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5章


 三人で過ごしていた。

「……あの子の声、聞こえなくなっちゃった。この前までずっと泣いてたのに。泣くのって、悲しいんだよね? ねね、エレクトラ、あの子、どこへ行ったの?」

『…………』

「エレクトラ?」

『…………』

「……遅いなぁ、リウオーネ。早く帰ってこないかなぁ……」

 ひとり減って、二人になった。


     ■


 誰かに呼ばれた気がしたオルドウィンは目を開ける。

 耳元で誰かが自分の名を囁いたような気がした。ともすれば聞き逃してしまいそうな小さな声だったと思う。それでも確かに、自分の名前を呼んでいた。

 体を起こすと薄手の毛布が体に掛けてあり、周囲は暗いが、どうやら自分は今提督の工房にいるらしい。

 毛布を掛けてくれたのもきっと提督なのだろう。寒さ自体よほどの低温でないと感じることはないが、こういう彼の心遣いは素直にありがたいと思えた。

 ……ああ、そうか。

 機能不全を起こしたのか、と気付くには時間は要らなかった。ここへ来た記憶もないのに、ここに寝かされているという現状から容易に推察できる。

 強烈なストレスで、自分を見失う瞬間を憶えていた。視界が真っ赤に染まり、自分が今何をしているのかすらもわからなくなる、あの感覚だ。確かルトゥーシトと話をしている最中だったと思うのだが……。

 ……とすると、レジーナに連絡してくれたのはあいつか。

 そのおかげで命拾いしたのなら、お礼くらいは言ってやらねば。

 しかし妙だとオルドウィンは気付く。先ほど耳元で名前を呼んだのは誰なのだ、と。

 提督か、レジーナか、それともルトゥーシトか。いずれにせよ工房内に人の気配はない。まさか本当に空耳だったというのなら、一度提督に聴覚素子の点検を依頼した方がいいのかも知れない。どこかに異常がある可能性がある。

 寝台から降りる。工房への入り口の横には衣類を入れるカゴがあり、そこにはオルドウィンが着ていたシャツが畳まれて置いてあった。スーツは隣の壁にハンガーで掛けて吊してある。

 手に取ろうとして、気付く。シャツの畳み方がレジーナにしては粗い。というか、汚い。

 ……あいつか。

 レジーナに教えてもらったのだろうか。何度もレジーナに怒られながら眉をハの字にしてシャツを綺麗に畳もうとするルトゥーシトを思い浮かべ、薄く笑う。何となくその光景を微笑ましく感じる。

 いつまでもここにいても仕方がない。機材が外され、毛布が掛けられていたということは調整は終わったのだろう。

【世話になった。帰る】

 と、メモを残して工房を後にした。

 夜も更けると寒さも増し、外気温はほとんど零度に近い。こんな寒々しい夜空の下、スーツ一枚はいくらなんでも薄着が過ぎる。本来なら厚手のコートでも着込んでいい時季なのだろう。冷えすぎも生体部品に良くない。体の負担にならぬように着込んでの温度調整も必要か。薄く色付く呼気を見ながら思った。

 中央通りに近くなり、ふと、ざわめきを感じる。近所の住人たちだろうか。

 ざわめきのする方へ歩いていくと、思った通り中央通りへ出る。通りの片隅、そこに人だかりができていた。嫌な予感がする。

 歩きから徐々に早足へ。最後は全力で走る。人混みはちょうど、レジーナの店の前に集中していた。

 同時にくるくると回転する赤い光が目に入った。市警察の警邏車両だ。なぜこんなところに?

「おい、何かあったのか?」

「あぁ。レジーナんとこに強盗さ」

 手近なところにいた野次馬に話し掛けると、そんな言葉が返ってきた。

「レジーナは無事なのか」

「いや、手ひどくやられたみたいだぜ。家ん中で撃ち合いになったって話だ」

「撃ち合いだと……?」

 絶句する。手ひどくやられた、というには、撃たれたのか。

 オルドウィンは人混みを割って進み、野次馬の最前列へ躍り出る。立入り禁止の黄色いテープでそれ以上は進めないようになっているが、現場検証を行っている警官たちの向こうに、割れたガラス窓が見えた。銃弾によって砕かれたか、それとも強盗はそこから侵入したのか。

「おい、レジーナは撃たれたのかっ」

 近くを通りがかった若い警官に掴み掛かり問いただす。

「な、なにを……!」

「撃たれたのかって聞いてるんだ! 答えろ!」

 鬼気迫る表情に怯えた警官は、声を震わせながらたどたどしく答える。

「つ、通報を受けてここへ来たときには、もう意識が、な、ない状態だった……! 体中、血まみれで……! ついさっき、搬送されたところだ!」

「どこの病院に運ばれた!?」

「こ、コラルクィエムだ! コラルクィエム記念病院っ!」

 その名を聞いても市内にある大きな病院――という知識しかない。ここへ来てから一度も通ったことがないのだから、それも仕方がなかった。

 搬送先を聞いてあとは手を離すつもりだったが、もうひとつ、問わねばならないことを思い出す。

「……女の子は、どうした?」

「お、女の子?」

「そうだ。異族の女の子がいたはずだ。十歳、くらいの……」

 掴み掛かった手から力が抜けた。嫌な予感は当たる。警官は少し考え込み、

「……いや、そんな報告は聞いてない。あんた、レジーナの知り合いか?」

「そんなもんだ。……邪魔したな」

 警官に背を向けて歩き出す。動作はいつも通りだが、内心は非常に焦っていた。

 ルトゥーシトがレジーナのところにいないということは、提督の家にいるのか。だが彼女のことだから、ルトゥーシトを他の誰かに預けるようなマネはしないだろう。家を襲った強盗だって、このタイミングでレジーナのところに現れるなんて機を窺っていたとしか思えない。おそらく強盗とは、ルトゥーシトを追ってきた刺客と見て間違いないだろう。それも住人を銃撃して連れ去るような形をとっていることから、まともな連中ではない。

 ……くそ!

 肝心なときに動かないで、一体何のための機械だ。

 それよりもルトゥーシトはどこへ連れて行かれたのだ。探そうとしても、どうすればいい。どうすればレジーナを撃ち、ルトゥーシトを攫った奴の居場所を掴むことができるのだ。

「くそ!」

 どうすればいい。俺はどうすれば。

 ……目撃者……そうだ、目撃者だ。

 これだけ住人がいるのだ。片っ端から聞いて回れば、あるいはひとりか二人か連れ去られるルトゥーシトを目撃している者がいるかも知れない。

「あなたらしくない判断ですな。そんなことをしている間にも彼女は遠ざかって行きますよ」

 走り出しかけたオルドウィンをその場につなぎ止めたのは、背後から聞こえてきた声だった。

 オルドウィンはこの声を憶えていた。

 振り向いた先にはひとりの男が立っている。年は三十も後半に差し掛かった辺りだろう。大柄で面長の顔をした男だった。ピンと伸ばされた背筋に黒いスーツを隙なく着込み、同色のネクタイをきっちりと絞めて――。

 オルドウィンは知っている。この声も、顔もだ。

「フランツ……!」

 自分にルトゥーシトを託し、何の情報も寄越さないまま行方不明だった元相棒。

「どうしてここに――いや、今まで何を――くそ、違う! とにかくどういうことなのか説明しろフランツ!」

 次々と疑問が湧き上がってくるので処理しきれず、とにかく怒鳴り散らすことしかできない。わけがわからないのだ。どうしてこのタイミングで、この男がここに現れるのか。

 フランツは激高するオルドウィンを尻目に、レジーナの店の前にたむろする住人たちに目を向ける。

「どうやら、私は出遅れたようですね」

「出遅れたも何も、こっちには何の情報もない。もちろん説明してくれるんだろうな」

「ええ、まずは申し訳ない。昨日まで動けない状態でしたので、連絡もできませんでした。なかなか痛手を負わされてしまいまして」

 よく見るとこうして立っているだけでも、重心の位置が片足に掛かりすぎていることに気付く。足を負傷しているのだろうか。

「なに、心配は不要ですよ。こんなものはかすり傷です」

 それよりも、とフランツ。

「移動しませんか。ここだとおちおち話もできない」

「お前――いや、そうだな。だが今はルトゥーシトが先だ。その口ぶりだと向かった先も検討がついてるんだろ」

「そのことも含めて、お話しなければならないことがありますので」

「……わかった」

 オルドウィンは焦る内心を理性で抑え込みながら、自宅への道を歩き出した。



 自宅に着いた後に改めて問いただしてみると、フランツでもルトゥーシトの詳しい情報は知らないのだという。

「彼女の正体は私も知りません。私はあくまで依頼を受けて、彼女の脱走の手助けをしたまでです」

 アイヴァンが壊滅した後、彼も組織から離れた人間のひとりだった。構成員のほとんどを失い、もはや組織としての力をなくして散り散りになってしまった場所にいるわけにはいかなかったというのと、やはりオルドウィンの失踪が大きな要因だ。

 フランツは組織への忠誠というよりも、オルドウィン個人への忠義と尊敬の思いが大きかった。だから彼が不在の組織にいても意味がなかったのだ。

 そして彼はアイヴァンで起こった事件を独自で調査していた。不可解な流通、不可解な薬物、そして不可解な変貌――。

 フランツはどこか自分たちの窺い知れないところで、何か大きな力のようなものが働いているような気がしてならなかった。どこかの誰かが事件を隠蔽しようとしているような。

 アイヴァンが消えたあの日。軍部が動いたというのに、報道されるどころか事実は大きく歪められた形に改竄され、証拠となるはずの住人たちも消えてしまった。

 その後のアイヴァンは地図から地名を抹消され、表向きはばら撒かれた細菌による汚染が原因で完全に封鎖されている。――はずだった。

「はずだった?」

「ええ。廃墟になったアイヴァンに、妙な連中が出入りしているところを目撃しましてね」

 瓦礫の山しかない街に出入りする多くの人間は、どうやら地下で何かを行っているらしかった。

 その周囲を調査している最中、フランツはとある女に出会った。

 彼女は最初、驚くべきことに自分の脳内に直接話し掛けてきたのだ。一部の異族が持つ特殊な能力である魔術アルターチャンネル。おそらく対象と言葉を交わすことなく意志を伝達することのできる感応テレパスタイプだろう。目の当たりにするのは初めてだった。

 声の主は自分をどこかへ導いているようで、彼はそれに従う。

 彼女の声に導かれるまま、彼はとうとう瓦礫の山の中に巧妙に隠された地下施設への出入り口を発見する。そこでフランツを待ち構えていたのは人間――いや、異族だった。

 年の頃は二十半ばといったところだろう。老婆のような白髪に赤い瞳をした女だ。前髪に混じった虫のように細い触覚に、感情の欠け落ちた表情。まるで幽霊か何かのような――現実感のまるでない、今思うと蜃気楼のような女だった。

 女は警戒しつつ銃を抜いたフランツの脳内へ魔術で語りかけてくる。

『あなたに、救っていただきたい子がいます』

 この施設は冒涜と背信によって築かれた研究施設であり、自分もまた実験の過程によって生み出された失敗作だと言う。この施設の全容を語ることはできないが、この中に救って欲しい少女が幽閉されている――とのことだ。

 女は一切口を開くことなく、ずっと魔術を使ってフランツと意思の疎通を試みてきた。しかしフランツは終始奇妙な感覚を払拭できずにいた。もちろん言葉の裏の意味――自分の本心をも彼女は読み取っていただろう。しかしそれに気付く素振りもみせず、あくまで淡々と彼女はその少女の置かれた状況を伝えてくる。

 やがて人が来ると告げられ、フランツはその場から立ち去った。女は去り際に次の密談の日時を伝えてきて、フランツは迷った末、再びアイヴァンを訪れることとなる。

「私は御存知の通り、運び屋として生きたことがあります。もしも彼女の力が私の思考だけでなく、私の経歴――どのように生きてきたのかすらも見通せるものだったとしたら。……そう考えると彼女は、私のような人間があの街を訪れるのを待っていたのかも知れない。私は、彼女の依頼を受けました」

 密談は一度につき約十分程度。当然彼女も監視対象であり、彼女場合、その時間だけ監視が外れるのだという。

 瓦礫の中に監視カメラが埋め込まれているため、彼女の誘導に従って廃墟を歩いた。

 こうした短いやり取りを続けること二ヶ月。計画はついに実行される。

 女の手引きによって施設内へ侵入したフランツは最奥に幽閉された少女にまで辿り着いた。そして少女――ルトゥーシトと共に施設を脱出することに成功する。

「しかし途中から彼女からのテレパスが途絶え、結局我々の存在は施設に感知されてしまいました。おそらく彼女が拘束されたか――」

 造反者として処理されたのだろう。結局彼女の目的も、名前すらも聞くことはできなかった。

「とにかく、その後はずっと追われていました。ルトゥーシトが施設にとってどれほど重要な存在なのか、まったく身を以て知らされた気分ですよ。私はとんでもない相手を敵に回したのではないかと、何度も思いました」

 やがて追い詰められたフランツとルトゥーシトは二手に分かれ、フランツは度重なる交戦の末に負傷し、橋の上から河川へ転落。下流へと流されたらしい。病院で目が覚めたのは、つい先日のことだった――これがルトゥーシトを連れての逃走の顛末だった。

 オルドウィンが静かに問う。

「……大体わかった。だが、なぜ俺のところへルトゥーシトを寄越した? 俺はもう――」

 組織という繋がりをなくした今、フランツとオルドウィンは他人に過ぎない。

「咄嗟の判断でした。私は彼女を逃がさなければならなかった。だから使えるものは何でも利用して、依頼を達成しなければならなかった。あなたの日常を壊すようなマネをしてしまったのは悪いと思っています。許して下さい」

 椅子に腰掛けたままテーブルに額が着くまで、深く頭を下げるフランツ。

「……俺のことを調べたのか」

「半年ほど前に、あなたの居場所を割り出しました。知っているのは私だけです」

「そうか……」

 オルドウィンは静かだった。一発や二発、殴られる覚悟で赴いたのだが。

「――フランツ。俺はお前に言いたいことがある」

「……はい」

「この仕事は、二三〇メレル以上するだろ」

「……ええ。間違いなくおつりが返ってきますな」

 そしてクツクツと、二人して笑った。あぁ、以前のような彼ではない。ここにいるのは壊れた心を抱えた機械ではない。人間に戻った、オルドウィンなのだ。

 顔を上げろよ、と言われて、フランツが下げた頭を戻す。その顔には少しの安堵が浮かんでいた。

「それで、ルトゥーシトはどこに連れて行かれた?」

「おそらくアイヴァンの地下施設へ」

「ここからどれくらいかかる?」

「――行くのですか」

「お前の話だと、内通してた異族はもういないんだろう。なら俺が手を貸す。お前もそのつもりでここへ来たんじゃないのか?」

「……ハハ。まったく、その通りです。あなたがあまりにも、以前のように戻られていたので。気持ちが揺らいでいたところでした。――しかしいいのですか。あなたにはあなたの今の暮らしがあるでしょう」

 一度は奪われたルトゥーシトだ。向こうは勿論フランツへの対策を練っているだろう。警備や監視設備の増強もされているかも知れない。

 それに前回、フランツがほとんど無傷でルトゥーシトを連れ出すことができたのは、内通者の手助けがあったからだ。それすらも見込めない今回、果たして無事に生きて戻ってこられるかわからない。

 今の生活に未練がないわけではない。撃たれたレジーナが気がかりだ。

 やっと慣れてきた仕事もある。週末に再度開かれる宴会にも、やっぱり参加すると返事してしまった。

 それ以外にもたくさんの繋がりを持ってしまった。それらを全て断ち切ることにもなるのではないか。

 けれど、それでも。

「……俺は」

 オルドウィンが言う。

「俺は、まだあいつに何もしてやれてない。貰ってばかりで、何も返せてないんだ」

 ただ拒絶し続ける自分に、ルトゥーシトはそれでも傍にいると言ってくれた。

「それにな。誰かと食う飯は、美味いんだ。あいつはそれを思い出させてくれた」

 そう感じる部品を心というのなら、きっと彼女はそれを取り戻してくれたのだ。

 たったそれだけだ。それだけでしかないが。

 それでもオルドウィンが決断するには、それだけで十分だった。

 


【やることができた。今まで世話になった。皆によろしく】

 アウルシュテムへの短い電子書簡を送り、オルドウィンはカスール機械工房を訪れていた。

 日が昇り始めて間もない時間帯だ。

 積み上げられた旧い機械たちの囲まれた奥の作業場。早朝なのにも関わらず、提督はいつものようにそこにいた。

「よう」

 いつものように軽い挨拶から。提督は店先のオルドウィンを一瞥すると、ゆっくりと近づいてくる。

「……レジーナのことは、聞いたぜ。嬢ちゃんはどうした?」

「おそらく拉致された。ここにもいないってことは、そういうことだ」

「……そうか」

 押し黙る二人の男。提督の表情は帽子が隠してしまっていて目にすることはできないが、沈痛な面持ちを浮かべているに違いない。

「……で、連れ戻しに行くのかよ」

「ああ。だから、レジーナのことをよろしく頼む」

「あの娘のことは任せろ。おめえよりも付き合いは長えんだ。……いつか、こういう日が来るんじゃねえかと思ってたぜ。おめえが元いた場所に戻る日が」

 それ以上の言葉は必要ない、と言うように提督はオルドウィンに背を向ける。曲がり掛けていた背筋をピンと伸ばし、

「なら、返さなくちゃな。ついてこい」

 提督の後をついて行く。

 いつも定期的に検診を受ける最新機器の詰まった奥の部屋。提督はそこを通り抜け、更に奥へと向かう扉の前で立ち止まった。

 分厚く無骨な扉だった。厳重に施錠され、幾重ものシステムによって管理され、過剰なまでに封印されている。まるで昔に本で読んだ潜水艦や宇宙船のドアのようにも見えた。

 重い音を立てて開いた扉の向こうで、明かりが点く。

「お前から預かってたものがある。持っていけ」

 円形の部屋の中心。そこに見覚えのある昏い輝きを放つ黒色の装甲服があった。流線と曲線で形成された鎧のような拵え。細部は微妙に違っているが、間違いない。何百もの擬獣の血を浴びた、あの装甲外骨格だ。

「まだ……残ってたのか」

「修復するついでに改修もしておいたんだよ」

 歩み寄り、手で触れた。

 むせ返るような血の臭いと、擬獣の断末魔が蘇ってくるようだった。度重なる戦闘で傷だらけになり、長い放浪のせいでボロボロになった装甲は新品と見紛うほど綺麗に修復されているが、滲み出てくる昏い臭いまでは消せていない。

 ……わかっているよ。

 これはオルドウィンの罪の象徴だ。忘れたわけではない。罪はいつだって自分自身の中にあり、消えることはない。

 外骨格を装着し、二十六本のアンカーボルトを打ち込んで体と固定する。本来の形へ戻るだけなので、異物感はない。

「また戦うのかよ。戦いから逃げてきたお前が」

「……知ってたのか」

「俺も昔戦場にいたことがある。あの傷を見りゃ、わかるさ。どんな地獄をくぐってきたのか。そこで死ぬことができず、結局生き残っちまったってくれえはな」

「俺を助けたら、ここも地獄になるかも知れないとは思わなかったのか?」

「そんなことは知らねえさ。目の前に壊れかけの機械があって、俺の仕事はそれを直して使えるようにすることだ。機械には何の罪もねえ。だからお前を直した」

 オルドウィンが外骨格の装着を終えると、提督が言う。

「機械は望まれたからこそ、造られた。だから機械は役目を果たさなくちゃならねえ。おめえが何を望んでその体に造り替えたのかは知らねえが、ここでガイドやるために機械になったわけじゃねえだろう」

「だったら――これから俺のすることは、望まれたことじゃない」

 殲滅と殺戮こそがこの機械の体に与えられた存在理由だった。しかし今度は、守るべきものを取り戻すために使われる。込められた理念に相反するものだ。

 だが提督は鼻で笑い、その言葉を一蹴する。

「頭の固え野郎だな。人を殺す道具として造られた銃だってな、時には人を守ることがある。結局機械は、使う奴によって善にでも悪にでもなるんだ。人間にそういった二面性がある以上、それだけは避けられねえ。おめえはその力をどう使うよ?」

 突き付けるように放たれた言葉だった。

 オルドウィンは機械となった人間である。人間の心を持っているが故に、与えられたこの力をいかようにも使えてしまうから。

「俺は――」

 笑顔が思い浮かぶ。嫌いだった――否、嫌いであると思い込もうとしていた子供の、ルトゥーシトの笑顔だ。

「あいつに青空の下で笑っていて欲しいだけなんだ。この体がその役に立つって言うなら、俺はもう迷わない」

 それが償いになるのかはわからない。けれど例えそうならなくても、オルドウィンは彼女を救うことをやめようとはしないだろう。

 なぜならそれが今の、彼自身の望みであったからだ。人間である自分が、機械である自分へそうして動くことを求めているのだ。

 提督はいきなり、オルドウィンの背中を思い切り叩いた。

「そうだ。いい顔だ。その体の借金は、おめえが帰ってくるまで待っておいてやる。だから必ず戻ってこい」

「提督……」

 オルドウィンは弱い衝撃こそ感じたものの、痛覚を刺激されるまでには至らない。かえって提督の方がダメージは大きいはずだ。

 それでも老人は痛みを感じていないかのように、まるで孫の門出を祝う好々爺のような笑みを浮かべた。

「行ってこい、オルドウィン。どんなにボロボロになっても、俺が必ず直してやる。俺はおめえの、世界でただ一人の主治医だ。忘れるんじゃねえぞ」



 四角く白い部屋がある。

 壁や天井、小さなベッドや細々とした調度品、家具の類まで全てが白色に統一された無機質な空間がある。清潔ではあるだろうが、生物の生活臭が感じられない造り物の部屋だ。

 白いボディスーツに身を包み、ベッドに座るのはルトゥーシトだ。少女はぼんやりとした表情を浮かべながら、体験したおよそ一ヶ月間の外での生活を思い起こしていた。

 この部屋には何もない。普通に生活できるだけの家具は揃ってはいる。しかし太陽も、風も、水も、人も、においもない。外にはあった何もかもが、ここではまるで存在していないかのような扱いをされている。

 つい数ヶ月前にはただ想像するだけだった。決して手の届かない物へ、ただ憧れるだけでよかった。

 しかし外の世界を経験した今、ここには何もなかったのだということを改めて思い知る。

 天井の隅へ目を向けると、監視カメラの小さなレンズがジッとこちらを捉えていた。あの向こう側にはこちらを窺う人間たちがいるのだろう。ただ機械を隔てている今、彼らのにおいも感じられない。

 ……わたし……独りなんだ。

 思い出すのは窓の外に広がる風景と、肌に直接感じる大気の流れ。外の世界では部屋にひとりでいたとしても、決して独りではなかった。暗くなると仕事から帰ってくる彼の声とにおいを思い浮かべていると、寂しさも感じなかった。

 なのに今は孤独が、誰もいないという事実が耐えられないくらいに苦しい。以前はこんなこと思いもしなかったのに。

 ベッドの上で膝を抱き抱え、顔を埋める。

 ……オルドウィン……。

 せっかく仲良くなれたのに、こんな形で離れることになってしまったことが心残りだ。アウルシュテムとの約束も果たせそうにない。レジーナは無事だろうか。提督にまだお礼を言っていない。やりたいこと、やり残したことがあまりにも多くありすぎて、外界への思いは募るばかりだ。

 そして、それは唐突に訪れた。

「!」

 頭部が雷にでも撃たれたかのような、鋭い衝撃が脳へ突き刺さる。

 物理的なものによる衝撃ではない。これは魔術による精神感応だ。送信された感情があまりにも強すぎて、受信側であるルトゥーシトにそういった錯覚を抱かせたのだ。

 彼女の知る限り、こんなことが可能な人物はエレクトラか、あの子しかいない。そしてエレクトラはもういない。自分を外に出してくれたとき、彼女の意識が消える様を感じ取った。

 だからきっと、彼女に違いない。

 まだ衝撃の残滓のあるこめかみを押さえながら、

『リウオーネ……いるの?』

 おそらく数年ぶりとなる彼女との交感を試みた。

『あなたの声、聞こえなくなっちゃったから、もうここにはいないんだと思ってた。今までどこにいたの?』

 返事はない。しかし交感を続ける。

『わたしね、空を見たんだよ。初めて見ることができたの。施設の外って、あんなに広かったんだね。本でしか見たことがなかった山とか、海とか、街とか、人とか、たくさん見たんだよ。……もう、見ることもできないだろうけど』

『――して』

『!』

 初めて言葉が聞こえてくる。もう話し掛けてきてくれる誰かもいないのだと思っていたこの部屋の中で、誰かの声を聞けたことが嬉しく思えた。声の主が長い間音信不通になっていた、半身とも呼べる存在ならば、尚更だ。

 ホッと安堵のため息をつきそうになったところで、

『――どうして?』

 ルトゥーシトの言葉に割り込むように、向こう側から非常に強い思念が流れ込んでくる。

 そしてその思念は、明確に、明瞭にたったひとつの言葉を繰り返した。

『どうして?』『どうして?』『どうして?』『どうして?』

「ッ……!!」

 受信した脳が凍り付いてしまいそうな冷たい声だった。ひとつの声が何重にも反響して押し寄せてくる。

 そのあまりにも強すぎる声に引き摺られて体が底冷えしてしまいそうになり、ルトゥーシトは思わず自分の肩を抱いた。

『リウオーネ? リウオーネだよね?』

 彼女の名前を呼びかけるも、それに対する答えは変わらない。

 意思の疎通ができない。こちらの呼びかけが向こうに届いているのかも、わからない。

 どうして、と彼女はうわごとのように繰り返す。何かを問うているのだろうか。ルトゥーシトにはそれもわからなかった。

『……リウオーネ?』

 ずっと一緒にいたはずの、己の半身とも呼べる存在。ある日突然ニンゲンに連れて行かれて姿を消した少女。

 それがこうして、やっと無事を確認できたのに、彼女が何を言っているのかわからない。

 こちらの声に応えず、意味不明の言葉を送り続けてくる彼女に、徐々にルトゥーシトは恐怖の念を抱き始める。

 これは本当にリウオーネなのだろうか。

『……誰、なの? あなた、誰なの?』

 そう問うた瞬間、押し寄せた声がなくなった。

 耳鳴りに似た音も、あれほど心を埋め尽くしていた声も、問いかけてくる思念も、何もかもが消え失せた。

 突然に訪れた静寂。

 それがどれほど続いただろう。十秒か、三十秒か、もっとか。その間ルトゥーシトは無音の部屋の中で震えていた。

 冷たい声に引き摺られたのではない。これは、心の状態が表層に現れて――体に変調をもたらしているのだ。

 ルトゥーシトは今、この静寂に恐怖していた。

 何かが来ることを、予感していた。そしてそれは予感の通りに訪れた。

 磨り潰されてしまいそうな程の大きな大きな思念。

 ルトゥーシトは以前、他人の夢の中でたしかにその感情を追体験していた。彼はずっとその感情に苛まれ、今も苦しみ続けている。

 それは憎悪だった。黒く黒く黒く、強く強く強く。誰かを恨む『想い』の集合だった。

 心臓を氷の杭で穿たれる、冷たい感覚がルトゥーシトに襲いかかる。

「ひッ……!」

 咄嗟に交感を断ち切ると、途端に流れ込んでくる思念が消えた。同時に異常な程の静寂もなくなり、今まで変わらない空気に戻る。

 だが体がガクガクと震えたまま止まらない。頬を伝って床に落ちる水滴は、冷や汗と涙によるものだ。

 荒い呼吸の中、震える我が身を両手で抱きしめ、ルトゥーシトはかすれた声で呟いた。

「助、けて……」

 もう本当に、ここには何もないのだ。誰もいないのだ。それを理解してしまった。

「助けて……オルドウィン……!」



 人々を見下ろすかのように聳え立つ摩天楼。

 一年中明かりの消えない繁華街。

 浮浪児たちの根城であった路地裏。

 かつてはたくさんの人で溢れていたアイヴァンの街並み。

 今では摩天楼は崩れ落ち、繁華街は影を落とし、路地裏は瓦礫に塞がれ見る影も無い。あれだけいた市民も、浮浪児たちも、積み重ねた擬獣の死骸も、市民の死体もなくなっていた。代わりに変色した血痕や、そこかしこに残る銃痕があった。中にはまだ真新しいものもあるように見える。

 建物は黒く焼け焦げ、焼け残った瓦礫のみがこの場がかつて、街として存在していた事実を物語っている。

 ここは確かに、あのアイヴァンだった。しかしもう、男の知っているアイヴァンではない。

 この街を呑み込んだ悲劇を語れる者がどれほどいるのか。

 悲劇の集束に努め、それでも止めることの叶わなかった男がいる。

 悲劇を知り、全てを失い、憎悪に狂った男だった。

 夕日の差すひび割れた道路。

 そこを一歩一歩踏みしめながら、男はすっかりと変わり果ててしまった故郷を往く。

 脳裏に凄惨な記憶が蘇る中、男は歩を進めた。

 温かな思い出だけでいい。今はそれだけでいい。悔恨も憎悪も、今だけは表に出てきて欲しくない。

 毒素に汚染されたという偽の情報により侵入を禁じられているはずのこの街であるが、瓦礫の狭間へ巧妙に隠された機械の微かな鼓動がある。ここへ出入りする何者かが仕掛けた、対侵入者用の罠だ。真新しい血痕を作ったのはこの罠なのだろう。迷い込んだ者を自動的に排除する仕組みになっているに違いない。

 その鉄の瞳は街へと入り込んだ異物を捉え、即座に排除を実行する。

 銃声。

 展開された銃身から放たれる何十発もの銃弾は侵入者を撃ち抜き、殺すのだ。そのための機械が街のそこかしこに埋められている。

 だが、こんな銃弾ごときでは男の歩を止めることはできない。

 憎悪が形を結んだ鉄の体が、弾を弾いた。

 歩を進める度に強まる弾幕を意ともせず、男は往く。

 男の顔には、それを覆う仮面がある。人の心を隠し、身も心も獣となるための、獅子の形を象った鉄の仮面だ。しかし今、憎悪のために力を振るった黒き獅子は人間の心と共に、その足を踏み出す。

 淀みなく、揺らぎなく。

 男は――オルドウィンはアイヴァンへと再び降り立ったのだった。



 提督から餞別にと渡されたトラックで陸路を進んだが、ついにルトゥーシトを見つけることはできなかった。

 出発の時間にそれほど差があったとは思えず、おそらく向こうは途中で空路に切り替えたのだろう。今頃彼女は施設のどこかに収容されているはずだ。

 ルトゥーシトの奪取に際して、フランツとは二手に分かれることになった。

 彼は既に一度内部からの先導があったとはいえ、地下施設への侵入に成功している。故にルトゥーシトの救出を一手に任せ、オルドウィンは外で警備の攪乱を行う。

 攪乱とは、つまり暴れて目立てばいい。

 だからこそオルドウィンは隠れることもせず、堂々と威風をなびかせるように監視網を横切って進んだ。

 装甲外骨格は生半可な衝撃ではびくともしない。そこかしこに仕掛けてあるような機銃など物の数ではなかった。

 鉄と鉛のぶつかる甲高い音が廃墟に響く。機銃の数が増えてきたのは、施設までの距離が縮まってきているのだと判断できる。

 弾幕を抜けると、更なる機械の駆動音が聴覚素子を揺らした。

 瓦礫の影から現れたのは銃器と軍事用外骨格で武装した警備兵だ。知らぬ間に周囲を取り囲まれてしまっていた。瓦礫の中に地下への通路でも隠されているのか。

 手にした長銃はそのことごとくがオルドウィンへ標準を固定し、今、掛けられた指が引鉄を引こうとしている。

「ッ!」

 そしてオルドウィンが初めて、攻撃に対する行動を起こした。

 大地を蹴り上げ疾駆。

 足の踏み込みにアスファルトの大地が砂煙を巻き上げ、警備兵の視界を一瞬だけ奪う。

 一刹那で十分だ。

 まずは正面の警備兵。こちらが動いたのを見て引鉄を引いた。オルドウィンはその指の動きを見ていた。

 常人では目で追うことすら不可能である弾丸でさえも、オルドウィンの目にははっきりと映っている。彼はあろうことか、その弾丸を避けた。

 偶然ではない。

 最初の一発に限らず、フルオートで撃ち出される弾丸の全てを見切る。装甲によって弾かれ、あらぬ方向へと飛んでいく。

 疾い。

 そして、なんと周囲の遅いことか。

 オルドウィンの纏う装甲外骨格の金属神経網がセンサとなり、自身の周囲外界の情報を取り込みながら最適な動作を演算、その結果を肉体へダイレクトに反映させる。

 つまりオルドウィンは今、通常よりも遙かに強力な目と耳を持っているということだ。

 やがて警備兵へと肉薄し、長銃の銃口を掴み空へと押し向けた。同時に顔面へ掌底を喰らわせて後方へ吹き飛ばす。

 警備兵は瓦礫の山に突っ込み、あっけなく昏倒してしまった。

 たったの一瞬だった。

 自分の身に何が起こったのか、彼はおそらくわからなかっただろう。しかし人間ではおよそ考えられないような動きで接近してくる黒い外骨格は、恐怖以外の何物でもなかったはずだ。

 オルドウィンは足を止めず、次の獲物へ向かって駈けた。

 瓦礫の山を物ともせず、まるで疾風のような速度で以て、次々と取り囲む警備兵をなぎ倒していった。

 全て徒手空拳で成したものだ。人間相手ならば武装を解放する必要もない。

 そうしてあっという間に最後の警備兵が倒された。そもそも戦い方が間違っている。彼らにはこちらが人間に見えたのだ。だから警備兵が出てきた。

 だがそれは間違いだ。

 オルドウィンは人間ではない。機械なのだ。

 そこに対人戦闘の理論は通用せず、まともにやり合うのなら相応の装備が必要になる。  

 最後に昏倒させた警備兵をうつぶせにし、外骨格の中枢である脊椎部分だけを破壊しておく。これでもう外骨格は使い物にならない。

 地面に投げ捨てられた長銃を拾い、仮面の奥でオルドウィンは自嘲するように口元をつり上げる。

「……こんな銃じゃ、傷も付けられねぇよ」

 銃口を空へ向けて、そのまま引鉄を引く。フルオートで弾丸が撃ち出される。

 引鉄を引かれたままの長銃は弾倉に残った弾丸を吐き出し尽くし、やがて沈黙した。

「……?」

 聴覚素子に銃声とは違う音が入ってきた。

 沢山の足音――否、脚音。それは金属の音だ。

 廃墟の奥から、ぞろぞろと。それはまるで虫のように這い出してきた。

 全高は三メートル程。巨大な球体の形をした電子制御装置兼砲塔。そこから生える太い六本の鉄の脚。球体に内蔵された可動式のカメラアイがぎょろり、とこちらの姿を捉える。

「多脚戦車だと……?」

 なぜこんなところに、という疑問はすぐに消えた。向こうはずいぶんとご大層なオモチャを持っているようだ。それほど詳しいわけではないが、警備兵も軍事用外骨格を装備している辺り、資金は潤沢なのだろう。

 そして設置機銃に多脚戦車。この厳重な警護はどう見ても普通ではない。どうやらここには、よほど知られたくないものが眠っていると見える。

 ……それが例の研究とかいうやつか。

 曰く、背信と冒涜によって築き上げられた研究施設。ルトゥーシトも、それに関係しているのだろう。

 崩れたビルの奥から続々と多脚戦車が湧きだしてきている。

 六体目が出てきたところで、オルドウィンは己の武装を解放した。

 両腕の装甲の一部が変形し、長大で鋭利な鉤爪が現れる。四枚の漆黒の刃は夕日を反射して鈍く光り、触れた空気が甲高い音を立てた。

 鉤爪から発せられる高周波の影響だ。その音がしたのも一瞬で、高周波のレベルが臨界にまで達すると完全に無音となる。

 獅子の瞳が赤く輝いた。――運動制御効率最大。戦闘行動準備完了。

 同時に駆け出した。――戦闘開始。

 一迅の黒い風が吹く。



 警報が鳴り出してからしばらく経つ。今頃、オルドウィンが暴れているのだろう。警備の目がそちらに向いている隙を突いて、フランツは地下施設から続く排気口に辿り着くことができた。

 以前に使った潜入ルートは、既に何らかの対策がなされているだろうことから使用しなかった。今回は内部からの先導ないが、やりようはある。

 フランツはスーツの内ポケットからヴィーコンを取り出し、地図を表示させた。

 投影されたのは拡大されたアイヴァンの地図だ。そこかしこに光点が打たれ、それは対侵入者用の警報装置類の位置を示している。その他にも地下施設への出入り口や吸排気施設に至るまで、詳細な情報が記されていた。

 これは白髪の異族からもたらされたものだ。

 だが地下施設に侵入を許してしまった末に研究対象を奪取された彼らが当時と同じ環境で監視を行っているとは思えない。システムの盲点を洗い出し、より強固に改善されていることだろう。同じ手は通用しない。

 だからこそのオルドウィンだった。

 この潜入はフランツひとりでは限りなく不可能に近いだろうが、外で派手に動く彼がいてくれたら、話は別だ。

 ヴィーコンには提督と呼ばれる老技術者から受け取った『爆弾』もある。頃合いを見て起爆すれば脱出するだけの時間は稼げるだろう。

 ……お願いしますよ、オルドウィン。

 そして同時にすまない、と思う。

 心を思い出し、人として当たり前の生活を送っていた彼を、こうして再び危険へ――このアイヴァンへ呼び戻してしまった。よりによって、彼にとっての最悪の記憶を刻み込んだこの街に。

 彼に助力を乞うたのは、果たして正しい選択と言えたのだろうか。

 今は何も考えず、フランツは己の身を狭い排気口へと滑り込ませた。



 多脚戦車は三六〇度、全方位の視界をカバーする。

 制御装置の座する球体の表面には無数の視覚素子が埋め込まれており、その隙間を縫うようにして可動し、熱線を放つ短い砲身がある。

 六体の多脚戦車が一斉に動いた。

 紅色の光点が球体を走り回り、瞬時に標的――駈けるオルドウィンを捉える。

 隙もなく砲身より熱線が放たれ、空気を焼いた。いかに鋼鉄の体を持っていたとしても、超高温の熱線には耐えきれない。

 しかしオルドウィンはその視覚素子の灯す光点の動きを読み取り、体を左右に揺らしながら駈けた。

 寸分でもタイミングが狂えば熱線に貫かれる――その刹那の中をオルドウィンは駆け抜けた。地面、瓦礫のことごとくが焼き切られ、熱で溶かされる。

 多脚戦車六体へ向けた直進の軌道を曲げ、瓦礫の壁へ足を掛け、そこを走った。

 体躯と大地が平行となり、そのすぐ背後を熱線が追う。

 焼き切られた壁が崩れ、やがてオルドウィンの足場を奪った。

 一瞬だけの浮遊が訪れる。その一瞬が、多脚戦車にとっては格好のタイミングとなる。

 六条の熱線が絡み合い、オルドウィンの五体を貫く。

「ッ!」

 だが熱線が装甲に辿り着く寸前、空中で体を捻らせ熱線の直撃を避けた。

 限界以上の機動に関節が悲鳴を上げた。人工筋肉の所々が断裂し視界に赤い警告が表示されるが、全て無視する。

 六条の熱線の直撃を辛うじて避けることができたが、装甲のそこかしこを溶かした。損害報告――それも無視する。

 着地する瞬間に崩れた足場の破片のひとつを蹴り飛ばし、多脚戦車の砲塔に命中させる。

 制御中枢への打撃により、その動きが数瞬揺らぐ。そしてオルドウィンはその隙を逃さない。

 オルドウィンは体こそ機械であるが、それを制御しているのはあくまで生身の人間の脳だ。日常生活ならば難なくこなせるが、それが生身の限界を超えた戦闘行動となると話は違ってくる。

 機械の体には数多ものセンサが内蔵され、それらによって取り入れられた外界の情報は中枢ユニットによって演算、変換されて脳へ送られる。

 この『演算と変換』というプロセスを踏むことによって、脳への負担を極力軽減させているのだ。

 しかしそのプロセスを行程から切り取り、センサから脳へ向けてダイレクトに情報をやり取りすることができたら。

 この機械の体は今以上の性能を、一瞬だけ引き出すことができる。

 オルドウィンは躊躇いなく、そのプロセスを停止させた。情報伝達の制限が解除される。

 視界が真っ赤に染まる。途端に脳髄が熱を持ち、沸騰したかのような感覚が神経を走る。

 その赤い視界の中で、オルドウィンは確かに見た。

 六体の内の一体。六体が相互通信によって連携しており、その一体が通信に異常をきたした。

 その異常を検知し、修復されるまで、彼らはひとつの群から、単なる六つの個体となるのだ。

 獅子が吠えた。

 一瞬で肉薄し、異常をきたした個体の中枢装置を、高周波鉤爪が切り裂いた。

 直後に隣の個体から熱線が放たれたのを目視によって確認。体を僅かに揺らして回避し、そいつの六本の脚を切断。

 地面に落ちていくその球体を蹴り飛ばし、他の個体の砲塔を破壊した。

 限界を超えた機動により発生する内部熱量によって脊椎の中枢ユニットから全身に張り巡らされた金属神経網。それがまるで血管を浮かび上がらせるよに赤熱化しその存在を誇示させた。

 赤く赤く、大気さえも灼くような熱を帯びた鉄の肢体が跳ねる。

 中枢装置に着地し両の鉤爪にてそれを貫く。残り二体。

 次の個体へ飛び移り中枢装置を切り裂く。残り一体。

 最後の個体が砲身をオルドウィンへ向けた。しかし標準が固定された瞬間には鉤爪が砲身を貫いている。

 六体目の多脚戦車が崩れ落ち、オルドウィンがその上に立ち尽くした。

 停止させたプロセスを再開させると、内部で停滞した熱が蒸気となって外骨格の隙間より一気に吹き出された。

 赤熱化した装甲が冷却され黒色に戻り、赤く染まった視界が通常のものとなる。

 だが、

「ぐッ……!」

 同時に急激な目眩と脱力感に襲われ、オルドウィンは思わずその場に膝をついた。時間にしてほんの刹那の間に過ぎなかった制限解除は、それでも肉体に多大な負担を強いる。視界の端に『深刻な損傷』を示す警告が現れ、これ以上の活動は死にさえ直結するという。

 しかしオルドウィンはガクガクと震える膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がる。増援が来る可能性があるからここで止まっていることはできない。行かなくてはならない。

 ふらふらとした力のない足取りで歩き出し、目指すのは多脚戦車が出てきた廃墟の奥だ。おそらくそこに地下施設への入り口がある。

 元は高層ビルだったのだろう。今では半ばから崩れ折れ、鉄骨と内部の構造がむき出しになっていた。

 その奥に、それはあった。

 砕けたコンクリートとガラスの破片が降り積もる中、その場所だけが四角く真新しい金属板に据え変えられている。リフトだ。その床の上に立つとガコンと大きな音がして、ゆっくりと下方へ降りていく。

 視界が上の建造物とは異なる完全な新造物へと移り変わり、しばらくすると建物の下層に築かれた建造物へと辿り着いた。

 上層の建築物と比べると明らかに新しく、そして荒廃した地上と違い清潔で、手入れの行き届いた空間がそこにはあった。

 薄暗い照明に照らされた空間には機械の整備・エネルギー補給のためのドックと思しき六つの空間があり、そこに収まっていたであろう六機の多脚戦車は先ほど破壊した。思った通り、異常を察知した多脚戦車が自動的に地上まで出てきたらしい。

 人影は見えず、ただ低く機械の鳴動音だけが響いていた。

 ちょうど人間がすれ違える最低限の幅の廊下を歩き、突き当たったドアの前に立つ。通常はこれで開くのだろうか。うんともすんとも言わないドアを、オルドウィンは無言で蹴り破った。

 派手な音を立てて金属製のドアが吹き飛び、その向こう側にあった白い廊下の側壁にぶち当たる。

 今までいた場所と違い、明るく清潔な空気が感じられる。機械の鳴動音は聞こえず、まるで深夜の病院のような静謐さがあった。

 病院は苦手だった。幸せな記憶とそうでない記憶が同居していて、思い起こすと言いようのない昏い感情が湧き上がってくる。だからなるべく近づかないようにして――体を機械化してからは一度も立ち入ったことがなかった。

 出来るだけ病院を意識しないように、白いリノリウムの床を歩き出す。

 視覚素子によって取り込まれる光景の全てが、オルドウィンへ訴えかけてくる。等間隔に並んだ病室。清潔な色の壁。床。

 それらはある意味、今のオルドウィンに対してはどんな銃器よりも効果的な暴力となった。

 記憶が無理矢理想起される。意識せずとも、それらはオルドウィンの深層心理に深く深く刻み込まれてしまっていて、的確に自身の心の傷をジクジクと抉る。

「ウウウゥゥゥ……!」

 噛みしめた歯と歯の間から漏れ出すのは咆哮にも似た低い唸りだ。

 そしてとうとう、オルドウィンは耐えることができなくなった。両腕の高周波鉤爪を展開し、壁を、天井を切り裂いた。静謐さを携えた空気がいとも簡単に破綻した。警報が鳴り響く。

 消えろ。邪魔だ。なくなってしまえ。取り払わなければ。今はやらなくてならないことがあるのだ。過去に囚われていては――。

 無差別にして無配慮な破壊だった。目の前に広がる風景のことごとくを壊し、オルドウィンは突き進む。何かの実験室と思しき部屋や廊下を無視し、新たに現れた警備兵たちを一瞬で蹴散らしながら、ひたすら直進という名の破壊を撒き散らしていく。侵入者対策の隔壁もその意味を成さない。

 白衣を着た研究員と思しき集団と遭遇したが、彼らは悲鳴を上げて部屋の隅で震えているだけで一切の抵抗を見せなかった。彼らは無力だ。戦闘力を持たない者に用はない。オルドウィンの意識は再び施設の破壊へ向けられた。

 酷使した右腕がとうとう、動かなくなる。肘から先の感覚がなくなり、修理されるまでは動かないだろう。

 自分がどこへ向かっているのか、オルドウィンはわからない。思考は霞が掛かり、視界は真っ赤に染まったまま重度の警告を発し続けている。

 その時だ。

 施設内の照明が――否、照明だけではない。オルドウィンの侵攻した研究室で彼の破壊に晒されながら辛うじて生きていたコンピュータや何かの装置。それら全てが突如として停止したのだ。

 オルドウィンは己が暗闇に包まれたと認識し、そこで我に返る。視覚素子が自動的に暗視に切り替わり、視界が確保された。

 我に返った途端に倒れ伏しそうになったが、壁に寄りかかることでどうにかそれに耐える。活動限界は確実に近づいてきていた。

 とはいえ、今はこの停電だ。先の暴走が電力供給にダメージを与えたのだろうか。だがこれほど大規模な研究施設に予備電源がないとは思えない。事実、施設は暗闇に包まれ、電力は未だに復旧していないのだ。となると。

 ……フランツの仕業か。

 提督から受け取ったという『爆弾』が作動したということか。そして、作動させたということは脱出か、もしくは目標を――ルトゥーシトを発見したのだろう。仕事が早くて助かる。

 あとは停電の隙を突いて彼女を確保したフランツから連絡が入り次第、この辛気くさい場所から脱出すればいい。もう少しだ。

 ……会うんだ……。

 もう一度、ルトゥーシトに。

 ただの一言で良い。言葉を交わしたい。そして自由を贈りたい。あの少女には青空の下で笑う姿が一番似合うことを、オルドウィンは知っている。彼女には自由こそが相応しいのだ。そのためならば、こんな命など――。

 視覚素子に砂嵐のようなノイズが一瞬走り、暗視状態だった視界が通常状態へ強制的に切り替わる。機能異常だろう。

 壁により掛かりながら、静かな闇の中を歩いた。視覚素子には異常が出たが、幸いにも聴覚素子にはまだ無事だ。

 すると前方の闇の中から音が聞こえてくる。声もだ。波長から推測するに、多勢いる。小さな明かりも見て取れた。

 ふらふらと、明かりに吸い寄せられるようにそこへ向かって進む。

 特に疑問は感じなかった。だからそこに何があって、一体誰がいるのかも、別段気にすることはしなかった。

 辿り着いたのは広い空間だった。その片隅で小さな明かりを取り囲むように数人の研究員が、焦った様子で何か大きな柱のような機械の根元の基盤を引き出し、配線の繋がったままのそれをヴィーコンと接続し、何かの作業を行っている。

「ダメだ、予備電源に切り替わらない。システムが完全にイカレちまってる」

「このままじゃ空調どころか、酸素供給が働かなくて全員窒息してお陀仏だ。何とかならないのかよ!」

「配電システムを見に行った奴らがどうにかしてマニュアルで予備電源を起動させないと、ここじゃ何もできない……くそ!」

「ちッ……早くしろよ、あいつら。実験体の拘束が解けるのも時間の問題だぞ。バッテリーで抑え込めるのは精々一時間が限界だ。侵入者だっているってのに……!」

 実験体という言葉を耳にしたオルドウィンは、反射的にルトゥーシトを思い起こす。しかしフランツの『爆弾』が起動したのだから、彼女はもう相棒によって奪取されたはずだ。

 となれば、彼女以外にも同じような実験体がいるのだろう。ここは研究所だ。そういった存在は勿論いるはずだ。

 闇に紛れ込むようにして研究員の背後へ回り込む。どうしても足音は消せなかったが、研究員たちの言い合いは止まず、それに気を取られオルドウィンの接近に気付いていない。

 電源を復旧されると面倒だ。ここは捨て置いて、彼らの言う配電システムを破壊するべきか。それとも後顧の憂いとなりそうな場所は先に絶っておくべきか。

 オルドウィンは無言で高周波鉤爪を展開させた。

 と、そのときだ。

「君たち、復旧作業の方はどうだね?」

 暗闇から、壮年の男の声が聞こえてきた。明確に発音される一語一語が力強い。

 ……この声。

 じくり、ととある光景が想起される。暗い森。大型トラック。その荷台の中――。

 男の声に気付いた研究員たちは言い争いを止め、その男へ視線を注いだ。

「教授!」

「どうしてここへ! ここは危険です!」

「そうだ! すぐに研究所から退避してください! ここは我々に任せて――!」

「何を言うのかね。君たちスタッフを置いて僕だけが逃げるわけにはいかないさ」

「しかし……」

「我々は一心同体だ。そうだろう?」

「教授……」

 研究員たちは言葉をなくし、全員が頷いた。自分たちにもできる何かがあるはずだ、と今までの言い争いが嘘であるかのように全員が活気づく。

「僕は君たちのような技術は持たないのでね。だからここで君たちの盾になることとしよう。どうにか、間に合ったようなのでね」

 満足げに頷きながら、男が闇の中から明かりの下へ姿を現す。隙なく着込まれたスーツの上に羽織った白衣。ああ、そうだ。この男は。

「そうだとも。僕だよ。実に久しぶりだね、オルドウィン君。ずいぶんと素敵な体じゃないか」



 最初からこちらの存在に気付いていたのだろう。あの夜と同じように、両手を広げこちらを賞賛するような大げさな仕草。

 名を呼ばれ、オルドウィンは闇から明かりの下へ現れる。研究員たちの表情に僅かな動揺が走ったが、壮年の紳士の存在があるためかすぐに復旧作業へ戻っていった。

 まるで現実感の湧かない中、絞り出すような声で目の前の紳士に問う。

「――なぜ、お前がここにいる」

「ここが僕の仕事場であり、家であるからさ」

「違う! お前は――あの研究所の火災で、死んだはずだ!」

「それは間違っている。僕が死んだと誰が言った? そして君の言っている研究所というのはグレイスミスにあった研究所のことだね。――ああ、懐かしい。確か君と初めて出会ったのもあそこだったね。いや、なに。別段と不思議なことはないさ。あの研究所は残しておくと後で色々面倒になりそうだったのでね。僕の指示で火を放ったのだよ。立つ鳥跡を濁さず、という言葉もある。もっとも、君が僕の生存に驚愕しているということは――もう知っているのだね」

「……アイヴァンで出回った薬物。それを製造し、組織の網をかいくぐって流通させたのはお前らの仕業か」

「いかにも」

「中毒者が化け物に変容し、そいつらが増えて街に溢れるよう仕組んだのも、お前らか」

「いかにも――と言いたいところだが、その件はまったくの偶然でね。我々は人体が変容するような効果を付加していない。あの強化薬の作用は、本来ならば身体機能の増加のみに留まるはずだった。あのような効果を持ってしまったのは君たち組織が薬物を解析し、複製しようとした際に生じた、一種の劣化が原因だよ」

 紳士はにやりと笑みを浮かべる。

「研究の過程でできた副産物に過ぎない代物を高額で譲ってくれと言われてね。資金も必要だったことだし、喜んで引き渡した。それが思いも寄らぬ結果として返ってきて、僕も大層驚いたよ。だが感謝している。おかげで我々は次の段階へ移ることができたのだから。

 そして勿論、君にも感謝しているよ。オルドウィン君」

「何だと?」

「何を隠そう、あの強化薬は君が命懸けで運んできてくれた、あの荷物を元に造り出したのだからね」

「……ッ!?」

 あの荷物。覚えている。覚えているぞ。あの――不乱死体。培養槽の中で漂っていたあれが、全ての始まりだったのか。自分があんなものを運んでしまったばかりに、街は、組織は、家族は。

「彼らも研究の成果には喜んでくれた。そしてこんな施設まで提供してくれて――いやはや、まったくもって僕は協力者に恵まれている。君たちがいなかったら、僕はあの研究所で朽ち果てていただろう」

 紳士は大きく頷き、笑った。何の悪意もない、純粋な笑顔だ。こいつは自分の研究が原因で街一つが壊滅し、大勢の人間が傷付いたとしても、何の罪悪感も持たないのだ。

 オルドウィンは目眩を起こし、倒れそうになる。あまりの怒りに気が触れそうになる。

 俺はこんな奴に手を貸していたのか。こんな男に!

 ……殺してやる!

 自分はこいつの為だけに生きてきたのだ。薬物の製造者にして元凶。こいつに復讐し思い知らせてやる。この街の人間が味わった恐怖と苦痛を。

 やっとだ。やっと殺せるのだ。一度は復讐を断念し、絶望した。だが今、やっと見つけることができた。

 高周波鉤爪を展開した左手を握り占める。動作の鈍った体を無理矢理動かし、あらん限りの力を込めて走り出そうとした。

 その瞬間、室内の明かりが一斉に点灯した。

「ッ!?」

「所長! 電源が復帰し――」

 研究員が声を上げると、紳士を除いたその場に居合わせた全員が耳を塞いだ。

 何かが聞こえる。単なる音ではない。まるで脳髄に直接音を叩き付けられるような耳鳴りが始まり、その音がまるで頭の中を掻き乱すかのようにうねり響く。

「なんだ、これは!」

「耳鳴りか……? いや、しかし、こんなことが……!」

 研究員たちが騒ぎ出す中、オルドウィンは走り出そうとした足を止め、あまりの不快感に顔を歪めながら耳を塞いだ。

 ……何が起こっている!?

 新手の攻撃とは思えない。ここには研究員たちとこの施設の責任者と思しき紳士が一堂に会しているのだ。

 殺意を込めた視線を紳士へ向けると、彼の表情からは先ほどの無邪気な笑顔は消えている。彼にもこの耳鳴りが起こっているのだろうか。

 どこか呆けたような表情を浮かべ、やがて何かに思い至ったのか、紳士は自身の背後にある巨大な鉄の扉へ振り返った。

 何を運び入れるための扉なのか、それはオルドウィンの身長の三倍ほどの高さを持ち、杭のような幾本もの太いパイプが縦横に差し込まれ施錠されている。

 その扉が軋んでいるのだ。

 つんざくような大きな耳鳴りに混じり、キシキシとその音が聞こえてくる。

 扉は小さく揺れていた。こんなにも大きく、強固に造り込まれた頑強な扉が。

「……拘束を解いたか、リウオーネよ」

 紳士が小さく呟く。

 軋みは徐々に大きな揺れへ変わり、ある瞬間を境に空気を揺らすほどの衝撃となる。

 扉を隔てた向こう側に巨大な何かがいる。そして、扉を叩いているのだ。腹の奥をも震えさせるような重い打撃音が断続的に広い空間に響き渡る。

 それまで呆けていた研究員が、突然声を荒げた。

「実験体……実験体だ! 拘束が解かれたんだ!」

「そんなわけがあるか! バッテリーの残量はまだあったんだぞ!?」

 やがて扉の形が向こう側から叩かれたかのように歪み始めた。

「おい! この向こうには何がいる!? 実験体ってのは何だ!」

 オルドウィンは研究員に掴み掛かり、獅子の仮面を怯える研究員へ近づけた。ひぃ、と情けない声を上げる。

「実験体とは、その名の通りだよ。我々によって造り出されたクローン体のことだ」

 研究員に変わって紳士がオルドウィンの問いに答えた。

「クローン体、だと?」

「そうだ。とある特殊な異族を複製した人造個体だよ。我々の研究に大きく貢献してくれていてね。まぁ、そのせいでちょっと気難しい感じになってしまっているがね」

 特殊な異族? オルドウィンは研究員の襟首を離してやる。

「この異族は非常に興味深い特性を持っている。そして我々の追求する真実に最も近しい位置に存在しているのだ。君は異族を何だと考える? 人間ではなく、しかし人間と同等、もしくはそれ以上の知性を持つものの総称。ただしいつ頃から存在しているのかは不明だ。人間の発生と同じく、その起源は謎に包まれている」

 だから何だというのだ。こいつは何を言っている?

「この特殊な異族という奴はね、種の起源を解き明かす重大な鍵なのだ。

 僕はこう考えている。彼の種族は己の置かれた環境や自意識によってその個体ごとに異なる進化を成し、現在の多種多様な異族たちの祖となったのではないか。ひとつの種族があらゆる種族の根元となり、あたかも幹から枝分かれし分岐ていくかの如く」

 扉を叩く音は続き、生じた歪みによって扉とその鍵の役割をしていたパイプを変形させていく。もう長くは持ちそうにない。

「そしてこうも考えられないだろうか。異族が単一の種によってここまで系統樹を増やしたとして。では人間はどうだ? 最初に発生した人間というのは、もしかしたら彼の種族が自己進化した末に現れた存在なのでは? もはや人間ですらも異族の系統樹に加えられるべき、人間種と呼ばれるべき『異族』なのではないか?」

 研究員たちが青ざめた表情で、扉がこじ開けられる瞬間を見守っている。誰もが動けず、その視線を逸らせずに立ち尽くしていた。

 そんな中であっても紳士の声は止まず、それどころかますます語気は強くなっていく。

「僕はあの戦争のさなか、確かに見たのだ! 種族の起源を! そしてその多種多様な可能性の伸びしろを! 我々人間は未だ自身を知らず! その進化の可能性を自らの手で摘み取ってしまっている! 僕たちは、僕たち人間は、もっと可能性に満ち溢れているはずなのに!」

 とうとう、分厚い金属の扉に孔が穿たれた。その向こうで何かが――金色の細かい粒子状のものがふわふわと空中を漂っているのが見て取れた。

 その直後、今までで最も強大な衝撃が生まれ、扉が吹き飛ばされた。

 扉を吹き飛ばしたのは爆発だった。

 そして今まで耳の奥で消えなかった大きな耳鳴りが、変化する。

 ――――*******************************

 研究員たちが頭を抱えて呻き始め、とうとう悲鳴の声が上がった。この場にいる全員が、これを聞いていた。

 それは声だった。ただし音はなく、思念の声だ。否、声と呼ぶにはあまりにも不明瞭過ぎる。届きはするものの、こちらへ意志を伝えようという働きが欠落していた。

 研究員のひとりが嘔吐し、その吐瀉物にまみれながらのたうち回る。オルドウィンの視界が赤く染まり、機器異常の警告で埋め尽くされた。頭の中に直接大音量の雑音を流し込まれるような苦痛と不快感。

 何の意味も持たないようなこの声の正体を、オルドウィンは理解する。

 これは恨みだ。憎しみ、悲しみ、苦しみ、怒り。自身を取り巻く外界へ向けた重い恨みの想い――即ち、呪いであった。

 今この瞬間も、自分はこれと同じ感情をずっと内包し続けていたのだ。間違えるはずがない。

 紳士は口から泡を吹き目を血走らせながら、それでも満面の笑みを浮かべ歓喜の声を発し続ける。

「素晴らしい……! 何と甘美な歌声だ!」

 紳士が両腕を広げ、破壊された扉の向こう側からやって来る存在を出迎える。

「もっと――もっと歌っておくれ! もっと聞かせておくれ! 僕の可能性の天枝てんし!」

 苦しみ悶えていた研究員のひとりが一際大きく絶叫すると、頭が内部から破裂した。広がった血溜まりの中に浸された白衣が赤黒く染まる。

 向こう側からやって来たモノを警告表示だらけの視界で捉えたオルドウィンは、その目を疑った。

 なぜならその姿は想像していたよりもずっと小さく、美しく、儚げで、そして――あまりにも見知った姿であったからだ。

 その者の名を、オルドウィンは口にした。

「ルトゥーシト……!?」



 暗闇の中、大柄な男と少女が病院のような白い廊下を走っていた。

 男は少女の手を引きながら顔面に装着した暗視ゴーグルからもたらされる視覚情報を頼りに、頭の中の構造図と現在位置を照らし合わせる。

 たった今来た道を戻るだけだが、後ろには救出対象であるルトゥーシトがいることで難易度は格段に上昇していた。無論、停電状態でなければである。

 ルトゥーシトの顔には明らかにサイズ違いな大きさの暗視ゴーグルがある。フランツと同型同サイズのものであるが故に、彼女の体躯の小ささが際立って見える。

 提督から受け取った『爆弾』の効果は予想以上のものだった。フランツのヴィーコンによって運ばれ施設内の中枢電子頭脳内にばら撒かれたそれは恐ろしい速度で拡散し、この施設を統括、管理していたあらゆる機械を狂わせ、停止させた。名前と異なり爆発はしないが、それに匹敵するような威力を持っていたと言っても過言ではない。

 前方から小さな明かりが近づいてくるのが見え、フランツは背後のルトゥーシトを手で制し、物陰に隠れ、白衣の研究員たちが通り過ぎるのを待つ。彼らは電源の復旧に手間取っているようで、まだルトゥーシトが脱走した事実は広まっていないようだった。

「……フランツ」

 背後から小さな声で呼ばれたが、今は時間が惜しい。あらかじめ用意した脱出口へ向かう足を止めずに、フランツは反応した。

「何でしょう」

「聞いておきたいことがあって。……フランツは、エレクトラからわたしを助けるように言われたんだよね?」

 エレクトラ。そうか、あの白髪の異族は、エレクトラというのか。前回の脱出はまともな会話する暇もないほどに切迫していたから、聞いていなかった。それにしては食事の前の言葉だけはきっちりと教え込んでしまったあたり、あの時は自分もどうかしていたのかも知れない。

「……ええ。彼女からの依頼です。あなたを安全な土地へと連れて行って欲しいと」

「でも、エレクトラは死んじゃった。なのに、どうしてまたわたしを助けてくれたの?」

「それは……なぜ依頼を反故にしなかったのか、ということですか?」

「……うん。だって、こんなに危ない目に遭うんだよ?」

「――ルトゥーシト。私は自分の仕事がそれほど好きではない。しかしそれでも自分で選び、歩いてきた道です。後悔はありません。その中でたったひとつだけ、自分に科した誓いがある。それは、自分で決めたことはやり遂げるということ」

「エレクトラとの約束も、そうなの?」

「ええ。依頼主が不在でも、それは変わりません。私自身が私自身に科した誓いです。私があなたの脱出に手を貸す理由なんて、それで十分なのですよ。たとえ金にならない仕事でも、やらずに後悔するよりはマシでしょう」

 自分がここへ来たのはただそれだけの理由でしかない。

「フランツ……この前は言えなかったから、今言うね。わたしを助けてくれて、ありがとう」

「……礼など、要りませんよ」

 本当は後悔している――など、言えはしない。この少女と関わらなければ、オルドウィンと再会せずに済んだのだ。

 ……いや、これは私の失敗が招いたこと。私が失敗さえしなければ、万事はうまく収まったはずだ。

「わたしは、外に出たらどうなるの?」

「あなたには〝皇国〟へ渡ってもらいます」

「こうこく? あの、異族の国?」

「ええ。そこならばあなたを受け入れてくれます。異族が人間の世で隠れ暮らすには、今の世の中では少しばかり不便だ」

「オルドウィンは?」

「彼は――心配要りません。オルドウィンも必ず、元の生活に戻ります」

「そっか……オルドウィン、ニンゲンだもんね。一緒には来られないよね」

 気落ちした声が何となく気になった。

「……実は、〝皇国〟内にも人間はいます。あの場所は来る者は拒まない。中には異族と共生する人間たちもいると聞きます」

「! そうなんだ……。オルドウィンと、また一緒にいられるかな」

「……さぁ。それはわかりません。ただ彼がそう望むなら、そうなることもあるでしょうな」

 背後で、少女が僅かな期待に胸を膨らませる。その一方で、フランツは考える。

 あくまでフランツの予測に過ぎないが。もしかするとオルドウィンはこの場所を死地に選んだのではないか。彼の心は未だ贖罪に囚われている。そしてその末に、死ぬことによって自己への罰を与えようとしているのではないか。ルトゥーシト救出への手助けも、彼の贖罪の念によるものなのだとしたら――。

 一概に否定できないところが、恐ろしかった。妙な気を起こさないでくれ。今はそう祈ることしかできない。

 やがて二人は脱出口にまで辿り着く。周囲に人の気配はないが、油断はできない。

「――さぁ、出口です。私の後に続いて――ぐっ!?」

 フランツは唐突に耳を押さえ、蹲った。低く呻き声を上げ、頭の中で鳴り響く何かの声を聞いた。

「フランツ!」

 ルトゥーシトが助け起こそうとするが、男に触れる直前でその手が止まる。

「嘘……こんなこと……」

 少女が何かを感じ取っていることを、フランツはひどい不快感の中で理解した。非常に胸糞悪いソレに耐えながらも這って出口に向かおうとする。

「ルトゥーシト……こっちへ……!」

 しかしフランツの呼び声は届いていないのか、ルトゥーシトは暗視ゴーグルを外し、自分の走ってきた暗闇を注視したまま動かない。闇の向こうに何かが見えるのだろうか。

 やがて少女はフランツへ告げた。

「フランツ……先に行ってて。ニンゲンがこの声、ずっと聞いてたら、壊れちゃうから」

「馬鹿なことを言うな! ここを出るときは、あなたも一緒だ……!」

 耳が、頭がおかしくなりそうだ。なんだこれは。新手の音響兵器か。そうだとしても、なぜ彼女は平気なのだ。

「わたし……行かないと。あの子が、いるの。こんなこと、止めないと……!」

 何を言っている? あの子とは、誰だ?

「……だめ、オルドウィン……!」

 そう言葉を残し、暗視ゴーグルを外したままルトゥーシトは暗闇の中へ走り出した。フランツは追いかけようと立ち上がろうとするが、手足にうまく力が入らない。

 何かが起こったのだ。こちらの予想を超える何かが。ルトゥーシトはそれを察知したとでもいうのか。

「まったく……これだから、異族は……!」

 彼女が何かを感じ取ったのか、ただの人間のフランツにはわからない。彼らはあくまで、独自の感性に従って行動するのだ。こちらの都合などお構いなしに。

 フランツは壁に背を預け毒づいた。だから、異族は苦手なんだ。

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