう」
それだけ? という虚脱感が大きかった。わざわざクロムを呼び出してまでやらせようとする任務の割には、普通で味気ないものだ。勿論、任務の大小で手を抜くなどはないが。
「……その取引とは、緊急の同行者を付けるほど危険なものなのでしょうか?」
「貴様が余計な詮索をするな! お前達はただ犬みたいに言われたことをこなせばいいのだ。詳細は八十二階に待機させた現場の奴等に聞け。以上だ、さっさと下がれ」
言いたいことだけ言うと、エルゴは椅子を反転させ、黒皮の椅子から煙が立ち上る。
最後には犬とまで来たエルゴに、アキラは体内が沸騰するのを感じる。ここで殴りつけるのは簡単だが、どうせここまで我慢したのならさっさと外に出ようと、苛立ちを万遍なく放出しながらドアに手をかける。
来た時はその気持ちよさに魅了された絨毯も、今となっては泥にしか思えない。ようやく清潔な酸素を吸えることに解放感を覚えながら、アキラは二度と訪れたくない悪趣味な部屋から飛び出した。
エルゴの言うとおり八十二階の会議室にいくと、今回の任務で一緒に組むことになった五名がいた。彼らはアキラと同じように《ラウンダー》であった。しかし、やる気と正義感は《ナンバーズ》にも負けないアキラと同じような若者達だ。
アキラ以外のメンバーは普通に招集され、これを成功させれば昇格という話を受けたらしい。彼らも《ナンバーズ》になってより多くの人を救いたいと夢を語る。同じものを目指す者どうし、話は陽気な音楽のように弾み、ブリーフィングですでに心地よい一体感が生まれていた。
しかし、そんな中、アキラは一つの不安が渦巻いていた。《ラウンダー》のみということは、この任務はさして重要でも、難解でもないと考えられる。その任務に、エルゴはクロムを付けようとしていた。《ナンバーズ》トップのアキラの師匠を。
その絡み合わない矛盾は、まるで蜘蛛の糸のようで知らない間に何かに捕食される危機感を覚えた。しかし、原則としてどんな任務だろうと他言無用。それが例え裏切りだとしても、エルゴからの奇妙な任務だとしてもそれは変わらない。そうすることには、そうすることの意味があると、アキラは教わった。
心の中に不安と罪悪感を押し殺しながら、アキラは仲間と共に任務へと向かった。
3
業務時間が終わり、一階から二十九階まで暗闇が貫いていた。
職員はこの人工島に家を持っているので、残った分はそっちでやる。《UNMO》の職員は残業がないのだ。
虫の羽音すら響くような異様な静寂の中、ハルは足音を殺し、二十七階の一室に忍び込んでいた。
今頃、パートナーであるアキラが任務に出た辺りだろう。唐突に長官に呼ばれ、その後詳しい内容は言えないが、任務に出るとメールがあった。突然の任務の招集などさして珍しいこともない。世界に対し、三千人前後で対処するにはどうしても無理が生じるものだ。
しかし、今回は呼び出した人物が問題だった。エルゴ・プラントン。《UNMO》の長官で国連と秘密取引をしているとか、黒い噂が絶えない。
見ただけで分かる。あの男は、自分と同じで効率でしか動けないタイプの人種だ。そう言う人種は得てして自身の為なら何でもやりかねない。それに対し、ハルのパートナーはあまりにも甘いかった。
そしてその背中に、まるで姉のような面影を感じ、不安はどうしようもないほど強まってしまった。
「私がこんなことするなんて、特別なんですからね」
キーボードの叩く音だけが占める暗がりの情報処理室で、ハルはパソコンの画面の光に身を照らしながら、一人呟いた。
いつも貼りつけている営業スマイルの本領を発揮し、情報課の知人からキーを譲ってもらい、寝静まった頃を見計らって侵入しているのだ。こんなことがばれれば大きなマイナス評価となってしまい、ハルの悲願に大きな打撃を与えるだろう。それでも、パートナーの身の安全を考えるほどには、ハルは、アキラを信用していた。
本当ならば、クロムに相談したかったのだが、電話にも、部屋にもおらず、任務に出た記録もない。訝しみながらも、あのクロムならどんなことがあってもおかしくないと、特に気にも留めなかった。
「これで………完了です」
エンターキーを景気よく弾くと、画面に数々の情報が現れる。
他人が見たらひっくり返るほど驚異的な速度で防壁を突破し、アキラの受けた任務内容を探す。数秒後に、それは簡単に見つかった。楽勝と、顔の微笑を少し深くしたハルの表情は、しかし次第に強張り始めた。
「え……な、何これ、こんなこと……許されるはずがない!」
「それが許されるのが、今の世界なのだよ」
驚愕に冷汗を掻く前に、ハルは腰に携帯していた銃を素早く後方に構えた。
そこに立っていたのは弛んだ頬に、大きな体躯をした男、エルゴだった。
予想に反しての大物の登場が、ハルから冷静を掠めると代わりに困惑を返してくる。現在の状況をそのまま呑みこめば、無断に施設に侵入したハルが、エルゴに見つかった、ということになる。しかし解せない。何故、滅多なことでは下に降りてくることもしないエルゴが、こんな所に一人で現れたのか。
侵入を察知されるようなへまをした覚えはない。例えしても来るのは警備兵のはずだ。
大きな失点を後悔するよりも、その奇妙さがハルの胸を乱雑にかき回し、構えた銃をどのようにするのが正解か分からない。
「そう焦ることはない。私はただ選ばせてやろうと思ってな」
ゆったりとした歩調で近づいてくるエルゴは、葉巻の先端を切り落とすと火をつけ、咥えた。白煙を吐きながら、傍に置いてあった椅子に無防備に座る。
ここでハルが、無理をしてエルゴを撃つというリスクを負うはずがないと確信しているのだろう。その通りだが、他人に思考を読まれるのはいい気がしない。ハルは営業スマイルを張りつけると、銃を仕舞った。
「まさかこんなところでエルゴ長官に会えるとは思いませんでした。私を咎めるのではないなら、何故ここに来たのですか?」
「なに、少し話をしたくてな」
「私と話しを?」
笑顔で答えながらも、ハルは周囲の警戒を最大限に強めていた。今のハルの命は風前の灯よりもか弱い。いつ、いきなりエルゴの部下が押し寄せ、蜂の巣にされるか分からないのだ。それを笑えない事情がすでにあった。ハルは見てしまったのだ、あの計画を。
「見たのだろう? あの計画を」
胸中を見抜いたような言葉に、一瞬笑みが崩れそうになる。
「さて、何のことだか分かりかねます」
「今さら隠さなくともいい。咎める気はない。お前は決めればいいのだ。利口に生きるか、馬鹿に死ぬか」
冷淡な口調で語りながら、エルゴの懐から一つの銃口が深淵よりも深い闇をハルに向けた。
微笑を完全に壊すと、ハルは再び銃を構える。普段はデスクワーク主体だが、仮にも《ラウンダー》。ぶくぶくと肥えたエルゴに身体能力で劣るはずもなかった。
そう、相手がエルゴ一人ならば。
カチャ、と無機質な音と共に死を思わせる冷たさが後頭部を侵した。
手から銃が滑り落ちる。滝のような汗がハルの顔を伝った。警戒は怠っていなかった。ただ、この後ろの相手がハルの警戒網を軽く躱せるほどの実力者だったのだろう。そんなことできる人物はクロムくらいしか浮かばないが、その事実がハルに忌避すべき死をすんなりと受け入れさせた。
死ぬ。その明白な未来は実に様々な物をハルに見せた。自分に優しく微笑みかけてくれる姉、肩身の狭い思いをした実家、そしてここで出会ったパートナー。
ごちゃごちゃと混乱する脳内を見て、ハルは吹けば一瞬で消える蝋燭のような笑みを零した。
「ごめんね、お姉ちゃん……ごめんなさい、アキラ……」
轟いた銃声が、透き通る白髪を暗夜の中で食い千切るように乱した。
無音の刃が、部屋を刺す。
* * *
取引の指定場所は海底資源の発掘プラットフォームだった。
中国出資の人工島だが、予算の問題で工事は随分前に止まっている。簡易的な港に現場職員の生活スペース、そして海が口を開いたような穴がある。
取引はこの最下層の海底二百メートルで行われることになっていた。
「よし、着いたな。相手はまだ到着していないようだ」
今回の任務で簡易リーダーをすることになった体格のいい短髪が、塗り潰されたような暗闇の中で月光を受け陽気に笑う。その屈託のない笑みに、他のメンバーも表情を柔らかくしていった。
さすがリーダーをまかせられるだけあって、器は他よりでかいと見える。アキラとリーダー以外、この任務の成否で昇格が決まると緊張し、動きが硬い。アキラも胸の中に巣食う不安がなければ、彼らのように浮き足だってしまっていたかもしれない。それほど、アキラ達にとって、《ナンバーズ》になれるのは夢であり、命を賭すに足りる仕事なのだ。
そんな彼らに、リーダーは一人ずつ肩を叩いていき、激励する。まるで体育会系の委員長みたいだ。
「ほらほら、皆、そんなに固くなるな。確かにこれで昇格が決まるかもしれないが、そんなに固くなってたらいい結果も逃げていくぞ。心配するな、いつもの働きを見せれば、成功間違いなしだ! 皆で一回深呼吸しよう!」
体の強張りが解ける彼らを見て、こいつがいてくれて助かったと、アキラは微笑んだ。
アキラはハル以外とあまり組んだことがない。ほとんどが単独で解決を求められる任務だったからだ。その為にリーダーシップという物とは無縁だと自負していた。他のメンバーよりも冷静でも、彼らを励ますなんてことアキラでは出来なかっただろう。
その点においてリーダーは文句のない人物だ。他人をぐいぐいと引っ張ってくれる。こいつに任せておけば大丈夫、そう安心しきっていたアキラだが、意外な所から名が浮上する。
「それに、ここにはあのクロムさんの弟子のアキラがいるんだ! クロムさんの教えを受けたアキラと俺等が力を合わせればどんなことが起きても大丈夫に決まってる!」
豪快な笑いと共にバン、と背中を叩かれる。
不意打ちによろめき、顔を上げてみると、そこには何とも居心地の悪いキラキラと光る羨望の眼差しがアキラの眉間目掛け飛んできた。左右に避けれども的確に追従してくる。
「ほ、ホントかよ!? アキラ、あのクロムさんの弟子なのか!?」
「ク、クロムさんと言えば、容姿端麗で、強くて、それでいてとっても優しいんだろ!」
「すげ~、良いな~、俺もクロムさんに手取り足取り教えてもらいて~!」
クロムという人間は《UNMO》に二人いるのだろうか。そう思いながらアキラは口端を吊り上げ、空疎な笑みを漏らすしか出来なかった。どうしてここまでアキラの知るクロム像と他人のクロム像が違うのか。本部に戻ったら他にもいないか本気で調べてみよう。
「なぁ、なぁ、クロムさんの特訓ってどんなのしたんだ?」
唐突に投げかけられた質問に、アキラは喉が委縮し、大量の汗を掻く。
クロムの特訓、その言葉にアキラの脳内に封印されていた地獄の日々が甦る。見ず知らずの土地に置いてきぼりにされ、一週間以内に本部に戻ってこいとか。実際のクロムの動きを再現したVR訓練で一発当てるまで永遠に続く対人訓練とか。思いだしただけで胃が怯えたように震え、目の奥に熱い物が溜まる。
捨てられた子猫のような姿のアキラで何かを察したのか、キラキラと目を輝かせた彼らは顔を青くしながら見て見ぬふりをしてくれた。尤も、その優しさも今となっては痛いだけだ。
気を取り直すようにリーダーが沈黙を破り、無理やりといった笑い声を響かす。
「は、ははは、まぁ、いいじゃないか。それよりももうすぐ取引の時間だ。交渉の場には俺一人で立つ。皆は物陰に隠れて、万が一の時に備えてくれ。そして、もし万が一が起きたとしたら、指揮はアキラ、お前が執ってくれ」
ぽんと肩に大きな手を置かれ、真剣な表情で頼んでくるリーダー。
俺には無理だと一瞬否定しそうになったが、リーダーの真剣みを帯びた眼光にアキラも誠意に応じて、一つ頷いた。
「よし、それじゃ、各員配置につけ!」
その号令と共に、今までふざけていた彼らは表情を引き締めるとそれぞれ物陰に入り、気配を消す。さすがによく訓練されている。これならば、大抵のことが起きたとしても、問題はないはず……だ。
しかし、アキラの胸の中は冷たい刃が喉元に当てられるような不安に苛まれていた。的確には言い表せない。しかし、リーダーだけにはエルゴに言われ、急遽同行するようになったことを言うべきではないか、そんな声に導かれ、口を開くと、
「なぁ、リーダー。言っておきたいことが……」
告白しようとするアキラの前に、大きな手が壁を作っていた。口を閉じたアキラに変わり、リーダーが小さな声で言った。
「……俺も長いとは言えないがこの世界で生きてきたんだ。人に言えない、言っちゃいけないってことがあるはずだ。それにきっと今それを言っても、不安にしかならないだろう。お前は、お前のやるべきことをやってくれればいい」
強い眼光を宿しながらも、不規則に揺れるその目を見て、アキラは言葉を呑むしかなかった。そして自分の愚かさと弱さを知った。今ここでエルゴの命で同行を任されたと言ったところで何になるだろうか。ただ不要に彼らを怯えさせ、そして士気を低下させかねない。告白はアキラ自身がその苦悩から逃げる為の口実だったのだ。
今ここでやらなければ、言わなければならないことは一つしかない。
アキラは真っ直ぐリーダーの目を覗き込むと、
「ああ、必ずこの任務を成功させて、皆で一緒に帰ろう!」
ありったけの勇気を込めて絞り出した言葉に、リーダーは満足そうに頷き、互いの拳を当てる。そして、アキラも他の訓練生と同じように、素早く移動すると物陰に身を潜めた。
風の音さえしない静寂が辺りを包み込んだ。
そろそろ取引の時刻、と確認すると、コツン、コツン、と足音が響く。
次第に近づく音にじっと耳を澄ますと、鉄を引っ掻くような不快なノイズが響いた。すると錆だらけの古いエレベーターから一人の男が現れる。真っ黒なスーツに、小柄の人間を入れておけるほど大きなケース。恐らくはあのケースが取引の物。
懐から音を立てずにそっと銃を抜く。
アキラの目から見て、あの男は素人だ。足の運び方、呼吸の仕方、リーダーを見た時の目。どれも平和な日常で生活をしている一般人のそれだ。周囲に仲間の気配も感じられない。
自分の早とちりだったのだろうかと、緊張を解かずに考える。その間にもリーダーは男から荷物を受け取り、そして会話もないまま、男は帰っていく。
周囲に潜む仲間達の安堵の緩みが伝わる。昇格がかかった重要な任務だったが、何事もなく終わったんだと。
アキラもそんな雰囲気に呑まれてしまいたかったが、何故だから鼓動は早まるばかり。妙な胸騒ぎがする。何かを見落としているのではないかと汗が伝う。
物陰からもう少し頭をだし、周囲の様子を探る。深い穴を円状に包む壁には、渡り廊下などはなく、階段と古いエレベーターだけだ。そして広大な最下層で、荷物を受け取ったリーダーと去る男。
何気なく進んでいく時間に、やはり心配のしすぎだったと安心してしまいたいのに、それが出来ない。この異様な空間での取引が何かを訴えているように思えてならない。それが何かを探ろうと、無意識に空を見上げる。
空に浮かぶ満月が穴の底までを照らし、無数の星々が補助するように煌めいていた。
いや、とアキラはこの光景に目を瞬かせた。近い。他と比べ、三つの星が異様なほど近いのだ。
そして気づく、あれは、星ではないと。
「逃げろ! 上から狙われてる!」
アキラの叫びに、きょとんとしながら振り向くリーダー。
それと同時にパン、と音速を超える物体が空気の層を破った音に、アキラは戦慄した。
月明りの中、飛びだす蝶を模る赤が舞う。音もなく、言葉もなく、目玉をグルンと左右バラバラに回したリーダーが壊れた人形のように床に崩れた。そしてそのまま、もう二度と動くことはない。
「な!? リーダー!?」
突然のことで冷静さを欠いた一人の《ラウンダー》が物陰から飛び出してしまう。
「行くな、馬鹿! 相手は一人じゃねぇ!」
アキラの言葉も空しく、飛び出した彼は胸から真っ赤な花を宙に描くと、状況を理解できないように呆けた顔を作り、膝から倒れた。最下層に、二つの小さな赤い水溜りが出来てしまう。
「どういうことだ!? 敵勢力なんて聞いてねぇぞ!」
「狙撃手が三人いるぞ! しかもここは低地だ! 圧倒的に不利だぞ!」
叫びあう彼らに、最早冷静などなかった。
当たり前のことだが、《ラウンダー》には重要な任務は任されない。それはつまり、現状のような命のやり取りに現実味が薄いのだ。そして初めて死ぬかもしれないと、明確な未来を想像してしまった人間は狂ってしまう。生き残る為の最大の武器さえも、道端に転がる石ころにしか見えない。
アキラは慌てふためく彼らを横目に、ゆっくりと深呼吸を行う。アキラとて《ラウンダー》。恐れや不安がないわけではない。しかし、実戦で何よりも大切なのは冷静だと、クロムに叩きこまれている。何より、アキラはリーダーに任された。仲間を守るために矢面に立った彼に、アキラは信頼と希望を託されたのだ。
悔いている時間はない。この場で指揮をとれるのはアキラだけだ。
仲間だと答えた以上、アキラがこの部隊を守り抜かねばならない。
「全員落ち着け! これより本部に帰還する! 銃を構えて交戦準備をしろ!」
そこはさすがに《UNMO》で訓練を重ねているだけあって、アキラの号令に慌てていた彼らはピタッと止まる。そして早まる鼓動を深呼吸で落ち着かせると、全員の視線と耳がアキラに集中する。
重力とは違う重さを噛み締めながら、アキラは短い時間に懸命に考えた作戦を伝える。
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。上の狙撃手は三人、だがたった三人とは考えられない。恐らく数、装備共に敵が圧倒しているだろう。取引の物は諦める。全ての神経を生き残る為に使え! このまま―――」
「おい、アキラ! 上から三人降りてくるぞ!」
一人の声に、視線を上に向けるとロープが三つ垂れてきた。その遙か上から布が擦れる音が穴に反射して聞こえる。挟み撃ちにしようとしているのだ。このまま階段を使って上に登れば、上下で敵に挟まれてしまう。しかし、階段はこの近くと、向かい側にしか設置されていないのだ。兵力を二分できれば楽になるが、その為には狙撃手の真下を通らなければならない。
どうする、と逡巡するアキラの視界に、取引のケースがあった。
「これは好都合だ! いいか、俺が合図したらお前達で弾倉二個使って一斉に上の狙撃手に向かって弾幕を張ってくれ。その間に俺はケースを回収して、反対側の階段から上を目指す!」
「だ、だが、そんなことしたら敵はお前に……」
「それでいい。あんな大きな荷物を持ったまま、お前達のお守りをするのは無理だ。俺一人の方が勝率は高い。上まで言ったら各自、敵の牽制を忘れず、サポートしながら敵の移動手段を奪え。もし、俺が一分待っても来なかった場合は先に出ろ、いいな!」
「っ、了解!」
辛そうに返事を返す仲間。そんな顔をしてくれるだけでも、この作戦をする価値はある。
これが最善の策か、アキラには分からない。しかし、迷っていては成功するものも失敗する。これだと決めたのなら、あとはただ信じるのみだ。
敵の投下部隊の迫る音が次第に大きくなる。タイミングを計り―――
「今だ、撃て!」
アキラの号令と共に一斉に物陰から出た彼らは上に向かって籠められる限りの銃弾を打ち尽くす。しかし、これほどの敵襲を予想してなかった為、手持ちはハンドガンのみ。十五発入りの弾倉二個では、精々十秒が良い所。その間にアキラは挟み撃ちにされないよう敵三人を撃破し、ケースをもって反対側に移動しなければならない。一か八かの策だが、成功させねば、部隊は全滅だ。
仲間が銃弾を放つと同時に、アキラも飛び出る。
最初の目標は一番近くに降りる敵。襲撃してきた敵は当然のようにしっかりと武装していた。アキラ達のような軽装備ではなく、防弾装備がまるで筋骨のように盛り上がっている。頭部は黒塗りのフェイスマスクで覆われていた。
一見して力の差は歴然。相手の堅牢な防御力相手に、アキラはハンドガン一つ、身一つで立ち向かわなければいけないのだ。
一人で突っ込んできたアキラに対し、驚きのあとに嘲るような余裕を兵士は見せつける。
しかし、それはアキラにとって大した問題ではなかった。
下りる敵の動きを銃口でぴったり追い、防具の隙間である上部と下部の境目、脇腹に一発。移動、攻撃を無力化する為に膝、肘を撃ち抜く。アキラは仮想といえ、あのクロム相手に何週間もぶっ続けで戦闘訓練を重ねてきたのだ。一対一ならば、《ナンバーズ》にも負けない自信もある。
一人を撃破したアキラは止まることなく、走り続ける。すでに二秒経ってしまった。
遠巻きに降りる兵士よりも狙撃を怖れたアキラは、先にケースに向かって走る。しかし、相手がそれをただ黙っていてくれるはずはなく、アキラは真横から殺気を感じ前に跳ぶ。数瞬後、まるでアキラの残像を蜂の巣にするような無数の弾丸が過る。
アキラはその場で転がると強引に体を兵士に向け、銃を構え、発砲。肘、腰、膝を撃ち抜き無力化すると、すぐさま立ち上がり、再び走り出す。
ここまでで、すでに所要時間は五秒。
ようやく手を伸ばせばケースに手が届くという距離。しかし伸ばした手は、横から繰り出された蹴りにより引込めなければならなかった。
チッと、舌を打つ間もなく、敵は問答無用と空中を擦過する拳と蹴りを交互に放つ。遠距離戦では分が悪いとみて、接近戦に持ち込むつもりだろう。そして、その決断の速さから、アキラは確信する。
こいつ等は、熟練の兵士だと。
二百メートル離れているリーダーと《ラウンダー》を正確無比で撃ち抜く狙撃、そして柔軟な対応力。《ラウンダー》のみで構築されたアキラの部隊では分が悪い。
何故これほどの奴等がこの取引を邪魔にするのか引っ掛かる。《ラウンダー》のみで構築された部隊が、抗争が起きるほど重要な物を扱えさせてもらえるとは思えなかった。
しかし、今は生き残るのが先決だと、アキラは敵の放った二連のジャブを、頭部を左右に揺らし避ける。そして敵の拳を掴むと、そこを支点に宙を舞わせ地面に叩きつけた。がはっと息を吐きだす敵の肩を撃ち抜き、疾駆する。
残りは二秒。
アキラは振り返ることなくケース目掛けてスライディング。少し重いそれを担ぎ、頭上の狙撃手に対し身を隠した。その瞬間、仲間の弾幕の音が途切れる。そしてアキラの体を押し潰すかのような暴力的な雨が降り注ぐ。
思った通り、万が一のことを考え、このケースは相当な硬度で出来ている。ハンマーで殴られたような思い衝撃が筋肉を軋ませるが、防いではいた。
傘のようにケースを担ぎ、目的の階段まで行きつくと、アキラはようやく一息つく。階段の周りには落下物から人を守るための強化合金が網を張っているので、ここにいれば狙撃の心配はない。
ほっと溜息を吐きながら、アキラは反対側の階段に視線を注ぐ。
残った《ラウンダー》は無事に階段を上がっていた。アキラの姿を見て、手を振る者もいる。
アキラも軽く手を上げると、ケースを持ち上げ階段を上った。これで彼らの危険は限りなくゼロに近くなったはずだ。この取引を妨害しに来たということは、敵の目的はこのケース。中に何が入っているのか分からないが、狙いの物がここにあれば戦力は全てアキラに向くはずだ。他の仲間を見逃したとしても、敵にデメリットはないのだから。
勝算はある。確かに敵は練度の高さを感じさせるが、それでも少数であれば勝てない相手じゃない。それにここは階段で、大勢で動くには不向きな場所である。
リーダーと交わした約束は、何とか守れそうだ、と安堵した時だった。
銃声が鳴り響く。一つや二つではなく、銃撃戦のような濃厚な爆裂音。しかもそれは、あろうことかアキラとは反対側から聞こえてくるのだ。
あり得ない、心の中でそう呟きながらも不吉な予感に身を震わす。夢であってくれと、願いながら顔を素早く反対側に向ける。そこには四人の敵に攻められ、一人、また一人と苦痛と無念の絶叫を発しながら、倒れる仲間を見た。ポタポタと連続的に滴る赤い雫。階段の上に横たわった顔の逆さまな仲間が絶望の表情をアキラに向ける。
「……嘘だろ………」
声と呼ぶにはあまりにも細すぎる空気の流れが、アキラの口から霞のように吐きだされた。虚ろと呆けるアキラの中を炎が刃となって身を焼き切る。
「な、んで……ケースはこっちにあるんだぞ。これが、これが目的なんじゃねぇのか!」
強化合金の網に頭をぶつけながら吼える。網を握りしめた手の中から、納まりきらない憤怒と絶望を表すような血が流れた。
仲間が、守ると約束した部隊が目の前で全滅した。
生き残っているのはアキラ一人。
目の前の光景を嘘だと断じてしまいたかった。つい何時間前には夢を語り合い、つい数分前にはクロムのことで盛り上がり笑っていた仲間が死んだなど、あり得るはずがない。アキラがいる限り、それはあり得ていいことではなかった。
果てしない憤怒が炎の渦と化して、アキラの視界を赤く染める。死んだ仲間を入念に銃で撃ち続ける兵士に、それ以上の弾丸を浴びさせたい。そんな地獄に咲く彼岸花のような甘い香りに本能のまま飛びつきたかった。
しかし、それが単なる自己満足であることは、アキラには分かっていた。今ここで仇を討つ意味などない。真に彼らのことを考えるならば、アキラは生きねばならなかった。生きて、彼らの勇姿と夢を背負わなければならない。
アキラは遣る瀬無い虚脱感と、吹き荒ぶ嵐のような憤怒を抑え、冷静にと言い聞かせながら、再びケースをもって階段を上がった。
ようやく無限にも思えた段差の数々を乗り切ったアキラは、地上に出た。
しかし、そこで息を突く間もなく、頬を焦げた臭いが擦った。
瞬時に狙撃されていることを覚ったアキラはケースを盾に、巨大な穴を交差する道のようなクレーンの根元に隠れる。狙撃手達も反対側のクレーンの陰に隠れながら銃口を向けてくる。そして周囲を確認すると、アキラは自らの犯した決定的な過ちに気付いた。
アキラのいる場所と船の置いてある港は真逆の位置なのだ。ヘリなどの姿が見えないということは、敵の移動手段は船。つまり、ここから脱出するためには狙撃手を含む敵の戦線を突破しなくてはならない。
クレーンの上を通って行くのが一番の近道だ。しかし、そんなことをすれば狙撃の格好の餌食。それを避け、穴を縁取るように回るのも難しい。敵は狙撃手だけではなく、他の兵士もいるのだ。交戦の最中に撃ち抜かれてしまうかもしれない。
ケースを敵に渡し、油断させるという手もある。だが、アキラではなく、四人を狙ったところを見ると、相手は明らかにアキラ達を殺しにかかっている。渡したところで問答無用の弾丸が体を貫くのは自明の理だ。
そもそも、こんな開けた場所で荷物を持っていたら普通の兵士にも負けてしまう。
どうすればいい!? とアキラが手を拱いていると、敵は好都合と仕掛けてくる。先ほどアキラの仲間を殺した四人が、地上に出ると二つに分かれ、穴の反対側にいるアキラを囲むように走り出した。
絶望的なこの状況に折れてしまいそうな心を必死で励ます。何か手があるはずだと。
こんな時、クロムならどうすると頭を回す。《ナンバーズ》の中で一位に座り続けるクロムはどんな行動に出るか、それをアキラは弟子入りしてから全てを見ていた。
一つ確実なことは鬼の師匠であれば、決して諦めない、ということだ。
アキラは兵士が自分を殺しに来る僅かな時間を使い、死に物狂いで生き残る為の手段を考える。二対一なら各個撃破できるか。いや、倒せたとしても狙撃手の問題がある。ケースを盾に、中央突破を運任せで行うか。いや、横から兵士達に撃たれればそれまでだ。
泡のように浮かんでは消え、消えては浮かぶ数々の手段はしかし、決定打に欠ける。
無謀な作戦でもなければこの危機を突破できないが、必ず失敗する手段にかけるのはただの馬鹿だ。
兵士の足音がまるで死神の鎌の音のように聞こえ始めながらも、アキラは脳に鞭を打ち続ける。知恵熱で熱い額を、冷汗がクールダウンさせる循環を幾度と行っていながら周囲を見ると、ある一点がアキラの目を強烈に引き寄せた。
その馬鹿らしい発想に、アキラも待て待てと冷静になろうとするが、今の現状でそれは唯一生き残れるかもしれない手段だった。
深い溜息を吐きながら、やるしかない、そう決めた。瞬間、アキラの耳から兵士の足音も、波の音も、風の音も、雑音全てが消えた。轟くのは自らの心臓の焦り。
左手にはめた手袋をはめ直す。これからやろうとする行為の愚かさに震えない為、アキラは強がる不恰好な笑みを浮かべた。
そして力強く拳を作るとクレーンの上を駆ける。
「馬鹿が! 袋の鼠だ!」
勝利を確信したような自信たっぷりな声が横から聞こえる。
しかし、アキラはその声にも、向けられる銃口さえも無視し、まるで世界に自分とそれしかないように、ある一点を見据えつづけた。
そして敵が撃つと同時に、アキラは裂帛の気合と共にクレーンの上から飛び降りる。アキラを狙い撃ちしたと思った敵は一瞬呆けながらも、ふんと、嘲るように鼻を鳴らした。それは自殺を図ったアキラへの侮辱なのだろうが、それは大きな間違いであった。
クレーンから飛び降りたアキラを、無明地獄のような常闇が手招きした。二百メートルを真っ逆さまに落ちれば、恐らくアキラは肉片となって散らばる。そんなグロテスクな未来を阻止する為に、左手を見えない希望に向かって軋むほど伸ばした。連続する浮遊感に内臓を吐き出しそうな焦燥の中、アキラの左手はある物を掴む。それは穴を交差するクレーンのワイヤーロープ。
しかし手で掴んでもアキラの握力では飛び降りた運動エネルギーとケースの重さを支えきれない。《UNMO》特性手袋のおかげでようやく滑るくらいだ。だが、それはアキラも計算に入れている。
アキラはロープを掴むと命一杯体を大きく動かし、勢いを上げる。そしてさらに、ケースの重みも最大限生かし、大きく振ると遠心力の力を受けさせた。
頬に当たる風が更に強くなる。
掴んでいた手がそろそろワイヤーロープの切れ目にさしかかるという時、アキラはケースを再び振ると同時に気合の声を張り上げた。
瞬間、アキラの体はケースに引っ張られるように穴から這い上がり、そしてサーカスの空中ブランコのように二百メートルの穴を横断して見せた。
これにはさすがの熟練の兵士も予想外だったのだろう。皆、設置型監視カメラのようにアキラの吹き飛ぶ姿を見送っていた。しかし、アキラはその隙を見逃すことはない。
飛んでいる最中、懐に仕舞いいれた銃を抜く。そして着地と同時に銃の標準を敵に合わせた。
アキラが特訓時代、クロムに銃を習った時、一番大切なのは精度だと教わった。カウボーイのように決闘ではなく、抗争などで銃が使われる時代に、銃を抜く速度などあまり意味は持たない。敵は銃を抜いているか、抜く前に殺されるからだ。だからこそ一発で敵を沈められるようにと、アキラはVR訓練でクロム相手に何週間を銃の精度を上げる為に費やした。
吐くほどの反復練習は緊張の膨れ上がる実戦でも、アキラの体を半ば無意識的に動かしてくれる。三つの銃声が、アキラの肩に小気味な衝撃を与えた。数秒、見詰め合うアキラと三人の狙撃手。倒れたのは狙撃手達であった。
ダイレクトに地面に着地した膝が今さらながら痛くなる。内部が振動するような感触だが、走れないほどの重症ではなかった。
アキラはケースを手に取り、居住スペースと思われる廃屋寸前の寮を越えると、港に中型のクルーザーを見つける。ケースを地面に滑らすと、アキラはクルーザーに飛び乗った。操縦は特定のデバイスがなければ動かないが、アキラのデバイスはハルに改造され、ハッキングもお手の物だ。
ハッキング完了まで残り三秒、と出たところでケースを船内に運び入れようとした時だった。
パン、という何かを千切ったような音が耳に入る。そしてそれは、リーダーがスナイパーライフルに撃ち殺された時と物だと思いだした。
そっと、アキラは自分の体をなるべくゆっくり見下ろす。持ち上げたケースの留め金に銃弾が当たったのか、ぐにゃり、と変形していた。そしてその軌道上に目をやると、脇腹があり、そこに五百円玉ほどの穴が穿たれていた。まるで染物のように服に赤が広まっていく。
ちらりと弾道の元を追うと、そこには先ほどアキラが撃った狙撃手の一人が銃を構えていた。最後の力を振り絞ったのだろう、尽きた人形のように倒れる。
と、同時にアキラも四肢から力が抜け落ちるのを感じ、船の甲板にだらしなく横たわった。燻られるような激痛に、アキラの顔が苦悶と歪む。
服に赤が広がるのと比例し、霞んでいく意識の中で必死に状況を整理する。まず傷は一先ず致命傷ではない。相手も撃たれ、集中力が弱っていたうえ、ケースに当たり弾道はかなり逸れている。しかし、貫通した傷からは血が笑えるほど垂れ流れていた。すでに服だけでは飽き足らず、甲板の上に赤い海を作ろうとしている。
これは、本当の本気でやばい、とアキラは力なく思った。
ハッキングはすでに完了している。あとは操縦するだけなのだ。しかし、手を突いて起き上がろうとしても、氷の上のように滑り落ちる。
ここなのか、とアキラは問いかけた。ここが自分の終点なのか。正義が何だと、世界が何だと、豪語しながら、こんなところで惨めに終わっていくのか。結局は何も変えられないのか。
バキン、とアキラの思考を断ち切るように鉄製の物が割れた甲高い音を聞いた。
色を失いかけた目で音源を探ってみると、それは取引の物であるケースからだった。先ほどスナイパーライフル弾をくらった留め金が割れたのだ。
すると封印が解かれたようにケースはガタガタと動き始めた。驚きで一瞬怯むと、傷口から刺すような痛みがアキラを襲う。
依然ガタガタと動くケースは、しかしもう片方の留め金があるので開くことはなかった。しかし、僅かに開いた隙間から、まるで夜空を切り裂く流星のような真っ白で神秘的な糸がはみ出た。ほんのわずかだけ出ているに過ぎないそれに、思考力を欠いたアキラは心を奪われた。どんなものが入っているのか、抑えきれない純粋な興味は濁流のように理性と痛覚を押し流す。
何をこんな馬鹿なことを、と冷静な部分のアキラも、しかしこの衝動を止められない。徐に手を動かすと銃を構え、もう片方の留め金目掛け、トリガーを引く。
バカン、と両方の留め金が壊れると、まるでばね仕掛けのようにケースの蓋は勢いよく開いた。
そしてその中から現れたのは、神々しく輝く幾千の流星群。辺りに散ったかと思うと、それは花束のように纏まり、そして全てが白一色に染まる。
脇腹を撃たれたことなど最早眼中になく、痛みさえもこの白を脅かすことはなかった。
食い入るように見惚れるアキラ。
そして白は言った。
「ここは………何でしょうか?」
はっと、意識を取り戻し、目に意識を集中させ見ると、それは白を纏う白銀の少女だった。半ばまで開いた大きな宝石のような瞳、それに儚さを加える睫毛も、すっと伸びる眉も全てが白かった。唯一別の色を帯びているのは、消えてしまいそうなほど小さな唇だ。地味で味気ない白のワンピースを着ていた。
ちょこんとケースの上に座り、じっとアキラを見詰める少女は、まるで色素が彩るのを恐れるかのように白かった。奇妙と無垢を同居させたような少女は、首をかくん、と傾げるとアキラの惨状もお構いなしで尋ねる。
「あなたは、一体何を流しているのですか?」
その少女の言葉で痛覚は戻ってきてしまい、アキラは再び激痛に苦しむ。
そんな中、ザッ、ザッと兵士の足音が聞こえた。囲もうとしていた兵士達が戻ってきたのだ。しかし、アキラは脇腹に穴が開いており、もう戦うことも出来ない。絶体絶命。そんな言葉が浮かぶも、アキラの目は前の少女を捉えた。
「お、おい、お前!」
叫んだアキラを少女は何故かじっと目を見詰めている。しかし、反応がない。まるでただそこにあるオブジェクトのようだ。
「だから、お前だよ、お前! 反応しろ」
叫ぶと傷に響くので、できれば早く返事をして欲しい。
「お前とはわたしのことですか? わたしは《お前》と言う名称なのでしょうか?」
「いや、そうじゃなくて、何でもいいからクルーザーの画面から出発を押してくれ!」
「クルーザーとはこれのことですか?」
少女は反対方向にかくんと、頭を傾げるばかりで、次第に苛立ちを覚えながらもアキラは根気よく唱えた。
「そうだよ! そこの真ん中についてる画面の出発を押してくれ!」
「居たぞ、あそこだ!」
焦るアキラに拍車をかけるように兵士達の野太い怒鳴り声が響く。
いよいよ馬鹿をやっている余裕はなくなった。アキラは兵士が現れるのが先か、この少女がうまく命令を入力してくれるか、気が気でない。
「出発とは、どれのことでしょうか?」
「真ん中にある文字だ!」
と言い終わる前に、アキラの頭上に兵士達の姿が現れる。ボートに飛び込む彼らは、アキラの負傷姿を見ると顔は見えないが、嫌味な笑みを浮かべた気がした。
もう駄目だ、そんな弱音がアキラから染み出た時、ブロロン、と駆動音が響き、クルーザーは突然速度を上げ発進した。兵士達は海に飛び込むような形で消え、アキラは慣性の法則でゴロゴロと甲板を転がり、激痛に意識を刈り取られようとしていた。
「教えられたことを実行しました。他に、何か教えてくれることはありませんか?」
霞む視界の中に、ぺたんと座る少女の僅かに輝いた瞳が見える。しかし、アキラはそれに対し、目を奪われることも出来ず、掠れる声で少女の問いに答えるのがやっとであった。
「だったら……応急手当でも………しといてくれ…………」
霧散する意識の中で、応急手当とはなんですか? という少女の可愛らしい声を聞いて、今日が命日になってしまうことを覚悟した。
4
さらさらとした風がアキラの頬を撫でる。
揺り籠に寝かされたような心地よいリズムは、アキラにここを天国だと認識させた。
いつまでも惰眠を貪りたいと願うアキラを現実に引き戻すかの如く、撫でるような力で頬を細い何かに抓まれる。
ひんやりと冷たい感触に唸りながら薄目を開ける。そこには一瞬天女と見紛う少女が、もう少しで鼻頭をぶつけるほど近くにいた。少女は瞬きもせず、ただじっとアキラの顔を眺めている。頬を抓んでいるのは少女の花弁のようにか細い指であった。
混乱する思考回路を必死で組み直し、現状の理解を深める。白銀の少女は、記憶が正しければ、ケースから飛び出て来た。油断していたアキラは銃弾をくらってしまい、少女に助けを求めたのだ。
周囲を見回すと一面の青空。どうやら、アキラはまだ死んではいないようだった。
頬を抓まれたまま、納得するアキラに、少女の幼げながら無機質な声が降りてくる。
「お早うございます。挨拶はこれでいいでしょうか?」
「あ、ああ、いいけど……その前に、お前が今何をしてるのか教えてくれないか?」
「あなたの頬と言う部位を抓んでいます」
あらゆる理由を考慮したが、アキラの脳では頬を抓み続けるということの意味を受け取り切れなかった。瞬きを数度繰り返し、再び質問。
「あ~、何故?」
「興味があったので」
「あ~、なるほど、ってなるか!」
少女の常識外の行動に、上体を起こしながら思わずノリツッコみを入れるアキラ。脇腹を射貫かれているのを失念しており、傷口から気を付けろと言わんばかりの鋭い痛みに眉をしかめる。
「すみません。今のあなたの言動はどういう意味なのでしょうか? ってなるか! とはどのような文法なのでしょうか?」
少女はアキラの苦痛の表情を華麗にスルー。そして先ほどのツッコみ時のアキラの顔と声を中々のクオリティで再現するとそっちの方に興味深々と、無表情の中に瞳を輝かす。
しかし、ツッコみを説明してくれと言われても困る。アキラはお笑いのプロでなければ、目指してもいないのだ。そんな人間がツッコみに対して語るというのは、傍目から見て痛々しくないだろうか。そんな理由で渋るアキラだったが、少女の瞳は輝きを増すばかりで、参ったと両手を上げながら、羞恥心を捨て口を開く。
「い、今のは日本独特のお笑い文化でツッコみってやつだよ。お前の行動が意味不明だからそれについて、その、おかしさを指摘したというか……だぁぁ! 別にいいだろ、そんなこと!」
やはり無理だった。アキラさえ、お笑いを深く理解しているわけでもないのだ。知ったかぶって知識を披露する輩ほど見るに堪えないものはない。
一体これは何の罰ゲームだろうか、そう問いたくなる。
肉を内部から抓まれているような痛みに、アキラは自分の脇腹を押さえた。そこで初めて気づく。腹も辺りに包帯が巻かれているのだ。銃創をきっちりと囲み、止血も済んでいる。きちんとされた手順は、まるで応急処置の教科書を見ているようだ。
アキラ自身がやったのではない、であるならば、
「まさか……これ、お前がやったのか?」
その問いに対し、少女は不思議そうに首を傾げると、
「はい、あなたにやってくれと頼まれましたので」
何とも簡単に言い放つが、アキラの記憶が正しければこの少女は応急処置の方法を知らないはずである。そんな素人とも言えない少女がどうやって行ったのか。
「でもお前、これどうやってやったんだ? 知らなかったんじゃ……」
「あなたの腕に付けているデバイス、という物から検索し、出た方法をそのまま実践しました。中々便利ですね、それは」
実践した、と簡単に言うが、普通の応急手当ではなく銃の手当てだ。しかも撃ち抜かれた傷。一朝一夕で身につけられるような技術ではない。この少女は赤子のように無知だが、学習能力はすこぶる高いのではないかと思わせた。
「……う~ん、まぁ、とりあえずそれはいい。それよりも、ここはどこだ?」
アキラは山ほどの質問を一先ずは先送りにし、海を眺めた。
アキラの周辺は、呆れるほど鮮やかな青に囲まれていた。前を見て、左右、そして後ろ。全ての視界に青い海しか入らない。ついでに真上も雲一つない青だ。
アキラは嫌な予感を滲ませながらボートの操作画面を見てみると、見事にショートしている。マニュアル操作も試してみたが、うんともすんとも言わない。
「おかしい……。これにはちゃんと《UNMO》の本部へと行くように命令して出発させたはずだ。あの兵士達が燃料不足なんて初歩的な間違いを起こすことも考えられないし、一体何が原因で……」
「あ、それは私がめちゃくちゃにいじくっていたら壊れてしまいました」
「ああ、そうか……っておい!」
「おお、甦る《ノリツッコミ》。なるほど、こういう場面で使えばいいんですね」
感慨深そうに呟く少女に対し、アキラは頭痛を抑えながら、
「うるせぇ!」
と吼える。
あまりにも気軽にいうものだから思わずノリツッコみが出てしまった。 痛々しい気持ちと苛つきが混ざり合い、ストレスが溜まっていく。
尤も、広い海で遭難してしまったとしても、それほど問題ではない。デバイスから本部に救助を求めればいい。それか、時間になっても帰ってこないアキラ達をもう探し始めてるかもしれない。
しかし、問題が一つある。この少女だ。
アキラはデバイスを見て、少女を見た。
この少女は明らかにおかしい。まず、最初に挙げなければならないのは、この少女が取引のケースから出て来たことだ。手違いか、相手のミスか、答えは知りえないが、それでも出て来たことは事実だ。
次に、常識が足りないという以前に圧倒的に知識がなかった。血やクルーザーもそうだし、一般的な知識が欠如している。そのくせに言葉遣いは丁寧というか、理知的。
最後に感情があまりにも乏しい。最初は初対面なので緊張しているのかとも思ったが、行動を見る限り、遠慮をしているわけではないようだ。先ほどから言葉では反応を示しているが、顔や声にはまったくと言っていいほど変化が見られない。ずっと平行線だ。
アキラはもう一度少女の美しい髪と、整った顔を見て、デバイスに触れかけていた指を離した。このままこの少女をケースに入れ、エルゴに引き渡すのは簡単だ。そうすることが、無念の内に散っていった仲間への手向けにもなる。
しかし、アキラは仲間に頭を下げて、少しだけ待ってもらった。気になることが多すぎる。何故取引に手練れの兵士達が乱入してきたのか。何故エルゴはクロムに同行を命じようとしたのか。何故少女が取引の品としてケースに入っていたのか。
これらを無視して大人しく任務を終えるなどアキラには胸糞悪く出来なかった。自分が正しいと思った道をいけないのなら、死んだ仲間の無念で焼かれた方がいい。その力の為に、何かを救う為に《UNMO》入ったのだから。
アキラは毅然と腕を組むと、厳格な声で少女に告げる。
「デバイスから救助を頼めばすぐにでも助けが来る。でもその前に、俺には知っておかなきゃならないことがある。何故仲間が死んでいったのか、お前は一体何者なのか。俺の信じる正義の為に―――って、いない!?」
トーンを落し、神妙な口調で語っていただけに、アキラの顔は一気に赤くなっていく。この状況を知っているのが空気だけというのは、有難いようで切なくもあった。
「って、あいつはどこだ!?」
当たりを見回すと、操縦席の向かいから、ひゃひ、という可愛らしい悲鳴が聞こえた。
頭痛に悩まされながらも、アキラは脇腹の痛みに耐え、後部へと足を運ぶ。
そこに案の定少女はいた。が、様子がおかしい。甲板に仰向けに倒れ、いつもの無表情ではあるのだが、口を大事そうに両手で囲っていた。
「おい……そこで何してやがる……!」
募っていく不満がアキラの声を低く響かせる。
少女はそんなアキラの声を聞いても、ちらっと瞳を横にするだけだ。相変わらず半ばまでしか開かない瞳からは、少女の心を読み取れない。
「ひひゃがいひゃいれす」
唐突に告げられた、意味不明な言語。
ついに言語能力まで失ってしまったかと嘆くアキラだったが、どうやら違うらしい。少女は上半身を起こし、片手を口から剥がすと青く光る海を指した。
「海? もしかして………海水を、飲んだのか!?」
嘘だろ!? というアキラの引き気味の質問に、少女はコクコクと何度も頭を上下に動かした。その度に白い髪が陽光を煌びやかに反射させる。その美しさに当てられたわけではないが、目眩がし、ふらりと倒れそうになるアキラ。海水も知らないなど、逆に何ならば知っているのだろうか。
「ひひゃがいひゃいれす」
先ほどの台詞をもう一度言う少女。今ならこの意味不明の言語も解読できる。少女は「舌が痛いです」と訴えているのだ。塩たっぷりの海水を飲めば当たり前だと言いたいが、恐らく分かってもらえないだろう。
アキラは渋々とクルーザーの中へと入る。中には多彩な武器と共に簡易冷蔵庫が置いてあった。冷蔵庫の中から冷えた水を取りだし、少女に手渡す。しかし、少女はペットボトルを持ったまま、不思議そうに見つめるばかり。
「おいおい、まさかペットボトルも知らないのか? ここは介護施設じゃねぇんだぞ」
アキラは深い溜息を吐きながら少女の手にあるペットボトルのキャップを外してあげた。それでも飲まない少女に、アキラは飲み方も知らないことを理解し、必死にジェスチャーで伝える。
ようやく伝わったのか、少女はこくりと頷くと、水を、折れてしまいそうなほど細い喉に流し込んだ。ぐびぐびと飲み続け、飲み続け、別に一気飲みしなくてもいいのだと、アキラが教えてあげようとした。その時、少女は500ミリリットルのボトルを口から離し、ふぅ、と気持ちよさそうに息を吐く。
「これが、生き返る、ということなのですね」
「随分と安っぽい蘇生だな。てか、お前は海水も知らないのか?」
「海水とはこの無限にもあるように見える液体のことですか。物凄い量あるので少しくらい飲んでも平気と思ったのですが、やはり人生そううまくは行きませんね。毒を盛られたようです」
「んなわけあるか! 海水を飲もうとする馬鹿に毒を盛るような馬鹿はいねぇ! これは海水、塩が含まれてる水なの。飲んだら塩辛いに決まってるだろ」
ぶっきらぼうに言い放つアキラに、少女は顔を上げると、
「ではこの海水というのは誰かの所有物というわけではないのですか?」
再びキラキラと輝く瞳に、アキラは呆れながらも仔細に説明する。
「海水じゃなくて海って言うんだ。海は誰の所有物でもねぇよ。人間が生まれるずっと前からあって、生命を育んできた。だから母なる海とか呼ばれてる」
ほう、ほう、とフクロウのような声を出す少女は、さらに学習意欲が刺激されたのか、
「ではあなたは何なのですか? わたしとよく姿が似ているのですが」
コクンと、首を傾げる少女と合わせ、アキラもずっこけそうになった。
「ま、まさかそんなことも知らなかったとは……。当たりめぇだろうが。俺等は同じ人間だからな」
「ニンゲン、という名前なのですね。しかし、同じ名前が二人も居ては少し不便ですね、ニンゲン」
「違う、違う、違~う! 人間ってのは総称だ、総称。俺の名前は來栖アキラ。って、もしかしてお前、自分の名前も……もしかして知らない?」
頼むからそれだけは勘弁してくれと、アキラは信じてもいない神に祈りながら喉を鳴らす。そんなアキラの問いに、少女はない胸を張ると、
「それは勿論………知りません」
「だったら勿体つけんな! いや、マジか、お前。知らないのか? 自分の名前も?」
奈落の底から這い上がろうとするような途方もない徒労感がアキラを襲った。
この少女の正体を知り、一連の不可解な謎を解くまで任務を終える気はない。しかし、肝心の少女自身すら自らのことを知らないのであれば、アキラにはこれ以上手の打ちようがなかった。数少ない情報は、何故か少女は生まれたての赤子のように何も知らないということ。そして悪い奴ではない、ということくらいだ。
圧倒的なカード不足。ならば相手にカードを出させるしかない。
頭の中で作戦を練っていると、アキラの裾を少女が軽く引っ張ってきた。
「來栖アキラ、來栖アキラ」
「ん? 何だよ、ってかアキラでいい」
「ではアキラ。わたしも名前が欲しいです」
突然のリクエストにアキラは目を瞬かせ喉を鳴らした。
「わたしは名前が欲しいのです。わたしに名前を下さい」
「下さい、って俺が、お前に、名前を……つけるのか!?」
コクコクコク、といつもより余計に首を振る少女。
確かにいつまでもお前や少女では不便だし、可哀想だと思うのだが、それを果たして勝手に名づけていいのかと戸惑う。この少女には本当の両親がおり、そして本当の名前があるはずなのだ。出会ったばかりの男が名前を付けるのは……
「やっぱりこういうのは――――」
と、少女を見たところでアキラの口はキラキラ光線により固まる。いつも通りの無表情のはずなのに、半ばしか開いていない瞳は、太陽にも負けない光と熱がこもっていた。それも瞬きなしの凝視だ。視線が痛い。しかし、だからと言って名前とはそう簡単に付けていいものではない。
「いや、だから、こういうのは―――」
少女は無言で瞳から星を放出し始める。
何故こうなった。悔恨の念がアキラの内で呟く。長期任務からの帰還で休暇を貰えるはずが、突然の任務に仲間を失うという痛手を負い、そして今度は少女のお守りをし、名前を付けろとせがまれている。
これも正義の為かと、アキラは諦めの境地に達し、
「ああ、分かった、付ければいいんだろ、付ければ。………じゃあ、本当の名前が分かるまでお前の名前は《シロ》だ!」
「おお、シロ。何故シロなのですか?」
「俺の国の言葉で《white》は白っていうからだ!」
「なるほど、センスを疑いますが直接的で分かりやすいですね」
そう言いながらもシロは無表情を少しだけ柔らかく崩した。
しかしアキラは、これでも少しは真剣に考えた名前を頼まれた本人から否定され、遣る瀬無い痛みから、そのことに気付けずにいた。折れそうな心を、声を張り上げることで立て直す。
「疑うな! それじゃ、今から救助を呼ぶぞ!」
オー! とアキラが叫ぶと、シロも真似してオー! と叫んだ。
なんだか勢いまかせになってきたな、と心の片隅で悲観するアキラ。
不安や苛立ち、焦燥、悔恨など様々な感情がぶつかり合い、その度に生じる衝突熱で脳はすでにショート寸前なのだ。何とか残った理性でシロに作戦を伝えると、数分で駆け付けた救助隊にクルーザーの修理をお願いし、点滴を打ってもらった。
見慣れたはずの本部をアキラは見上げていた。
つなぎ目の見えない壁面に海と空の青が映し出される光景には、最初に来た時は随分と圧倒された。それもここで過ごすうちに慣れたと思っていたのだが、悪い意味で心機一転した今では壮大な本部はおどろおどろしく感じる。
本部も、アキラを出迎えた顔見知りの職員も、そのすべてに違和感を抱いていた。はっきりと表す言葉は見つからないが、それでも闇が足元から這い上がってくるような、そんな気持ち悪さに付きまとわれる。
周りの救助隊は沈黙を貫いていた。悲惨な任務から帰ってきたアキラを気遣っているという可能性もある。だが、何故かちりちりと弱火で炙るような視線を四方八方から受けているように心は落ち着けなかった。
疑問に思うことも多いが、まずは先にエルゴを問い詰めなければならない。仲間を失った任務、不自然な同行、そしてケースの中の少女。この奇妙な連続はアキラに水面下で何かが動いていることを直感させていた。
エルゴは、何かを企んでいるのだと。
少しの階段を上がり、本部正面の自動ドアを潜った所でアキラは硬直を強いられる。
目の前に意外や意外、滅多なことでは所長室から出てこない険しい顔に太った体格のいい男、エルゴがまるで出迎えるように一階のロビーに立っていたのだ。その態度は相変わらずアキラを見下しており、姿を見るなり嘲るように鼻を鳴らした。だが、決して機嫌が悪い訳ではなく、口端を吊り上げ、喜色を窺わせた。
アキラは驚きを一瞬で抑え込むと、平然と歩きだしエルゴの前まで進んだ。
三十センチほどの距離で睨み合う二人の間に会話はない。無言の根競べが続く。そしてそれを馬鹿らしいと言わんばかりにエルゴは溜息を吐き、
「……例の物は?」
と高圧的な言葉を浴びせてくる。
ここで拒否しても怪しまれるだけと判断し、アキラは素直にケースを渡す。
それを受け取ったエルゴは重さを確かめるように一度持ち上げ、
「確かに、本物のようだな………」
エルゴは満足げに頷くと、瞬間、顔が変わったかのように獰猛な笑みを浮かべた。
ぞわりと鳥肌が立ち、すぐにその場から飛び退こうとしたアキラ。しかし、
「捕えろ」
何も気負うことなく放たれたエルゴの言葉を一瞬理解できず呆けるアキラ。捕えろとはまるで自分が罪人のようではないか。
アキラの硬直を突くように後ろから突き飛ばされると、背に一人の男が伸し掛かる。その瞬間に手を後ろに組まされ、アキラは成す術もなく床に押し付けられた。
「なっ! お前等一体何のつもりだ!?」
「それはこっちの台詞だ。アキラ・來栖!」
エルゴは、まるでこの世の全てを味方につけたような強気で芝居掛かった声を高らかに上げる。しかし、その声とは裏腹に、アキラを睨みつけるその目は何年も放置された水よりも濁り淀んでいた。
「君は自分がしたことを分かっているのかね? 君の欲のせいで我々は大切な仲間を何人も失った。その者の中には夢を抱く者も、慕われる者もいた。その全てを奪っておいて、このケースを返したぐらいで罪が許されると思っているのかね? 《UNMO》創立以来、最悪のテロリストよ」
まるで悲劇の主人公のように声を震わせ、嘆くエルゴ。あまりにも劇が掛かった口調に、現実感が湧かない。
「テロリスト!? 一体何の事だ! 俺は何もやってないぞ!」
「いい訳は見苦しいぞ、アキラ・來栖。彼女から本当の弟のように可愛がってもらったというのに、その技術をまさかこんなことに利用されるとは、さぞ、無念なことだろう」
畳みかけられる混乱に、慌てふためく脳はついていくのがやっとだ。まるでアキラを罪人のように扱う彼ら。悲劇の主人公を模るエルゴ。しかしその混乱も数秒後には消え去った。エルゴの台詞が、ある人物について言及しているのを理解したからだ。その理解は、アキラの心を零下まで引き下げた。
「……おい、待て……お前は一体誰のことを言ってるんだ……?」
アキラの台詞を待っていましたと言わんばかりに、エルゴはにたりと笑う。しかし、それも一瞬でしまうと、お悔やみを述べるようにトーンを落とし、
「決まっているだろう。君の師匠、そして君に殺されたクロム・デュオニソスだ」
エルゴはさも満足そうに、滑舌よくその名を口にした。
一瞬、アキラの世界は白くかすむ。
しかし、すぐにそんな事あり得ないと、今まで散々しごかれてきた体が反応した。アキラが何週間も戦い続け、銃弾を一発しか当てられなかったのだ。数々の高難易度の任務をいつも穏やかな微笑で切り抜けてきたのだ。死ぬなんてとこ、想像もつかない。
「嘘だ! あの人が、師匠が死ぬわけない! 殺したって平然としてるような―――」
アキラの震える声は、エルゴではない一人の男の声に遮られた。
「《ナンバーズ》トップのクロムも、まさか自分の弟子に殺されるとは考えていなかったのだろう。悲運なことだ、こんな弟子を持ったばかりに。クロムに同情を禁じ得ないよ」
声を聞いただけで分かる。鼻につくような、ねっとりと纏わりつくいけ好かない声音。
「テメェェェ! エルティムッ!」
エルゴの後ろから得意げな笑みを浮かべながら歩いてくるエルティム。普段は何かにつけてアキラを敵対視してくるエルティムだが、今はまるで幸せの絶頂のように愉快と口を吊り上げている。
「そんなに信じられないなら、見せてやろうか? 彼女の妖艶な姿を」
そう言って腕に巻いたデバイスを操作するとアキラの前に一つの画像が浮かび上がった。
それを見た瞬間、アキラの時間は罅音を立てながら凍りついた。
映っていたのは横暴だが、しっかりとアキラを導いてくれ、時には優しく励ましてくれる、料理が唯一の欠点であるクロム。しかし、その姿はいつも通りではなかった。ウェーブのかかった長い髪を無造作に床にばら撒き、化粧も、装飾品もない顔からは表情が失せている。そして何よりも目を引くのは、胸を真っ赤に染める服。そしてそこから逃げ出すかのように周囲に広がる赤。その横にはこんなことが書かれていた。
『クロム・デュオニソス。死因・出血性ショック死、現場・八十二階会議室』
カッと、目の前がちりちりと陽炎のように歪んでいく。
周囲の風景は現実味を褪せ、アキラの視界には顔を歪めたエルティムしか映らなかった。
「テメェがやったのかぁぁ!」
吼えると同時にアキラは体を激しく捻じり、関節の悲鳴もいとわず、力任せに拘束を破る。上半身を起き上がらせ、背に乗る者を弾き飛ばすと、膝を砕く勢いで床を蹴りつける。
瞬時に距離を詰め、エルティムの笑う顔に渾身の右ストレートを繰り出す。並大抵の人間なら反応もままならない速度。だが、エルティムは余裕を崩さず、ただアキラの拳を横から叩くと、そのままいなした。
荒れ狂う憤怒を掻き消すかのような敗北感に射貫かれる。それはそのまま体に反映し、反応が遅れ態勢を崩してしまう。その隙を見逃すはずもなく、エルティムはアキラの髪を掴むと鳩尾に的確な膝蹴りをかました。
がはっ、と唾液を飛沫させ、内臓を握りつぶされるような悪寒と痛みに、あえなくその場で腹を抱えながら崩れる。今にも意識が吹き飛びそうな圧迫感に呼吸困難。吐き出される胃液を必死に耐えながらアキラは痛感した。レベルが違い過ぎると。
クロムほどはいかなくとも、明らかにこのエルティムもそれに近い実力を持っている。こいつなら奇襲でクロムを殺すこともできるかもしれない、と嫌悪する予感が過った。
蹲るアキラを見下しながらエルティムは嘆く。
「はぁ、弱いねぇ。こんなのが弟子なんてクロムにも同情するよ。しかも殺されてしまうのだから」
「だから……俺は殺してねぇ……そもそも、動機がねぇ……!」
喋る度に胃液を吐き出すのを耐え、アキラは当然の疑問を投げかけた。
しかしそれを答えたエルゴの口調は滑らかだった。
「君は私がクロム君に密かに頼んだ任務の内容をどこかで察知した。そしてそれが重要であると確信した君は八十二階の会議室に呼び出し、クロム君を殺害。その後、代理の任務を受けたという偽の情報をでっち上げ、部隊と合流。取引が成立するや否や部隊を攻撃し、仲間を殺した。うまく取引を横取りできたが、海上でトラブルに遭い、取引物を返す代わりに免罪を要求。ふん、しかし甘かったな。我々は悪には屈しない正義の集団だ。卑劣な手には乗らんのだよ」
普段はクロムのことも馬鹿にし、正義など思ってもないくせに公共の場では、その口はやけに綺麗だった。しかし、その口から吐かれた内容はあまりにも醜く歪んだ事実だ。
「ふ、ふざけるな! 任務の内容を伝えて、八十二階に行けと言ったのはお前だろうが! 取引だって正体不明の部隊がいきなり襲ってきたんだ! 俺はその中で命からがら生き延びてきたんだぞ!」
アキラの叫びにも等しい反論に、しかしエルゴはふふんと鼻を鳴らすだけだった。
「まだそんな嘘が通せると思っているのか? こっちにはちゃんと証人もいるのだ。おい、来たまえ」
そんなエルゴの呼びかけに対し、離れていた場所から患者服を着た男が一人近づいてくる。頭に包帯を巻き、片足をギプスで固定し松葉杖を突き、片手は三角巾という重傷を思わせる出で立ち。
「彼は君が殺しそびれた部隊の一人だ。君、現状の報告を」
はっ、と勢いよく応えると男は松葉杖を突きながらも、はきはきと報告を始める。
「我々が無事に取引を完了させ、帰投準備に入っていたところ、突然アキラ・來栖が発砲。仲間が次々とその凶弾に倒れていく中、私は偶然にも海に落ち、一命を取り留めました」
ふざけるな! と反射的に怒鳴ると、アキラは腹の痛みも忘れて床を拳で叩きつけた。
「あの部隊は、あいつ等は俺の見てる目の前で当然襲われて殺されたんだ! 俺も必死で応戦したけど、相手は何故……か…………」
アキラは途中で言葉と呼吸を忘れた。
その視線はじっと男の傷である両手に集中している。その傷跡にアキラは強烈な見覚えがあった。傷の在り方があまりにも似ているのだ。
アキラはその恐ろしい想像に震えた。死んでいった仲間達の顔が浮かび、泣きそうになる。そして目の前の男を捻り潰したいと思う憤怒が駆ける。
「お前、その傷どうしたんだ?」
「は?」
「その肩の傷と足の傷! お前、それは俺が襲ってきた連中に負わせた傷だろうが!」
アキラの怒鳴り声に男はビクッと肩を怯ませると、慌てて身を縮めた。
その行動はすでに自白にも等しく、この男がアキラ達を襲った兵士だと物語っていた。
決定的な証拠。しかし、アキラは絶望に顔を暗くする。襲ってきた兵士が今ここにいる。それはつまり、アキラの仲間を殺したのは《UNMO》ということになるのではないか。仲間は、《ナンバーズ》になることを夢見た仲間は、憧れていた《UNMO》に殺された。現実のあまりに残酷さに、アキラは視界が波に揺られたようにぼやけ、しおれた声で問いかけた。
「お前等、まさか自分達の仲間を殺したのか……!? まだ《ラウンダー》で、夢に向かって頑張ってるあいつらを、この為の餌にしやがったのか……」
ばっと、後ろを振り返り、抑えていた彼らを見た。突然目が合ったことに、罪悪感からか、眉を顰めながら顔を俯かせる。しかし、そんな惨めな態度は、一層アキラの火に油を注ぐだけだった。
「ふざけんなよ、テメェら……! それが本当に、世界の治安維持を目的として作られた《UNMO》のメンバーかよ! 金か、地位か、何で買収されやがった、このクズ共!」
「ふざけてるのは君だ、アキラ・來栖」
皆がアキラの憤怒の前に押し黙る中で、エルゴだけは平然と嘘だらけの演技を続けていた。
「何をいきなり言うかと思えば、そんなちゃちな妄想、一体誰が信じると思うのかね? この場に君の味方など、いや、正義の味方などいないのだよ。皆、自分が大事で金が欲しいだけだ。一体それの何が悪いのかね?」
ふざけた持論を、鼻を鳴らしながら滔々と語るエルゴを、アキラは黒くなる思考を注ぎながら、ねめつけた。そんなアキラの姿を惨めと笑うようにエルゴの口はますます滑らかになる。
「まったくクロムの弟子だけあってそっくりだよ、馬鹿げた妄想を掲げてるところが。あの馬鹿も私に協力すればいくらでも大金と地位をくれてやると言っていたのに。馬鹿なことを考えなければ、私の右腕として使ってやったものを。所詮悪や正義など単なる金の動きに過ぎない。そんなことも分からないから戦うしか能のない馬鹿は嫌いだ」
芝居を止めたエルゴはすぐさまクロムを侮蔑し始める。その贅肉で弛んだ顔面を形も残らないほど殴り続けたい。下卑た笑みをこの瞬間にも砕きたいという衝動が、津波のようにアキラを責め立てる。しかし、多くの敵に囲まれ、エルティムもいるここでは出来ないのもまた狂おしい事実。
アキラは震えあがる拳をぐっと堪え、最後に一つ確認した。
「……ケースに入っていた少女は何だ。あれがお前の欲しがっていたものなのか?」
「ふん、やはり見ていたか」
エルゴは面白くなさそうに呟きながらも、離さずにはいられなかったらしい。ケースを持ち上げると愛おしそうに、しかし粘ついた触手のように箱の表面を手で撫でた。
「くく、確かにこれは私が長年を掛けて欲してきたものだ。これさえあれば、世界は私の前にひれ伏す! 世界は私の手の上で踊る!」
世界、という大規模過ぎるエルゴの言葉は気になるが、今は狙いが本当にシロだということさえ分かれば良かった。そして、正義を確かめられれば、それで良かった。
「今はっきりと分かった。……正しいのは、俺だ!」
ピッと、アキラは素早くデバイスをタッチした。
その瞬間、エルゴの持っていたケースからプシュウウ、という怪しげな音が鳴り始める。
音に気付いたエルゴはすぐさまケースを投げ捨てようとするが、もう遅い。
エルゴの手を離れる直前、ケースは閉じた口を開き、そこから即座に視界を奪い取るスモークが大量放出された。《UNMO》に救助を頼む直前に、クルーザーの船内からスモークグレネードをケースの中に詰めておいたのだ。
「くそっ、どこだ、あのクソガキはどこにいった! いいか、貴様等絶対に逃がすなよ! あいつを逃がせばお前達も終りだと思え!」
エルゴの叫び声に周囲から不安と恐怖を内包したざわめきが起き上がる。
この状況で責任を押し付けえてもパニックにしかならないだろうと、心の中で進言しながらアキラは精神を研ぎ澄まし、じっと煙を見詰めていた。
見詰める先に僅かな揺らぎが生じる。その些細な変化で人がいることを見当つけると、なるべく慎重に近づく。案の定そこには視界を奪われ、あたふたする職員がいた。
アキラは職員の胸倉とベルトを手で持ち、抱え上げる。そしてずっと意識を集中させていた自動ドアの方角を向くと、力一杯に男を投げた。
ゴン、という落下音が鳴るとセンサーは人を感じ取り自動ドアが開く。するとそこに吸い込まれるように煙は渦を巻いた。
「そこだ! 今出ていこうとした奴を捕らえろ!」
「待ってください、エルゴ様! これはただの―――」
エルティムが指示の間違えを指摘する声が聞こえたが、他の職員は視界を奪われた不安と、責任という恐怖に正確な判断を行えない。ただ、言われたことを忠実にこなそうと躍起になり、アキラの与えた餌にかじりつく。
アキラは、そんな彼らに混ざり、自動ドアの方へと走り抜けた。
そして、偽物のアキラを職員が取り押さえている間に颯爽とその横を通り過る。
目指すのはアキラが先ほど本部に帰ってきた港。そこに行けば、謎の部隊、ではなく、《UNMO》の裏切り者達から奪ったクルーザーがある。そして、
「おい、シロ! 準備できてるか!」
港まで死ぬ気で走り抜けたアキラは息を整えるのも煩わしく、大声で尋ねた。
するとボートの陰から、暗夜の下でも輝きを失うことのない白い閃光が、草むらから顔を出す兎のようにちょこんと現れた。
「準備は万全でさぁ、キャプテン」
と無表情な平坦な声で海賊の真似をするシロ。
「またいらない言葉遣い覚えやがって! まあいい、すぐに出すぞ!」
アキラはボートに飛び移るとすぐさま操作画面の出発を乱暴に叩いた。
エンジンが一気に駆動を始め、瞬く間に塩の臭いの乗った風が頬を突く。さすがに《UNMO》が使っているだけあって、その性能はトップレベルだ。しかし、問題は相手もその《UNMO》だということ。
アキラは飛びつくように操作画面を操作し、マニュアルに切り替えた。行先は位置的に最も近いロシア。そのまま何事もなく済めばいいが、そうは問屋が卸さないだろう。追撃は当然あると想定するべきだ。
アキラは操作画面から情報ステルス機能を展開した。これで他のレーダーや衛星の目には引っ掛からない。しかし、あっちは人海戦術が使えるうえ、指揮には当然エルティムが出張ってくるだろう。ならば、アキラがロシアを目指すことなど―――
『止まれ! アキラ・來栖! お前は完全に包囲されている! 逃げ場はないぞ!』
機械のノイズ混じりの男の張った声。そして闇夜の黒い海を、正面からパッと円状の光が照らした。幾千もの風を切る音を連ね、クルーザーの前を断ち塞ぐべく装甲ヘリが飛んでいた。黒い装甲に、両脇に携帯した穴が五百円玉硬貨をさらに凌ぐ機関銃。あんなもので撃たれれば、このクルーザーは一瞬で蜂の巣と化し撃沈してしまう。
早すぎる、そして甘すぎた。
アキラは舌打ちをする間も惜しんで、クルーザーの舵を左にとる。
自分の認識不足を遅まきながら呪った。相手は裏切ったとはいえ、《UNMO》。世界をどうこうしようという奴等を取り締まる為に設立されたのだ。その戦力は少数ながらも、洗練された一騎当千。こんな行き当たりばったりな作戦で逃げれるほどお人好しではなかった。
こんなことなら多少無理をしてでもヘリを奪うべきだったかと、すでにアキラの脳は懺悔に入ってしまう。そんなアキラの苦悩を吹き飛ばすようなシロの馬鹿らしい質問。
「アキラ、何か黒い物体が飛んでいますが、あれは何なのですか?」
「ヘリだ、ヘリ! ついでに言うと今俺達はあれに殺されかけてる!」
「ほぉ、ヘリ。何故そのヘリに殺されかけてるんですか?」
「あいつ等全員お前のファンらしくてな! 独り占めしてる俺に嫉妬してるんだよ!」
「なるほど、私も罪な人ですね」
「だからお前そんな言葉どこで覚えたんだよ!?」
「アキラを待ってる間、暇だったのでボートの準備をする為に渡されたデバイスでアニメーションやドラマを見漁っていました」
悔しいが、こんな何気ない会話をするだけで、アキラの苦悩や悔恨ははっきりと分かるほど薄れていった。状況が好転したわけではない。しかし、シロの純粋な好奇心からの質問と知りたいと願うシロの言葉は、仲間に裏切られたアキラからしたら裏表のない心地のいいものだった。
「ついでに、ヘリの横についてる何やら筒状の物がこちらを向いていますが、あれは何でしょう? サインでも貰いたいんですかね?」
それを聞いた瞬間アキラはぶわっと、冷汗を噴き出し、シロの質問に答える間もなくボートを右にずらす。そのすぐ後に水柱の道が過る。
バクバクと心臓が千切れそうなほど伸縮を繰り返すアキラとは対照的に、シロは吹き上がった水柱を見ると興味深そうに飛沫を被った。そしてやや嬉しそうに、
「おお、察するにあれは何かを高速で発射する装置のような物ですね。それにとても強そうです。アキラ、あれに当たったら死にますよ」
「分かってるわ、そんなこと! だから必死に避けてるんだろうが! お前はあぶねぇから船内にでも隠れてろ!」
イエッサー、とふざけてるのか、真面目か分からない表情で答えると、シロはてくてくと甲板を歩いていく。
走れ! ともどかしく見守るアキラ。そんな中、ライトの標準が再び合う。アキラはさっと後ろを確認すると、視線は冷酷に向けられた機関銃の銃口に吸い込まれた。
「シロ! どこかに掴まれ!」
短い警告を発すると、アキラはハンドルを回し、クルーザーを蛇行させ、銃弾を躱す。巧く避けたアキラだが、目の前にシロの姿を確認すると焦燥と共に呆れがやってきた。
アキラの指示に素早く動けるはずもないシロは、蛇行運転に千鳥足になっていた。このままでは転ぶか、最悪海に投飛ばされてしまう。しかし、今のアキラは銃弾を避けるので精一杯。ちらちらとヘリ、シロと交互に見ていると、ふいに後ろからシュルルル~、という戦慄の音が聞こえてきた。
「シロ、伏せろ! ミサイ―――」
しかし、アキラの声は最後まで続くことはなく、激しい爆発音と水飛沫、そして地震と勘違いしそうな大きな揺れ。
何とかその場で踏ん張るアキラ。しかし、酔っぱらいのようなシロはそのまま操縦席のガラスに、これでもかというほど盛大にこけると後頭部をぶつけた。
鉄に打ちつけたような豪快な音に、シロの安否が更にアキラの心情を圧迫した。だが、アキラは操作画面から離れることが出来なかった。
「ヘリを二機もかよ…! 盛大過ぎるだろ、これはっ!」
張り上げた声を出すアキラの視線の先には、新たに出現した装甲ヘリ。
最初は機関銃であったのに対し、もう一つはミサイルである。一機だけでも手におえないというのに、ここでの増援は神の悪戯を感じる。自由自在に空を飛べるヘリ二機に対し、アキラは海を這うことしか出来ないクルーザー。速度も、兵器も、一縷の望みを託すにはあまりにも差が出ている。しかし、アキラが背負っているのは、自分の命だけではない。裏切りにより殺された仲間、そして白銀の少女、シロ。絶望に暮れるには、早すぎる。
「クソが! 何でそこまでしてシロを欲しがる!? 一体こいつは何なん……」
と、そこでようやくアキラはシロが頭部を打って動かないことに気付いた。
「おい、シロ! 大丈夫か! 気絶しちまったのか!」
標準を合わせられないように必死でクルーザーを操作するアキラには、声をかけることしか出来ない。もしかしたら当たり所が悪かったのではないかと、もどかしく思いながらアキラはもう一度呼びかけた。
「シロ! おい、シロ! 返事をしてくれ!」
やはり駄目か、とアキラが目を伏せようとした時、
「はい。起動します」
と、クルーザーの駆動音、波の弾ける音、ヘリの風切音を押しのけ、確かにアキラの耳にシロの平坦な声が届いた。しかし、その声は、何故か違って聞こえた。変わりない平坦な声だというのに、アキラには今の声が極寒の風に当てられた鉄のように酷く冷たく感じた。
操縦に集中しながらも、アキラは目を横に向ける。
ぎょっと、体が一瞬硬直する。そこにはいつの間に立ち上ったのか、シロがアキラの真横で屹立していた。それだけではなく、いつもは半ばまでしか開かれない瞳が、今では眦が裂けんばかりに真円を描いている。その視線はこの強風の中、一度も途切れることも、逸れることもなかった。
異様な雰囲気に硬直を強いられるが、はっと、アキラは目を見開く。見間違いだろうか、一瞬、闇夜の中でも輝きを失わない瞳の中に、数字が現れたような……
「お前……シロ……か?」
途切れ途切れの戸惑いの声に反応はなく、ただ無言でアキラを見詰めている。
「おい、シロ! どうしたんだ!? 頭打っておかしくなっちまったのか!?」
当たり所が悪く何か脳に異常でもあったのかと焦って問答する。しかし、シロが反応することはなく、唖然とするアキラは少しだけ操縦をおろそかにしてしまう。その少しの隙をつき、再びミサイルが飛来。アキラはその音を聞くと、立ち尽くすシロを抱きしめ、衝撃に備えた。
激しい熱風に飛ばされるかと思いきや、次に押し潰さん勢いで降り注ぐ痛いほど冷たい海水。必死にシロを胸に抱きながら、アキラとクルーザーはどうにか耐えた。
直撃は免れたらしいが、クルーザーの速度は少しずつ落ちていき、操作画面にも罅割れが入り始めた。見ると甲板も少しずつ被弾を重ねている。
撃沈されるのも時間の問題、歯を噛み締めながらそんな嫌な想像を巡らせるアキラ。そんな中、腕の中からいつの間にかシロが消えていることに気付いた。慌てて周囲に顔を振ると、甲板の上を堂々と歩き、ヘリに近づくシロを見つける。
「馬鹿野郎! 何やってんだ、シロ!」
その言葉にシロは真円に開いた瞳で振り返る、という反応を表した。
「《シロ》コードを認識。これより《アキラ・來栖》をマスターと認定」
まるでチタン合金のような固い言葉遣い。そこにはシロの平坦だが、知識欲に真っ直ぐな声はなかった。まるでそれは魂を持たない機械のように、ただただ任務をこなそうとする冷徹さ。しかし、
「あなたを、守ります」
その言葉には少しだが、温かさが戻ったような気がした。
と、アキラが思うと同時にシロは手を胸元に持ち上げると、狂ったように指を動かし始めた。荒れ狂う飛沫の空間で、残像が見えるほど早く動く。
しばらく呆けてしまい、はっと我に戻ったアキラは危ない雰囲気を察知し、シロを止めようと動く。だが、それよりも早く動き出したのはヘリの方だった。
今までぴったりとアキラを追随してきたヘリは、いきなり操縦者が赤ん坊になったように左右に揺れ始め、次には遊んでいるようにその場で回りだした。しかし、そんなことはあり得ない。《UNMO》の装甲ヘリは遠隔操作型なのだ。操縦者は本部にいるはずで、操作をミスするということは、向こうで何かなければ起こりえない。
しかし現にヘリは安定を失っている。そこでアキラの目は再びシロに向かった。未だに一心不乱に指を動かすシロ。それに伴い乱れるヘリ二機。どんな方法かは、想像もつかない。しかし、シロ以外には考えられなかった。
そしてアキラは気付く。平然としているシロの顔からは水飛沫とは違う汗が流れだし、元気に動き回る指とは正反対に、膝はガクガクと折れそうになっていることを。
原理は分からない。しかし、シロが苦しんでいることだけは確かだ。止めなければならないと考えより先に体が動いた。
「やめろ、シロ! もう十分だ、俺はもう大丈夫だから!」
シロに駆け寄り、動きを止めない手を掴むも、どこにそんな力があるのか、アキラの静止を振り切り、指を動かし続ける。ハァ、ハァ、とシロの呼吸が不規則に乱れだした。
止めなければやばい、と分かってはいるのだが、シロは頑なに動作を止めようとはしない。どうすればいい、今までのシロとのやり取りを思いだしながらアキラは考える。そして、シロを止められるようなものは、アキラには一つしか思い当たらなかった。
それは探究意欲。塩辛い海水すらも恐れず飲み、デバイスから数々の不必要な言葉遣いを覚える少女にとって、知識ほど喉から手が出る物もあるまい。問題はどんなことなら、シロが食いつくかだが……
「シロ! もし今止めれば、えっと、空に浮かんで俺達を照らす太陽について教えてやる!」
無反応。これしきでは駄目、ということなのだろうか。意識がなくても意外と我儘な所は変わっていなかった。
「じゃあ、植物について!」
無反応。
「なら、動物!」
無反応。
「あ~、だったら俺のことはどうだ!?」
半ば自暴自棄の言葉だったが、ピクッと、一瞬だけ動きが止まる。
ようやく反応を示したが、内容があいまい過ぎたのだろうか。アキラは一瞬迷うと、シロを救うためだと覚悟を決めた。
「な、なら、俺が《UNMO》に入った理由……とかでどうだ!?」
まるで競売で資産を投げ打って商品を競り落とすような気分を味わう。するとようやく、指は動きを緩慢にさせ、オイルが切れたロボのようにぎこちなく止まった。そしてふらっと、倒れるところをアキラは腕で抱き支えた。
「……ほ、本当ですね。……待ったはなしですよ」
と、いつもの調子で瞳を半ばまで開きながら、シロはいつも通りの口調で言った。
「テメェ、ようやくもとに戻ったか!」
思わず涙ぐむ目を水飛沫で誤魔化し、ほっとする安堵は不恰好な笑みで隠した。
「はい……ようや……く、戻り……ました………」
シロは掠れた声を喉に力を籠め吐き出すと、アキラの腕に身を預けるようにして、すっと瞳を閉じた。やはり相当無理をしていたのだ。アキラを助けようとしてくれたとはいえ、そのことについては、あとでしっかり叱りつけなければならない。しかし、今はそっと海水で濡れた頭を優しく撫でた。
とその時、鉄がひしゃげるような歪な音がアキラを現実に引き戻した。
はっとしてヘリに振り向く。互いにコントロールを失ったヘリは、本体の向きを斜めにし、プロペラをぶつけ合い、周囲に破壊的な金属の破片をばら撒いていた。この様子では木端微塵になるのも時間の問題である。
「ふざけんな! 今も昔も粗大ごみの不法投棄は違法だろうが!」
鬱憤を全て晴らすように叫ぶと、アキラはシロを抱えながら操舵室へと走る。シロを片手で支え、出せる最高速度でヘリから離れる。もうクルーザーが持たないが、後先考えている場合ではない。ここで全力を出さなければ、ヘリ諸共吹き飛ぶ。
後ろのヘリの音が少しずつだが遠ざかる。
このまま、何事もなく逃げ切れ! とアキラは自分の鼓動を聞きながら内で叫ぶ。
ヘリが粉々に砕けるような音を聞くと、刹那の沈黙。そして鼓膜を突き破るような爆音。体を炙る熱風。粉々に砕かれ飛び交う鉄片。アキラはシロを守るように体を強く抱きしめた。しかし、アキラのちっぽけな体は爆風に容易く持ち上げられ、投げつけられるようにハンドルへと額を痛打した。
ダビングに失敗したビデオのように視界にノイズが走る中、飛び散る血。
朦朧とする意識の中、未だ手にある温かさを確認すると、途端に瞼が重みを増し支えきれず、アキラはノイズの中に落ちていった。
5
酷い揺れが、アキラを暴力的なまでに揉んでいた。
胃液がシェイクされる不快感。それに耐えられているのは、驚くほど柔らかい抱き枕のおかげだ。アキラは半ば条件反射のようにぎゅっと力を込める。
浮かび上がりかけた意識を再び沈めたいという強い衝動が襲う。
あと五分、などというべたな台詞がもう少しでアキラの口から出ようとした時、
「あなた、起きて下さい。もう朝ですよ。今日は大事な会議があるから早くに出ないと駄目だっておっしゃってたじゃないですか。下にご飯のしたくは済んでいますから早く起きて下さい。明城はもう起きて朝食とってますよ」
突如として聞こえてきた声に、アキラは僅かに覚醒した意識で眉をしかめた。
台詞は妙にリアルで生々しく大黒柱を支える妻そのものだが、その言葉には感情が欠如しており、ドラマセットが張りぼてに見えてくる。
「お兄ちゃん、早く起きて。起きないと遅刻するよ。ねぇ~、お兄ちゃんたら~。……何で? 何で起きてくれないの? 私のこと嫌いになっちゃったの? じゃあ、そんな飾りだけの耳いらないよね。私の声を聞いてくれない耳なんて削いじゃえば―――」
「ちょっと待てぇぇぇぇ! 何だその妹!? 起きないだけで耳を削ぎ落すなんてどんだけ歪んだ愛なんだよ!」
夢の中で虚ろ目に微笑む妹が出て来たショックで、アキラはツッコみながら目を覚ます。さぶ疣が立つのを認識しながら、朝日を浴びた目は強い刺激に一気に覚めた。
「はぁ、はぁ、なんだったんだ今の夢……!?」
「ようやく目が覚めましたか? まったく手のかかる旦那に、お兄ちゃんですね」
と、夢に出て来た平坦な声と瓜二つの声がすぐ近くから届いた。
あまりにも近いその声に、頭に疑問符を浮かべながらアキラは視線を落す。そこには巣穴から出て来たハムスターのように頭を出し、アキラを見上げるシロ。その距離、目測にして五センチあるか、ないか。
「うおっ! シロ!? な、何でお前そんなとこに!?」
しばらくシロの顔に見入ってしまったアキラは、現状を理解すると同時に、顔を赤らめ、尻餅をついたまま背中をボートにぶつけた。アキラはシロに抱きついていたのだ。それもがっちりと。
動揺するアキラに反し、シロの態度は冷静そのもの。その場で体育座りをすると、落ち着いた声音―――といっても、それ以外の声を聞いたことはないが―――で状況を説明し始めた。
「何でと言われましても……私を抱きしめたまま離さなかったのはアキラなので、説明には困りますね。でも安心してください。既成事実は成立していません」
突如発せられた無垢の少女の大人の言葉。
「きせ―――! お、お前な、女ならもうちょっと、こう、恥じらいというものを持てよ! いや、持ってください。お願いします」
「そこまで言うのなら仕方ありませんね。考えておきます」
「何で上から目線なんだ! って、いや、今はこんなこと言ってる場合じゃねぇか」
思考をすぐに現実に向けると、アキラは周囲に目を向けた。
何やら見覚えのある気がする長く細い陸地に食い込んだような地形。ここはどこかの湾のようだ。クルーザーはその防波堤に引っ掛かっていた。
クルーザーは至るところが焦げ、甲板にも無数の罅割れが走っていた。しかし、日本政府の領海センサーに、《UNMO》に見つかっていないところを見ると、情報ステルスは辛うじて生きているのだろう。
しかし、それで安心してはいられない。アキラは思考を素早く切り替えると、腕に付けていたデバイスを外し、甲板に捨てると銃で撃つ。完全に壊れたのを確認すると、クルーザーから上がり、防波堤へ。
「何やってるんですか、アキラ? 反抗期というやつですか?」
「とっくに超えたわ。このデバイスは《UNMO》の支給品だ。このデバイスから居場所を特定される恐れもある。それに……」
言葉を途中で区切ると、アキラはシロの手を取り、防波堤に上がらせる。そして再び銃を構え、船底に数個の穴をあける。元々ボロボロだったボートはゆっくりとだが浸水していき、数時間も知れば沈んでくれるだろう。
「このボートも《UNMO》の物だからな。一応念には念を入れる。シロ、お前のデバイス貸してくれ」
「しかし、これも特定の恐れがあるのでは?」
「いや、それは《UNMO》にも一切目を通させてない安全機さ。師匠っ……に、言われてそういうのを一つは持っておいてんだ」
不自然に区切られた師匠という言葉に、シロからの質問に身構えたが、
「なるほど。今の話を聞く限りではアキラの師匠は相当できる人ですね」
まるで気付かない。人間の機微には疎いようだ。
「ああ……当たり前だろ、なんたって俺の師匠なんだから」
アキラは師匠を褒められた嬉しさと死んでしまったという現実を内包し、曖昧に笑うしか出来なかった。クロムは死んだ。どこか責めるような声が胸の奥から聞こえる。自分の勝手な行動のせいで巻き込んだのでは、と答えの分からない問いが投げかけられる。しかし、今は悔やむ時ではない。前に進むべきだ。いつまで経っても塞いでいては、クロムのことを幻滅させてしまうだろう。
アキラは顔を振り雑念を追い払うと、デバイスを起動してみる。問題なく起動できることを確認すると、まずはここがどこなのか検索。数秒と待たずに表示されたのは、太平洋に浮かぶ島国、アキラの故郷、日本であった。少なくない動揺がアキラを駆け巡る。
「は? 日本!? じゃあ、ここはもしかして東京湾か……」
どうりで見覚えがあるはずだと、アキラは渦巻く複雑な心境で呟いた。
ここに来るのはもっと後だと決めていた。アキラ自身がきちんと問題を解決できる力を得るまでは戻らないと。過去の自分の過ちを正すことができるまではと。
「くちゅん」
と、くしゃみさえも抑揚のない、可愛らしい声がアキラを引き戻した。
横を見ると、むずむずと鼻を動かしシロが寒そうに震えている。奇跡の脱走劇の演じ、多くの海水を被った為、気付けばアキラも服は海水で濡れており、浜辺の強い風に鳥肌が立った。
アキラは救助された時に手渡された防寒性の高いコートのポケットに手を忍ばせると、シロに被せる。キョトンとした顔で見上げるシロに、アキラは顎で小さな小屋を示した。
「あそこに使われてなさそうな小屋があるから、一先ずそこで暖をとるぞ」
アキラの提案に対し、シロは再びくちゅん、とくしゃみすることで返事した。
放置されていた小屋は埃の臭いがきついが、窓もしっかりとあり、隙間風も吹くことのない割と整った環境だった。朽ちている度合いを見ると、恐らく《情報戦争》時にやむなく捨てたものだと考えられる。
落ちていたライターと新聞紙を燃やし、囲炉裏に火を灯すと、その恩恵を受ける。
いつもなら真横に座って来そうなシロは、何故かアキラと反対側に面している。大した変化ではないのかもしれない。しかし、妙に距離をとられている気がして、何だかもどかしい。何か変なことをしてしまったのだろうかと、ちらちらシロを見る。
「アキラ」
突然掛けられた声に、ちら見していた視線をそのまま上に持って行き、平静を装いながら問いかけた。
「な、なんだ?」
「……ここはどこなのでしょうか?」
シロにしては珍しく声を溜める。しかし、アキラは平静を装うのが精一杯で気付けない。
「ここは日本っていう島国だ。ま、今はそんな名前飾りもんにしかならねぇけどな」
「何故ですか? 名前というのはそれを識別するのに重要な役割を担っていると言っていたのはアキラですよ」
「ああ、そう言えばお前は《情報戦争》も知らねぇのか」
「《情報戦争》? なんですか、それは? 映画のタイトルですか?」
コテン、と首を傾けるシロのストレートな意見に、アキラは浅い笑みを浮かべる。そんな名前を言われてもそう捉えてしまうのが普通だろう。尤もそれは意図して作られた名前だ。ありふれた言葉を使い、後世の興味を薄れさせる目的で。
「《情報戦争》ってのは、第二次世界大戦後に起きた、世界大戦みたいなもんさ。けど、その内容は今までとは全く違かったんだけどな」
アキラの抽象的言い方に、シロはさらに首を振り、倒れてしまいそうなほど体を傾ける。
「戦争、というのは映画で知っています。国家同士の武力で行使される政治手段のことですよね。第二次までは知っていますが、第三次が起きたという内容はありませんが?」
「ああ、だから今までと内容が違うんだよ。きっかけはイギリスの諜報組織がアメリカの軍事施設から特殊実験のデータを盗んだことらしい。どんな実験かは未だ公開を拒否しているが、相当にやばいもんらしくてな。途端に戦争、ってなりかけた」
「その口ぶりから言うと、ならなかったのですか?」
何故かやけにシロが大人しく、きちんと聞いているのが気になったが、それくらいの分別は身につけたのだと話を進める。
「人間も一応は前に進んでたんだよ。戦争なんてしなくても、十分に人は生きていけたしな。皆、平和を目指そうと努力してたんだ」
ここまでいいか? とシロに聞くも、愚問だと言わんばかりに一つ頷く。知識量は驚くほど少ないシロであったが、色々な真似や言ったことを一度で覚えるのを見ても、その知能はとても高い。
「今でも公開できないような実験を国民に言うわけにもいかず、昔みたいに民意を誘導するのも難しい。だから、見えない戦争をした」
「見えない戦争?」
「ああ、工作員を敵国に送り込み、データの隠滅や機密保持を行った。けど、それもうまくいかなくて、国としての循環を悪くして隙を作ろうとした、つまりは暴動を意図的に起こそうとしたんだ。最終的には大規模な暴動が何回と繰り返された。当然それに気付いたイギリスは防衛、同じ手段で攻撃に出た」
「なるほど。しかし、今の話を聞く限りでは日本は関係ないのでは? 遙か遠く離れた島国ですよ」
「いや、その両国はどっちも経済の中心だ。そこを攻撃されれば周辺諸国も当然危害が出る。そうなったら芋づる式に世界は巻き込まれちまう。水面下で血みどろの戦争が行われて、その結果、悪意ある情報操作に世界各地で暴動が相次いで起こり続けた。この戦争の一番の問題は、暴動が起こした奴らの手を離れて広がり続けたってことだ。そのまま自分達の起こした戦争で国は分裂。辛うじて政府が統治できる《政府統括区》。そして主に暴動の中心となった大企業が統治する《自治区》が出来ちまったのさ」
呆れ果てた溜息を吐きながら、説明を終了したアキラ。自分で語りながら、その馬鹿さというか、自業自得過ぎて笑いも出ない。今は《自治区》が一つ一つでまとまっていない為、《統括区》は残っているが、それもいつまで続くか分からない。世界は今、針の先端でバランスをとっている状態なのだ。
そこまで話し、アキラは反応のないシロに訝しむ視線を向けた。ゆらゆらと靡く陽炎の向こうで、シロは無言のまま顔を俯かせている。白髪が顔を半分隠し、表情はうまく読み取れないが、唇はきゅっと締められ、まるで思いつめているかのようだった。
一体どうした? とアキラが口を開きかけた時、
「……どうやって………」
と、細い声が微風に攫われてしまいそうなほどか細く鳴る。
やはり様子がおかしい。いつものシロは平坦な声ではあるが、弱々しい声など発することはなかった。海上でヘリに襲われた時に出た変なシロが原因なのだろうか。
「おい、大丈夫かシロ? 具合悪いなら横になって―――」
「戦争は、どうやって終了したのですか?」
まるでアキラの言葉など届いてないように、シロは俯きながら今度ははっきりと尋ねた。
シロの姿と声にガラス細工のような危うさを感じて、アキラは口を噤む。まるで答えを口にしてしまえば、その言葉がシロを砕いてしまうような気がするのだ。しかし、同時に言わなければ、歯車の欠けたからくり人形のように壊れてしまう危惧が過る。
何故そうなるのか、アキラ自身半信半疑で、考えもままならず口を数回開閉すると、
「……両国、といっても全世界だが、あまりにも多大な影響が出た為、イギリス側が組織のトップをアメリカで処罰することで条約も何もないが、一応は和解した。それを機に、一切の攻撃は中断され、政府は辛うじて暴動を止めることが出来たんだ」
その答えを聞いたシロはようやく面を上げ、そっとアキラと目を合わせた。その瞳にはまるで知っていたと言わんばかりの落ち着いた色合いが潤んでいた。
シロはそのまま瞳を逸らすことなく、まるでアキラを網膜に焼き付けんという勢いで凝視する。そこには強い意思があり、決意の表れのような物を感じる。
普段の好奇心に動かされる瞳や表情ではないと、少なからずこの少女と過ごしてきた者として、確信を持って言えた。そして、それが意味するのは、
「シロ……もしかして、記憶が戻ったのか?」
動揺させないようにアキラはそっと、細心の注意を払いながら、吐き出す空気の量を調整した。答える前に、シロは徐に瞼を閉じると、再び開け、
「そ、そんなことありませんよ~」
と、まるで機械に慌てさせたような声に、瞳を左上に泳がせた。ピキッと、アキラはこめかみの血量が増すのを抑えられない。先ほどまでのシリアスな雰囲気は音を立てて砂城よりも脆く崩れる。
「おい、こっちは本気で聞いてるんだぞ……!」
「き、記憶なんて戻っていませんよ~」
アキラの本気の声音にも、シロは反対方向に瞳を移動させるだけ。
元々のシロがこういう喋り方だけに嘘か、真か見分けるのは困難を極めた。先ほどまで見えていた人らしさは身を潜め、再び無表情の仮面を被る。おちょくっているのではないかと思わせる白々しさに、アキラも拳を握るのを止められない。
と、その時、
「あ、UFO」
未確認飛行物体を見つけたというのに驚きもない声を発しながらシロの指した方角は、天井であった。
「お前は天井が透けて、偶然UFOを見つけるスキルでも持ってるのか?」
アキラは沸騰しかけた体を何とか抑え、絶対に振り向かないと固く決意しながら引き攣った笑みを浮かべる。そんなアキラの反応を不思議そうに眺めると、シロは疑問に思った時の癖なのだろう、首をコテン、と傾げた。
「あれ、おかしいですね。アニメではこの方法で六十パーセントは成功しているのですが。アキラはそれらが効かない特殊な人間ですね」
「特殊じゃなくてもそんな見え透いた嘘誰でも分かるわ! ったく、いきなりどうした。おかしくなったと思ったら、今度はまるで注意を逸らさせるみたいに」
「あははは、そんな訳ないじゃないですか~」
「おい、今の空笑いは何だ」
う~ん、と唸りながら顎に手を添えるシロ。恐らく別の手段でも考えているのだろう。
そんな思考は読めるのに、根元の考えはてんで分からない。いきなりおかしくなったと思えば、今度は丸わかりの嘘。先ほどの《情報戦争》の話がきっかけなのか、ボートで頭を打ったことがきっかけなのか。表面には現れないが、シロは確実におかしい。
そして隣に座らないところを見て、アキラは避けられているように感じていた。
理由は分からない。もしも自分に落ち度があるならば謝りたいところだが、シロがどんなことを不快に思うかまるきり分からないのだ。考えてみれば、アキラはシロのことを何も知らない。名前、過去のことではない。その内面、どんなことに喜び、何に悲しみ、怒るのか。出会って日が浅く当然といえば当然だが、やはりそれは少し寂しいものだ。共に逃亡する二人、今からでも遅くない―――
と、アキラがありきたりな質問を口にしようとした時だった。
ピンポンパ~ン! と、まるで日本全国に轟かせるような、小屋を震わす高い音が上空から雨のように降り注いだ。咄嗟に体を壁に寄せ、そっと窓から外を窺う。
湾には特に変わりはない。ではあの声は? とアキラが疑問に思いかけた時、再び声が鳴り響いた。
『日本全国の皆様にお伝えします。本日、国際連合治安維持機構、《UNMO》から大規模テロを巻き起こした犯人が逃亡したと情報が入りました』
アキラは驚愕で麻痺しそうな脳を必死で叩き起こし、空を仰いだ。そこには低空飛行した飛行船が真上に一台、他にも三台ほど確認できる。その下から空中に巨大映像が映し出され、中でニュースキャスターと思しき女性が原稿を呼んでいる。
その内容からまさか、という嫌な予感に寒い中、汗を流す。
そして、アキラの危惧は現実のものとなってしまった。
『逃亡中の犯人は《來栖アキラ》容疑者。現在この日本に潜伏中とのことで、《UNMO》は容疑者を捕まえた者には賞金として十億ドルを支払うとしています。その際、生死は問わないとのことです。しかし、容疑者が《UNMO》から拉致した白い髪をした少女は無傷で捕獲することが条件です。日本政府は皆様の健闘に期待する、とコメントを残しました』
切り替わった映像にはアキラの顔が惜しげもなく、大々的に晒されていた。その隣には名前不詳となっている白銀の美少女、シロの顔。
その光景にアキラは、鉄と固まった鬱憤を、火焔と化した憤怒が溶かすかのように、粘度を帯びた気持ち悪い温度の上昇を感じていた。これは《UNMO》が完全にエルゴの手に落ちた証拠。そして、正義の為の機関が見る影もなく落ちたという宣言だ。
キャスターから発せられる言葉は、エルゴの嘲笑のように聞こえ、アキラは小屋の床に拳を叩きつける。自らの欲望の為に全てを捻じ曲げていく。それはアキラの正義を真っ向から否定するに他ならない。その反する者にこうして隠れることしか出来ない自分は、何と惨めなのだろうか。身を引き千切り、烈火の咆哮を叫びたいが、賞金首ではそれもままならない。
このままここで時間をつぶすというのも一つの手だが、生憎ここは《区外》である千葉、神奈川がすぐそこにある。見つかるのも時間の問題だろう。
そしていつまでも逃げ回ることなど出来ない。最終的にエルゴを倒す為に、まずは日本支部に行き、勇士を募ることを始めようと考える。
その上で気になるのが、本部にいるハルのことだ。殺された、とは言っていなかったので恐らくは無事のはず。それがどの程度の物なのか、アキラは唇を噛み締め、考えるのは止めておいた。
「シロ、ここを移動するぞ。金に目のくらんだ亡者が匂いにつられて寄ってくるかもしれないからな。………ん? シロ?」
何の反応もないことをおかしく思いながら振り返ると、そこにはただ囲炉裏の火だけが動いていた。アキラはもう一度窓から外を眺め、ばっと、中に首を向ける。しかし、ビクッとしながら固まるシロの姿はなく、やはり火だけ―――と思いきや、シロが座っていた場所に一つの紙が置いてある。
よぼよぼで湿った新聞紙だ。これ見よがしに置いてあるその紙をとることはシロの思惑にはまっているようで全力で無視したかったのだが、見なければ何も始まらない。
アキラはなるべく心を無にし、無我の境地に入りながら新聞紙をめくる。決してシロの手の平で踊ることはないようにと。冷静を保ち、可及的速やかに対処する。
めくった紙にはお世辞にも綺麗とは言えないボールペンの文字で、
『旅に出ます。探さないでください。PS・文字と手紙を書くのは初めてでドキドキしました』
「知るかぁぁぁ!」
脳が意味を理解するよりも早く、決意などクソくらえと、その新聞紙、もとい手紙をフルスイングで床に叩き付けた。ぺちっ、という情けない落下音を聞きながら、アキラは大声で叫べない苦しみを体を使って全力で表す。どこかの部族の踊りのように。
あの馬鹿は状況を理解してるのか!? とアキラは歯を噛み締め、同時に内で現状を把握しようとしていた。
シロは知らないのだ。《統括区》である東京の周りの神奈川、千葉という見捨てられた土地を。あそこには《自治州》には拒否され、《統括区》では締め出された掃き溜めしかいない。あそこの住人達は女だろうが、子どもだろうが容赦なくバラし、自らの遊び金に変える犯罪者の巣窟なのだ。
ああ、クソッ! と短く吼え、小屋の壁を拳が貫く。
ここを出ていけば確実にアキラは先ほど放送された十億ドルの賞金首だと気付かれる。最悪の場合、県一つを相手に立ち回らなければならなくなる。 小屋のドアを開けるのは、最早自殺行為にも等しい。
しかし、アキラはその葛藤を一瞬のうちで打ち捨てると、ドアを蹴破った。あとのことは、あとで考えればいい。今はシロを救うことが何よりも正しい。
アキラは小屋で長年干されていたタオルをとると、顔に巻きつけ、気休め程度の変装をする。長年放置されたタオルはカビており、薄い鋼のように固く、また鼻が捻じ曲がるような異臭を放っていた。
だが、これから行くところでは、この匂いの方がまだましなのかもしれない。
6
やはりあのコートを着せておいて正解だったなと、アキラは腕につけたデバイスを見ながら呟いた。赤いカーソルが明滅を繰り返しながら移動している。コートをシロに貸す寸前に、ポケットの中に追尾用発信機を忍ばせておいたのだ。
これは好奇心旺盛なシロを見失わない為の処置だったのだが、まさか逃亡を阻止する為に使うとは夢にも思わなかった。アキラはこの行動をいつものような好奇心、とは違うこと感じ取っていた。普段通りと断ずるには不可解な部分が多すぎる。
シロは逃げ出す前、様子がおかしかった。何故かアキラを避けるようになり、馬鹿なりに注意を逸らせようとしては、逃げ出す機会をうかがっていたように思える。
その行動の目的、変わった理由、全て分からない。もしかしたらシロなりの事情があり、アキラを遠ざけねばならなかったのかもしれない。
しかし、それはアキラには関係のない話だ。それなりの事情があるのなら言えばいい。それで迷惑が掛かるなら喜んで受け入れる。巻き込みたくない困難だとしても、アキラはただの傍観者になることだけは決して嫌だった。
シロを助けることはすでにアキラ一人の問題ではないのだ。シロの取引に共に参加した夢半ばで散っていった仲間達全員に問題であり、運よく生き残れたアキラの責務だ。彼らが何故殺されたのか、はっきりさせる為にもシロは必ずこの手に取り戻さなくてはいけない。
それにアキラは、アキラ自身の心の答えとしてシロを助けたかった。ケースに入っていたり、知識が乏しかったり、それでいて探究意欲旺盛な少女。まだであって数日、友と呼べるほどの月日ではないが、シロが悪ではないと結論付けるには十分な時間だ。そしてアキラが命を賭ける理由など、それで十分だった。
東京湾から千葉に疾駆しながら、アキラはシロの現在地を確認する。
デバイスから表示されるマーカーは、さほど離れてはいなかった。シロの逃亡を早期に発見でき、さらには圧倒的な体力差がある。捕まえるのはさほど難しくない。
それよりも問題なのは、千葉の住人の方だ。千葉の街は、燃えるような夕暮れの中、まるで雨の降ったあとの夜のみたくじめじめとした雰囲気が漂っていた。
千葉は元々首都である東京と近いことと平地が広い為、住宅地の開発と農漁業も盛んに行われていた。しかし《情報戦争》のあと、大規模な暴動で荒廃した千葉県は、今や田んぼが全体の六割を占め、それを農業ロボが手入れをし、東京の食い扶持となっている。
無人化が進み、東京の人間が寄り付かなくなった《区外》は荒くれ共の巣窟に適していた。区を追われた犯罪者、職を失くした者、税を収められなくなった者。そんな者達がまるで陽光を避けるかのように、影に集まっている。
住宅街を風俗街に姿を変え、まるで太陽に刃向うように昼間からネオンの輝きを目が痛いほど発していた。その中を走り抜けるアキラの鼻には、タオルの異臭が恋しくなるほどの麻薬と血の臭いで溢れている。
街で見かけるのはボロボロの服を羽織り、帽子を目深にかぶった怪しげな男、通路に布を布き、名状しがたい物を売る老人、厚すぎて半ば仮面と化したメイクを施した売春婦。
見ているだけで心の汚点が刺激されるような光景に、アキラは足を速める。
アキラが探索しだし、少しばかり経った時だった。
表示されていたマーカーが急激に速度を上げる。それは最早人間の速度ではなく、シロが何かの乗り物に乗った、或いは乗せられたと想像出来た。そして、十中八九後者だろう。シロは自転車すら乗り方を知らないのだから。
つまり、これが意味することは、
「あの馬鹿……攫われやがったな!」
アキラは予想していた最悪の出来事に血流が一気に沸騰するのを感じる。
放送ではアキラは生死問わずだが、シロは無傷で渡すことが条件だ。暴力を受ける可能性は低い……しかし、ここの人間がそんな約束事をまともに守るとは、アキラには到底思えなかった。
やばい! と自分を急かし、乗り物を目で必死に探す。
そこに丁度自慢げに大型バイクを披露している若者がいた。《区外》なので新品というわけにはいかないが、ここでは最高品の類だろう。
アキラは手元にある全額を強引に若者に渡すと、バイクに跨る。若者は文句を言おうとしたが、手にした金額を見て気が変わったようで快くバイクを明け渡す。
若者の反応など最早意識もしていられないアキラは、ハンドルについているアクセルを捻じり切る勢いで回すと、激しい駆動音を奏でながら後ろに砂嵐を舞わせた。
マーカーは風俗街を少し離れ、人影もまばらになってきた港へ向かっていた。
船でそのまま《UNMO》の本部まで行くつもりかと、内臓を掻き乱す冷ややかな手を感じながら、バイクが軋むほど加速させる。しかし、そうではないらしくマーカーは港から少し離れた場所で速度を落とすとゆっくりと停止した。
ほっと胸を撫で下ろす暇はない。例え《UNMO》に連れて行かなくと も、シロのピンチは少しも揺らいでいないのだ。
マーカーの位置は港近くということもあって、恐らくは倉庫。そんな場所にうら若き乙女を連れていくなど、アキラには腸が溶け出すような憤怒を帯びた想像しか出来なかった。
目をナイフのように鋭く細めたアキラが辿り着いたのは放置された港。
整備されることもなく、船乗り場には苔がびっしりと蔓延り、錆びついた小型船が恨めしそうに幾つも浮かんでいた。目標のマーカーはプレハブで立てられた連なる倉庫、その右から二番目を示している。
アキラはバイクを降りるのも煩わしく、トップスピードを維持したまま錆びついたシャッターに突っ込む。ガシャァァン、と衝撃で裂ける鈍い鉄の音を聞くと、がらんと広がる空間が出迎えた。
元々は何かの機材やら海で採れた食材を保存する為の場所だったのだろう。使われなくなった今ではカビと埃で汚れきった木材と段ボールが数個点在するだけだった。そんな空間をさらに寂しく彩るのはオレンジ色の豆電球と、高所に備えられた窓から僅かに滲む陽光だ。
車体を真横に傾け、止まる。ばっと、飛び降り、視線を向ける先にはだだっ広い倉庫の中、そこで動く人影は二十ほど。バイクが横に停車しており、まだ座れるソファーや傷だらけのビリヤード台などが真ん中に密集していた。
突然の来訪者に顔を上げる彼らの顔は若い。恐らくは風俗街で生まれ、捨てられた子どもか、犯罪を犯し、区を追放された者達だろう。そういう者達の行動原理は《情報戦争》以前とまったく同じだ。同じ傷を負った仲間同士の傷の舐め合い。尤も、今の方が昔よりも絶望は大きく、格というのは違うかもしれないが。
彼らは殴りこんできたのがアキラ一人だと察しを付けると、気だるそうな顔に攻撃的な視線を帯びる。獣の唸りに似た声や、鉄パイプを持つと床に叩き付けるなどの威嚇をしてくる。
それを取り次ぐ余裕もないアキラは素早く周囲に目を配らせる。シロの姿はどこにも見えない。どこかで丁重に拘束されてるのかと、淡い期待も抱いた。しかし、違うとなるとアキラの眉は限界まで吊り上り、自然と若者が囲んでいる真ん中に引き寄せられる。
「シロ! いるなら返事しろ!」
なるべく普段の調子を崩さないよう努めながら声を張り上げる。
「はい、ここにいますよ」
普段通りの声音。良かったと、出張っていた肩から力が抜け―――ようとした。
しかし、目に映るシロの姿を見ると、まるで細胞が沸騰を始めたかのように体を熱い刺激が襲った。拳が悲鳴を上げながら握られていく。
アキラが貸したコートはハイエナに咬みつかれたかのように引き裂かれていた。
幸いなのは中の服はまだ無事なことだ。だが、そんな安堵を吹き飛ばし、一気にアキラの導火線を縮めたのは、シロの赤子のような透き通った頬に痛々しく刻まれた腫れと、口からやけに鮮明に映る一条の赤。
これまで何とか冷静さを保っていた理性の門は、白光のあとに続く灼熱の轟により、塵芥となって消え失せた。このふざけた連中は二度と日の目を見れないほど痛めつけなければ収まりが付かない。
アキラは吹き荒れる破壊衝動を外に、そして爆発しそうな憤怒は自分へと向けていた。
怪我を負わせ、危険な目にあわせてしまった。一度守ると決意した者をこうも簡単に傷つけてしまった。守る、という言葉が聞いてあきれる。少し前に固めた決意は、この誰かも知らない不良共に簡単に砕かれた。こんなんで何を守ろうとしていたのか。自分が未だ非力なガキでしかないことに、悔しさを織り交ぜた憤慨が身を焦がしていた。
と、同時にシロの傷つけられても何でもないと言わんその態度も、アキラを激昂させる。
「んだテメェは。俺等の入団希望者か?」
理性が崩壊していく中、響いたのは折角の楽しみを阻害されたような、文句混じりの声だった。
視界が壊れたテレビのように歪んでいくアキラの前に現れたのは、他の若者よりも頭二つほど抜きんでた大男だった。真ん中だけ生やした時代遅れの髪型。所々破れた革のジャンバーをトレードマークのように羽織っている。
男は足音を倉庫に響かせるように鳴らしながら、肩で風を切るように近づいてきた。
そしてタオルを巻いたアキラの顔を一瞥すると、フンと鼻を鳴らす。
「ぷっ、どうしたんだその顔は? 女にでもやられたか!」
ギャハハ、と笑う男に追従して大合唱する若者達。
そんな耳障りな声も、アキラにはどこか遠くの風景に感じていた。映るのは無力な自分。そして平然と、泣くことすらなく立っているシロ。その投げやりな姿は、まるで全てがどうでもいいようで、助けなど望んでいなかったと言わんばかりで、アキラを拒絶するように映った。
「まぁ、どうしても入りたいってんなら、特別に許してやらねぇでもねぇぜ。今日の俺はすこぶる機嫌がいい。なんせ十億ドルっつう大金が手に入ったんだからよぉ!」
男は臭い息を吐く口を歪めると、爬虫類を祖先に持つのでないかと疑いたくなる長い舌をだした。太い腕を上げると、手で目を覆い何か狂ったように爆笑する。
「見ろよ、あのガキ! さっき放送で言ってたガキだぜ! 街ん中、うろうろしてたから紳士の俺にしちゃあ、見過ごせなかったわけよ。やっぱり善意ってのは大切だねぇ」
鬱陶しいほどテンションの高い説明する男に、後ろの若者が言った。
「でも滝嶋さん。放送ではこのガキは無傷で、って言ってましたけど、いいんすか~やっちゃっても」
「いいんだよ。俺等にそんなこと頼むってことは向こうもそれは了承済みだろ。本当ならマニア相手に高く売り飛ばすところを親切に送り届けてやるんだぜ。金以外にもいいことさせてもらわねぇとなぁ。それに、そのガキも抵抗も何もしなかったってことは、オールオーケーって事だろう?」
滝嶋なる男の下らない言葉を無意識のうちに埒外に追いやっていたアキラであったが、最後の言葉だけは見過ごすことは出来なかった。
抵抗も何もしなかった? それがどういう意味か分かっているのだろうか。
体の中をせり上がるマグマのような怒りが、ついに火口から灼熱の如く爆発した。
「この、馬鹿野郎がああぁぁぁ!」
アキラの突然の大声に滝嶋は短い悲鳴を上げながら耳を抑え、倉庫全体が震えた。
何の抵抗もしなかったというのは、自分自身の放棄にも等しい。それは、アキラの思いと仲間の死を無下に扱う行為だ。今も脳裏に強く焼きつく彼らの夢への言葉、そして向けられる笑顔。シロとは何の関係もないなどと言わせない。もう彼らは死に、アキラは命を賭けてでもシロを守りたいのだ。何の関係もないなどと、例え神であろうと言わせてなるものか。
肺に溜めていた酸素を空になるまで吐き出し、息を荒げるアキラに、シロは普段通りの表情で首をコテンと傾けた。
しっかりと言わなければ、シロは理解してくれないだろう。
「あ~、っくそ、おい! いきなりなんて馬鹿でかい声出しやがるんだ! 鼓膜が―――」
怒りを露わにしながらアキラの胸倉を掴もうとする大きな手を払いのけ、滝嶋の横を通り過ぎる。もうアキラの目に、滝嶋は映ってなかった。
「テメェは自分が何してんのか分かってんのか?」
一身にシロを貫きながら、抑え込んだ声を発する。
そんな二人の間に割り込んできたのは、先ほど躱した滝嶋だ。こめかみに青筋を浮かせながら、頬筋をピクピクと動かし、地の底を這うような声を出す。
「それはこっちの台詞だ、コラァァ……!」
アキラに向けられた怒気に、怯えたのは後ろの若者達だった。
「お、おい、あの新入り滝嶋さんを怒らせてるよ!」
「あいつ知らねぇのか!? 滝嶋さんは東京の元プロボクサーで、喧嘩した相手を全治一年の重傷負わせたから千葉に追放されたんだぞ!」
「やばくねぇか……あの滝嶋さん、あいつを殺したくれぇじゃ、怒り収めてくれなさそうだぜ……」
若者達の悲鳴を聞きながら、アキラは仕方なく滝嶋の手前で止まった。
そして、その顔を見る為に顎を上げる。元プロボクサーとは本当のようで、近づいて見ると、その巨体がただの肉と皮ではなく、がっちりとした筋肉で覆われていることが分かる。ボクサーだけあって、バランスもそれなりに整えられていた。
「俺はよぉ、心が広くて寛大なんだが、無視は許せねぇのよ、無視は。十億ドル手に入るっていうこんなめでてぇ日に悪い雰囲気出したくねぇんだわ。土下座して靴の裏舐めて、身包み全部おいていけ。そしたら許してやる」
後ろの若者から、安心したように息が次々と吐き出される。まるで、これで自分達の命も助かったと言わんばかりに。
元プロボクサー。確かに誰でも恐れをいだくような肩書だ。実際にそう名乗られ、これほどの巨躯を見せられれば、逆らう気など失せるだろう。しかし、そんなことはアキラに関係のないことだ。例え相手がよぼよぼの老人でも、蠱惑的な女性でも、アキラが手を上げる理由はただ一つ。
アキラが悪と定めたからだ。
「さっきから―――邪魔なんだよ!」
いつでも殴る準備は出来ていると言うような拳を上げた構えの滝嶋に、アキラは全てを壊す勢いで叫んだ。
アキラは咆哮と同時に、一気に体に力を込め、静から動への高速変化を利用し、驚異的な速度の右フックを滝嶋の脇腹にめり込ませた。まるでしおれたゴムを殴るような感覚の中、アキラの拳は手首の根元部分まで入り込む。そしてそのまま力任せに体を捻り、邪魔であった滝嶋の体を真横に吹き飛ばした。吹き飛ぶ体は重力に絡め取られ、床を数回バウンドすると倉庫の壁に激突した。
ピクピクと痙攣する滝嶋。手応えから言って脇腹の二、三本は折れているだろうが、それだけでダウンなどだらしがなさ過ぎる。アキラは数千回と人類最強の師匠と手を合わせてきたのだ。訓練だというのに手加減のない拳に、何度意識を断たれ、骨を折られたか分からない。一般人相手に手を上げ、それを自慢話にする卑劣な男に負ける道理はなかった。
吹き飛ばされる滝嶋を見て、ポカーンと口を開け続ける若者達。
次の瞬間、一斉にタオルのとれたアキラの顔を見たかと思うと、滝嶋を見向きもせず、一目散にバイクに跨り、情けない悲鳴を上げながらアキラの横を過ぎていく。先ほどまで喧騒に塗れていた倉庫は深海に浸かったかのように静寂した。
そしてアキラは自分でも分かるほど顔に皺を刻みながら、シロの下に歩いていく。
シロはそれを慌てるもなく、顔を背けることもなく、ただじっとアキラを見詰めていた。
そしてついにいつもの距離、触ればいる、目を向ければそこにいる距離に迫った。
それでもなお、アキラはシロを睨み続け、シロはアキラを見詰め続けた。
「どうしてこんなことした?」
「こんなこと、とは?」
シロはいつもの癖をしながら、質問を質問で返す。
「何で俺から逃げて、あんな奴らに捕まってんだ!」
「別にアキラから逃げたのではないです。わたしはただ、わたしがあるべき場所に帰ろうとしただけですよ」
「……? お前があるべき場所ってどこだよ?」
「《UNMO》です」
タン、という音が鳴って終わるまでにシロは全てを言った。
そしてそれはアキラの炎を渦に巻き込んで掻き乱すような言葉だった。
「な、何で……お前それがどういうことか分かってんのか!? あそこに行ったらお前はどうなるか分からねぇんだぞ! 最悪殺されるかもしれない!」
「いえ、分かります。分からないのは、何故アキラがわたしにここまで固執するかです。もうアキラにわたしを擁護する理由などないのですよ。アキラはわたしを助けたせいで《UNMO》を追われ、傷を負い、指名手配されています。今のわたしはアキラにとって明白な害です。アキラに、わたしを助ける理由はありません」
いつも通りの無表情。いつも通りの平らな口調。いつも通り靡く白髪。
しかし、アキラは淡々と告げるシロの姿に、今までの憤怒など火遊びのように鎮火する寂しさが込み上げていた。何故シロは自身を、こうも他人事のように害などと落すのだろうか。何故助けてもらうことを拒むのだろうか。アキラの知りえない重大な何かがまだあるのだろうか。
光を吸い込み弄ぶような半ばまで開いた瞳は、恐らくいつも通りに輝いているのだろう。しかし、アキラにはその姿が傷つき、傷つけられるのを怖れる迷子の仔猫のように見えてならなかった。他人と触れ合い、傷つけたくない為、一人でずっと迷子になっている。それも優しさや強さなのかもしれない。しかし、時には助けを請い、弱さを見せるのも強さなのだ。
アキラはそれを伝えたい一心でそっと、シロの頬に手を伸ばす―――と、その時。
プレハブ壁が幾つもの駆動音と共に金属の引き裂かれる甲高い音を鳴らしながら破かれた。そして、まるで狂った笑い声とも悲鳴とも取れない声を上げ、幾つものライトがアキラとシロを暴き出す。
「何だ!?」
反射的にシロの手を取り、アキラは自分の背中に隠れさせた。
長年積った埃が砂塵のように見通しを悪くする中、薄れた幕からそれらは現れた。
「テメェ、さっきはよくも嘗めたことしてくれやがったな!」
「殺して《UNMO》から十億ドル貰ってやるよ!」
「俺等に逆らったことを後悔しやがれ!」
掠れ声も気にしないで叫ばれる醜い咆哮。
それはまるで艦隊を組んだバイクの群れだった。数十にも上るバイクがエンジンを轟かすと、広い倉庫に反射して全身を音に叩かれているように感じる。そこには先ほどこの倉庫にいた若者の顔が多数あったが、明らかにこの数はここにいたチームを超えている。
考えられる最悪の結論に、冷汗を垂らしながら歯を食いしばった。
「本当は俺等だけで十億ドル貰うつもりだったけどよぉ。あんま嘗めた真似してくれたから仕方なく千葉中に連絡回してやったぜ! 十億ドルがここにいますってなぁぁ!」
やはり、と納得すると、やってしまった、とアキラは猛省した。
この事態は想定される中で最悪の出来事だ。それを避ける為に顔まで臭いタオルで隠したというのに。
慎重に動くべきだった。リーダー格を倒したからと言って安心せず、彼らを決して逃がしてはならなかったのだ。
憤怒に理性を奪われ、傲慢に逃げるのを許した明らかな失点。いつも冷静に、というクロムの言葉が、今さらながら重くアキラに伸し掛かった。
敵は、最早のぼせ上った不良達ではない。
千葉。
その全てがアキラとシロに牙を剥いた。
7
罅割れた道路はまるでアキラに捕まれと言うようにバイクの車輪を弾いてきた。
タイミングを合わせて隠れる太陽もそれを助長しているように思える。
バイクのバックミラーをちらりと覗くと、後ろからは血に飢えたハイエナが駆動音を響かせながら、影にさえ食いつかん勢いで迫ってきている。
千葉、或いはアウトロー特有の連絡網でもあるのか、アキラ達を付け狙う人数は逃げれば、逃げるほど多くなっていった。そして千葉全体が敵になったという言葉を裏付けるように、擦れ違い様に石を投げつけられ、危ないものではワイヤートラップを張っていた者もいた。行く当てもなく逃げ続けるアキラは、徐々に徐々にどこかへと先導されているのではないかと、不安が襲う。
冗談ではなく一瞬でも油断すれば死ぬという状況。緊張の糸を張り続けるアキラが憎たらしげに睨むのは、前にちょこんと座るシロ。一瞬、一瞬に死ぬかもしれないというのに、その顔はあくまで無表情を貫いている。緊迫した状況とは無縁の態度に、一々怯えるアキラは馬鹿にされてるというか、おちょくられているような気分になっていた。
「お前な、もしかしたら死ぬかもしれねぇんだぞ! もうちっと危機感出せよ!」
「くそー、残り一分。青か、赤か、どっちの導火線を切ればいいんだー」
久々に抑揚のない声で、台詞だけは完璧な芝居を、シロはやはり無表情で述べる。
「薄ら寒い三文芝居しろって言ってねぇんだよ! つか、お前どんだけ昔のドラマも見てんの!? 馬鹿やってねぇで少しはお前も周囲を警戒しろ!」
「馬鹿はアキラです。だから早くわたしを見捨てればいい物を。そうしたら少なくとも大部分は逃げるアキラより、わたしに群がってきますよ。こんなに合理的な作戦を先ほどから提唱しているというのに」
分かりますか? と言いたげにアキラを仰ぐシロ。
見捨てろ、見捨てろ五月蠅いシロに、アキラも半ば意固地になりながら叫んだ。
「まだ言ってんのかそんなこと! 却下だ! 俺はお前を見捨てない!」
「何故ですか? アキラには何のメリットもないじゃないですか。わたしを囮にすれば、少なくともこれ以上の《UNMO》の介入はありません」
そう問答しているうちにも、正面の住宅の屋根から鉄パイプ片手に人が飛びかかってきて、アキラはそれをハンドルを切ることで躱す。
常識的に考えれば、今はお喋りをしている暇はない。しかし、アキラはこの変な所に強情な少女に、言っておけることは言っておくべきだと直感が訴えていた。そしてピンチな時ほど直感を信じろ、という師匠の言葉もアキラの口を軽くする。
「いいか、俺は損得で動かねぇ。俺が正しいと思えて、相手が間違ってると分かれば、どんなことをしても俺は、俺の正義を貫く!」
「わたしを助けることを正しいと何故思うのですか?」
このことを言うのはシロに重荷を背負わすだけでは、と迷ったがぶつけることはぶつけておいた。
「……俺とお前が最初に出会った時、あの場には本当は仲間が他に六人いた。俺と一緒で正義の為に《UNMO》に入った気の良い奴等だった。けど、そいつらは殺された。訳も分からず、仲間に裏切られてな……!」
「それが正しさの理由ですか?」
「それだけじゃねぇ。俺はお前を助けてぇし、悪人じゃねぇって信じてる。それにお前みたいな女の子が悪党に襲われてんの助けるのは、全世界共通の正義なんだよ!」
アキラは叫ぶと前から突っ込んできた男をキューカーブで避け、そのまま前進。今がどこだか、アキラにはまったく見当もつかない。デバイスの位置情報でどの辺にいるのかは分かるが、元々千葉の地理に明るくない為、焼け石に水であった。
住宅が次第になくなり始め、丘陵が見えると、畑や田んぼを耕す自動ロボが目に映った。次第に閑散としたところに追い込まれている。
ここは彼らのホームグラウンドだ。長年ここに住み着き、どこの道がどうつながっているのかなど網羅しているだろう。対してアキラは生まれた時から《区外》である千葉など名前で知ってるくらいだ。
新たな道路、壊れた道、塞がれた路地。
もしもこの道を曲がったらそこは行き止まりなのではないか、そんな命懸けのギャンブルを休みなく連続でやらされている気分だった。バイクを走らせているだけだというのに、心の損耗はアキラの顔からは一つ、二つと汗を流させる。
「アキラ」
アキラの気を知る由もないシロは、実にあっさりと言葉を出した。
「何だ!」
「中に針が入った円形の物が点滅しています。これは何でしょうか?」
はぁ? とシロのよく分からない説明に、アキラは周囲の注意を怠らず、ちらっと目を向ける。そして愕然とした顎から短い悲鳴。
それはメーターだった。バイクの残り燃料を示す値。そしてそれは、もうすぐでゼロに届こうかとしている。
アキラは咄嗟に『RES』と書かれていたボタンを叩く。メインタンクからリザーブタンクに変え、少しの間だがバイクは再び力を取り戻す。
しかし、これは気休めでしかないことをアキラは十分理解していた。リザーブタンクの燃料の量はたかが知れている。残りわずかな時間に追っ手を振り切らなければ、アキラ達は弱った野生動物のように一気に喰われてしまう。
しかし、迫りくる大群はすでに巻くことなど不可能なほど膨れ上がってきた。陽が完全に落ちたというのに、後ろのライトのおかげで昼間よりも明るく感じる。
道が確かでない為、小路に入るのは得策ではない。それに脇道にはいつからいたのか、追跡部隊の援軍が隠れていることもある。その為にアキラは闇夜の中で一度も相手を振りきれないのだ。
アキラは確かな解決方法も思い付けず、ただ悪戯に貴重な燃料を減らしていた。リザーブタンクも、もうあとがない。やはりここはシロの言った作戦しかないのかもしれない。どんなに考えてもそれ以外に打つ手は見当たらなかった。
「シロ、聞いてくれ」
アキラは出来るだけ穏やかにシロの名を呼んだ。
「もう、このバイクの燃料は長く持たない。俺等二人が一緒に逃げるのは、無理だ」
その宣言にシロは瞳を少し下げると、蕾のような唇を動かした。
「それは最初から分かりきっていたことです。わたしのことなら心配いりません。元からわたしは逃げようなどと思ってませんから。だから、ここで―――」
「だから!」
アキラは、シロが言おうとしたつまらない言葉を叩き潰すように、声を張り上げた。
「俺が囮になってバイクを降りる。その間にお前は出来るだけ遠くに行って、どこかに身を隠せ。どうせバイクの操縦法も俺の見て覚えたんだろ」
アキラの言葉に、見上げるシロの瞳が少しだけ見開く。
「何を言っているのですか、アキラ? あなたの言っている言葉が理解できません」
「お前が俺の言ってること理解した時が一度でもあったかよ。いつも、いつも変なことばっかして、棒読みの真似してただけじゃなぇか」
「そうではなく、何故アキラが囮になるのか理解できないのです。何故そこまでわたしを守ろうとするのか分からないのです」
シロの言葉はこんな時でも直線そのものだったが、いつもより少し圧力が込められているように感じる。
「そんなこと言ったら何でお前も、自分を囮にしてまで俺を助けようとするんだよ」
「それはわたしが……」
言い淀むシロを珍しく思いながら、アキラは苦笑いの混じった溜息を吐いた。そして、自分の主張を分からず屋の少女に出来るだけ負担をかけないよう伝えた。
「俺はお前に助かってほしい。そして俺の方が万が一の生存率も高い。どうだ? お前の言ってた作戦よりよっぽど合理的だろうが」
シロは見上げていた顔を正面に戻すと、か細い声で、そうですね、と漏らした。
この選択は正しくはないのだろう。二人一緒に助かる、それが最善であり、最高の答えだ。しかし、それが許されないのであれば、迷わず二番を選択しよう。シロを一人で行かせたところで、いたずらにアキラの命を背負わせ、逃げ切れないかもしれない。それでも一パーセントでも助かる可能性を上げたいのだ。
じっと前だけを見るシロの頭を撫でようとしたが、手は真上で止まってしまった。その代りに言葉が口を突く。
「お前には悪いかもしれねぇけど、これが《UNMO》っていう俺の選んだ道なんだよ。そんでもってお前を助けるのはそれの身勝手な理由だ。だから、ま、心配しないとは思うがあんま気負うなよ」
その言葉にシロがビクッ、と動いた気がしたが、気にせず前方に視線を注ぐ。
簡単に捕まっては意味がない。シロの逃げる時間を稼ぐ為に、道に迷わず、逃げやすいもう少ししたらある交差する大通りを待った。
そして目の前に大通りが迫ってくる。生き残れる可能性は限りなくゼロに近いだろう。これまで神の加護を受けたような運の良さで生き残ってこれた。しかし、その運もこれだけの数の違いを覆すのは困難だろう。
だが、アキラの目には衰えることのない信念の光が輝く。ここで死ぬ、とは考えない。シロを助けるのだという答えが胸の中に強く居座っていた。例え罪人と追われようとも、これが自分の進む正しい道だと確信して。
死線を跨ごうとしているからだろうか。先ほどからアキラの脳には忘れていた過去の出来事が次々と甦る。亡き父と名も知らない友。走馬灯のような瞬時なものではないものの、人生の終わりを実感させるには感動的な映像だった。
それらに苦笑いを飛ばしながら、アキラは交差点に差し掛かり、バイクから身を翻す―――と、しようとしたところ小さな抵抗感を覚えた。それはか細い糸が一生懸命繋ぐような抵抗だったが、不思議と離れるのを躊躇ってしまう花の香りのようにアキラを捉えて離さない。そして大通りを通り過ぎる。
胸元を小さな手が握りしめていた。
まるで無意識のうちに掴んでしまう赤ん坊のような白く、小さな手があった。
その手の主であるシロは、アキラに顔を見せようとせず、少しだけ覗かせる顔は俯いていた。しかし、握られるアキラの服だけは決して離そうとはしない。
普段のシロからは考えられない行動に、しばし呆然とするアキラの耳は後ろから唸る獣の雄叫びを捉えた。そこには数多のヘッドライトをまるで多眼生物のようにうねらせ、アキラ達を呑み込まんとする怪物がいた。すでに五メートルもないところまで迫ってきた。
これではもう誰かが囮なる、という作戦は不可能だ。飛び降りた時点で轢かれるか、撥ねられるかして終わってしまう。事実上、完全に手を封じられた。
アキラが喉を鳴す、そんな時に鳴ったのは、
「……心配くらい、わたしもしますよ」
ふと、染み込むようなシロの声。
弱々しく呟くシロに、アキラはこれまでのシロの行動が脳裏をよぎり、思わず笑ってしまった。いつも徹底した無表情を見慣れて、途端にしおらしくなったシロが可愛らしくて、照れ隠しのような笑い。そんなアキラの行動に、シロは半ば開いた瞳を微かに、本当に微かに細めた。
それでも悪いと思っているのか、シロはすぐ俯く。そんなことせずとも、アキラにシロを責めるという考えは微塵も浮かんでいなかった。やっと感情を見せてくれたことを嬉しく思うのは、あまりに悠長すぎるとも感じるが。
「心配すんな。過ぎたことは全部過ぎた時に考えればいいんだよ。今はこの状況をどうにかすることだけ考えろ」
「ではわたしが降りるので―――」
「それ意外な」
うっと、言葉を詰まらせるシロを見ながら、アキラも表には出さなくとも必死で考え続けていた。しかし、今の状況でやれることなど最早ない。ガソリンが切れるまで足掻き続けるしか選択はないのだ。それでもアキラは逃げ切らなければならない。先ほどのシロの選択が間違っていたなど、誰にも言わせたくなかった。
そんな時、ピピピピ、と天使のラッパか、悪魔の笛か、デバイスが鳴る。
一瞬、本部にばれたのかと思ったが、その可能性は低いことは自分で言ったのだ。本部の目も、検査も受けさせていない透明なデバイス。これに頭の固い本部の連中が目を付けたとは考えにくい。
では誰が?
アキラは慎重に可能性を潰していくが、あまりにも不確定要素が多すぎた。このデバイスにかかってきたということだけで相手を判断するのは難しい。危険、その言葉が脳に浮かぶが、そんなことを言えば今、この状況は絶体絶命だ。これ以上悪くなりようがないほど状況は芳しくない。
ならば、賭けに出るのも一興と、アキラはデバイスをタッチし、通話を繋げる。
『十二秒、まぁ合格ラインですね』
デバイスから聞こえてきたのはいきなりの上品な上から目線。この声を聞いた瞬間、アキラの脳裏には永久凍土のような笑みを張りつけた一人のパートナーが浮かんだ。
「まさか……ハル!? ハルなのか!?」
『はい、そうですよ。ハル・ベレスフォードです』
「くそっ、もうガソリンが切れる!」
メーターが力なく針を左側へと落していく。
それに比例してバイクも見る見るうちに速度を落としていった。最早人の走りと変わらない。後ろの獣達の牙が届かんとする。
「っ! シロ掴まれ、これはもうもたねぇ!」
アキラはシロの小さな体を腕で掬うように抱き上げると、バイクを蹴飛ばし地面に着地した。その反動で揺れるバイクはあえなく転倒し、迫っていて追手を数人巻き込み、破壊された。これまで頑張ってくれた車体に労いの言葉をかける間もなく、アキラはシロをお姫様抱っこし、全速力で駆けだす。
突然のアキラの反撃に一瞬勢いが弱まったものの、人の足でバイクに勝てるわけがない。呆気ないほどに距離を詰められると、今度こそ手がアキラを捉えようとした。その時、
ダダダダ! と、盛大に轟く連綿とした銃声が正面から鳴った。
『止まれ! 我々は銃を所持している! それ以上近づくならば発砲もあると思え!』
スピーカー越しに鳴り響いた野太い男の声に、アキラを追随していたバイク部隊は勢いを止めた。こんな場所に住んでいることもあって、引き際は心得ているらしい。
アキラはようやく自由の身に慣れたことに深い溜息を吐き、牽制を続ける部隊に礼を言いながら、ハルの待っている成田山新勝寺まで歩いていく。
ハルは早期にアキラがもう一つのデバイスを使っていることに見当をつけ、人を募り、救出ヘリを飛ばしていたそうだ。そこでもっとも近場でヘリが降りられる広場として、千葉を代表する大寺を指名してきたのだ。
地図によれば、アキラの現在地からすぐ近くなので歩いてもいける距離だ。アキラとシロは横に並び目的地を目指す。その間、ずっとシロはアキラの服を握っていた。
「それで、どうしてですか?」
唐突のシロの質問に、アキラは何を指しているのか分からず、喉を鳴らした。
「わたしを助ける理由です。アキラは船上で教えてくれると約束してくれましたし、先ほども身勝手な理由と言ってわたしを助けました。このままでは気になってしかたありません」
思い返すと確かにその理由を教えると口走っていた。シロを助ける為とはいえ、約束は約束。しかし、あまり口に出したくない、という心理が最後に確認をとる。
「あ~、それね。そんな楽しい話じゃねぇし、すんごい秘密とかねぇけど、それでもいいか?」
コクン、と頷くシロを見ると、もう逃げることは出来ない。それに今になってシロに隠す内容ではない。それどころか、アキラは奥底の部分でシロに知ってもらいたいと、胸がざわついているのを感じた。クロムやハルは信頼できる関係ではあるが、弱音や愚痴を言い合う仲ではなかった。そんな身勝手な願望が、ここにきてアキラの口を突破したのかもしれない。アキラは少し躊躇いがちに、言葉を選んだ。
「え~っと、俺はよ、この国の出身なんだけど、父親が統括議員やってたんだよ」
「統括議員?」
「あ~、まぁ、簡単に言えば昔の国会議員みたいなもんだ。政をする人間。だから俺は最初から統括区の中にいたし、それなりに裕福な家庭で育ってたんだよ」
「それは意外ですね。今世紀最大の発見です」
「張り倒すぞ、お前。いや、確かに昔の俺と今とじゃ、まったく違うな。父親は何かと教養、教養うるさくて、小っちゃい頃の俺は怯えながら暮らしてたもんだ。あいつが世界の全てで、あいつが正しいってずっと思ってた……」
「アキラの父親は正しくなかったんですか? 悪者?」
シロはコテンと首を倒した。
「ああ、そうだ。お前にはここがどう見える?」
アキラは暗がりに閉ざされた千葉を見ながら尋ねた。
「見た感じでは食糧庫のようなものでしょうか」
「やっぱお前は頭いいな。その通り、《情報戦争》でバラバラになった国は破綻を防ぐ為に首都である東京を絶対的に守らなきゃならなかった。だから、切り捨てられる物を切り捨てて、自分達の身を守った。そうすることを徹底させたのは、俺の父親だ。それは正しかったのかもしれない。でも、それは一握りの人間だけの正しさだ。情けないことに、俺はそれに気付けなかった。そうれが当たり前だと信じてた」
「仕方ないことです。人間は事象を疑うことは出来ても、環境を疑うのは難しい生き物ですから。でも口振りからするとアキラは気付けたのですね」
「ああ、俺が道に迷っていた時に、どこから忍び込んだのか、統括区外の同じくらいの子どもがいてな。見た時は喋ったら穢れる、なんて馬鹿なこと思ったけど、親切に道教えてくれて、同じところで待ってると決まって現れて、何となく仲良くなったんだよ。それで知った。俺の父親は東京以外を残りカスみたいに搾り取って、莫大な裏金作って、それで今の席に座ってるってな」
「つまり、アキラの父親は漫画やアニメに出てくるような悪役だったと」
あっさりと的確に言い表されたことに、アキラは軽く笑うしか出来なかった。
「まぁな。でも、その時の俺はあいつが間違ってるって分かっても、何も言えなかったんだよ。刷り込みみたいなもんかな、逆らえなかった。そんな時だ、父親が殺されたのは」
「殺された、のですか?」
シロの声が少しばかり震える。
「ああ、仲良くなった友達にな」
え、とシロの口から小さな悲鳴のような声が漏れた。立ち止まったシロに付き添い、アキラも止まり横を見ると、アキラを覗き込む鮮やかな瞳に安らぎを求めた。
「テロリスト、いや、この名称は正しくねぇな。ま、統括区外の解放を叫んでる連中で、あいつは侵入経路を確保してたらしい。確かに今にして思えばおかしな話だよな。学校もない統治区外の子どもがあんなに政治に詳しいなんて」
「その友達はどうなったのですか?」
「仲間諸共、死刑だ。何でこんなことをしたのか聞きたくて、直前に面会に行ったんだが、あいつは後悔してない、自分は正しいことをした、って笑ってやがった。それがきっかけだな、昔のアキラがぶち壊れて、今の俺の芯が出来たのは。父親は殺されてしかたないと思えちまうし、あいつらには殺す権利、みたいなもんを持ってる気分だったんだろ。でも、どっちも正しくない。間違ってる、って初めて思えた」
「だから、アキラは《UNMO》に入ったのですか?」
「ああ、あの時、俺が父親にちゃんと間違ってるって言えたら、あいつの正体に気付いて間違ってるって言えたら、二人を救えたんじゃねぇかってな。だから俺は間違ってることを正せる人間になって、救いたいんだ。傲慢だけど、きっと、全てを」
「だからわたしを助けるのですか? わたしが正しいなんてどうして分かるのですか? もしかしたら極悪非道で多くの人に涙を流させているかもしれないのに」
その時のシロは何かを怖れ、そして自身を罰するように言葉を意図的に強めている気がした。まるで自身を壊してくれと懇願するかのような少女に、アキラはそっと頭に手を乗せ、一つ一つの動作に細心の注意を払い、優しく撫でた。こんなことキャラではない、と思いながらも、アキラはシロを安心させるために柔らかい声音で告げた。
「シロ、お前は正しい。何度だって言ってやるよ。だから何度だって助けてやる」
顔を俯け、アキラと視線を合わそうとしない少女は、触れなければ分からないほど小さい動きで首を縦に振る。その行動に温かさを感じながら、アキラはシロの手を引くとハルの待つ、成田山新勝寺へと向かった。
成田山新勝寺は不動明王信仰の寺院の一つで、《情報戦争》前までは千葉で一番の人気の寺だったらしい。しかし、神に祈る余裕などない現在では、その栄光は見る影もなく、荒れ果てた境内は明王の怒りを表しているかのようだった。
汚れきった鳥居をくぐって見ても、辺りは一寸先を見通すのがやっとな暗闇だった。月明かりがおぼろげに照らす周囲に顔を向ける。
その時、パッ、という音が四、五回鳴ったかと思うと、目が痛くなるほどの光で攻められた。手で目元に影を作ると、慣れてきた目を次第に開く。すると足元に伸びた人影があることに気付く。
薄目を開けながら前を見ると、そこには強い光に影を引きながら立っている白髪の少女がいた。いつも可愛らしい微笑を崩さないが、その裏でどれほどのことを企んでいるのか、智謀の数には戦慄を禁じ得ないパートナー、ハル。長年共に数々の事件を解決し、互いに《ナンバーズ》を目指したパートナーだ。
久しぶりに出会えたハルに、胸の内側が震えるのを感じる。無事でいてくれたことの嬉しさや、頼りがいのある微笑。今まで仲間に裏切られ続け、荒んでいった心に初めて安心という芽が生えた気分だった。昂揚する気分は止まらず、アキラは子どものように手を掲げ振ると、ハルの名前を大声で呼んだ。
「おーい! ハル!」
「ハル!?」
その呼び声に反応したのは何故かシロだった。アキラのパートナーの名前を聞くと、今まで優しく包まれていた手が、圧力機にかけられたように痛みと共に潰れた。
どうしたことかと振り返ると、その顔は初めて表情と呼べるものをはっきりと映し出していた。瞳を完全に開き、縮小する瞳孔、寄せられた眉根。圧倒的な恐怖を表している。
「お、おい、シロ、どうした? ハルを知ってるのか?」
アキラは問いかけながら、そんなことはないはずだ、と結論付けていた。何故ならこのシロは、海はおろか、自身の名前まで知らなかった記憶喪失者だ。幾度か、記憶が戻ったような素振りを繰り返したが、シロとハルの接点を考えるなど、アキラが夜空を見上げ、星座を結ぶよりも難しい。
「アキラ。良かった、無事だったんですね」
せっかくの再開だというのに、いつもの落ち着いた口調を崩さないハル。
シロのことを訝しみながら、アキラも対応する軽口を吐こうとしていた時だった。
アキラは魂を吹き飛ばされたような感覚、例えるならそれが適しい衝撃に見舞われた。
騒乱する瞳孔は一つの点を見ようと必死に中央に戻る。
そんなアキラを見て、一人、たわいない会話をするような声をかけるハル。アキラは地獄に引きずり込まれるような悪寒に体を凍てつかせた。そして、
「すみません、アキラ。《それ―AL‐20047》をこちらに渡して下さい」
にっこりと氷塊のような微笑みを浮かべるハルの手には一つの銃が握られていた。
深淵をくりぬいたような銃口をアキラに向け、ハルはさらに晴れ晴れとした微笑を模った。
8
「何の真似だ………ハル!」
信じられない、信じたくないという心がアキラの声を荒げた。
その間にアキラの全方位はアサルトライフルを構えた兵士に囲まれた。例え撃つことになっても互いに当たらないよう計算された配置。それを見ただけで、アキラはこの場を武力で突破するのは困難だと理解する。
あまりにも早くに訪れた絶体絶命は、しかし、先ほどの比にならない絶望でアキラを殴りつけていた。多くの任務を共にし、信頼していたハルに裏切られた。その事実はシロという守るべき存在がいなければ、アキラは根こそぎ気力を奪われ地に伏していただろう。
そんなアキラの心情を知ってか、知らずか、ハルは優しげに笑う。
「それはこちらの台詞ですよ、アキラ。貴方は今の自分がどのような立場か、分かっているのですか? 部隊暗殺、重要取引物奪取、《UNMO》に対するテロ行為。このままいけば、歴史上最悪の罪人の一人に名を連ねるかもしれないですよ」
「そんなものはエルゴ達の罠だ! ハル、お前だって知ってるはずだ! 何で従ってる!? 何か弱みでも握られたのか!」
渾身の思いの言葉は、しかし、零度の微笑を砕くことは叶わなかった。
「弱み? ふふ、どこまでもおめでたい思考回路ですね。私は、私の意思で今、この場所に立っています。全て私の為、他人の思惑は関係ありません」
「ふざけるなよ、テメェ! 師匠が殺されてんだぞ! 冗談でもそんなこと言うんじゃねぇ!」
ハルは、アキラの真剣な口調をせせら笑うように溜息を吐いた。
「アキラ、私は何度も忠告したはずですよ。ここはそんなお気楽な世界じゃない、と。そうですね、貴方のその妄言を打ち砕く為に何故私がエルゴ側に付くのか教えましょう。私は、エルゴとある取引をしました」
「ある取引?」
「ええ、それを捕まえることで《ナンバーズ》にしてもらえる取引です」
ハルの語った理由の下らなさに、アキラは思わず笑声が漏れてしまった。
「何言ってんだ、ハル。確かにお前は昇格に誰よりも拘ってが、そんなんで他人を裏切る奴なんかじゃないってことは俺が一番良く知ってる!」
「そんなんで、ですか……アキラの中でどれだけ私を美化するかは勝手ですが、それも所詮妄想です。私は、私の為なら人を裏切りますよ。今のこの世界は、綺麗ごとだけで生き抜けるほど甘くないんですよ!」
眉間に皺を寄せ、大きく口を開けるハルの瞳は真摯の炎で揺らいでいた。初めて聞いた叫び声は、声の振動よりも言葉の重みが腹部に低く響く。最早疑いようがないほど、ハルは完膚なきまでに微笑を崩していた。
しかし、アキラは未だに信じられない。理由は教えてもらえなかったが、ハルは確かに昇格には貪欲だった。使命感を帯びた執念といっても過言ではない。いつも完璧な作り笑いを浮かべては、全てを昇格の為に利用していた。だが、ハルが危険を顧みず、何度もアキラを助けてくれたことも紛れもない事実なのだ。
だからこそ、アキラはハルを信じると決めた。
「お前はそんな奴じゃねぇだろ、ハル!」
その言葉を聞いたハルは、眉をきりきりと吊り上げ、鬱陶しそうに叫んだ。
「貴方の信頼なんていらないんですよ! いいからさっさと《それ》を渡しなさい! いい加減本気で殺しますよ!」
撃つ、という強い意思が、ハルの瞳を通してしっかりと伝わってきた。しかし、それは同時に苦しみ、痛みと悲鳴をアキラに教えてくる。苦しい、痛い、助けてとアキラの脳裏に泣き叫ぶハルがいる。それを感じ、大人しく引き下がれるほど、アキラの信念は軽くない。
アキラは大きく前に出ると、顔を険しくするハルと対峙する。アキラの揺るぎない信念と、ハルの放つ激情が空間でせめぎ合い、まるで少しでも動かせば爆発する爆弾を抱えているような緊張感を漂わせた。周囲を取り囲む兵士達も固唾を呑むのを感じられる。
そんな中、動く影が一つ、アキラの前に出た。
「やめて下さい。わたしは、あなたに抵抗する気はありません。あなたの言葉にならどんなことでも従いましょう。だから、アキラをこれ以上傷つけないでください」
シロは美しくもあまりにも細い手を大の字に広げ、庇うように進み出た。眩い白髪をヘリの羽が巻き起こす風圧でけたたましく靡かせ、ハルに向かって懇願する小さな背中は守るという強い意思をひしひしと伝える。
一瞬呆けてしまい、戻った意識で咄嗟にシロを下がらせようとした―――時だった。
「お前が……」
まるで悪魔の呻きのような低い声がアキラの背筋を凍らせる。
「お前がアキラを庇うなああぁぁぁぁ!」
響いたのは悲鳴のような絶叫。
ハルの指が構えた銃のトリガーを引くのを見て、アキラは考えるよりも先にシロの前に躍り出て、その身を背中で庇った。
そして、轟く一発の銃声。
左肩に烙印を押され続けられているような熱の籠った痛みが駆け巡る。鮮血を飛び散らせ、深々と切れた肩を異物が通過したという悪寒が力を奪う。ゆっくりと近づいてくる地面に胸部から受け止められ、次に顎が跳ねる。
普段なら踏ん張って見せるところだが、脇腹に受けた傷も相まって、すでに二日間ろくに休めてないことがここにきて集った。何とか起き上がろうと無事な右腕で支えを作っても脆く崩れる。
そんな所に、ハルの微かに震えた声が好機と見たか畳みかけられる。
「や、やはり貴方は馬鹿ですね。もう、貴方が《AL‐20047》を守る理由なんてないんですよ。アキラには、もう何も守る資格はない」
痛みに痺れる脳も、その言葉だけは見過ごせなかった。
「な、なん……だと?」
「先に言っておくべきでした。アキラ・來栖、国連会議をもって貴方の《UNMO》の資格を剥奪、国へ強制送還とする。これが国連会議にて正式に決められたアキラの処分です」
「こ、国連会議!?」
それは《情報戦争》の前まで行われていた名前を借り受ける形になった形骸の会議だ。しかし、いかに形だけとはいえ、一応は各国のトップの決めごと。そして、アキラ達《UNMO》の雇い主の決定したことでもある。自治区の区民は毛ほども気に掛けないその決定は、アキラにとって絶対であった。
「そんな、馬鹿な!? 何でここに国連が出てくる!? 何でエルゴを庇う!? これは、この一連の事件は国連が決めたことなのか!?」
「さぁ、私はそこに興味はありません。ああ、安心してください。アキラに掛けられていた賞金は今をもって無効になりました。これでもう、《それ》を守る理由はなくなりましたね」
先ほどまでの般若の形相が嘘のようにハルは笑みを咲かせた。
確かに《UNMO》の資格もなくなった今、アキラはただの一般人に過ぎない。シロを守る義務や権利はなくなるのかもしれない。しかし、
「ふざけんなよ……! そんなこと、守らねぇ理由にならねぇんだよ!」
怒りで分泌されたアドレナリンが痛みを和らげると、アキラは体内に残った力を雑巾の如く絞り上げ、震える膝で立ち上がった。守るのに資格などいらない。例え《UNMO》でなくなっても、罪人と貶められようとも、守りたいと思うことこそが、アキラにとっての理由なのだ。
息を荒げながら立ち上るアキラを見て、ハルはまた溜息を吐いた。
「今なら強制的に奪うことも可能ですが、それではアキラは納得しないでしょう。本当にテロでも起こされたら困るので、その理由も取り上げましょう」
ハルの口調はまるでじわじわと獲物を弱めるハンターのような狡猾さを秘めていた。
何が起こるのかと、身構えるアキラ。しかし、ハルはまったく予想外の行動に出た。
さっと、片手を上げると有無を言わさず、アキラを囲んでいた兵士をヘリ内に撤退させた。状況を必死で整理しようとするアキラを、さらに追い詰めるようにハルは自ら持っていた銃をも放り投げる。
完全な丸腰。兵士はいない。これでは逃げてくれと言っているようなものだ。
「これから先、決めるのは《AL‐20047》です。アキラと共にいたいのなら残ればいい。私と一緒に来るのなら追いかければいい。逃げる場合、私達は二度とアキラを追わないと誓いましょう」
このあまりにも出来過ぎた状況に、罠、という可能性も出たがすぐさま消える。この状況でハルに罠を仕掛けるメリットなどないからだ。罠など仕掛けずとも、圧倒的武力差で簡単に勝負はつく。しかし、ハルはそれをあえてしなかった。それどころか、自ら不利を演出して見せたのだ。まるでシロが自分に付いてくるのが当たり前だと言うように。
訳の分からないことだらけで脳がパンクしそうだが、逃げていいというなら逃げない手はない。追ってこないという言葉まで鵜呑みに出来ないが、そんな悩みもこの危機を脱してからだ。
「シロ、行くぞ。ここは大人しく逃げるぞ」
妙な不安に駆られ、焦りながらシロの手を握る―――だが、
「すみません、アキラ。わたしはいけません。わたしはハルの傍にいなければなりません」
儚い言葉、そしてその手はシルクのような滑らかさを残し、消えていった。
振り返ったそこには、いつもの無表情なシロ―――と思いきや、ほんの数ミリ単位、アキラだからこそ分かるその微小な動作。
シロは小さく微笑んでいた。しかし何故だろうか、その笑みを見たくないアキラがいる。その笑みは柔らかい悪寒と共に、別れを告げているように思えたのだ。
「おい……何してんだよ。そ、それも何かのドラマの台詞なのか? こんな時に冗談言ってる場合じゃねぇぞ。いいから早く来い、シロ!」
異様なほど高鳴る鼓動の中、関節が全て伸びきる勢いでアキラは手を伸ばした。
しかしシロは微笑んだまま、そっと白髪を揺らす。
「そう言えば《シロ》という名前は、本名が分かるまでの仮の名でしたね。わたしの本当の名前は《AL‐20047》です。《シロ》と違って、センスのある格好いい名前ですよね。だから、もうわたしは《シロ》じゃないんです―――」
シロは顔を伏せ、行儀よく腰を折ると、
「―――さようなら、來栖アキラ」
淡々と、淀みなく言い退けたシロは、顔を白髪で隠し、踵を返した。
そのままヘリの作る風に髪を揺らすと、横からスライドしてきた黒い壁に姿を阻まれる。
アキラはかける言葉も見つけられないまま、ただ口を開閉させヘリの行く先を瞬きせず見詰めるしか出来なかった。それ以外、体は動かせなかった。
そしてシロは、アキラの思考回路がまとまるのも待たずに、広がり続ける闇に溶け込んだ。幾度と目を凝らせども、夜空を切り裂く流星のような純白はもう輝くことはなかった。
「惨めなものだな」
唐突に掛けられた言葉に、失意の内から意識を強制的に戻すと顔を真横に向ける。
そして襲ったのは首の骨がねじ折れる勢いの衝撃。無防備に吹き飛ばされながら、頬に痛烈な蹴りをくらったのだと遅まきに知る。境内を数回バウンドし、足をつけ勢いを殺すとキッと前を睨む。
視界に映るのは月光に照らされ、眩く光る金。そしてスーツ姿の金の後ろには一人の武装した兵士がいた。
「愛しのお姫様に逃げられ、良い塩梅に絶望しているな。そんなお前の顔をずっと見たかったぞ」
妙にきざったい言い回しに、嫌味な笑みを浮かべるのは《UNMO》次長、エルティム。毒々しいほど華やかな金髪をさらりと左右に振り、びっしりと着こなした紺色のスーツからは細く見えるものの、クロムにも迫る勢いの体術はアキラが何の防御も出来ず吹き飛ばされた通りである。
「何でテメェがここにいる……!」
混乱や絶望で折れかけていた心を、クロムを殺したエルティムに怒りを向けることで何とか立て直す。おかしなことではあるが、エルティムが今ここにいなければ、アキラは廃人のように佇み、心が死んでいただろう。
頬と首に新たな鈍痛を感じながら、アキラはだいぶ痛みの治まってきた左腕も震わしながら拳を握り構える。
対しエルティムは悠長に歩き、手を広げ馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「何でここに? 本当にお前は馬鹿だな。決まっているだろう、殺す為だ……!」
馬鹿と殺すという単語を意図的に強めたエルティムは、優に五メートルは離れていた距離を一瞬にして詰めると、大気をうねらせる横蹴りを繰り出してきた。
万全に構えていたアキラは防御こそ出来たものの、蹴りのあまりの重さ、満身創痍の体で受けきることは出来なかった。アキラはまるでピンポン玉のように吹き飛ばされ、エルティムは休む暇を与えまいと肉薄する。
このままではやられるのは必然。アキラは拳を引くと、高速で突っ込んでくるエルティムに完璧なタイミングでカウンターをくらわす。これはさすがのエルティムも避けることは不可能のはず。しかし、彼は口を三日月のように歪めると、突然と背を向け、アキラの突きだした拳を肩に乗せた。
まずい! そう直感しながらも放たれた拳を引くことは叶わず、そのままエルティムに一本背負いの要領で真上に投飛ばされる。空と大地を視線が行きかい、そして一瞬の停止。すぐに停止も終わると内臓が持ち上がるような浮遊感と抵抗できない悪寒を滲ませ落下する。
くるくると回ったアキラの頭が地面に激突しそうになった時、腹部に重い振動。そこにはエルティムの綺麗に伸びた足が突き刺さっていた。事実を確認したアキラは血混じりの唾液を吐きだし、放射線を描き飛んでいく。
吹き飛んだ先には朽ち果てた寺があり、アキラはカビや草の生えてきている扉を破壊すると、中に転がり込んだ。転がり続けるアキラを止めたのは、微かに金色に輝く仏像と本尊をまつる壇であった。積った埃が口の中に侵入し、唾と共に吐き出す。蹴り抜かれた腹は胃液をぶちまけそうな痛みが付きまとったが、幸い罅程度で折れてはなさそうだ。
片膝を突きながらどうにか起き上がるアキラの視線に二つ影が入る。
「何を立ち上がる? お前にはもうその理由などないだろう」
馬鹿にするような声音で木製の床を軋ませながら歩くエルティム。
「信じていた組織に裏切られ、仲間に裏切られ、挙句の果てには守るべき者にまで逃げられる。喜劇にしては哀れ過ぎ、悲劇にしては惨め過ぎるな。少しは現実という物が分かっただろう。お前が語る正義など、所詮理想、空想の産物に過ぎないんだよ」
エルティムは、アキラの頭を撃ち抜くように踵落しを繰り出す。そしてそのまま後頭部を砕かんと踏みにじった。頭蓋骨がミシミシ鳴るのが聞こえる。
「殺せと言う指令だったが、こんな惨めな蛆虫は手に掛けるのも躊躇われるな。ああ、そうだ、良いことを思いついた。今ここで、今後下らない正義は二度と口に出さず、守ってきたお姫様を見捨てると誓え。そうすれば惨めさに免じて命だけは助けてやろう。もう完膚なきまで叩き潰されたんだ。こんな誓いくらい簡単だろう?」
鬱陶しげに金髪を揺らし、にやにやと笑うエルティムをアキラは少しずつ足を押し返しながら睨む。
「誰が……そんなこと、ぐはっ!」
顎をエルティムの蹴りが打ち上げた。がくんと、後ろに倒れるアキラの胸倉を、エルティムが掴み上げる。喉を占められ、呼吸が苦しい。
「言え」
冷徹な一言。
「……誰が、ぐ、がはっ!」
「言え」
冷ややかな声と共に三発の打撃が腹部に襲い掛かる。蹴りを入れられた腹部が軋む音がする。
さも愉快そうに笑うエルティムに反して、アキラの怒りのボルテージは段々と溜まっていく。惨めなどということはアキラ自身が一番分かっていた。組織に反逆し、罪人の汚名を被ってまで自分の正義を貫こうとした結果、手元には何も残らなかった。今まで重ねてきた努力も、師匠も、仲間も、そしてもシロも、アキラの腕の中を水のように抜けていく。
だがしかし、アキラの胸を掻き乱すのは噴火前の火山のような震えだった。
「ッ、オラァァァ!」
怒りに身をまかせたアキラは、体をあらん限りの力で前にやると、エルティムの顔面に渾身の頭突きをかました。ここで頭突きが来ることを予想できなかったのか、エルティムはまともにくらい、鼻を抑えながら数歩仰け反る。
胸が熱い。喉を掻きむしってしまいたいほど苦しい。しかし、それとは別にとても清々しくもあった。今のアキラはこれ以上下がりようもないほど惨めだ。だからこそ、もう何も心配しなくていい。今度はアキラが取り返す番だ。
「俺は確かに惨めだ! ああ、惨めだろうよ! 全部に裏切られて、全部失った! けどな、俺はもうずっと前に決めてんだよ! 正しいと思ったことを貫くってな! 俺はあいつらを助ける……シロとハルを助けて、あの間違った《UNMO》をぶち壊してやる!」
喉が千切れるのではないかというほど、アキラは声を振り絞り、世界に宣戦布告するように叫んだ。例え裏切られようと、得る物がなかろうと、アキラは子どもの頃の愚をもう二度と犯さないと決めていた。ただそれだけだと認識すると、アキラは状況に不釣り合いな笑顔を浮かべた。迷う必要がないほど簡単な問題と、決して折れないという強がりからの笑みだった。
その姿を見たエルティムは指で鼻を擦ると血を飛ばし、赤く染まった笑みを漏らす。今までよりもさらに凶悪で、薄ら寒さを感じる。
それに対し、アキラは鋭い眼光で真っ向から向かい合った。
刹那の間、静寂が降りる。
そして、動き出したのは同時だった。エルティムは笑みを浮かべながら、アキラは咆哮しながら、互いに拳を振り上げた。もう体当たりしてしまう、という距離で放たれる拳。ほぼ同じ速度、同じ角度で両者の頬を撃ち抜かんとする。
だが、次の見た光景は、俄かには信じがたいものだった。
拳が当たる直前で二人は石像のように停止していた。いや、されていた。
アキラとエルティムの放った拳は後ろに控えていた兵士に止められていたのだ。どういうことか訳が分からなかった。ただ掴まれた腕はびくとも動かない。
動揺するアキラに対し、エルティムの態度は落ち着き払ったものだった。止めに入った兵士を殺してでも襲い掛かって来そう形相だったが、何とも素直に態勢を崩し、スーツを正した。
その行動の呆気なさに毒気を抜かれ、アキラも躊躇いがちに拳を引く。
「一体……これは……お前達は何者だ?」
緊張の糸を切らず、どんなことにも対処できるよう構えながら尋ねる。するとアキラを止めていた兵士が振り向いた。
「なんだい? まだ気付いていなかったのかい? これはまた、一から鍛え直しが必要かもしれないね」
女性と思われる声を出しながら、兵士はフェイスマスクを脱ごうとしていた。兵士がアキラとエルティムを止めたというのも驚きだが、中身が女性というのはさらに信じがたい事実だった。
しかし、そんな驚愕など簡単に吹き飛ぶような出来事がアキラを待っていた。
「え……えぇぇぇぇ!? 嘘だろ、な、何で……何であんたが……!?」
存在するはずのない人物が現れ、アキラの顔から血の気が失せていく。がくがくと震える口と指を持ち上げ、ファサと、ウェーブのかかった髪を解放したその人を見る。
「ふふ、どうした? まるで幽霊でも見たような顔だな。もう私のことも忘れてしまったのかい? アキラ」
「し、しししししょ、パクッ!」
不敵に笑うクロムの名を呼ぼうとしたアキラの口に暴力的なまでの刺激が舌を襲う。まるで口内でビックバンが起こっているような衝撃を味わいながら、床をのた打ち回るアキラにクロムは言った。
「だから何度言ったら分かるんだ、お前は。先生だ、先生。師匠なんて言われるとまるで私がお年寄みたいではないか。このぴちぴちの肌を見よ」
そう言うとクロムは来ていた武装服を脱ぎ捨て、いつものワンピースに、上を羽織るという普段着になった。どうやって中に来ていたか疑問だが、鬼の師匠の前では常識は霞と消えるのであった。
「で、でもなんでし……先生が!? 確か、死んだって……」
「うん? 何だ気付いていなかったのか? ちゃんとサインを出しておいたじゃないか。ほれ」
そう言うとクロムは横を流れる髪を掻き分け、顔を少し反らし耳を見せてきた。そこには弱い月光を浴びて煌めく一つのアクセサリーが。
「エルティムに作ってもらったダミー情報には耳飾りをさせなかったから、とっくに気付いてると思っていたが……詰めを怠るからそういうことになるんだぞ」
「いや、しっ……先生が死んだって聞いて動転してる状態で気付けるわけねぇだろ! それに、エルティムはエルゴの手下……」
「私はいつ、いかなる時でもクロムだけの下僕だあぁぁぁ!」
アキラの言葉が琴線に触れたのか、エルティムは鬼の形相で鼓膜が破れるのではないかという叫びを発した。アキラは音量よりもその内容に鼓膜が破れてしまったのではないかと自分を疑った。
「え……え、下僕? 下僕って……下僕!?」
「そう! エルゴの腹心とは裏の姿! 本当はクロムにつき従い、その後ろを陰に忍び付いていき、一挙一動全てを見守っているのだっ!」
「キモい」
まるでオーラでも発生しそうなほど力説していたエルティムは、クロムの見事な蹴りで寺の壁にめり込んだ。その顔が熱を帯びたように赤らんでいるのは気のせいだと思いたい。今までキザっぽくて、何かと喧嘩を吹っかけてくるというエルティムの姿が、音を立てて崩れ去った。
「さて、あんな変態のことは放っておいて、アキラ、ハルとシロ君を助けたいかい?」
クロムの瞳が先ほどまでの穏やかなものから、鋭い剣呑を含んだものに変わる。一瞬その眼光に怯んでしまったが、アキラはすぐに返した。
「当たり前だ!」
クロムはそう断言するアキラを見て、まるで成長した弟子を見る師匠のように満足げに頷く。その笑みにアキラは少しばかり顔を赤めた。
「それを聞いて安心したよ。準備は私とエルティムがなるべく済ませておいた。出来るだけ早い方がいい。出ないと―――」
クロムが口早に説明をしている時だった。突然、クロムのしているデバイスから妙なノイズ音が鳴った。見てみると他の二人のデバイスにも同じような現象が見て取れる。アキラのだけは何ともない。奇妙な胸騒ぎを感じるが、もう操作は出来ないようだ。そんな時、突然デバイスから立体映像が流れ出た。
「こ、こいつは……!?」
『皆さん、私達は《UNMO》です。この回線は政府関係のデバイスにのみ流されています。手短に用件を述べます。覚醒は至りました。各国のトップは速やかに《UNMO》の傘下に入ってください。これらの要求が無視された場合には国家破綻の恐れもあることを念頭に入れて下さい』
淡々とデバイスから抑揚のない声を響かせるのは見る者の心を奪う鮮やかな純白。やる気のなさげな半開きの瞳はそのままだ。シロ。アキラが守ってきたその少女は、今や鋼のように冷えた目を据えて、口を開閉することしか許されていない機械のように感じる。
ヘリの中で言わされているのだろう。後ろにヘリ内部の壁が見える。
「何だこれ、どういうことだよこれ!」
「シロ君を映像に出したのは国連側に切り札を手に入れたと宣伝する為だろうね。実際これを見て、各国のトップは今大パニックになっているはずだ」
淡々と告げるクロムの言葉を、アキラは理解出来ずに割り込んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 何であいつが出るだけで世界はパニックになるんだ? しっ……先生はシロについて何か知ってるのか!?」
クロムは瞳に厳しさを加えると頷いた。
「私が《アカシック・レコード》の調査をしているのは知っているね?」
その問いかけは最早答えと同義だった。
「じゃあ……まさか、最近噂で出てきてた《アカシック・レコード》って……」
僅かな間に、冷たい風が吹く。そして、
「《アカシック・レコード》はシロ君だ」
その言葉に、しかしアキラは意外なほど動揺を受けなかった。
例えシロが宇宙人であろうと、アキラの守るという行為の妨げになどならないのだ。
「そうか。まぁ、正体なんて考えたらどうでもいい。俺はただシロとハルを助けるだけだ」
「よく言った。それでこそ私の弟子だ。エルゴ達《UNMO》に正義の鉄槌を下してやろうじゃないか」
「エルゴのようなブタに、クロムの鉄槌はもったいない。その前に殺す!」
若干おかしな人物が一人いるものの、アキラ達は世界最大の執行機関へ向け、一歩足を踏みだした。
9
闇夜に冷やされた風に、カール警備兵は思わず身震いした。
カールは現在、《UNMO》本部正面入り口を警備中だった。隣で同じように身を震わすベンノと共に。
本部は太平洋に浮かぶ人工島なので、都会のように明りも少なく、月も雲に隠されては薄暗くてかなわない。こんな日は決まってよくないことが起こる。退屈も相まって嫌で、嫌で仕方なかったが、ポーカーで負けてしまったのだから文句は言えない。
いや、一人だけ文句を言える人物がいる。《ラウンダー》であった、アキラ・來栖だ。
あのガキが馬鹿らしい正義感など振りかざさず、素直に従っていればこんな手間は必要なかったのだ。あの時、アキラ・來栖が任務で持ち帰ったケースをエルゴに渡したあの場所にカールはいた。アキラ・來栖のことを取り押さえたのは自分であった。
―――ふざけんなよ、テメェら……! それが本当に、世界の治安維持を目的として作られた《UNMO》のメンバーかよ! 金か、地位か、何で買収されやがった、このクズ共!―――
アキラ・來栖の叫んでいた言葉が再び脳内に反芻される。今思い出してもむかつく物言いだ。金や地位で買収されて何がいけないのか。カールには愛する妻がおり、子どもが三人いる。今は何とか《統括区》にいられるが、日に日に高まる増税に家計は火の車だ。このままでは《区外》に追放されるかもしれない。それだけは絶対にさせない。あんなゴミの掃き溜めのような所に、大切な家族を追いやるわけにはいかなかった。その為には金と地位が必要なのだ。正義や何だというのは、所詮恵まれた余裕から出る自慢でしかない。
しかし、とカールは渋面を作ると、かけていた首飾りを手に持ち、眺めた。
今の自分は去年までと同じく、大手を振って笑顔で我が子を抱きかかえられるだろうか、そんな疑問が波打つ。家族のためとはいえ、今や自分は立派な犯罪者だ。これからカール達の行いで他の人達はさらに苦しむだろう。その中に同じ境遇の者がいるとすると、同情を禁じ得なかった。
アキラ・來栖のことを羨ましく思うこともあった。カールにもあんなふうに正義感に燃えていたころがあったものだ。しかし、どこを見ても悪しか蔓延っていない社会に出て、カールの正義は簡単に殺されてしまった。所詮、理想だと早々に諦めた。それをアキラ・來栖はどうして保っていられたのだろうか。
いやいやいや、とカールは下らない想像を、頭を振ることで追い出した。今さらそんなこと言っても遅い。もうすでに、計画は動き出しているのだ。成るようにしか成らない。
「な、なな!? あ、貴方はっ!」
隣のベンノが突然奇声を上げたので、カールは思考を打切り、その顔を覗いた。
「どうしたベンノ? アホ面下げて、まるで幽霊でも見たような顔……な!?」
ベンノの視線を辿り、カールは戦慄した。
美しい女性が視線の先で流麗な髪を振りながら、にっこりとほほ笑み歩いてくる。
それは《ナンバーズ》トップであったクロム・デュオニソスだった。
「な、何故貴方が……!?」
思わず問いかけてしまったカールの質問に、クロムは十メートルほど手前で足を止めると答えた。
「何故って、ここは私の仕事場だ。来るのは当たり前じゃないかい?」
クロムの答えは普通ならばその通りだ。しかし、彼女はもう死んでいるはずだ。エルティム次長が提示した死体の写真はカールもしっかりと見ていた。
「貴方は死んだはずだ! ここにいるはずがない!」
ベンノの悲鳴に似た絶叫に、クロムは驚きもせず口を動かした。
「ああ、そうだね。私は死んだことになっているんだった。となると、君達は私が生きていて喜んでくれる方か、それもとも絶望する方かな?」
その問いはつまり敵か、味方かを聞かれていた。カールの喉が干からびるほどからからになる。相手はトップともまで言われた人物だ。どう答えた方がいいのか、カールが迷っていると、ベンノがハンドサインで待機中の警備兵に連絡をとれた合図を送ってくる。ベンノは絶望する方だと答えるようだ。そして、カールも最早クロムの生を喜べなかった。
カールが無線で待機中の全警備兵に連絡を入れている間に、ベンノは銃を構え、じりじりとクロムに迫っていった。それを見たクロムの顔は落胆に沈む。
「残念だよ」
「貴方の武勇伝の数々は知っていますが、私とて《UNMO》で訓練された兵士。それにこちらには銃もある。かつての仲間であったとしても、手加減はしません」
その言葉を聞いてカールは一つの失念していたことを思いだした。このベンノは雑務を真面目に取り組むタイプではないが、日々の訓練を怠らず、警備兵の中では一二を争う腕前なのだ。単純な戦闘力だけで言ったら《ナンバーズ》さえ凌ぐだろう。加え、クロムは見たところ腰にハンドガンだけ、ベンノは警備体制の為、完全武装だ。
例えかつてのトップであろうと、この差は覆らない。そう、カールが安堵した時であった。クロムが今までの微笑ましさを消し、冷血な三日月を浮かべ、剣のような言葉を吐いたのは。
「かつての仲間? はっ、何を気色悪いことを言っている。例えどんな理由があろうと悪に落ちた瞬間から、お前等はただの蛆虫だ。こうして会話して、お前達の視界に映ってることさえ気持ちが悪い。失せろ。消えろ。潰れろ。蛆虫に許されるのはそれだけだ」
存在さえも認めない瞳に、カールは歯が鳴るのを抑えられなかった。本部に努めている為、今まで何度もクロムの姿を見たことはある。そのいつも穏やかに笑う顔が、こうも毒々しく、蔑むような視線を作れることができるのだろうか。カールはクロム・デュオニソスという人間を根本的にはき違えていたことを、死に食われるような恐怖と共に味わっていた。
それはベンノも同じはずだ。カタカタと揺れる銃がそれを物語っている。しかし、生来の負けず嫌いのせいか、ベンノは下がることをせず、獣の威嚇のように吼えると銃弾を放った。
しかし、そこでカールは信じられない物を目にする。銃弾の先にいたクロムは姿が消え、次に見えた時にはベンノの真横に迫っていた。危ない、と声をかけることも出来ずに硬直するカール。ベンノがクロムの姿を捉え、顔を横に向けると、そこで終わった。クロムの首を吹き飛ばすような掌底が顎に炸裂。下顎が鼻に到達してしまいそうなあり得ない折れ方をすると、血の塊を吐きだしベンノは崩れた。
ただ何も出来ず、銃を構えることもせず見ることしか出来なかった。そして、クロムの煌々と光る視線がカールを捉えると四肢の制御を失う。ただ悪戯に呼吸を荒げることしか出来なかった。
死ぬ。何をどうやってという考えは浮かばない。ただ、死ぬという言葉だけが脳内を行きかっていた。そして網膜の裏に映し出されるのは家族の笑顔。
「大丈夫か、カール!」
そんなカールを現実世界に戻したのは肩を叩かれ、掛けられた声だった。いつの間にか流していた涙で潤む視界で見ると、そこには大勢の警備兵の姿。呼んでいた援軍がようやく到着したのだ。
「け、警備長! 来てくれたんですね! で、でも人数が少ないようですが……」
「裏からも別の部隊に奇襲を受けている。少しだけそっちに回した。我々はあの化物を仕留めるぞ!」
ああ、これで助かった、と遠ざかった恐怖にカールは膝を突き、地面に座り込んだ。多くの警備兵が長の命令を反復しながら、たちまち態勢が整えられる。その数はおよそ三百名ほど。この数ならさすがのクロムも、手も足も出せないだろう。
しかし、しゃがみながら銃を構えた兵士の間から見えたクロムは、まだ笑っていた。
ドドドン! と一斉に銃声が鳴り響いた。もう攻撃したのかと思ったが違う。しゃがみこんでいた兵士達が次々と倒れる。攻撃されたのだ。しかし誰が? クロムは今も銃など持っていない。その疑問に答えるように、クロムが言った。
「君達は私がただ悪戯に死体ごっこしていたと思うのかい? これでも苦労したんだよ。他の国の軍隊を動かすにはね」
そう言ったクロムの後ろからは、各国の特色を兼ね備えた色とりどりの兵隊が次々と闇夜の中から姿を現した。
カールは家族の写真の入ったペンダントを胸に抱え、死にたくないと号泣した。
* * *
アキラはクロムが敵を引きつけている内に本部へと潜入していた。
一階ロビーに出ると、その上の立体映像にエルティムが映っていた。今回の作戦でエルティムは工作員だが、一体何をしているのか。
『―――し、どうか落ち着いて聞いて欲しい。我らの英雄、クロム・デュオニソスがここに正義を問いに戻ってきている』
流れていたのは演説だった。《UNMO》の残った職員の中でクロムに賛同する者を募ろうとしているのだ。
その効果を高めるように画面がクロムの戦場に変わる。作戦通り各国の軍と共に戦闘している。銃を片手に持ち撃つクロムの死角に敵が銃を構えた敵が映し出される。絶体絶命、かと思いきや、銃を手首で投げると反対の手で見事にキャッチ。呆気なく敵は倒れた。
こんな映像を見せられては敵はだいぶ士気を削がれるだろう。
『皆もすでに知っていると思うが、エルゴはある兵器を使って世界を掌握しようとしている。諸君らにもエルゴから甘い誘惑があったことだろう。だが、今一度考えてほしい。我々が守るべき物はそれなのかと。もう胸に抱いていた正義は消えてしまったのか、いや、そうじゃないはずだ。君達の中にも悪に消されかけてはいるが、正義の炎はきちんと胸に抱いているはず。今こそ、その灯を大火にする時だ! 同志よ、共に悪を打とうではないか! 正義を胸に!』
とても巧い作戦、と思うと同時に、眉を顰めずにはいられない作戦だとアキラは思った。
敵を薙ぎ倒す圧倒的なクロムに、人心を誘導するような話術のエルティム。これでは全てとは言わないが、大半の人間が揺らぐ。そしてその揺らぎを証明するかのように上層から銃声が鳴り始めた。
人を誑かすような作戦は大手を振れるものではないが、今の現状では間違ったことではない。しかし、アキラの懸念はまた別のところにあった。この作戦、先ほどの演説だけでなく、クロムとエルティムの仕組んだこの決戦は、もう一つの別の意思が関与しているように思えてならない。まるでこうなることを狙っていたように……
いや、と顔を振るとアキラは降りてくるエレベーターを見た。
超高層ビルである本部の主な移動手段はエレベーターだ。しかし、エレベーターはランク制を使用しており、個人ごとに降りられる区画は決まっている。訓練生のアキラでは、自室と訓練室、そして任務時に会議室が解禁されるだけ。
目的となるエルゴは十中八九、最上階にいる。だが、最上階に行けるエレベーターは一つだけだ。そして、そのエレベーターは一階には来ない。尤も下で、事務の二十九階。そこまでエレベーターで行けば、最上階まではエルティムに借りたランクカードで簡単につける。
早くシロとハルを助けたいアキラを焦らすようなエレベーターがようやく到着した。素早く乗り込もうとドアの目の前に立つアキラは、開いた隙間から黒い物が覗いているのに気が付いた。次第に開かれるドアを眺めながら、その正体を頭の中で探っていく。
そしてドアが半ばまで開かれた時、アキラは体を捻じり切る勢いで横に跳んだ。直後に鳴り響くのは絶え間ない銃声。エレベーターの内部で敵が待ち構えていたのだ。
轟く銃声が止むのと同時にアキラはエレベーターの中に飛び込み、中に二人の姿を確認する。勢いそのままに、一人の顔面を膝で蹴り上げ、もう片方が銃を構える前に裏拳が顎を揺らした。
はっきり言ってかなり危ないところだった。準備が早すぎる。まだ攻めてから十分ほどしか経過していない。もしかしたらエルゴはこうなることを予想し、息のかかった兵士に警備兵とは別に警戒させていたのかもしれない。
何はともあれ、無事に危機は乗り切れた。アキラは伸びている兵士二人を外に引きずり出すと、二十九階のボタンを押す。負担を感じさせない高性能さで動き出すとエレベーターはぐんぐんと昇って行った。
ここまではおおむね順調だ。順調のはずだが、アキラは階層の表示が一つ、また一つと上がるのを見ると、妙な胸騒ぎがする。これで本当に終わるだろうか。相手は仮にも《UNMO》の長官を務めてきた男だ。それをただ一度の攻撃、それもたった二人だけというのはあるのだろうか。
考え続けていたアキラは、ある一つの可能性に辿り着くと、二十八階で光っていたボタンを素早く押した。間に合ったかと、固唾を飲みながらドアを凝視する。何とか上に行く前に押せたらしく、ドアはスムーズに開いた。
アキラはドアが閉まるのも待たずに無人の事務階を突っ切った。そして設置されている非常階段を駆け上がる。二十九階の防災扉を音を殺して僅かに開ける。
予想した可能性は、恐ろしくも当たっていた。二十九階のエレベーター前に五人の銃を持った人が待ち構えていた。一階に降りてきた敵はこれで攻撃が終わりと見せるミスリード。本命はエレベーターという逃げられない空間に閉じ込め、蜂の巣にする五人。
しかし、まさか自分達が騙されているとは露ほども思っていまい。
そこが狙い目であり、一対五であるアキラの唯一の勝機。
チーン、という音が鳴り、五人が一斉に銃を構えた。と同時にアキラも銃を構えながら走り出す。五人はエレベーターに向けて一斉に銃弾を放つ。しかし、そこにアキラがいないことに気付くと、困惑したように顔を左右に振る。
その間に六発の銃弾が三人の肩や膝を射貫き、無力化する。残った二人が慌てて銃をアキラに向けたが、遅すぎる。もうアキラは敵の懐に入っていた。顎にアッパーをくらわせ、鳩尾に蹴りをいれる。倒れた五人の腕を縛り、遅れた時間を急いで取り戻そうと、急いでエレベーターに指を伸ばした時だった。
後ろから鉄が擦れあう音が鳴る。咄嗟に銃を構えられたのだと認識すると、アキラは振り返らず、円で階を貫くエレベーターの反対側へと回りこんだ。鉄を裂くような甲高い音がアキラを追随する。ぎりぎりのところで障害物に隠れられたアキラは、安堵ではなく自分の愚かしさに舌打ちした。
油断していたのはアキラの方だったのだ。あの五人が本命だと思っていたが、それすらもブラフに使い、後ろでアキラのことを狙っていた。あまりにも巧妙な計画だ。一体どんな猛者が仕掛けてきたのかと、逡巡するアキラに、
「五人相手に一瞬で勝負をつけ、私の攻撃も躱すとは……さすがですね、アキラ」
と、聞きなれた少女らしい声で名を呼ばれる。
瞬間、過去一緒に体験した様々な出来事が脳の中に映し出された。
「………ハル……か」
敵になるとは予想していたが、実際に本気で命を狙われると胸に痛いものがある。ハルはそんなこと知ったことかと、朗らかな声をアキラの背後から発した。
「ええ、そうですよ。貴方のパートナーのハルです。どうしたんですか、アキラ? そんなとこに隠れていないで再び会えたんですから顔を見せて下さいよ」
エレベーター越しにもハルが銃を構えているのが殺気で分かる。しかし、ここに隠れて無駄に時間を流しても、何も変わらないどころか状況は悪くなるだろう。それに元々アキラはハルと戦うつもりなど微塵もないのだ。
アキラは手に持っていた銃を見えるように投げ捨てると、両手を頭の後ろに組んでハルの前に姿を現した。本当に現れるとは思っていなかったのか、ハルはアキラの行動に含み笑いする。
「まさか本当に出てくるとは思いませんでしたよ。銃まで捨てて、降参するんですか?」
「そうじゃない。ただ、俺はお前と戦うつもりはない、って言いたかっただけだ」
「その一言を告げる為にここまで不利になったのですか? 相変わらず馬鹿ですね」
「馬鹿で結構。その馬鹿にできれば何でお前がこんなことするのか教えてくんねぇか?」
「だから、昇格の為だって―――」
「そんな嘘ぐらい馬鹿にだって分かる」
アキラの言葉に、ハルはそれまで浮かべていた微笑を引込めると、氷点下まで下がる無表情を押し出した。
「……その様子だと、クロムさんから何も聞いていないようですね」
「ああ、お前のことはお前に直接聞くべきだって言われたよ。教えてくんねぇか。どうしてお前がエルゴ側に付くのか。俺に出来ることなら何だってする。必ずお前の助けになってやる!」
アキラの言葉を受けたハルは一瞬きょとんとすると、途端に口は弧を描いた。そして、
「ぷっ、あは、あははははははははははっ!」
まるで狂ったオルゴールのように錆びついた嬌声を繰り返した。
「出来ることなら何でもする? 必ず助けになる? うぬぼれんな! 貴方程度が一人いきがったところで何も変えられないんですよ! 助けてくれるというのなら、まずは私のお姉ちゃんを助け出して下さいよ! この世界に殺されたお姉ちゃんをっ!」
ハルは捨てられた人形のように汚れた笑顔で、血よりも痛々しい涙を流した。
アキラはその剣幕に思わず退いてしまう。
「この世界に殺されたって……一体どういうことだ?」
その問いかけに、ハルは自身の表情を握りつぶすように指がめり込むほど顔を握りつぶした。指の間から深い闇を湛えた瞳が覗く。
「……いいでしょう。ある程度事情を知ってもらえた方がアキラも納得して手を引いてくれるでしょうから。《情報戦争》は知っていますよね。そしてその終わり方も……」
「イギリス側が諜報機関のトップを無条件で差し出したことが―――」
「その生贄……私のお姉ちゃんなんですよ」
自虐気味に笑い、ハルはそう告げた。
ハルの姉。その近いようで遠い存在にアキラはどう反応すればいいのか分からなかった。苦しむのも、嘆くのも、同情するのも違うと思ったからだ。ただ、姉の話をするハルは少しずつ落ち着きを取り戻しており、どれほど大切な存在だったかは知り得た気がした。
「クロムさんとエルティム次長はお姉ちゃんと同じ諜報機関に属していたらしいです。その中で、お姉ちゃんは国からの要請に立派に答えただけなのに……! 途端に戦争が悪化すると今までお姉ちゃんを讃えていた奴らは手の平を返すように侮蔑し出した。そして、あろうことか、お姉ちゃんを生贄にして戦争を終わらした!」
ハルの手に再び力が入り始める。その形相は次第に深く変わっていく。ハルの姉は確かに辛い話だ。肉親でも何でもないアキラが、それを当然だと断ずるのは間違いに他ならない。しかし、ハルの姉の行動は正しい物なのではないだろうか。
「確かにお前の姉は辛い人生を送ったかもしれない。何も知らない俺が言える言葉なんてないのかもしれないけど、お前の姉はとっても立派なんじゃねぇのかよ!」
実の父親が殺され、涙さえ流せなかった自分が言えるような言葉ではないかもしれない。しかし、アキラは胸の痛みを負ってでもこの言葉は伝えなければと感じた。
それに対し、ハルの反応は明らかに変わった。顔を覆っていた手が剥がれ落ちると、ぐったりと俯く。
「そんなこと分かってますよ。お姉ちゃんの犠牲は必要で、お姉ちゃんもそれに納得してたことくらい。笑顔でお別れを言ったお姉ちゃんを見たら、子どもにだって分かりますよ……!」
一瞬、分かってくれたのかと思ったが、そうとも違う。ハルの声音はさらに耐え難い事実に震えているように思えた。
「私もそれでお姉ちゃんに決着をつけようとしてました。いいえ、決着をつけていた。でも、この世界は再びお姉ちゃんを裏切ったんですよ!」
ハルが何を言おうとしているのか全く分からなかった。裏切るとはどういうことなのか見当もつかないが、それが途轍もない衝撃だというのは、床を穿つハルの止めどない涙を見れば一目瞭然だ。
知っていいことなのだろうかと、一瞬迷う。ハルがこれから話そうとしているのは、自分が知ってはいけない領域なのではと恐れが湧いた。しかし、それでもハルを助けたい。溢れる涙を止めたいのだ。だからこそ、アキラは唾を飲むと覚悟を決めた。
「再び裏切ったっていうのは、どういうことなんだ?」
ハルは少しの間押し黙ると、唐突に語り始めた。
「アキラは少し不思議に感じませんでしたか? 貴方が《シロ》と呼ぶあれが、どうして純白の髪をしているのか」
いきなり現れたシロの名前に、アキラは訳が分からなくなった。
「どうしてって……そんなの遺伝か何かじゃ……」
「ええ、まったくもってその通りですよ」
何を言っているのか分からず戸惑うアキラに、ハルは銃を構えていない手で自身の髪を掴み上げ、さらさらと落していく。その色は白。他と交わることなく、全てを跳ねのける純白。そしてその色は、アキラが少女に暫定的な名前を付けた理由そのものだった。
「まさか………シロは……!?」
吐き気すらする予想がアキラの頭を駆け巡った。あり得ない、あっていいはずがない。そんな希望を辛うじて掴もうとするアキラの前で、ハルは水溜りの中で転んだ子どものようなぐちゃぐちゃな泣き顔を作った。そしてその顔のまま、アキラの胸倉を力一杯掴み上げ、まやかしの希望を掻き消す。
ハルは二度、三度、口から声が発せられないように喉を伸縮させると、大口を開き、
「あれは……姉さんのクローンだああぁぁぁっ!」
肺活量一杯まで叫んだハルは顔を持ち上げていられなかったのか、糸が切れた人形のようにがくり、と項垂れた。そして悔しそうに嗚咽を漏らすと、体は小刻みに震えた。
世界が罅割れた気分だった。《情報戦争》の終結の礎となったハルの姉は、敬意こそ払われ、決して侮辱されるものではない。しかし、世界はそれをいとも簡単にやってのけた。恐らくは処刑された死体からDNAでも採取したのだろう。
何の為に、などそういう言う次元ではない。そんなことだけは絶対にしてはいけなかったのだ。世界の業に涙する少女が目の前にいる。この悲鳴は世界に届かない。しかし、胸倉を掴まれたアキラには張り裂けそうなほど伝わってきた。
「それだけじゃありません。国は私の家の爵位を元の地位に戻す為に、私に《UNMO》の《ナンバーズ》になれと要求してきた。お姉ちゃんのことは感謝しているけど、それを公にすることは出来ないからと。……分かりますか? 国はお姉ちゃんの死を冒涜しながら、さらにそれを隠す為に私に罰を科したんですよ! 笑っちゃいますよね? ここで頑張れば家族も幸せになる、国からも認めてもらえる、お姉ちゃんも喜ぶと思って頑張ってきたのに……それがただの嘘だったなんて、やっぱり笑えないですね……」
見ているアキラの心を引き裂くような泣き笑いの表情で、ハルは言う。
「………だから、お前はエルゴ側に付いて、シロを攫ったんだな?」
当たり前ですよ! とハルは裂けた声で叫ぶと、アキラを押し込み、エレベーターのドアに後頭部を打ちつけた。
「エルゴみたいなクズ野郎に属するのは甚だ不本意ですが、それでこの世界をぶち壊せるならいくらでも手を貸します! お姉ちゃんを裏切った国! お姉ちゃんの尊厳すら侮辱した国連! そしてあの穢れた《もの》! その全てに復讐できるのなら、私は喜んで手を汚します! 貴方のことだって殺してみせる!」
カタカタと震える手で銃をアキラの眉間に押し付ける。しかし、あまりにも震えているので、零距離でも標準は合わない。
アキラは、ハルの姿に心を痛めながら、銃を叩き落とす。
床を滑る銃と共に、ハルも二、三歩後退する。
「お前に俺を撃てねぇよ。そんな曲がった覚悟、お前は持てねぇだろ」
恐らくアキラよりも、根元の部分で真っ直ぐなハルは自分の復讐の為に他人を巻き込むことを完全に良しとは出来ないのだ。それでいい。そんな曲がった覚悟、ハルは持たなくてもいいのだ。
しかし、ハルは瞳を小刻みに揺らしながら、壊れた笑みを浮かべる。
「……っ! ええ……ええ、確かに、私はデスクワーク主体ですからね。いざという時の覚悟は確かに足りない。でも……この指を押す覚悟くらいはあります!」
銃を捨て去り、ポケットに手を突っ込んだかと思うと、握れるほどの大きさの四角い箱の物を取り出した。その先端の赤いボタンにハルの白い指が震えながら乗っかる。そしてばっと、上着のボタンを引き千切ると、中に無数に鎧のように着込んだ爆弾が巻かれていた。アキラの顔が、苦しみに歪む。
「お前………そこまで!」
ハルは盛大に震える手とは逆に、顔は微笑を作って見せた。しかし、大量の汗が流れては顎から滴る。
「貴方を殺せば世界の負けなんですよ。もう《あれ》を止めることができる可能性は貴方だけです。一端覚醒した《あれ》はもうクロムさんでもエルティム次長でも止められない! 貴方をここで殺せれば、私の勝ちです!」
ぎりり、と歯が軋む。どうしてこうなってしまったのだろうか、その問いかけがアキラに血が沸騰するような怒りで呑みこむ。ハルは悪くない。方法こそ間違っているかもしれないが、それでもハルの思いは正しい。シロも悪くない。確かにその存在が歪だとしても、シロ自身に何の罪もないのだ。アキラ自身、どちらの少女にも同じくらい大切で、命を救われている。
少しだけこの状況が幼い頃と重なった。父と友を失くしたその時と似ている。尤も、正しさの面では真逆だ。ハルも、シロも正しい。それなのに争っている。互いに間違いを犯そうとしている。子どもの頃はそれを分かりながら見ていることしか出来なかった。だからこそ、今、同じ間違いを犯さない為にアキラは声を張り上げた。
「お前は悪くない!」
アキラの大声に一瞬怯んだハルは、次にその言葉に戸惑うように目を見開いた。
「い、一体何を言っているんですか? わ、私は貴方を殺そうとしているんですよ!」
「方法は間違ってる、でも悪くはない! けどな、シロだって何も悪くねぇんだよ!」
アキラの言葉に、ハルは眉をさらに鋭く尖らせると、
「ふざけるな! あいつは……あいつはお姉ちゃんのクローンで作られたんだ! あいつの存在そのものが、そのままお姉ちゃんの冒涜だ!」
「……そうじゃねぇだろ。確かにシロはお前の姉さんのクローンかもしれない。唯一の妹であるお前には憎しみで曇って見えちまうかもしれねぇ……でもよ、そこに、シロの犯したどんな罪が存在するんだ!」
アキラはバラバラに吹き飛ぶ恐怖も忘れ、ハルの手を掴むと逃げられないようにした。そのまま起爆装置を持った手も掴む。そして、理性や言葉を選ぶという思考を捨て、ただ胸の中に沸く言葉を飾りもせずに吐き出し続けた。
「俺にはお前みたいに尊敬できる兄弟も、死んじまったことを心から悼める肉親も……いなかった。だから、俺はお前の心を、一ミリも理解出来ねぇかもしれねぇ」
アキラの無責任な言葉に、ハルの顔に再び業火が灯り始める。
「何も分からないなら口出しするな! アキラに、私の、お姉ちゃんの何が分かる!」
「けど! シロが悪くないってことだけは分かる!」
アキラは、ハルに負けないくらい渾身の感情をこめ、叫んだ。
「シロはお前の姉さんのクローンとして生まれてくることを願ったのか!? お前の気持ちを踏みにじりたいと言ったのか!? 違うだろ! ただあいつは、腐った連中に生出されちまっただけじゃねぇか!」
アキラの脳裏に、ケースから出たばかりの何も知らない白い少女が脳裏に浮かぶ。
「それでも……それでも記憶を取り戻してから、あいつは俺を巻き込まないように逃げたりした! けど、お前に謝りたいからこそ、逃げないで、ろくな目に合わないと分かっても付いて行ったんじゃねぇのかよ!」
ずっと自分が囮になるから逃げろと催促するシロの姿が浮かぶ。
「シロだってなぁっ、苦しんでたんだよ! お前みたいに悩んで、傷ついて、仲間のことを考えられる奴なんだ! 同じじゃねぇか! どっちも似た者同士で、どっちも悪くねぇのに勝手に憎んでるんじゃねぇよ……!」
別れ際にシロが見せた微笑みが網膜に再生され、アキラは我慢していた涙を、ついに零してしまった。何年、いや、何十年かぶりに流す涙は、きっと酷く不恰好なのだろう。
何故ならアキラの泣き顔を見たハルは、怯えるかのようにビクッと怯んだのだから。
「お前だって本当は気付いてるだろ……これがただの八つ当たりで、シロには何の罪もないってことくらい……お前はもう、とっくのとうに気付いてる」
穏やかなアキラの言葉に、再びハルは顔を崩した。
「そんなの……そんなの、だからって、私はもう―――」
「俺が助けてやる!」
四肢から力が抜け、消えようと縮こまるハルの体を、アキラは両手でしっかりと掴んだ。驚きの為か、大きく見開いたハルの瞳を、真っ直ぐ凝視しながら、アキラは言った。
「助けてやるってなんですか? アキラみたいな何の権力も、地位もない人間がどうやって私達を助けてくれるんですか! いらないんですよ……もうそんな嘘の希望なんて、いらないんですよっ!」
アキラの手を振りほどこうともがくハルを、しかし決して離さなかった。
「確かに俺一人で何が出来ると思うほど自惚れてねぇ。でも、お前を助けてくれるのは俺だけじゃねぇだろうが。師匠だって、きっとエルティムも、そしてシロだって、お前のことを助けたいから、お前の言うことに従ったんだろうが」
強張った体が柔らかくなっていくのが、掴んだ手から伝わってくる。涙を流し続ける瞳が、生まれたての雛のように世界に希望を探している。その瞳をアキラはじっと見つめ続けた。
助けて下さい、言葉にならない悲鳴が唇を動かす。
ハルは手に持った起爆装置を落すと、アキラの体に抱きつき、
「助けて下さい……! 私を、お姉ちゃんを、シロを……助けて………」
あまりにもか細い声が、はっきりとアキラの耳に届く。その震えを止めてあげたくて、アキラは強く華奢な背中を抱きしめた。
「当たり前だろうが。必ず、助け出してみせる!」
抱き合ってからどれくらい経過しただろうか。時間の流れが曖昧になってきたところで、ハルの震えは治まり、そっと体を離した。
何故か黙りつづけるハルは、ずっと俯いておりアキラを見ようとしない。どこかに怪我でも負わせてしまったのだろうかと、心配になってくるアキラ。すると突然顔を上げたかと思うと、ハルはとんでもない発言をした。
「アキラ! 私を殴ってください!」
「な、なぐっ!? 何でまたいきなり……」
無論、訳もなく女性を殴ることなど出来ないアキラは手を振り拒むが、
「私は自分のことだけしか見えておらず、エルゴに手を貸すばかりか、アキラも殺そうとして、その上シロにまで危害を加えてしまったんです! 本来ならば殺されたって文句は言えませんが、シロを助けるまでそれはできません! だから折衷案で殴ってください! それぐらいしないとアキラも気が済まないでしょう!」
先ほどまでの弱々しい震えが嘘のようにハルははきはきと自身が殴られなければならない理由を述べた。その損得勘定の延長のような筋の通った言い分に、ようやくハルらしくなってきたと笑みが零れる。
アキラは仕方なく片手をハルの前に持って行く。覚悟を決めたのか、ふぅ、と息を吐くと少し震えながら構えるハル。今度はその姿に苦笑いし、
「殴らねぇよ。それは俺の役目じゃねぇだろ。どうしてもって言うなら、シロにでもしてもらえ」
シロとまったく同じ純白の髪をわさわさと掻き分け、ハルの頭を撫でた。
その行動があまりにも予想外だったのか、ハルは瞳を大きく見開くと少しの間目を泳がせ、そして俯いたかと思うとアキラの手を払いのけた。
「も、もうあまり時間がありません。ほら、さっさと行きますよ」
何故か妙に言葉を荒々しく吐くと、ハルはいつの間に抜き取ったのか、ランクカードを認識装置にスラッシュさせ、降りてきたエレベーターに乗り込んだ。
「って、お前も行く気かよ!?」
「当然です。ここで引き下がっては私の株は大暴落ですし……それに、シロを助けなければなりません」
身につけた爆弾を捨てながら、ハルははっきりとそう言った。そう言う理由ならばアキラが止めるのもお門違いというものだ。ハルの正直すぎる態度に、思わず笑みを浮かべながらエレベーターに乗り込むと、気色悪いと一蹴された。
ともあれ、ドアを閉めたエレベーターは見る見るうちに階を上がっていく。
この先にシロとエルゴがいることを考え、無意識のうちに視線が天井を向いてしまう。
拳を強く握りなおすと、上で踏ん反り返っているであろうエルゴの顔面に叩きこむという決意をさらに強めた。
10
軽快な音を鳴らしながら開いたドア。
アキラとハルは銃撃を予想し、陰に隠れていたが、数秒待ってもその様子はない。
恐る恐る顔を出し、確かめるアキラだが、その視線先には認証部屋が閑散と存在するだけだった。何の仕掛けもない、それが逆に何かの罠を臭わせる。しかし、いつまでもエレベーターで時間をつぶすわけにもいかず、アキラはアイコンタクトでハルに所長室に突っ込むことを伝える。頷くのを確認し、カードをスラッシュすると、ドアを思いっきり蹴り開け銃を向けながら突入。
「動くな! お前の負けだ、エルゴ!」
銃を構えるアキラの視線の先には、高さ何百メートルという絶景を強化ガラス越しに見る太った中年男の姿。照明を落した室内で、立派な漆塗りのデスクの先に、エルゴはいた。
アキラの突入したあとも変わらず外を眺めている。クロムが連れてきた軍隊に制圧されていく警備兵を見て、焦燥でもしているのだろうか。
「悪いけどあんたの天下はもう終わりだ。大人しく捕まって法の裁きを受けてもらおうか」
アキラの言葉に、ずっと外を見ていたエルゴが吹きだし振り返る。
「法の裁き? 馬鹿かね、お前は。一体誰が裁けるというんだ? このプロジェクトは国連主体で行われていたのだよ。つまり、私を裁くということは自らの罪を認めるということだ。どこの世界にそんな聖人がいるのかね? まさか、今さら法は平等だと馬鹿げた理想を語るわけではあるまい?」
絶対的不利な状況でおいて、なお笑い続けるエルゴに苛立ちより先に怪訝さが浮かぶ。その余裕は一体どこからきているのか。それを探ろうとするアキラに変わり、話を続けたのはハルだった。
「例え法が貴方を裁かなくても、上のお偉いさん方は今回の失態を見過ごしてくれると思うのですか? 貴方は《UNMO》長官を止めさせられるか、下手すれば消されますよ」
ハルの容赦ない言葉に、しかし、エルゴは鼻で笑ってみせた。
「ふん、ハルか。愚かな女だ。このまま私に付いていれば姉の無念を晴らさせてやったというものを。やはり血は争えんな。結局お前も馬鹿な姉と同様、つまらない正義心で破滅するのだよ。お前達は私にペットのように従っていればよかったのだ」
「んだと、テメェェ!」
アキラだけならまだしも、ハルを、そしてその姉までも侮辱するに等しい言葉は、自分を馬鹿にされた以上に腹が立つ。これ以上エルゴの声を聞くに堪え切れなくなったアキラは拳を握り歩き出す―――しかし、ハルは手を上げると待ってと止めに入る。それはエルゴを庇ったわけではなく、事実を知りたいという願望が瞳から爛々と輝いていた。
「……待ってください……お前達、とは、もしかしてエルゴ、貴方はお姉ちゃんにも何かしたんですか……!」
ぎりっと吊り上るハルの眉の下で、双眸が鋭角な視線を放つ。握られた銃から軋むような音を鳴らし、銃口を向けるも、エルゴは笑みを崩さない。
「何だ、知らなかったのか? てっきり知っていて私に協力しているのかと思っていたが。まぁ、冥途の土産に教えてやってもいいだろう。《情報戦争》の終結は知っているな?」
エルゴの問いに答えられそうもないハルに変わり、アキラが口を動かした。
「ハルの姉を差し渡したことだ」
「そう、その通り。しかし、考えはしなかったのか? 何故、そうもあっさり戦争が止まったのか、何故、選ばれたのがお前の姉なのか、何故、都合よくそのクローンが生出されたのか」
列挙される事柄の数々をアキラは無意識のうちに繋げていく。戦争の早期終結、選ばれたハルの姉、そしてそのクローン。バラバラに思えた事柄は妙な整合性があり、あり得ない、まさか、という思考が零下の炎のように体を炙った。
アキラが驚愕に音を漏らそうとしたその前に、ハルがか細く震える喉で呟いた。
「……まさか……全部、お前が………」
ハルの震える手から銃が滑り落ちそうになる。
それを見てエルゴは得意げに笑った。
「そのまさかさ。私も当時は別系列だったが、お前の姉と同じ組織にいてね。まぁ、同僚という奴だ。ある時、彼女らが極秘任務を成功させたという知らせを受けて、その内容を知って私は戦慄したよ。これがあれば、世界を掌握することも不可能ではない、と。だから私はお前の姉に提案したのさ。一緒に世界を牛耳ろうと。しかし、あの愚かな女はそんなことは出来ない、これはあってはいけないものだと主張しおった。あまりにも下らないと思わんか? この壊れた世界で正義も何もないだろうに。だから私は導いたのだ。未来でこの私が世界を収める計画を」
得意げに語られる話に、とうとう我慢が出来なくなったアキラが叫んだ。
「まさか、そんなことの為に、ハルの姉さんを処刑させたのか!?」
「ああ、丁度良く戦争が起こってくれたからな。私が中継役を買って出て、邪魔な奴を消した。だが、お前の姉はただ殺すにはあまりにも惜しい才能の持ち主だ。だから私はハルの姉、フロウのクローンを作ることを提案し、それを実験に活かしのだよ。くく、それを知らずに姉の汚名を雪ぐ為、必死に昇格しようと頑張るお前は、姉の姿と重なり可愛かったぞ」
エルゴの甚振るような視線を発し、粘ついた笑みを浮かべた。
その言葉一つ一つは、まるで人をあざける為だけにあるように思えて、アキラの細胞を足元から一気に熱していった。エルゴの言った言葉はハルとその姉だけを指しているのではない。アキラと共に任務を行った仲間も、エルゴの下らない計画の為に殺したと言っているのだ。
脳裏によみがえるのは夢を語り合い、正義を成そうと誓い合った顔ぶれ。エルゴの計画にどれだけの価値があり、彼らの命を無駄に出来たのだろうか。例えあったとしても、神はそれを認めたとしても、アキラがそれを認める訳にはいかない。
渦巻く怒りが頂点に達し、視界が歪に揺れ、トリガーにかけた指を引きたいという衝動的欲求がアキラを責め立てた。
しかし、ここで熱くなってはいけないと、アキラは奥底に追い込まれた理性で叫ぶ。こうやって怒らせるのがエルゴの策なのだ。ここで乗っかってしまっては何があるか分からない。
だが、ハルにとってそんなことは関係なかったのだ。チャキッ、とまるで死神が鎌をもたげたような音が響いた。慌てて横を見ると、そこには不気味さを感じるほど静かに銃を向けるハルの姿。しかしその瞳からは堪えきれない涙が一つ、二つと零れていた。
「ふざけるな……お前の、そんな下らないことの為に、お姉ちゃんを、私を………!」
次第に語尾が震え始め、それと同時に身震いするハルは、噴火する火山を思わせ、
「ああぁぁぁあああぁぁぁあああ!」
まるで身を千切られる罪人のように壊れた叫び声を上げた。
銃のトリガーを休めることなく引き続け、爆音と共に幾つもの弾丸が空間を貫いてエルゴに迫る。しかし、そんな中、エルゴは得意げな笑みを崩さなかった。
そしてアキラは、目の前で起こったことの不可能さに、現実を疑った。
ハルの発した全十三発の銃弾は、エルゴに向かって牙をむく。が、エルゴの手前一メートルほどで全ての弾は弾道を変えたかのように横に逸れた。この衝撃にはハルも憤怒より、驚愕が僅かに勝ったらしく呆然と立ち尽くす。
アキラは自分の目を疑いたい気持ちで一杯だったが、それでも見てしまったのだ。ハルの放った銃弾を真横から、別の銃弾が撃ち落としたのを。
驚愕に固まる二人を、エルゴは愉快そうに眺めると短い命令を発した。
「おい、足を狙え」
その言葉が終わる瞬間に、アキラは嫌な予感が全身を舐め回し、冷汗を噴き出しながらハルを押し出すように跳んだ。チュン、と甲高い音をたて、アキラとハルのいた床に穴が穿たれる。間一髪避けられた、と思った瞬間、足が氷漬けにされたかと思うと、溶岩に突っ込んだように熱くなった。そして斬り刻まれるような激痛が襲いかかってきた。
何故、と考えるより先にアキラはハルと共に、エルゴのデスクの陰に隠れた。先ほどまでそこにいたエルゴはいない。
それを確認すると、今度は自分の足を見てみた。すると、左足のふくらはぎ部分から出血しているのを見つける。抉れたようなその傷は銃弾の物だと察しが付く。しかし、それは先程避けたはずだ。それを予見して避けたアキラに銃弾を命中させたとなると、人間業とは思えない。そもそも人の気配はなかったはずだ。
「どうした? そんな所に隠れないで共に祝おうではないか。新たな世界の統治者の誕生と新たなる神の誕生に」
大仰な台詞を吐くエルゴに敵意を向けながら、デスクからちらりと顔を覗かせる。
しかしそこで、アキラは足の傷も、狙撃も忘れ、まるでハーメルンの笛吹きについていく子どものように虚ろな目で起き上がった。
「まさか……何で、出来ないはずじゃ……!」
アキラの視線先に映ったのは、先ほどまで暗闇で分からなかったが、今では青く発光している狙撃手の姿。
以前この部屋に入った時、おかしな装置があると思ったそこに、自然が彩ることを敬遠したような艶やかな白髪と肌をした美少女。アキラが、その姿から《シロ》と命名した少女が座っていた。
しかし、ただ座っているのではない。頭部に大きく、太い円から無数のケーブルが伸びたヘルメットらしきものをしている。そして、どこを見ているかも分からない瞳は完全に開かれており、その中を数列群が泳いでいた。
普段から無表情なシロだが、アキラは今の顔に凍りつくような冷たさを感じる。人の形をしていながら、人間性を全て奪われたような人形にも劣る顔だった。
歯噛みするアキラの前で、エルゴがシロの横に歩み寄り、愛撫するように頬を撫でると、くいっと顎を持ち上げた。汚らしい手がシロに触れることでアキラの怒りは増幅する。
「どうだ、これが私の長年求めていた計画の集大成! 《アカシック・レコード》! 光量子コンピューターだ!」
《アカシック・レコード》、光量子コンピューター。シロの正体について、アキラは少しだけクロムから話を聞いていた。原理などは全く分からないが、超高性能なコンピューターらしい。しかし、その起動には……
「そんな馬鹿な! それは……《シロ》は、国連の持つパスワードがなければ起動させることは出来ないはず……!」
アキラの疑問を代弁する形でハルが声を荒げた。
「ふん、本当にどこまでも愚かだな。一体誰がこの計画を裏で進めてきたと思ってるんだ? 用意してるに決まっているだろう。国連の馬鹿共が私を裏切ることは必然だからな。なに、仕掛けはとても簡単だ。こいつには生命維持機能を付けている。生命活動が危うくなったら単体で《アカシック・レコード》を使える防衛プログラムがあるのだ。その時に、私が組み込んだパスワードを言えば、これは自分の力で、自分の防壁を壊してくれるというわけだ」
その現象にはアキラも心当たりがあった。船上でヘリ二機に追われている時、シロは爆発の衝撃により思いっきり頭部を打ちつけた。恐らくはその衝撃で防衛プログラムが反応したのだろう。と、その思考の過程で、ある言葉が脳内に入り込むと、一瞬にしてアキラの心は真空となった。そして垂れ落ちるような声が零れる。
「待て、お前……生命活動が危うくなったらだと……何をした、テメェ……シロに何をしやがったああぁぁぁ!」
喉が真っ二つになるのもいとわないアキラの叫び声が月明りに照らされる室内を揺らした。それを真っ向から受けたエルゴは懐からこれ見よがしに一丁の拳銃を取り出す。
「そう慌てるな。本当に死んでは敵わんからな。ただ、銃弾を一発、こいつの腹に撃ち込んだだけだ」
そう言ったエルゴは銃をシロに向けると、その銃口を脇腹付近に押し当てた。捻じ込ませるかのようにぐりぐりと回転させる銃口の先で、まるで地図を描くように服の上に赤が滲み出てきた。数列を瞳に浮かべるシロも、痛みを訴えるようにびくん、と体を痙攣させる。その姿は、アキラの細くなり糸となった理性を容易く断ち切る。
「ふざけんな、テメェェェェ!」
罅割れた絶叫と共に、一発の銃弾をエルゴに発砲する。
その時、今度こそはっきりとアキラは見た。
シロの足元の大理石が床を上げ、現れたのは自動小銃。それは銃口を頭部のように回転させるとアキラの放った銃弾を真横から狙撃し、軌道をずらした。あまりにも完璧な射撃。しかし、それをそんな完璧な狙撃、普通では考えられない。
唖然と開いた口が塞がらないアキラを見て、エルゴは大口を開けて笑い出す。
「あっはっはっは! ふざけているのは誰だ? お前はまだ分かっていないのか? ここにあるのは最高性能のスーパーコンピューターが数千年かかっても解けない問題を僅か数秒で解決することができる光量子コンピューターだ。弾道の完璧な予測など、これにとっては『あ』という文字を入力するよりも簡単なのだよ。未来さえも、これにとってはすでに読み終えた小説でしかない」
そう言い終えると、エルゴは銃口をいつの間にか立ち上がっていたハルに向けた。
一体何を、と考える前にアキラは片手を伸ばし、ハルを突き飛ばした。
エルゴが発砲する。完璧に避けたはずだ。しかし床から生えた自動小銃がアキラの伸ばした手を、突き飛ばされたハルの肩を貫く。それはエルゴの言葉の完璧な証明。エルゴに銃を向けた反応を予測され、的確に伸ばした手、突き飛ばしたハルの肩を射貫かれた。
うまいことデスクの陰に倒れたハルは肩の激痛に耐えるように傷口を強く握りしめている。アキラはポタポタと赤い雫を垂らし痛みを訴え震える情けない手を邪魔者と眺めた。
足と手。どちらも深手を負わされた今、満足に体も動かせない。それでもエルゴの前で諦めるのだけは嫌だった。アキラは無事な片手で銃を構え直し、力を込めた目でねめつける。
「何でシロを使った! 《アカシック・レコード》を作りたかったら、普通に作ればいいだろ! 何で禁忌とされたクローン技術を使ってまでこんなことをするんだ!」
その問いにエルゴは呆れた溜息を返した。何を言っているのかと。
「お前はどこまで馬鹿なら気が済むんだ。決まっているだろう。そうでなければ作れないからだ。何十年と前から提唱されていた光量子コンピューターだが、それを実現させることはついぞ叶わなかった。しかし、それはあくまで合法的なやり方。お前は人の脳のことを知っているか?」
出来の悪い生徒を教えるような言葉遣いに、アキラは沈黙を通した。
「人の脳とは、今まで作られたどんな精密機械よりも高性能なのだ。百年以上の記憶を保有できる容量、全ての出来事を瞬時に検討し答えを得る演算能力、そして何より《アカシック・レコード》に最重要な光量子さえも脳の中に詰め込まれている。人間の精神という不確かなものが光量子により伝達されていることが数年前に分かり、アメリカはそこから光量子コンピューターの完成を、人体を使うという、まぁ、一般的に非人道と呼ばれる方法で研究していたのだよ」
そこでエルゴは言葉を切ると、まるで新しいゲーム機を買ってもらった子どものように歓喜に震え、
「それをこのクローンを使うことで成功へと、私が導いた! 見ろ、今これは機密の数百、数千万単位の素数暗号式を力づくで壊しているのだ! 全ての情報は私に逆らうことは出来ず、未来さえも手の中! どうかね? この最高に素晴らしい世界を一緒に見ようとは思わんか? クロムという駒を失くした今、お前の能力は評価に値するぞ。お前が頭さえ下げれば、ハルと一緒に私の下につかせてやってもいい」
エルゴの言葉は最早、尊大や傲慢では収まり切らず、言うとするなら自身を神と錯覚しているような口ぶりだ。だがしかし、その通りでもあった。恐らく今のエルゴに勝てる者はいない。クロムでさえ、シロの完璧な未来演算に敵わない。このままただ死ぬだけなのなら、ハルを助けられるなら言葉に従って、寝首を掻くというのは合理的な作戦だ。
しかし、アキラの口は、思考とは全く違う言葉を口にする。
「ハル、ごめん」
死を選んだというのに不思議と心は澄んでいた。
脳を熱していた怒りさえも、静まりかえる。
「謝ることなんてないですよ。いつも通り、アキラの勝手にすればいいんです」
デスクに背中を預け、大量の汗に荒い呼吸を繰り返すハルは、微笑を咲かせた。
アキラも笑いながら一つ頷くと、大きく息を吸い込み、
「絶っっっっ対に嫌だ!」
真っ直ぐ視線を浴びせながら吼える。
それを見たエルゴは冷めた目で、馬鹿が、と吐き捨てると、金属質の音を鳴らしながらシロの頭を叩いた。
それだけで命令が通じたのか、床下から一つの自動小銃が、まるで百獣の牙のように輝くと標準をアキラの眉間に向ける。避けても無駄なことは先刻のことで心得ている。だが、ただ撃たれるのは釈然としない。アキラもトリガーに指を掛けた。
笑うエルゴに、アキラも笑い返した。
そして、同時に銃声。
死を覚ったアキラの時間感覚が狂っていく。一瞬で到達する銃弾を目で追う事が出来た。アキラが放った銃弾も今のところ真っ直ぐエルゴに向かっている。しかし、当然それを許してくれないシロは、もう一丁の自動小銃を床から召喚すると無情にも発砲。再び弾かれる光景を想像するとアキラは苦笑いを浮かべた。
しかし、苦笑いは唐突に凍りついた。シロの放った銃弾は、確かにアキラの銃弾に接触した。けれど、それは完璧な狙撃ではなかった。僅かに上を掠め、やや斜め下に軌道を動かしただけ。
そして、アキラの眉間に着弾するはずの弾は、どういうわけか狙いとは大きくかけ離れた。逸れた弾はアキラのこめかみを切り裂いただけで、後方に飛んでいく。
そこで時間感覚が戻った。
はっと、気付くと前には腹部を抑え、悶絶しているエルゴ。
「ど、どういうことだ!? 何故、お前はまだ生きている!? 何故、私に攻撃が当たったんだ!? 《アカシック・レコード》!」
今までの余裕を失い、贅肉が溜まった頬をぶるぶると震わせながら、シロを睨むエルゴ。アキラもその視線を追うと、そこにはまたまた信じられない光景が広がっていた。
ゴフッ、と重く粘着質な音を発しながら、シロは膝の上をキャンパスとして赤い花を描いた。口周りを大量の赤でぬめらせ、顎から線となった血が流れる。そして、その覚めるような真紅とは反対に、顔は今にも崩れそうなほど蒼白していた。
そしてアキラは思いだす。船上でも覚醒したシロは一分と持たずその細い身体から滝のように汗を流し、膝を震わせていたことに。装着している装置がどんなものかは分からないが、それでも《アカシック・レコード》になるのは無理があるのだ。
「まったくこの出来損ないが!」
アキラの思考を吹き飛ばすように、エルゴはシロの頬を拳で殴りつけていた。
ぞわりと、アキラは全身の毛が逆立つのを感じる。
「何してんだ、テメェェ!」
アキラの怒りを無視し、エルゴは冷えきった目でシロを見下していた。
「ふん、ようやく成功したと聞いたが、やはり初期作品には不備が生じるか。まぁ、いい。今すぐ死ぬわけでもあるまい。機密を暴いたら、死ぬ前にこれ自身に、自らの設計図を完成させてやる。こんな出来損ないでも、一応は《アカシック・レコード》だからな。今度は完璧なものを作り出すことができるだろう」
エルゴが何を言っているのか、アキラは理解出来なかった、いや、したくなかった。シロが生きているのを知っていながら道具扱いし、殺そうとしているのにそれに何の罪悪感も感じていない。
これが許されるのか。こんな男がシロを生出し、使い、そして殺そうとするなど。
アキラは知っている。
シロがただのコンピューターなどではないことを。
無表情な顔だが、何かを知る時には明るく輝き、何を考えているか分からないが、本当はアキラのことを案じてくれていたことを知っている。
先ほど切られたこめかみから大量の血液が流れ、アキラの片目を塞ぐ。血を 流し過ぎたのか、残った視界も霞んできた。倒れてしまいたいという欲求を、アキラは全力で捻じ伏せていた。ここで倒れることは、全ての敗北だ。夢半ばに殺された部隊の仲間、下で必死に戦ってくれているクロム、エルティム。ずっと苦しめられてきたハルとその姉。自らを犠牲にしてでも助けようとしてくれたシロ。
勝たねばならない。自分が、自分である為にも。
その時、一つの視線が注がれている気配がした。誰だと思いながら、アキラはその視線を探る。それは正面、大掛かりな装置に座らされている純白の少女……
「……シロ……?」
朦朧とした脳が見せた幻覚、とも考えたが、何度瞬きしてもアキラを見詰めている。その瞳はまるで真剣そのもので、何かを必死に伝えようとしているように見えた。そこでアキラは思い至る。
さっきのは偶然だったのだろうか、と。
アキラが死ぬというタイミングで限界が来たのが偶然でなかったら、この考えが希望的観測でなかったら、アキラにはまだ、心強い味方がいる。
「シロォォォォ!」
他の全てを脳から排除し、アキラは一心不乱にその名を呼んだ。
深い考えもなく、ただ白いからという適当な理由で付けた名前。本人にもセンスがないと言われてしまった名前だが、もうあの少女の名前はこれ以外考えられない。
「何そんな所で《アカシック・レコード》なんてセンスのない名前で座ってんだ! お前はそんなんじゃねぇだろ! 俺がどんなに止めても、分からないことに突っ走って、海水飲んで舌を麻痺させるような奴だろうが! いつも無表情だけど、ちゃんと他人のことを考えられる奴だろうが! そんなクソみたいな男の言うことを素直に聞く奴じゃねぇだろうが!」
手と足、そしてこめかみの傷が共鳴するように痛みで響く。
しかし、アキラは頭にも浮かばず、ただ口を突く言葉をひたすら叫んだ。
「これが終わったら何でも教えてやるよ! 俺のこと、大陸のこと、地球っていう惑星のこと、宇宙っていう地球よりも馬鹿でかい空間のこと! この世界にはまだまだお前の知らないことが一杯あるんだよ、この馬鹿っ!」
呼吸をするのも忘れ叫んだアキラを見て、エルゴは額に汗を散りばめながら笑った。
「ふっ、何をしだすかと思えば、これだから原始人は困る。これに情に訴えるという行為は無意味だ。感情の根本にある精神をコンピューター機能に使っているのだ。この出来損ないに、感情などないのだよ!」
エルゴの理論にだけ基づいた台詞を、アキラは憤怒の視線を当てることで黙らせる。
この男は何も知らない。シロとどれだけの時を過ごして感情がないなどと言えるのだろうか。シロはケースに入れられるまで、ずっと研究室で眠っていたという。ならば、この世界で一番シロと長い時間を過ごしたのはアキラだ。海水も、人間も、名前すら知らない少女を知ってるのはアキラだけ。シロに関してプロフェッショナルと呼べるアキラに説明など百年早いのだ。
そして嘲笑するエルゴの声を邪魔だと言わんばかりに、シロの口がぎこちなく動き出した。
「《シロ》コードを確認。これより《アキラ・來栖》をマスターと認定」
そう言い終わるや否や、シロの瞳から雑多の数列が次々に消えていく。そして眠るかのように一度瞼を閉じると、そっと細い手でヘルメットらしきものを脱ぎ捨てた。
伸びる睫毛一本一本さえ、他を魅了するような優雅さをちらつかせ、薄っすらと瞳を半ばまで開いていく。そしていつもの無表情の口を少し開くと、
「今の話、忘れないでくださいね。アキラには一生分からないことを教えてもらいますから」
シロはいつもの淡々とした声音で、確かにそう言ってのけた。
ああ、と泣き笑いのような表情を作りながら頷くアキラ。
しかし、その穏やかな空気は、一人の男の悲鳴により台無しにされる。
「あ、あ、あり得ん! 自動的にプログラムを改竄!? いや、別のコードが入力されていた!? あり得ん、あり得ん、あり得ぇぇぇぇぇぇん! ふざけるなよ、私の完璧な、長年を掛けて実行してきた計画を、こんな、こんな出来損ないがぁぁぁぁ!」
エルゴは完全に逆上しており、理性がない獣のように吼えた。
そして贅肉に皺を刻みながら、銃をシロの頭に突きつける。
まずい! と銃を握ろうとするも手を撃たれたのを失念しており、咄嗟に反応出来ない。
もうエルゴの膨れた指がトリガーを引く。
炸裂する火薬が銃声を轟かせた。しかし、シロに何の傷もなく、エルゴの手から銃が転げ落ちる。悲鳴を上げながら手を抱きしめるその隙間からは血が漏れていた。
「私もいること、忘れないでください」
はっと、横を見るとそこには肩を打たれながらも、デスクにグリップを固定するハルの姿。ハルの勇姿に思わず呆然とするアキラを見ると、叱咤が飛んできた。
「何やってるんですか、アキラ! さっさと止めさして下さい!」
そこでアキラは、自分がここに上がってくる前に決意した内容を思いだした。殴るならやはり利き手の方がいい。撃たれた手を気合で拳にすると、痛みに喘ぐエルゴを見据える。
走ると抉られたふくらはぎが痛む。
力を込めれば込めるほどこめかみから血が溢れた。
しかし、そのどれらもこれからエルゴを殴るという大志を止めるには至らなかった。
「よく覚えとけよ、エルゴ……」
拳を体が軋むまで振り上げ、標準をぴったりと定める。
「これが、正義だ!」
矢のように射られたアキラの拳が大気をうねらせ、真っ直ぐにエルゴの頬にめり込む。贅肉が拳に撥ね退けられ顔を覆い、その感触を払うように勢いを弱めることなく振り抜いた。
吹き飛ぶエルゴは、床に接触するとまるで団子のように転がり絶景が望める強化ガラスに背を打ちつけた。首をガクッと落し、完全に意識を飛ばしたことを確認する。
本当ならばあと二十発は顔面を殴打したいが、これ以上やれば死ぬ可能性もあるので、アキラは深呼吸と共に殺気と怒りを収めた。
そんなアキラの裾を懐かしい引っ張る感触が伝わった。
見てみるとそこには必死の思いで助けに来た少女、シロ。やはり無表情ながら、その中に少しばかり反省の色のような物が見える気がする。
「アキラ、黙っていて申し訳ないです。わたしは本当は《アカシック・レコー―――」
頭を下げようとするシロを遮る形で、アキラは言った。
「何センスのない名前言ってんだ。お前は《シロ》だ。何でかっつうと全身が白いから。俺の国の言葉でwhiteは《白》って言うんだ。どうだ、いい名前だろ」
アキラの言葉に、シロは少しばかり目を広げると、また笑った。
「そうですね。《アカシックなんちゃら》よりも、少しだけ、《シロ》の方がいいですね」
「ああ、っと、それよりも、お前にはちゃんと話さないといけない相手がいるだろう」
アキラはこちらを向いていたシロを百八十度回転させ、後ろにいるハルに向き合わせる。
シロを見たハルは、罪悪感からか体を縮めると瞳を伏せてしまう。
そんなハルの下に動いたのはシロだった。
静かな足取りでハルの前まで行く。ハルは反射的にもっと頭を下げてしまう。
しかしシロは、そんなハルの頭を優しく撫でた。まるでシロに正しいと伝えたアキラがやったように、姉のように。
「あ………」
ハルの掠れた吐息が零れる。
「すみません。わたしのせいであなたと、あなたの姉を沢山傷つけてきました」
その言葉にハルは、小さいが激しく頭を振った。
「わたしは単なるクローンでしかなく、あなたの姉とは全く違う物です。それでも、わたしの中にハルという名前と、その顔が強く残っていました。それでわたしは気付いたんです。きっとあなたの姉は、アキラのように他人のことを馬鹿らしいほど思えることのできる素敵な人なのだと。そして、亡くなられる最後まで、あなたのことを思っていたのだと」
ハルが目元を手で覆い、嗚咽が紛れはじめる。
その手の隙間から隠すことも出来ないほど、多くの水滴が漏れ落ちる。
「わたしはあなたの姉にはなれません。それでも、わたしはあなたと仲良くなれそうな気がします」
シロの言葉が終わると同時に、ハルは勢いよく手を広げると、白い少女の小さな体を抱きしめた。もう二度と離れないと言わんばかりに強く。シロもややぎこちなくだが、手を回し、そっとハルの頭に顔を寄せた。
「うん……ごめんなさい、お姉ちゃん、ううん……シロ!」
月が沈み、朝日が空を照らし出した。その神秘的な光に最上階のこの部屋も彩られる。
その中で固く抱き合う純白の少女達は、きっと、誰がどう見ても姉妹にしか見えないだろう。
アキラはその光景を陽光と共に温かく見守りながら溢れた雫を指で払った。
11
エルゴの起こした国際的テロ事件は、後に《治安の暴走》と名付けられた。
それはアキラ達の奮闘により危いところで未遂に止まった。
しかし、本当に大変だったのはこれからだった。
まず一番の問題として、シロが暴いた各国の機密。これは世間には公表しない形でクロムとエルティムが世界と秘密条約を交わした。その内容のほどは簡単に言ってしまえば、機密情報を破棄し、他言しないこと。シロの身柄はこちらで預かること。そして《UNMO》の存続だ。いや、これには一つだけ誤りがある。
《国家連合治安維持機関》は名前を変え、《世界治安維持機関―WMO》となった。
これは単に名前が変わっただけでなく、国連という団体の内部組織から独立した一つの組織に変わったのだ。これで今まで特別なことがなければ介入できなかった《統括区》も問題なく手を伸ばせ、権力により妨害されることもない。テロの元々の首謀者で、数々の弱みを握られた国連はこの申し出を断ることなど出来るはずなかった。
そして《WMO》となった組織は、テロ事件から大きな人事があった。と言っても内容はあまりにも簡単で、容赦ないもの。アキラ達の奇襲時にエルゴの味方をした者を全てクビにしたのだ。この難しい情勢の中でリストラとは厳しいが、彼らも金と権力に目が眩み、犯罪に手を染めたのだから大声で糾弾できない。それに《WMO》が《統括区》の理不尽な増税を止めさせた為、支持はうなぎのぼりに高まった。
一方で残された者も大変だった。大きな人事で、三千余名いた《WMO》はその数を一気に千台に落した。いきなり半分以下の職場に、一人一人の仕事量が三倍にも、四倍にも増え、三日ほどたつと目を回し倒れる者も出る始末だ。
しかし、悪いことばかりではない。功績が讃えられ、アキラは念願の《ナンバーズ》になった。シロはその複雑な経緯から《ラウンダー》にはならず、アキラの補佐官という特別な役職を与えられた。
クロムは元々の席に落ち着き、エルゴ亡きあと長官は努めたのは、当然のことだが次長のエルティム。その中で誰よりも出世を果たしたのはハルだろう。彼女は一介の訓練生から何と次長に抜擢されたのだ。持ち前の才能が認められた当然の結果だと、アキラは自分のことのように誇らしかった。
次長という地位を得て、ハルは国に涼しげな微笑で言いつけを守ったことを通達した。久しぶりの家族の会話は電話越しに五分足らずだけだった。しかし、ハルは晴れやかとした笑みを浮かべ、《WMO》に残ると言ってくれた。
そんな慌ただしい一か月が光陰のように流れ、現在、《WMO》成立パーティを本部で行っていた。かなり遅まきだが、これまで仕事の嵐だった職員達は行儀作法など関係なく笑いながら楽しんでいた。
アキラはつい先ほどまで人々に追いかけられ、事件の全貌やサインをせがまれたが、今は避難に成功し、シロと二人、壁に背をもたれ、未成年なのでジュースを飲んでいた。
「はぁ、やっと落ち着ける……」
「途轍もない人気ですね。まぁ、《治安の暴走》解決の一番の立役者ですから当然ですが。はっ、これがもしやハーレム状態とかいう―――」
「またお前は偏った知識ばかり持ちやがって」
相も変わらず表情に乏しいが、ここ最近でアキラは随分と変化を見分けられるようになっていた。クロムの話によれば、精神を司る光量子は演算能力に当てられているらしいが、使用頻度が少ないせいか、次第に感情を持つようになっているのだとか。肉体を大分改造されているらしいが、このまま普通に笑えるようになって、普通の女の子として生きてくれればと、切に願う。
「どうしたのですか、アキラ? 何故わたしの頭を撫でるのです?」
気が付くと無意識のうちに手がシロの頭を撫でてしまっていた。上目遣いのシロを見て慌てて手を引込めると、頬を掻きながら誤魔化しの笑みを漏らす。
「い、いや、その何だ……ここの生活にはもう慣れたか?」
「藪から棒ですね。ですが、はい。皆さんとても親切で苦なく生活できています。アキラに付きまとえますし、ハルとは同じ部屋なのでとても仲がいいです。エルティムも言い方はあれですが、何かと気にかけてくれてます。これも私を研究所から連れ出してくれたクロムのおかげですね」
はは、そうか、とアキラはグラスを傾けながら笑った。シロは普通とは違う。そのことで嫌な思いをしてないかと心配ではあったが、ここに残った人がそんな小さなことを気にすることなどなかったようだ。
良かった、良かったと、再びジュースに口をつけようとしたアキラの手が硬直したように止まった。シロの言葉の中に、途轍もない違和感を感じた。なるべく声を震わせないように喉に渾身の力を込め、絞り出すように言葉を出す。
「おい、シロ。お前、師匠に研究所から連れ出されたって……師匠に初めて会ったのは事件解以降じゃねぇのか?」
「わたしもそうだと思っていたのですが、《アカシック・レコード》になっている時に研究所のデータを移送したのです。その中に研究所に侵入者がもぐりこんだという情報があり、監視カメラの映像からクロムだと判明しました。わたしはまだ覚醒していませんでしたが、確かです」
それは圧倒的におかしな情報だった。クロムは確かに《アカシック・レコード》を探していた。しかし、収穫は何もなかったはずだ。他の誰でもない本人から聞いたのだ。何かがおかしい。重なっていた歯車が本当はとても歪んでいるように感じる。
そしてアキラの脳裏に、今まで引っ掛かっていた僅かな違和感が繋がり始め、新たな真実として飛び出してくる。驚愕のあまり、手に持っていたグラスを落して割ってしまう。
その様子を訝しんだシロが顔を覗き込んでくるが、答えている余裕がなかった。
アキラは会場を全力疾走で抜け出すと、銃を構えた。
「クロム!」
叫びながら目に入ったのは高度何百メートルという高さから、障害物が一つもない赤く染まった海と空の絶景であった。屋上に付いたエレベーターは空気を読むように無言で閉じていく。ヘリポートと一応の対応として設けられた柵だけの屋上。その中で一つだけ別の形の影が存在した。
波風にウェーブのかかった長髪を優雅に靡かせながら、体を赤に包んでいる。アキラの呼び声に反応し、振り返ったのはいつもの穏やかな笑みを浮かべるクロムであった。
「やあ、アキラ。そんなに怖い顔で大声出してどうしたんだい? 女の子に追っかけまわされて、逃げてきたのかな?」
柔らかい口調にいつもなら軽口の応酬が始まるところだが、今のアキラにそんな余裕はない。嫌な汗を万遍と掻きながら、両手で銃の標準を自分の師匠に定める。
それでもクロムの反応は変わらなかった。
「どうしたんだい、アキラ? そんな物騒なもの、祝いの席には似合わないよ」
「………あんた、だったんだな……」
アキラはクロムの忠告を無視し、銃を構えながら鋭く声を発した。
「あんたが全ての黒幕だったんだな!」
決定的な言葉を投げかけても、クロムはただ手に持ったグラスを手の中で回すだけだ。
「一体何の話かな?」
これだけ確信を突いたことを言われても、クロムの声音は揺るぎもしなかった。その圧倒的余裕はアキラの胸中を焦燥と不安、恐怖で埋めていき、屈しないようにと怯えた獣の威嚇のように言葉を綴る。
「最初に疑問に思うべきだった。あんたがいつまでも任務で成果を上げられないこと。シロが取引されること。そしてあんたが丁度いいタイミングで助けに来たことを!」
クロムはワインの匂いを嗅ぎながら尋ねた。
「済まない、アキラ。本当にさっきから何を言っているのか分からないんだ。君が今上げたことが一体どうしたというんだい?」
「ばれてる嘘を吐き続けるのは止めろよ。あんたらしくないぜ。シロのデータの中にあんたが《アカシック・レコード》の研究所に侵入した痕跡が残ってるんだよ!」
ほう、と呟きながらクロムの視線が少しだけ鋭くなる。
「《治安の暴走》は元々国連の作戦だった。エルゴはそれをあとで乗っ取るつもりだったが、それなら取引する必要なんかねぇ。ヘリなり、潜水艦で安全に本部に送ればよかったんだ。だが、現実ではシロは取引され、それを護衛していた俺達の部隊は攻撃された! これは、国連側でも、エルゴ側でもない第三者、つまりあんたがシロを奪ったからだ!」
「なるほど、筋は通っているな。では、何の為に? 私は君とシロ君を助けるのに協力した。君の話では私は第三者なのだろう。そんなことをする意味はなんだい? わざわざ殺されるほどの危険を冒し、最終的にはリスクを助けるのに足りるメリットがあるのかい?」
クロムの喜んでるような微笑む表情に、
「あるじゃなぇか、どでかいメリットが」
アキラは目に力を込め、視線を本部の屋上に落した。
「この《WMO》だ! 今回のテロ事件をきっかけにあんたは国連に対してジョーカーを三枚も手に入れた。クローン素体、世界の鎮圧、そしてシロ。こんなことを国連側が秘密裏に計画していたことなんて知られたら、多くの《自治区》からまた暴動が起きる。今度こそ、国は消滅する。だからこそ、三枚のカードはうまく機能して、権力から外れた《WMO》を作ることが出来たんだ!」
アキラはギリギリと歯を軋ませると、叫ぶ。
「その為にあんたはシロを奪い、エルゴ相手に取引を持ち込んだ! そのことで命を狙われるのも計画の内だ! 死体の間にあんたはシロのネタとエルゴの裏切りの情報を使って、各国の軍隊を動かすことが出来た! そして結果、全てはあんたの望むままになった!」
「ふふ、さすがだ、アキラ。満点だよ」
どこまでも美しく笑うクロムに、アキラの中に激情が駆け巡る。
銃を握りしめる手が赤く染まっていく。
「あんたは―――」
と、アキラが叫びかけたところで、唐突に後頭部に固い物の感触。管のような形状と頭部に突きつける物といえば一つしかなく、アキラは壊れた機械のように止まるしかない。
「銃を下せ、アキラ・來栖。それ以上は……本気で殺すぞ」
いつもの間抜けた道化の声ではなく、殺意の籠った低く重い響き。
「やっぱり、テメェもグルだったのか……エルティム!」
その問いに対し、エルティムの鼻で笑う声がする。
「グルなんてとんでもない。私はただのクロムの忠実な下僕さ。私はクロムの念願の成就とその身を守る為だけに存在する。だから、その銃を下せ。私はあまりお前を殺したくないんだ、アキラ・來栖」
「いい、エルティム。銃を下せ。私達はまだ会話をしているだけだ」
クロムにそう言われ、エルティムは渋々という感じが後頭部から伝わるように銃をどけた。瞬時にその場から飛び退き、二人を視界に収める。しかし、どれだけ距離をとってもアキラの緊張は銃を突き付けられた時と変わらなかった。二人のどちらもアキラよりも圧倒的な強者なのだ。油断すれば、雲の上ということも十分あり得る。
「……何でこんなことをしたんだ……?」
辛うじて吐き出した疑問に、初めてクロムは少し困ったように眉を垂らした。
「何で、と言われると、少々答えずらいが……そうだな、ハルの姉、フロウの夢であり、我々の総意だったから、というのが妥当かな」
「ハルの姉さんの、夢?」
「もうアキラも知っているだろう。私とエルティムがかつてフロウの下にいたことは。主に諜報活動をしていたから、この世の汚い部分をずっと見てきた。そんな過程があったからかどうか知らないが、いや、恐らくなくてもだな。フロウはいつも夢を言うようになってね。独立した正義の機関を作りたいと。その馬鹿らしい響きは、いつしか私達共通の夢になっていた」
「そのモデルが、《UNMO》だった……?」
「そう、この組織の設立を提唱したのはフロウだった。ここを足掛かりに正義を貫いていこうと。尤も、本人は完成を見ることなく、世を去ったがね」
クロムはグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。
アキラは、クロムの話を聞いて、感じた矛盾に腹を立てずにはいられなかった。今すぐにでも走ってクロムの顔を殴りつけたい。
「独立した正義の機関? 共通の夢? ふざけんなよ、あんたはその為に何を犠牲にした? あんたの計画の為に部隊の仲間、ハル、シロまで犠牲にしたんだぞ! あんた知ってんのか……部隊の仲間がどれだけクロム・デュオニソスという存在に憧れていたのか! ハルがどれだけ苦しんで、シロがどれだけ悩んだのか! あんた知ってんのか!」
「ああ、知っているよ」
アキラの押し潰さん勢いの声音に対し、たった一言、そう言った。
クロムは風に髪を靡かせ、涼しそうに目を細めながら、
「グラン・ベンジャー、スルフ・カフカー、トリュグライフ・テイク、アレクセイ・イリイチ・パウロヴァ、アッビアーティ・ジョナタ。君と共に任務に赴いた訓練生の名だ。いずれも正義感が強かった。ハルの過去は当事者なのでそれなりに理解している。シロ君の悩みも、アキラと共に行動をすれば、そうなる可能性は分かっていた」
「だったら何で―――」
「これを言ったらきっと、君は憤慨するだろうけどね、私はこの程度の被害で済んだことをとても喜ばしく思っているんだ」
再びクロムは言ってのけた。その余りにも凍てついた一言を。
「独立した執行機関。その理想を夢見てどれだけの人が思いを馳せ、そして犠牲を積み上げていったか。その犠牲に比べれば、今回の事件の被害者は少ない方だ。フロウのクローン20046名、君の部隊五名、奇襲時の死傷者569名。彼らが死んで当然と言っているわけではない。ただこれは人間に出せる最高の結果だと思うのだよ」
「ふざけるな!」
クロムの凍土のような言葉を砕くかのように、アキラは熱を込めて叫んだ。
「最高の結果だと……例えどんな言葉で飾ってもな、あんたは、あいつ等を殺したんだよ! 死んでいった人の気持ちを考えたことがあるのか? その計画にあいつ等の命を賭ける権利があんたにはあんのか!? いいか、先生、いやクロム! あんたは、間違ってる!」
その言葉を吐いたと同時に、アキラの口は歯が磁石になったかのように勢いよく閉じた。
そして夕暮れの太陽が温かい熱を送ってくれているというのに、手の震えが止まらない。
胃が重力で押しつぶされるような感触が、アキラの喉を震わせた。
アキラの視線の先で、クロムは恐怖するほど静かに瞳を瞑っている。
顔をアキラの方に徐に回し、それと同期して瞼が薄っすらと開いていった。
色がない。
瞼の境から垣間見える瞳には、いつもの穏やかな光はない。深淵のように底なしの虚無が、アキラをじっと見据える。
その視線はアキラの体を石に変え、心臓を直接凍結させるようだった。
温かい陽気の中で、一人だけ吹雪に晒されている気分。
それでもアキラは、銃だけはしっかり握り続けた。
「アキラ、君はフロウにとてもよく似ている」
呼吸さえもままならない空気の中、クロムの声音は世間話のようだった。
「彼女もね……犠牲とか、仕方ないという言葉を最も嫌っていたよ。言ってしまえば綺麗ごとなんだけどね。でも、だからこそ、彼女の下に私は付いたと思うんだ。きっと人の上に立つ人間はそうでなければならない。けれど、私は君達のように強くなくてね。そんな絵空事に賭ける勇気はなかった。現実しか見れない寂しい人間さ。でもね……」
クロムは微笑さえも削ぎ落とし、能面のような表情で、
「間違ってるとは言わせない」
冷然とした瞳が、アキラを粉々に砕くような視線を浴びせる。
「悪魔、人でなし、鬼畜、クズ、どうとでも呼んでもらって構わない。けれど、神にも、仏にも、世界にも、私が間違っているなんて言わせない。何故なら正しいからだ。聞いてみるが、君は私以外の方法で独立機関《WMO》を作れるのかい?」
「それは……」
アキラは言葉に詰まる。
恐らく、いや、決して無理だ。この組織の成立は数多の幸運の奇跡的連続の賜物だ。世界情勢、人材、そして《アカシック・レコード》。他にも様々な思惑や計画が複雑に絡み合い、ようやく生まれたのだ。こんな偶然が再び起こるのは、数百年後か、数千年後か。
「そう、作れないのさ。でもね、君達はそれで満足なんだよ。理想を唱えるだけで現実に出来ず、けれど誰かが現実にしようとすればそれを間違ってると糾弾すればいいだけなのだから。私から言わせると、君達の方が間違ってるよ。君達はいつも口に出すだけだ。正しい方法は、なるほど重要だろう。でも、その僅かな利益を大きく喜ぶだけ。甘い。それでは世界は変わらないんだよ」
クロムの言葉は狂気じみた正しさで、アキラの胸を突き刺していった。
反論が出来ない。確かにアキラは理想を語るだけで、現実に出来なかった。間違いを正したい、全てを救いたいと豪語しながらできるのはほんの一握りを助けることだけ。それが正しいことは分かっている。しかし、クロムの作った《WMO》はもっと多くの人間を救うことができるだろう。アキラは、一握りを救って満足していたのに。
しかし、
「ああ、確かにあんたが正しくて、俺が間違ってるのかもしれない。でもなぁ、それでも俺は、俺と関わった奴等と、俺の為に、あんたのやったことを認める訳にはいかない! だから、決闘を申し込む! あんたに勝って、俺が正しいことを認めさせる!」
これ以外に、もうアキラとクロムの和解の道はなかった。
アキラの言葉が少し意外だったのか、クロムは深淵の瞳を僅かに開くと、次いで笑う。
「面白い提案だが、いいのかい、それで? 修行時代に君とは何万と組み手を行ったが、ついに一度も勝つことはなかったはずだよ。そして、この先も負けつもりはない」
「それでも俺はあんたに勝つ! そして、俺が正しくて、あんたが間違ってることを認めてもらう!」
その言葉を受け、クロムは顎に手を当てると、少し考える素振りを見せ、
「では、私が勝ったら、アキラ、君はその全てを賭けて《WMO》に努めろ」
「……そんなんでいいのかよ」
「言っただろう。この世界には君のような存在が必要不可欠なのだよ。エルティム、審判をしてくれ」
エルティムは呆れたような嘆息すると、素直に外周部に移動した。
そして、アキラとクロムも屋上の真ん中、ヘリの着陸マークがある上で睨み合う。
「ルールはいつも通り、銃弾を一発でも浴びれば負けだ」
「ああ、分かっているよ。さて、アキラ、正しいという君の実力を見せてもらおうか」
一メートルほどの距離を開け、各々の構えをとる両者。
「始め!」
エルティムの声が響いたと同時に、二人は地を蹴り、眼前に接近していた。
クロムが左足からの下段蹴りを放つ。
一瞬でも気を抜けば、一撃で終る。アキラは足を浮かせることで避けようとした―――しかし、クロムの攻撃がそう柔であるはずなかった。
下段蹴りと見せかけた左足をヒット直前で床に叩き付けると、その勢いを利用し右からの回し蹴りが、遠心力を付け大気食い破るかのように上段に迫った。
だが、アキラも伊達に何万回と組み手をしてきているわけではない。クロムの攻撃を読み、瞬時に身を屈め、頭上を驚異的な蹴りが通過したのを感じると、素早く左手の銃を構える。そして発砲。
しかし、手を読んでいたのはアキラだけでなかった。クロムは蹴りを振り抜いた態勢からさらに回転し、カポエラーのように逆立った状態からの足技がアキラの胸部を捉えた。
寸でのところでガードが間に合う。しかしその威力を殺しきれず、腕の骨が軋む音を聞きながら、数メートル後退させられる。
何とか踏ん張り、油断なく構えを直すが、前方のクロムはゆったりと起き上がっていた。
その姿にも隙というのはなく、アキラはじっと出方を窺うしかなかった。
「成長したものだね、アキラ」
クロムから唐突に掛けられた声。
「私に弟子入りを志願したころなんかは、最初の攻撃で場外に吹き飛んでいたというのに」
「あんときの俺はただの一般人だ。それで今の攻撃くらって死なないだけマシだ」
ふむ、ではもう少しレベルを上げようか、と呟いた途端、クロムは一瞬でアキラの目の前に現れた。動揺する精神を精一杯の根性で整えると、アキラは右手でストレートを繰り出す。
避けるか、という予想に反し、クロムはそのまま突っ込んで来た。拳が当たるというところでアキラの拳を優しく受けたかと思うといなされる。予期せぬ事態に、僅かに態勢が乱され、アキラは自分の懐が開いてしまったことに気が付いた。そして、クロムの狙いはそれだ。
クロムの手は掌打の構えをとっていた。それを見た瞬間、アキラの脳裏にフラッシュバックされるのは警備兵に突っ込んでいく羅刹の姿。その掌打をくらった兵士は胸の装甲ごと粉砕され、口から血の塊を吐いていた。
くらったらやばい! 脳が全力で体にその電気信号を送るが、受け止めるのも危い。どの部位に当たろうとも骨は砕かれ、筋肉は断裁されるのは必然。アキラは咄嗟に右手に持っていた銃を掌打の構えにぶつけた。
しかし、タイミングが少しずれ、打ち出された掌打に当たり、銃から手が爆ぜるような衝撃が響く。そのまま体を柔らかくし、吹き飛ばされるまま距離をとった。
五メートルほど距離を取り、死ぬという明白の予見に乱れた息を整えながら、アキラは右手を見た。先ほどの掌打を威力半ばで止めたのは言いが、それでも完全ではなく、左手は痺れて少しの間、動きそうもない。
分かっていたことだが、あまりにも絶望的な戦闘能力の差。しかも、クロムはこれで全力ではないのだ。無謀な賭けをした、という呆れよりも、今は圧倒的畏怖の壁に逃げ出さないのが関の山だった。
足が震える。
手は痺れている。
本能が全力で逃げなければならないと、口を酸っぱくしていた。
掌打の構えをゆっくりと直すクロムの姿にも、びくりと反応してしまう。
顔を止めどない脂汗で満たすアキラを見て、クロムは愉快そうに笑う。
「さすがだ、アキラ! まさか私の攻撃をそんな方法で退けるなんて、フロウ以外で初めてだよ」
瞳を輝かせ、声は兎のように跳ねていた。
その光景に安堵してしまっている自分がいた。
アキラ自身から決闘を申し込んでおいて、クロムの喜ぶ姿に殺されることはないと、安堵してしまっていることを自覚した。
クズ野郎だ。そう自分を罰すると唇を噛み千切った。アキラはここに、クロムに褒められる為にいるのではない。師事してくれた尊敬する人の間違いを正しに来たのだ。
いつまでこんなぬるま湯に浸かっている。クロムに銃口を向けた瞬間から、地獄を目指していることは分かっていたことだ。そうだとしても、アキラはハルに、シロに、部隊の仲間に示した自分の正義の為にここに立っているのだ。
このままでいい訳がない!
「随分と、ハルの姉さんの名前を出すんだな、クロム」
アキラの言葉に、クロムの喜びは映像のように一時停止状態になった。
「あんたは何かにつけて、フロウ、フロウ、フロウって言い続けてる。どうやら俺とハルの姉は似てるらしいな。それなのにあんたは俺を否定してる。間違ってる、綺麗ごとだって。あんたはそんなフロウさんを尊敬して、ましてやその夢を叶える為にテロまで操った!」
「……何を言いたいのかな?」
クロムの声が冷えてくる。まるでアキラの足を凍りつかせるように。
「あんたは俺等のことを間違ってる、現実を見てる自分の方が正しいって言い切ってる。そんなフロウさんを尊敬するのは矛盾してないか? でも、本当は矛盾なんかしてない。何でか教えてやろうか? あんたが心の底では、自分が間違ってるって認めちまってるからだよ!」
委縮する喉が完全に閉じるまでに何とか言い終えた。
恐怖に震える体は水分が全て蒸発したようにカラカラだった。クロムは何故かその場からピクリとも動かない。しかし、体から発される殺意は先程の比ではなく、アキラは決意を表すように構えた。
そして、ピアノの鍵盤を一音だけ鳴らし続けるような、小さくなる声が零れた。
「いくら愛弟子でも、言ってはいけないことがあるのだよ……」
その音がアキラに届いた時には、もう前にクロムはいなかった。
どこに、と探したのは一瞬だ。すぐに背後から殺意の塊と感じる巨大な何かがいることが分かった。咄嗟に振り向きガードしようと試みるが、首を振った所で背中を鉄バッドで殴られたような、鋭さと鈍さを兼ね備えた激痛が襲った。
背を強打され、反りながら空を見上げる形になるアキラ。視界がブラックアウトしないように歯を食いしばり、転ぶ体を踏ん張る。
が、前を見た瞬間にすでにクロムが掌打の構えで待機していた。くらえば内臓が吹き飛ぶというリアルに浮かんだ脳内の想像を回避すべく、強引に体を捻じる。
半ばだけヒットするように何とか出来たが、それでも腹を通った衝撃は血を沸騰させるかのようだった。口から噴き出そうとする血を呑み込み、アキラは足による反撃に出た。
しかし、それを防御というよりも、攻撃のような肘鉄で返され、苦痛に呻く間もなく、顔に拳が入った。白く染まる視界が回復すると、遠く離れたクロムが見える。距離から見て、アキラは吹き飛ばされ外周部の柵に助けられたようだ。
腫れあがった頬で左側の視界がほとんど潰されてしまった。脊髄や内臓、顔のダメージがそのまま足に現れ、常時痙攣していた。
無様な足を叱咤するように強く握ると、そこを支点に立ち上がる。
刃の嵐に揉まれているようで、今にもバラバラに砕けそうだが、まだ意識はある。
勝敗はダウン制でも、ダメージ制でもない。銃弾を一発当てれば勝ちなのだ。
今まで一度も勝ったことはなく、惨敗の歴史を重ねていたが、この勝負ばかりは負けるわけにはいかない。自分の生涯の中で、この一勝だけ出来ればそれでいいとまで思える。
アキラはおぼつかない足取りで、クロムに迫っていった。
「まだ、向かってくるのかい?」
クロムの冷めた声に、アキラはそこらかしこ切れている口内を痛みながら言った。
「当たり……前だ……この勝負、負けるわけには、いかねぇ!」
掠れ掠れのノイズのような声に、クロムは諦めたように瞳を伏せ、
「君に諦めてもらうというのは正義を通すより難しいな。いいだろう、もう……勝負を決めてやろう」
一メートルと距離が狭まったところで、アキラとクロムは足を止めた。
再び始まる前と同じような状況だが、アキラは満身創痍状態である。
そして、もう始まりの合図がない今、開始はお互いの隙の探り合いからだ。相手の集中力が少しでも切れれば、即座にトリガーを引く。
風がアキラとクロムの髪を靡かせた時、二人は動いた。
軋む体を顧みず、銃を持てる最高速度で上げるアキラ。
その渾身の集中力は一秒以下のコンマという次元で、クロムの銃を上回っている。
奇跡が起きたのかは分からない。それを検討するのは後回しだ。とにかくアキラは脳から早くトリガーを引けと命令を送り続けている。指の反応をもどかしく思いながら、ようやく弾が発射された―――と浮かれた時には、クロムはすでに前にはいなかった。
「言っただろう。負けるつもりはない」
声は銃弾とは真逆の方向から聞こえた。
クロムは、アキラが全身全霊を引き金にかけている間に、すでに避けていたのだ。他に回す気の余裕もなく、アキラは完全に見失っていた。
感じたのは絶望ではなく、後悔の涙―――でもない。
「俺だって、あんたにだけは負けたくねぇんだよ!」
絶望も、後悔もそんな物はあとでいい。今はただ、尊敬してやまない師匠を超えたい。無様でも、滑稽でも、見苦しくてもいい。勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい!
アキラは右手で構えていた銃を左手に飛ばす。そして飛んだそれを掴むと、即座にクロムに向けて構える。
クロムはその技術を見た瞬間、初めて驚く、という感情を垣間見せた。
そう、これはクロムが警備兵に突っ込んだ時に死角をとられた時の技。
アキラは弟子入りした瞬間から、ひたすらクロムを見続けていた。その技術を盗み、いつの日か、この尊敬する師匠を超えられるようにと。
この技術は、アキラがクロムと出会った時から積み重ねていた努力の結晶にも等しい一撃。これで決められなければ、一生負ける。
「これで、どうだああぁぁぁぁ!」
二つの銃口が、互いの顔に向けられている。
一瞬の静寂を感じた気がした。
その中でクロムが笑っているようにも見えた。
そして、二つの銃声が混ざり合う。
気が付くと、夕焼けだった空は少しずつ、黒に侵食されていた。
空模様を見て、あまり時間が経過していないことを認識すると、いつからだという疑問が上がる。そして、脳が映し出したのは銃を構えるクロムの笑み。
はっと、上半身を起き上がらせる。尻を床に付けているところを見ると、アキラは気絶していたようだ。
風が吹き、頬に冷たい痛みを感じた。指で撫でるとそこには真っ赤な液体で濡れていた。血の出具合からクロムとの決闘で付けられた傷だと判断できる。
……負けたのか。形容しがたい震えが胸の辺りから立ち上り、アキラは我も知らず拳を屋上に叩き付けていた。拳の横を、点々とした水滴が穿つ。
そんな時だった、アキラを笑う声が聞こえてきたのは。
「ふふ、何をそんな所で青春してるんだい?」
穏やかで余裕を感じさせる声だった。
振り返らなくても声の主は瞬時に分かった。
「………先生か……」
アキラは背を向けたまま呼んだ。
「すこぶるいい勝負だったよ。こんなにも楽しいと感じられたのは生まれて初めてだ」
「……戦闘狂の台詞だぞ、それ……」
「ふふ、なら君も立派な戦闘狂だよ」
クロムの言葉が、どんなに考えても訳が分からず、アキラは堪らず、え? と聞き返していた。そして振り向いた先には、
「祝福の言葉を言うことは出来ないが、褒めることはできる。よくやった、アキラ。痛み分けだよ」
クロムの顔には、たおやかな微笑と、そして、頬を一閃に染める赤と垂れる赤。
それは紛れもなく、銃創。アキラの放った努力の結晶であった。
「引き分けという形なのでね。君の要求に全て答えることは出来ない。が、君も正しいことは……認めよう」
クロムに間違ってると認めさせる為に挑んだ決闘だったはずだ。しかし、クロムのその言葉は、まるで初めて尊敬する師匠に認められたような気がして、アキラの中をほくほくと温めていく。視界が潤んでいく。泣いてはいけないと涙腺を締め直す。涙を見せる為に戦ったのではないのだから。
流しそうになった涙を堪え、アキラはそっと立ち上がるとクロムに背を向けた。
「俺も《WMO》を辞める気はない。でもな―――」
アキラは声が震えないよう残りの力を全て喉に集中させ、
「いつか、あんたが間違ってることを認めさせてやるよ。師匠」
と言い残し、歩き出す。
そんなアキラに後ろから、クロムの若干震えた言葉がかけられる。
「アキラ……私は君を弟子に持てて、本当に良かったよ。君は最高の弟子だ」
「あんたも……最高に……いい師匠だよ……」
アキラは振り返ることなく、頬を伝う物を誤魔化しながらエレベーターの陰に隠れた。
嬉しいのか、悔しいのか、悲しいのか分からなかったが、アキラは嗚咽を撒き散らしながら、小さな箱の中、糸が切れたように泣き崩れた。
12
「何か言ったらどうなんだ!?」
髭を生やした強面の男が長方形の机を両手で叩いた。
こういわれた時のアキラのリアクションは決まっている。大仰に耳を傷めた演技をし、
「何か」
この一言で相手を出来るだけ逆上させる。
「アズマ君、何故我々を裏切るような真似をしたのだ?」
強面の横に座るまだまだ若いながら《自治区》の一端を担う男が目線を厳しく送ってくる。三十代前後という若さで一つの区を運営するのは大した腕の持ち主だが、アキラから見ればまだまだ甘い。
「この《自治区》は明らかに国連法を違反しています。特に武器の輸入。ユウダさん、貴方はこの武器を区外の人間に安く提供、いや、武器を押し付けている」
「そんなことをして何のメリットが―――」
「貴方は他の《自治区》と共同して《統括区》を潰そうとしている。武器は他の《自治区》からお金を貰って受け入れているのはもう知っています。貴方のその金儲けの為に一体どれだけの人が犠牲になってると思うんですか? 貴方方に煽られた区外の人間、それを迎え撃つ《統括区》の兵士。知らないとは言わせませんよ」
アキラの語気を強めた言葉に、ユウダはふっ、と口端を吊り上げた。
「さすがだよ、アズマ君。やはり君を幹部に招き入れたのは間違いじゃなかった。しかし、そんな馬鹿げた感情に動かされるほど愚かとは思わなかったよ」
「馬鹿げた感情とは?」
「口に出すのも躊躇われるが、正義感という奴さ。一体どれほどの人間が死んだ、だと? そんなことはどうでもいいじゃないか。区外のゴミ共が何人死のうと、《統括区》の馬鹿共が何人死のうと、私達には関係のない話だ」
その言葉に、アキラは辟易とするのを抑えられなかった。
ユウダという今の男を見て浮かぶ文字は二つ、小者。
アキラは丁寧な口調を作るのも面倒になってきたが、もう少しだと自分に鞭を入れる。
「それは、自白、と取っていいのですか?」
「ああ、でも、何故私が簡単にこんな話をしたと思う?」
「それは、私を消すからでしょうか?」
「アズマ君、君は実に優秀だ」
その言葉と共に跳び出て来たのは、アキラの両脇を囲む、強面の部下と思える顔に切り傷などがある男二人。
任侠映画か! と思わずツッコみたくなるのを抑え、アキラはネクタイを緩めながら、お返しとばかりにユウダに質問した。
「ではユウダさん、何故私がこんなことを公式の場で、正直に話したと思いますか?」
「さぁ、大方正義心にでも突き動かされたんじゃないのか?」
「さすがユウダさん、正解です」
すっ、と風が通る音がする。それから数秒置くと、アキラを囲んでいた二人は沈んだ。
驚愕に顎を外しそうになるユウダが、アキラを指し、
「な、な、何だお前は!?」
その問いに答えたのはアキラではなかった。
『《WMO》です。神妙にお縄につけぇい』
機械を通した荒れた声で、無感情の時代劇風の口調でそう告げられた。
声と同時に現れたのは装甲ヘリ。そして備え付けた機関銃の弾が正確無比な標準で強面の手を貫き、銃を零させた。
ガラスの破片に甲高い悲鳴を上げながら蹲るユウダを見ながら、アキラは呆れた声を出す。
「おい、シロ。だからその登場危ないから止めろって言っただろうが」
『ですが、ハルに聞いたところ、ヘリの登場はこうでなくてはならないと』
あの野郎、また適当なこと教えやがって、と脳内に軽い愚痴を漏らす。今では何かとシロを好き、抱き枕のように抱きしめるハルは、アキラの頭痛の種だった。
「まぁ、いいか。一々屋上まで行くのは飽きてきたところだ。シロ、ドア開けてくれ」
ガラスの破片を踏み砕きながら進み、ユウダの襟を掴み上げる。そして壁ギリギリまで行くと腰のベルトも掴み上げ、ヘリの中に放り投げる。見っとも無い悲鳴を終始叫んでいたユウダを逮捕すると、アキラはジャンプで飛び乗る。
「いいぞ、シロ。出してくれ」
ドアが閉まり、アキラはスーツの上着のボタンを外すと固い席に落ち着いた。そして機関銃を操作していたシロが隣に、ててて、と足音を鳴らしながら座った。
「大分操縦も様になってきたじゃないか、シロ」
「こんなものは覚えれば簡単です。私もそろそろ潜入任務をしてみたいです」
「ふざけんな、まだまだ早いっての」
シロは現在アキラのパートナー的存在として《WMO》にいる。複雑な背景がある為、正社員として迎えるのは難しかったのだ。しかし、それなりに楽しくやっているようで、アキラは安心していた。
シロをこんな前線に出していいのかと、クロムに相談したが、独立した今、脅威は《自治区》だけでなく、《統括区》も増え、二倍になった。その為、一か所に留めておくよりも、腕利きの傍にいた方が安全、という結論になったらしい。
様々な思いが交差した《治安の暴走》、そして《UNMO》と戦った日々も過去に過ぎようとしている。
皆が平和を喜んでいる中、アキラは胸中に突っ掛っている物があることを自覚していた。
クロムとの決着。決闘を申込み、引き分けというアキラにしては奇跡のような結果を引き寄せた訳だが、それでは終われないのだ。今もクロムは《ナンバーズ》として活躍している。今のところは無茶な計画を立てていることはない。
必ず、そう呟きながら、アキラは小さく開いた窓から外を眺めた。
中天に上がった太陽が《統括区》も《自治区》も分け隔てなく照らしている。
「どうしました、アキラ?」
はっと、意識を戻すと目の前にアキラの顔を除くシロがいた。吐息が当たるほど近い。
「いや、お前はずっと俺に付いてきてくれるのかな、って思ってな」
「はい。アキラの知識が枯渇するまで、私はアキラに付きまといます」
何やら想像より条件が歪だ。聞き間違いでなければ付きまとう、と言っている。
しかし、このアキラの得た少なくも強靭な絆が、正義をもたらすと信じて、
「ああ、よろしくな」
アキラは強く返事をし、シロの頭を撫でる。
二人を乗せたヘリは、快調に《自治区》も《統括区》も突き抜けていく。
そして共に正義を目指す仲間達がいる塔へと、静かに、雄々しく帰還するのであった。