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4章


「ねね、どうして本の中のこの子、泣いてるの?」

『大切な人が死んだのよ。もう会えなくなってしまって、寂しくて悲しいから、泣いているの』

「ふぅん。わたしたち、みんないなくなっても悲しくなかったよね」

「うん。悲しくなかったね。死んだわけじゃないからかな?」

『……じゃあ、私がいなくなったら、どうかしら』

「エレクトラがいなくなるわけないよ」

「そうだよ。そんなこと言わないで」

『そうね。……変なことを言ってごめんなさい。大丈夫よ。私はあなたたちの前からいなくなったりしないから』


     ■


 見るなら楽しい夢がよかった。

 けれどそれは無理だった。楽しい思い出は苦しい思い出に塗り潰されてしまって、どこかに追いやられてしまう。

 過去、イアペトゥスから西に離れた辺境都市アイヴァンを水面下で取り仕切る組織があった。表では大きな声で言えない物品の流通、販売を執り行い、言ってしまえば非合法な物品を売って金を稼ぐ団体だ。

 オルドウィンはその組織の中で育てられた人間だった。

 まだ組織が小さく、都市の周辺で抗争が日常的に繰り広げられていた時代に彼は生まれて、そして独りになった。あの時代、家族を抗争に巻き込まれて失い、孤児となる子供が大勢いた。彼もまたそのひとりだ。

 家もなく、金もなく、食べ物を調達するにも命がけ。今日は生き延びられたが、明日はわからない。そんな日々を過ごしていた。

 ある日、食べられない日が長く続き、体が動かなくなった。

 あぁ、死ぬんだなと思っていた。あとどれくらい苦しめば死ねるのか、朦朧とした頭でそんなことを考えていたときだ。

 誰かの手が頭に乗せられた。大きく、ごつごつと硬い手のひらだと、うっすら覚えている。

 次に目が覚めると、病院のベッドで点滴を受けていた。

 ベッドの横に座っていたのは初老の大柄な男で、顔の半分に大きな傷があった。まるで地獄の底の悪鬼のような顔をしながら、彼は優しく微笑み、お前は今日から俺のところで暮らせ、と言った。

 誰かに優しくされたのは両親が死んで以来、なかった。

 オルドウィンは白いベッドの上で頷き、彼の養子となった。この男が頻発する組織間の抗争に終止符を打ち、アイヴァンの裏の支配者となったのはこのすぐ後のことだ。

 そこから組織と共に生きるオルドウィンの人生が始まる。

 そうして生きていく内に、オルドウィンはたくさんの出会いを経験する。

 やがてひとりの女を愛し、女との間に子供ができた。

 産まれた、という報せを聞いて、任されていた仕事を仲間に押しつけ、病院へ駆け付けたオルドウィンは産まれたばかりの我が子と、幸せそうに微笑みながら赤ん坊を胸に抱く妻を見て、初めて人間を美しいと思えた。

 産まれたのは女の子だった。

 エレインと名付けたのは、オルドウィンの父親も同然の首領だ。まるで自分に孫ができたかのようにシワと傷の刻まれた恐ろしい顔を綻ばせて、彼はよくやったな、と肩をぽんと叩いてくれた。

 正直、自分が父親になるだなんて想像もできなかった。自分に子供が育てられるのか、悩んだこともあった。けれど産まれてきた娘の顔を見たら、そんな考えはいとも容易く吹き飛んでしまった。

 自分はこの子を守るために生きてきたんだ、と思えた。それが父としての自覚だったのだと、首領は笑う。

 それからオルドウィンは幸せな家庭の中で生活していった。組織での仕事も次第に大きなものを任されるようになり、順風満帆な暮らしは続いていく。

 オルドウィンの転機となったのは、とある貨物の護送の依頼を無事に達成させたことだ。異族と人間の混成部隊の奇襲をくぐり抜け、依頼を成功させたことで彼個人へはおろか、組織への信頼も勝ち取るに至ったのだ。

 そうして首領の側近としてのし上がったオルドウィンは、やがて次期首領候補とも呼ばれるようになった。

 そんな折に組織へやって来たのがフランツ・ベルデだ。

 彼は先の護送の仕事で生死を共にした運び屋だ。近隣の街で妙なトラブルに巻き込まれていたところをオルドウィンが介入し事なきを得、それ以来は組織の元で働くようになった。フランツとの付き合いはここいらから始まっている。

 良い相棒と家族に囲まれ、今思えば、彼の人生はこの時がまさに絶頂だったのかも知れない。



「…………」

 ルトゥーシトの目の前には、オルドウィンがいる。ただし実体ではない。今よりも若く見えるし、何より表情が違う。

 目の前のオルドウィンは生き生きと輝いていた。ずっと続くであろう幸せを何の疑いもなく享受し、これが永遠のものであると信じて止まない。

 こうして誰かの夢の中に潜り込んでしまうことが、度々あった。誰かの思念が眠るルトゥーシトの意識を引き込んでしまうのだ。しかしどんなに自分と近しい者の夢でも登場人物にはなれない。あくまでただの傍観者として、夢の中を漂うことしかできない。

 今目の前で繰り広げられている夢。これはオルドウィンの記憶だろう。彼は今、記憶を夢として再生しているのだ。記憶の中には見たことのない人間がたくさんいて、その中には若い頃のフランツの顔もあった。

 場面が移り変わる。

 夢の中だからそういう変化はいつも唐突だ。唐突だけど、それは決して不条理ではなかった。

 ルトゥーシトの意識が夢の中のオルドウィンと同化する。



 ある日、アイヴァンの街で怪しげなクスリが出回っているという情報が入った。

 クスリとは麻薬のことだ。首領は麻薬を深く嫌っており、決して取り扱おうとしない。麻薬が出回ると街はダメになる。その言葉を掲げ、徹底してこれを排斥するために彼は物品流通の監視には心血を注いでいたのだ。

 流通監視の仕事を任されていたオルドウィンは幹部会に召喚され、責任者として麻薬の流通ルートの特定と、その排除の仕事を言い渡されてしまった。

「ミスはなかったはずなんだが……」

「まぁ、そういう事もあります。今はルートを特定して、信頼を回復させることの方が急務でしょう」

「……そうだな。親父を失望させちゃ、いけない」

 気落ちしていたオルドウィンを励ましたのは相棒のフランツだ。懐からシガレットケースを取り出し、その中の一本を上司へ向ける。

「どうぞ」

「すまん。いただく」

 咥えて火を点ける。やや吸い込んで、煙を吐き出す。これだけの動作で心を落ち着けることができた。

 一本を吸い終わる頃には、もう元のオルドウィンだ。気落ちした男は死んだ。

「どんなクスリなんだ?」

「液状。注射するタイプですな。無針注射器とセットで出回っているようです」

「液状、か。運び屋としてはどんな風に運び入れる?」

 フランツはやや考え込んだあと答える。

「液状となると、容器に入れて持ち運ぶ必要があります。ただしそれだと嵩張る。私なら粉末で運び入れて、然る場所で精製して売ります。それも設備や知識がなければできませんがね」

「飲料なんかに紛れ込ませてって可能性もあるな」

「拠点の捜索は部下に任せて、我々は搬入業者を当たりましょう。とはいえ、まずはサンプルが欲しいところです」

 やれやれといった様子でフランツが首を振る。

 大々的な捜査が始まり、彼の示唆した通り市内の数カ所に麻薬の精製を行ったとされる形跡を残した地下室を発見することに成功した。ルートの特定も速やかに進むと思われたが、調べても調べてもその特定へ至る一歩手前で、不自然なまでな形で情報が途切れてしまっている。尻尾を掴んで追い詰めたと思いきや、その場で自害する――これらはあまりにも不自然だった。

 そして麻薬が出回ってしばらく経ち、街の治安が悪くなった。

 ひっきりなしに走り回る市警車両に、響き渡るサイレン。真夜中に銃声が聞こえてくることもある。

 市民全体が不安がっていた。かつての抗争を経験した彼らは、身に迫る危険を非常に敏感に嗅ぎ分けることができる。またあの時代に戻るのではないか、と。不安感から街を出て行く市民も後を絶たない。

 組織もそこかしこで緊迫した空気を漂わせていた。新たな組織がこの街を狙っているのではないか。既に市民の中に潜り込んでいて、決起の時を今か今かと待ちわびているのではないか。

 何かが始まろうとしていた。

 オルドウィンも、フランツも、水面下で蠢く異様な影に言い知れぬ恐怖を抱いていた。

 彼は何より、家族が心配だった。エレインは十歳になったばかりだ。危険な目に遭わせたくはない。せめて家族だけでも街から離れさせようと考えていたとき、それは起こってしまった。

 場面が移り変わる。

 そうしてルトゥーシトは、オルドウィンの過去を垣間見た。



 椅子に座ったままの短い睡眠――しかしとてつもなく長く感じた悪夢から目を覚ますと、ルトゥーシトに抱きつかれていた。

 現状を理解するのに数秒の時間を要したが、どうしてこうなったのかがわからない。膝の上に跨がるように、首に細い腕を回しているため、頬に彼女の柔らかな髪の感触を感じる。抱きつかれているというよりも、しがみつかれているという状態だ。

「……おい? これは、一体なんだ……?」

 無言のままルトゥーシトはオルドウィンに回す腕の力をぎゅっと込める。

「ど、どうした? どこか痛いのか?」

 彼女は答えない。ただ、顔の横で息をしゃくり上げる音だけが聞こえる。

「……泣いてるのか?」

 合成皮膚に涙を感じる。だが温度は低い。体温の低い彼女の涙はほとんど水のように感じられる。

 とにかくどうしてかわからないが、彼女は今、確かに涙を流していた。

「……止まらない、よ……」

 ルトゥーシトがか細い声で囁く。

「これ、涙……?」

「わからないのか? お前、今泣いてるんだぞ」

「わかん、ないよっ……。こんなの、苦しくって……これが、悲しいってこと……っ?」

 少女は顔を離して、改めてオルドウィンの顔を正面に捉える。

 ここへ来てから笑顔しか浮かべていなかった彼女の顔は、瞳から止めどなく溢れてくる涙によって汚されていた。もうどれくらいこうしているのかわからないが、目をこすったりもしたのだろう。両方のまぶたが赤く腫れ上がってしまっていて、オルドウィンの心を締め付ける。

「どうしよう……涙、止まらなくてっ……」

「……そうか」

 オルドウィンは何となく理解する。

 彼女は――ルトゥーシトは、悲しみを知らぬまま育てられたのだろう。いや、知っていても、涙を流すような悲しみを経験していなかったのかもしれない。だから初めて流れた涙を、涙が止まらない程の悲しみに戸惑い、怖がってしまっている。オルドウィンにはそう見えた。

 彼は目の前の少女を優しく抱き上げ、自分の座っていた椅子に体を預けさせる。

 衣装ケースから新品のタオルを一枚抜き取って彼女の前に跪き、流れる涙をなるべく弱い力でぬぐってやった。

「……涙はな、こすっちゃダメなんだ」

 口から出たのは、自分でも信じられないくらい優しげな声だ。

「まぶたは腫れるし、目が充血するし、第一、次の日ろくな目を見ない。だから溢れて流れた涙だけ、こうして拭いてやるんだ」

 そう言ってから、こういう話を娘にもしてやったときのことを思い出す。

 たしかまだ五歳くらいだっただろうか。どうして泣いていたのかまでは覚えていないが、啜り泣く彼女の声で眠りから覚めたことがある。そうして同じように涙をぬぐい、話をしてやったのだ。

 娘の――エレインの姿が記憶から染み出してくる。思い出したくないはずなのに、その姿が目の前の少女と重なる。

「オルドウィン……?」

「……すまん」

 気付くと手が止まっていた。オルドウィンは続けて涙を拭いてやろうとする。

 ルトゥーシトはその手をやんわりと払い、オルドウィンの両の頬を、白くて小さな両手で包み込んだ。

 ふわりとした感触がして、微々たる甘い花の香りが鼻孔の奥をくすぐる。レジーナの店の苦手な香りとは違い、なぜか心地よく感じられた。

 少女の突然の行動にオルドウィンは動きを止めてしまう。

「オルドウィン、苦しそうな顔してる……心も、痛がってる」

 彼女の目は泣き腫らしてしまって、赤く充血している。涙もまだ流れている。それでも眼差しは逸らさない。

 オルドウィンはその手を払うことができなかった。払ってはいけないような気がした。

 だから、そのまま問う。

「……お前は、どうして泣いていたんだ?」

「わかんない。ただ……オルドウィンのこと考えたら、涙が出てきたの。オルドウィンの夢が、わたしの中に流れてきた」

「俺の夢?」

 そう言われて思い当たったのは、あの悪夢だった。最近見るようになった、昔の記憶が入り交じったあの夢。

「……俺の過去を、見てたのか」

 思い出したくないあの過去を。

「悪い夢だけじゃ、ないよ。オルドウィンは良い夢も見てた。覚えてないかも知れないけど、ずっと良い夢も見てたの」

 眠りから覚めると忘れてしまう夢の内容がある。

 オルドウィンの場合、悪夢を鮮明に覚えてしまっていたが故に、良い夢の存在を忘れてしまっていたのだ。

「そうか……それで、最近になってエレインの真似を始めたのか」

 ルトゥーシトは頷いて、椅子からオルドウィンの胸に飛び込んだ。

 怒りよりも先に合点がいく。夢の中の娘とのやり取りを、彼女は見ていたのだ。だから最近のルトゥーシトの行動には既視感のような、言いようのない違和感があった。

 それらは全て娘の――エレインの行動を模倣していたからだ。

 懐かしさと感傷とが入り交じり、まるで記憶の中に封じ込めた少女がそこにいるかのように感じてしまう。

 反射的に彼女の体を抱き留め、恐る恐る問いかける。

「どうしてこんなことを」

「だって……だって、夢の中のオルドウィン、笑ってたから。楽しそうだった、から」

「……!」

 オルドウィンは気付く。

 エレインの行動を真似るようになったルトゥーシト。それは全て、夢の中のやり取りの模倣だった。夢の中の自分はどうだった? 安らかで、優しい日々を送っていた過去のオルドウィンは、どんな顔をしていた?

 ……笑っているに、決まってる……。

「あの子みたいになれば、オルドウィンがまた笑ってくれるって、そう思って……」

 項垂れ、涙を流し続けるルトゥーシト。

 彼女の模倣は、それだけのために行われていたのだ。自分に夢の中のように笑っていてほしい。ただそれだけのために。

 そして同時に、彼女のその娘を倣った行動に安息を、癒しを感じ始めていた自分がいることに、オルドウィンは気付いてしまった。

 ……なんてことだ。なんてことだ!

 思ってはいけなかった。気付いてはいけなかった。こんなことは許されない。他ならぬオルドウィンだけは、そんなことで救われることなど、あってはならない。

 愕然とするオルドウィンの腕の中、少女はごく小さな声で囁くように呟く。彼の過去を知って――否、知ってしまったからこそ、ルトゥーシトはその言葉を口にする。

「……く、ない……」

 消え入りそうな声がオルドウィンの耳に届く。

「あなたは悪くないよ……」

「違う……」

 しかし男は少女の言葉に首を振る。

「違う……俺が欲しいのは、そんな言葉じゃない」

 拒絶の言葉だ。それでもルトゥーシトは続ける。

「あなたは、悪くない」

「やめてくれ」

 言葉を止めない。

「悪くないよ。オルドウィンのせいじゃ、ないよ」

「俺のせいじゃない……? そんなわけがあるか……!」

 もしも本当にあの光景を目にしたのなら、どうしてそんなことが言える。どうしてそんな嘘を吐ける。

 違う。違うんだ。そんな言葉が欲しいんじゃない。お前のせいじゃないとか、お前は悪くないとか、そんな言葉は要らないんだ。

「俺は……殺したんだ……」

 口から出る言葉は、どうしても覆しようのない事実だ。

「俺が、エレインを殺したんだ……!」



 様々な機械に囲まれた狭い一室。

 オルドウィンはその中央に鎮座する巨大な寝台に寝かされていた。頭上の球体が赤い光を放ちながら、彼のつま先から脳天までをくまなく解析していく。

 球体を操作するのは提督と呼ばれる小柄な老人だ。隣のモニタに表示される数値たちをこまめに確認しながら球体の位置をズラしていく。

 その隣で心配そうな表情で寝台のオルドウィンを見守るのはルトゥーシトだ。老人とオルドウィンへ向ける視線を行ったり来たりさせて、気忙しくこの光景を窺っていた。

 あの直後、彼は突然痙攣を起こしたかと思いきや、いきなり昏倒してしまった。いくら呼びかけても返事がなく、ルトゥーシトは咄嗟にテーブルの上に置いてあった彼のヴィーコンでレジーナへ連絡を取ったのだ。使い方はオルドウィンの操作を見て覚えていた。

 真夜中の突然の電話にいかにも不機嫌そうだったレジーナも、電話の主が倒れたとなれば声色を変えて慌てだした。

 それから少しして、レジーナが小柄な老人を連れて彼のアパートへやって来た。老人はドアを開けたルトゥーシトへ目もくれずに、倒れたオルドウィンの元へ駆け寄るとすぐさまレジーナへ彼を工房へ連れて行くように指示を出す。

 レジーナはあらかじめ工房へ寄って重労働仕様の外骨格を体に装着してきており、そのおかげで女の細腕では持ち上げることもままならないだろう男の巨体を、いとも容易く外へと運び出してしまった。

 外骨格とは身体機能補助のための外部取り付け義体のことだ。

 外見はただのボディスーツだが、背部の脊椎型中枢ユニットから四肢、指先にまで根のように張り巡らされた金属神経と筋組織が人間の動作を補助してくれる。

 日常生活用からレジーナの装着しているような筋組織を更に追加した重労働仕様、果ては装甲を追加した軍事用に至るまで浸透している技術である。

 階段横まで乗り付けておいた工房の古いトラックの荷台にオルドウィンとレジーナを乗せ、提督は真剣な面持ちでそれを発進させた。ルトゥーシトは辛うじて荷台に乗り込むことに成功し、彼の身に何が起こっているのか知らされないまま、目的地へ着くまで固唾を飲んで彼の手を握り続けた。

 そしてこうして同じ室内にいながら一言も会話をしないまま、ルトゥーシトは提督の隣に立っている。かれこれ四時間になるだろうか。

 空が白くなり始め、もうすぐ夜明けが来る頃。提督はふぅ、と一息ついて、隣に立つルトゥーシトの頭にぽんと手のひらを置いた。

「ひとまず、これで安心だ」

 その言葉の意味を理解し、ルトゥーシトは思わず寝台に横たわるオルドウィンに駆け寄った。

 まだ意識はないが、表情は安らかに見える。

「今はまだ眠ってるが、その内目を覚ますぜ」

「……あの、あのねっ、……わたし……!」

 言いかけるルトゥーシトの言葉を遮り、提督が告げる。

「お前さんのせいじゃねえさ。こいつはテメエのストレスに負けたんだ。あれほど気を付けろって言ったってのに、この馬鹿野郎が。処置が遅けりゃ、おっ死んでたところだ。お前さんが知らせてくれなかったら、今頃こいつの命はねえさ」

「あう……」

 その、彼が倒れる原因を作ったのは紛れもなく自分であるとルトゥーシトは自覚していた。彼を思って向けたはずの言葉のひとつひとつが、オルドウィンにとっては耐えがたい程の苦痛だったのだ。

 ドアが開き、レジーナが入ってきた。

「どう?」

 提督は一度頷き、

「間一髪ってところか。脳みそが弾け飛ぶ一歩手前だったな。だが、うまい具合に調整が取れた。ま、その内目が覚めるだろうよ」

「そう。――ご苦労様。それとごめんなさい、夜中に突然」

「いい。俺ぁこいつの主治医みてえなもんだ。これも仕事の内だ。もちろん、高く付くがな」

 次にオルドウィンの隣に寄り添うルトゥーシトへ話し掛ける。

「ルトゥーシト。あなたもご苦労様」

「……うん」

 ご苦労なことなどない。自分はただ見ていることしかできなかったし、何かできたとしても彼を傷付ける言葉しか与えることができなかった。

「……わたし……」

 ルトゥーシトは眠る彼に手を伸ばそうとして、止めた。そうしたらきっと、彼は怒ると思ったからだ。

「あなたに、なんて言えばよかったんだろう……」



 街で出回っていた麻薬のサンプルを手に入れた、という報せを部下から聞いたオルドウィンは早速それを受け取った。

 無色透明の液体が無針注射器に装填してあり、一般的には腕や首筋から注射する。部下のハンゲルブが取引の瞬間を見つけたが、売人はその場で自らの頭を撃ち抜いたらしい。今までと同じだが、今回は取引中の麻薬が一本だけ手に入ったのだという。売人は相変わらず街の外の人間だった。

 オルドウィンはフランツに相談するため、サンプルを受け取って彼と別れた。

 或いは、彼がハンゲルブの行動をもっと疑問視していたら、今後の展開は変わっていたのかも知れない。

 場面が移り変わる。


 ハンゲルブはそれからというもの、まるで性格が変わったかのように粗暴になっていった。それまでは人間を殴ることすら躊躇していた彼が、だ。異様なまでに腕っぷしが強くなり、鍛えている素振りも見せないのに体格が筋肉でがっちりと覆われ始めた。

 二週間もすると以前の彼の面影はない。

 殴り合いを楽しみ、ただ快楽のために他人を傷付けるような人間に変わってしまった。何が彼を変えてしまったのか。

 しかし時折、昔の彼が顔を覗かせる。ひどく何かに怯えるように、彼は言うのだ。

「助けてくださいよぉ、兄貴ぃ」

 事情を聞こうとしても、次の瞬間にはへらへらと笑い、冗談なのか本気なのか受け取ることのできない態度を見せる。そんな彼が、最初の犠牲者となった。

 場面が移り変わる。


 ハンゲルブの様子を怪しんだフランツは部下に彼のことを調べさせていた。

 家の前に張り込んで監視を続けていると、売人が彼の部屋へ出入りしていたということが判明する。最初のサンプルは自害した売人から奪ったもので、所持していた売り物の麻薬はすべてハンゲルブが密かに押収していたのだ。

 麻薬の効果は目に見えて凄まじいものだった。

 各筋力の増加による身体能力の向上が主な効果としてみられ、使用者は特に異常なほどに強い高揚感を得られるとして使用していたようだ。使えば誰でも超人になれる――そういった触れ込みを耳にすることもあった。

 ハンゲルブの変貌ぶりを見ればわかる。短期間での異様な変化がすべて薬物によるものならば説明がつく。薬物が出回り始めてから銃声の聞こえない日がなくなったのも、彼のような中毒者が多く現れたからだ。

 それを指摘すると、ハンゲルブは逃走を始めた。

 首筋に無針注射を打ち込むと、彼の動きが変わる。人間では考えられないスピードで縦横無尽に動き回った。市民から通報を受けた市警察も出動し、大々的な警戒網が敷かれた。

 やがて彼は路地裏でオルドウィンたちに追い詰められ、ひとりが撃ち放った銃弾が彼に命中する。出血し、地面に這いつくばる彼。だが途端にハンゲルブはびくびくと痙攣しだし、大声で喚き始めた。

「助けてくれ! もう、もう限界だ! 抑えきれない! あ、あ兄貴! 早く! 俺を、俺をヲヲヲッ!」

 そして人間が異形に変貌する瞬間を、オルドウィンは見た。

 まるで内側に潜んでいた怪物が人間の皮を食い破って這い出てくるように、ゆっくりと彼の体が変質していった。指先から腕、胴、最後に頭。いとも簡単に人間のカタチを棄て去って、そいつは突然現れたのだ。

 そいつは人間と同じサイズの蜥蜴に見えた。爬虫類のような鱗に覆われた体と長い尻尾。それに巨大な口と、長く尖った爪。

 その場にいた全員が停止していた。誰もが理解できていなかった。目の前で起こった正気を疑いたくなるような出来事を、認められなかったのだ。

 ハンゲルブだったモノの咆哮が路地裏に響く。

 人間の可聴域を超えた高周波だ。咄嗟に耳を塞ぐことのできたオルドウィンを含む数名以外の部下たちが、一斉に耳から黒々とした血を吹き出し、泡を吹いて倒れる。

 垂直の壁を這うようにして高速でよじ登り、建物の屋根を飛び回りながら移動を始めた。

 街から悲鳴が聞こえてくる。見たことのない異形の化け物が、自分たちの頭上を動き回っているのだ。

 そいつは目的もなく街中を走り回った挙げ句、郊外で死骸となって発見された。死んだあともハンゲルブには戻らず、あの姿のままで絶命していた。一体誰がわかるだろう。この爬虫類とも人間とも言えない化け物が、あのハンゲルブであったなどと。

 オルドウィンはやっと、これからアイヴァンへもたらされる恐怖と破滅に気付いた。

 気付いた頃には、もう遅かった。

 場面が移り変わる。


 ハンゲルブが化け物へ変貌したのを皮切りに、まるでこのタイミングを待っていたかのように、街の中に突如として化け物が出現するようになった。

 彼らはハンゲルブと同じように目的もなく街中を走り回って、そして死骸となって発見される。だが中には、人間を襲って食い殺すモノも現れ始めた。そいつは包囲した二十人の市警察によって銃殺され、組織も市警察も、これによってようやく事態の重さに気付いたのだった。

 オルドウィンはその頃、ようやく麻薬の入り口を見つけることができた。

 下部組織が流通を行っていた。オルドウィンたちの身内が、現状を引き起こす手伝いをしていたのだ。

 金銭欲しさに組織の信用を売ったとし、関係者全員が組織による粛正を受けた。

 これで麻薬の流通は止められたが、現時点でどれだけの量が街に出回ったのかは想像もつかない。どこから仕入れてきたものなのかも、結局わからずじまいだった。

 場面が移り変わる。


 クリスマスまであと一ヶ月という時期を覚えている。

 何件か立て続けに起きた事件は、ついにオルドウィンの家族をも巻き込んでしまった。

 中毒者の末路――擬獣化ぎじゅうかした人間がオルドウィンの住むブロックで発生したとの報せを聞いて、祈るような気持ちで現場へ向かった。どうか間違いであってくれ。頼む。自分はどうなってもいいから、家族だけは無事でいてくれ。

 辿り着いた現場は騒然としていた。既に到着していた市警察と救急隊により、既に救命活動が始められている。救急車両で搬送されている住人たちはまだ息のある者の姿も多く、淡い期待が持てた。

 神に祈り続けたオルドウィンが目にしたのは、半壊した我が家。そして今朝、笑顔で自分を送り出してくれた愛しい妻、マリオンの変わり果てた姿だった。

 彼女の体の半分はなくなっており、その表情は身に降りかかったであろう恐怖に歪みきってしまっていた。どれだけの苦悶と恐怖を味わえばこんな顔になるのか。あの優しい笑顔と、この引きつった顔がどうしても同じ人物だとは思えず、この目の前の光景がまるでたちの悪い冗談のように見えた。夢にしても、なんと出来の悪い夢だろう。こんなことはあり得ない。そう自分に言い聞かせた。

 しかしボロボロになった左手の薬指に嵌められた指輪は確かに、オルドウィンの贈ったものだ。手に触れてみるととても冷たい。腕は関節のない箇所で歪に曲がりくねってしまっていて、ひどく痛そうだった。

 胸から下が瓦礫に埋もれている。苦しかろうと思ってそれを退かしても、彼女の体は見当たらない。掘り返しても、血を吸って黒々と変色した土と内臓のようなものしか出てこない。妻はどこへ行ってしまったのか。

 やがて救助隊が駆け付けてきて、周囲を慌ただしく動き回る。瓦礫の下にまだ生存者が残されているかも知れないのだ。

 救助隊はいつまで経ってもここへは来ない。来ても無駄なのだ。生きている人間は何よりも優先しなければならない。命を救うことが彼らの使命だからだ。

 オルドウィンはようやく理解した。

 ――マリオンが死んでいる。

「オ、オオォ……っ」

 それこそ虫けらのように。踏み潰された蟻のような死に様を晒して。なぜだ。なぜ、こんなところで、こんな風に死んでいるのだ。

「オオォォォォォ……!」

 体の奥底から、自分でも聞いたことのないような声が出てきた。内臓を絞り出されるように呻き、あらん限りの声を張り上げてむせび泣く。

 守ってやると言ったのに。絶対に幸せにしてやると誓ったのに。まだまだこれからだと思っていたのに。こんな理不尽に、奪われてしまうなんて。

 力なく妻の遺体の横に座り込んでいたオルドウィンは、やがて警官に肩を叩かれた。ゆっくりと振り返るが、その瞳には何の意志は見られない。まるで体を動かしていた魂が抜け出してしまったかのようだ。空っぽだ。

 何か言おうとした警官は今のオルドウィンがどんな状況に置かれているのかを咄嗟に理解し、口をつぐみ、表情を強張らせた。

 そして矢継ぎ早に、

「ミスタ・オルドウィンで間違いありませんね? お嬢さんは既に病院へ搬送されました。ご細君は我々に任せて、今は病院へ行ってやってください」

 病院へ搬送された。警官はそう言った。その言葉を耳にしてオルドウィンの瞳に光が宿る。

「……生きてるのか……?」

 警官は重々しく、しかし確かに頷いた。

「はい。身元の確認も取れました。あなたのお嬢さんに間違いありません。自分が助け出したときは、少し怪我をしていましたが……意識もしっかりしていて、あなたのことを呼んでいました。だから早く病院へ行ってやってください。どうか早く、あの子を安心させてやってください」

 オルドウィンの体にもう一度、力が漲った。今まで呼吸するのを忘れていた肺が貪欲に空気を求め始め、三度ほど咳き込んだあと勢いよく立ち上がる。

 一刻も早く病院へ向かわなければ。マリオンを喪った今、彼に残されたのはエレインの存在だけだった。



 その日はずっとオルドウィンの傍で彼が目覚めるのを待っていたルトゥーシトだが、日付が変わる直前にレジーナに連れられ、彼女の店でオルドウィンの目覚めを待つことになった。

 以前に訪れたときとはまるで別人のように意気消沈した少女を迎え入れ、ダイニングへ案内する。レジーナはコップに水を汲んで彼女の目の前のテーブルの上に置いた。

 以前は瞳を輝かせて飛びついたものだが、ちらりと一瞥をくれ、俯く。

「……いい」

「飲みなさい。今日は食事もとってないでしょ」

 彼が倒れてかれこれもうすぐ一日になるが、ルトゥーシトは彼の傍らを離れようとしなかった。生命線である水分の補給も、無論していない。

「あなたがそんなになっても、彼は喜ばないわ」

「でも……わたしのせいなんだよ? わたしが、思い出させちゃったから……」

 彼の辛い記憶が、まるで自分自身の体験のように脳裏を巡る。彼はずっと、こんな思いをひとりで背負い続けていたのだ。

 レジーナはそんなルトゥーシトの様子に気付いた。

「あなた……、まさかあいつの記憶を?」

 問いに少女は小さく頷く。感応能力のようなものを持っていることは聞いていたが、まさか記憶まで読み取れるとは。

 だがそれに対しては違うよ、と首を振る。

「眠ってると、たまに誰かの夢が流れ込んでくることがあるの。それが空想なのか、記憶なのかはその人次第」

 複数人の夢を同時に体験できるのではなく、あくまでその内のひとりだけの夢を追体験できる。対象はランダムではなく、夢を見る際に発せられる思念の強弱が関係しているらしい――これがルトゥーシトの知りうる自分の、いや、自分たちの能力だ。

「オルドウィンは夢を見るとき、必ず記憶を再生してる。楽しかったこと、悲しかったこと。辛かったことも鮮明に再生するの。普通、夢の中はちぐはぐなことが多いけど、オルドウィンは違う」

 まるで映像を観ているかのように鮮明で、夢の中では自分自身がオルドウィンになったかのように、感覚も共有される。痛みも、悲しみも同じように。

 レジーナはじっとルトゥーシトの言葉を聞いていた。舌足らずで、言葉が何度も詰まることもあったが、彼女は真剣に少女の語る話に耳を傾け続ける。

 そしてルトゥーシトの話がオルドウィンの夢の内容に触れようとしたとき、

「いいわ。それ以上は、言わないで」

 少女の言葉を制して、彼女は押し黙った。

 ルトゥーシトは口から出ようとしていた言葉たちを呑み込む。彼女の浮かべる表情は苦悩の意味を表していた。だがオルドウィンの浮かべるものとは少しだけ違う気がする。

「……ルトゥーシト。私は、その続きを聞くことはできない」

「どうして?」

「私はあいつの過去を知らないから。夢の内容を聞いてしまったら、私は、あなたの口からあいつの過去を知ることになってしまう。それはいけないことなの」

「……でも……」

 誰かに話さないといられないのだ。こんな気持ち、とてもひとりでは耐えられない。

「それが――その気持ちが、あいつの背負ってきた重みなのよ」

「……こんなに重たい荷物を、ずっとひとりで……?」

 こうしている間にも、苦しくて。悲しくて。憎らしくて。記憶の中の家族たちへの愛しさで心がずたずたになってしまいそうなのに。

「苦しいよ、レジーナぁ……」

 今まで感じたことのない多くの感情がルトゥーシトの中で渦を巻いていた。あまりに流れが強すぎて、涙が溢れてくる。昨晩と同じだ。

 身を抱えて震え始めたルトゥーシトを、レジーナは背後から抱き抱える。こうすることしかできない。

「……あいつはね、三年前にボロボロの体を引き摺ってこの街に流れ着いた。ガラクタみたいに倒れてたあいつを見つけたのは私。私が見つけなかったら、きっと死んでたでしょうね」

 今でも鮮明に覚えている。

 街の外れで彼を見つけたとき、最初は投棄された機械人形かと思った。しかし近づいてみると、何かうわごとを呟きながら空へ手を伸ばしたのだ。何と言ったのか聞こえなかったが、レジーナはすぐに偏屈な機械屋として有名だった提督の元へ走った。

 それが彼とレジーナの出会いだ。

 彼は体のすべてが機械だったけれど、生体部品としての脳を搭載していることから元々人間だったということを知る。

 確かに失った肉体を代替えする義肢としての機械部品は優秀だ。科学技術が発達し、何の違和感もなく自分の体と同じように動かせる機械義肢はたしかに医療分野において莫大な成功を収めているが――まともな人間なら、そんなことをしようとは考えない。

 全身の機械化。それをどんな経緯で行ったのかはわからない。彼の体に刻まれ穿たれた爪痕や歯痕と思しき痕跡を見ても、彼が何をしていたのかは想像もつかない。

 彼を見つける一年程前だったか。イアペトゥスから西へ三百キロ程離れたところにある都市アイヴァンで起こった事件は、電網上の片隅で密かに取り扱われていた。

 何でも、過激派のテロリストによって細菌兵器が使われたらしい。細菌の拡散を防ぐために軍部は街を封鎖し、テロリストは自分たちの仕掛けていた大量の爆弾を起爆させ街もろとも自爆――というのが、レジーナが得ることのできた情報だった。

 だが、なぜか情報に規制が掛けられていて事件の詳細はわからない。電網での仲間もアイヴァン市での無差別テロは情報規制が強すぎて調べることができない、とまで言っていた。そしてすぐに人々の記憶から消えていき、気付けばアイヴァンという街は地図からも消えてしまっていた。

 例えば、だが。もしかすると、彼はそこで何かをしていたのではないか。

 全身を機械化しているということは相当の金を持っていて、それだけのことをして生き長らえることを望んだ――もしくは、望まれた人物だということ。抹消されたアイヴァン市の無差別テロの真実を知る、唯一の証人なのではないか。レジーナは俄然、彼に興味が沸いてきたのだった。

 彼を発見してから約一年後。

 提督によって造られた新たな体を得て彼は目覚めた。自分が生きていることへの困惑と、深い悔恨の情を抱えながら。

「あいつがどんな風に生きてきたのかなんて、わからない。その内あいつは仕事をするようになって、普通の人間と同じように生活するようになった。けど、ふとしたことがきっかけで辛そうな顔をする」

 だから聞けなかった。辛い記憶をみすみす思い出させるようなことができなかった。

「私が知っているのは、あいつには昔、家族がいたということ。そして今でも、子供を見る度に娘のことを思い出していること。それ以外は、知らない。

 でも私は、あいつの口から過去を聞きたいと思ってる。あいつが言うはずないのに。ホント……お笑いよね」

「レジーナ?」

「何でもないの。ただ、あなたの口からは聞けない。それはわかって?」

「うん……」

 頷いて、しばらくジッとしていると体の震えが止まる。苦しかった心が徐々に楽になっていって、涙も止まった。

 けれど抱きしめられると安心できたから、ルトゥーシトはこのままレジーナの腕の中にいることにした。彼女の体温が心地よく、懐かしい感覚を呼び起こしてくれる。

「……レジーナ」

「ん?」

「オルドウィンは、ずっと自分を責めてた。大切な人たちがいなくなったのは、自分のせいだって」

 一息。

「なんて、言ってあげればいいのかな……。どうすればオルドウィンが苦しい思いをしなくて済むんだろ……。わたし、わかんなくって」

「そうね……それは、きっとひとつしかないわ」

「なに?」

「あいつの求めてるものをあげない限りは、ずっと苦しみ続ける」

「求めてるもの……?」

 それは慰めや同情の言葉など、そんな優しいものではなくて。

「……罰よ。自分の犯した罪への罰を、あいつはずっと求めてるんだわ」



 エレインはあの地獄のような惨劇の中、軽傷だけで生き延びることができた。

 息があっても瓦礫の下敷きになって重症を負った住人が多い中、まさに奇跡と呼んでも遜色のない状況であったことは確かだ。

 彼女は救出された一日だけ検査入院して、次の日には帰宅が許された。だがオルドウィンたちの帰りを待ってくれていた人はもうおらず、帰るべき家も失ってしまった。

 娘には何と説明したらいいのか、オルドウィンは悩んだ。だがあの日、同じ場所にいた彼女はオルドウィンが言うよりも先に理解していた。母は死に、自分と父のたった二人だけの家族となってしまったことを。

 エレインはオルドウィンが思っていたよりも、ずっと強く、しっかりとしていた。冷静に今の状況を考え、まずするべきことをオルドウィンと一緒に考えてくれた。母は死んだ。だから今度は自分が母の代わりになるのだと、そう言ってくれた。

 その一方で、オルドウィンはこの状況を作り出した元凶を探っていた。できるだけ娘と一緒にいてやりたいが、こればかりは止めることはできない。

 夜中になっても家に帰らず、ずっと仕事を続けた。フランツに咎められても尚、オルドウィンは元凶を探し続けた。真実を暴き、事実を白日の下へ晒してやるのがマリオンへの手向けとなると信じていたからだ。だが一週間も経たない内に、事態は更に変化する。

 場面が移り変わる。


 麻薬の供給は停止させたはずだった。しかし、擬獣化する人間が消えることはなかった。

 擬獣に襲われた人間たちの肉体が変貌を始めたのだ。彼らは麻薬とは一切関わりのない一般市民であり、共通点は擬獣によって傷を負わされたという一点のみ。

 負傷者たちはゆっくりと肉体を変貌させていき、やがて完全な擬獣へと成り果てる。

 次なる地獄は〝増殖〟だったのだ。

 病院は変貌を始めた人間たちへの治療のために解放されたが、具体的な治療方法など見つかるわけがない。入院させるということは、事実上の隔離でしかないのだ。それでも患者たちは一縷の望みに賭けて病院を訪れる。医師たちはそんな彼らが擬獣へ変貌していく様を見届けなければならず、何もできない自分たちを呪う日々が続いた。

 擬獣によって傷を負わされていたエレインも例外ではなかった。

 彼女の体はゆっくりと、しかし確実に擬獣によって蝕まれていく。軽傷であったことが幸いしたのか、変貌の速度は他者と比べると遅かった。しかしそれでも、日に日に失われていく人間のカタチを押し止めることはできない。

 何がどのように作用してこのようなことが起こるのか。傷口から侵入したウイルスがこの冒涜的な症状を引き越しているのだという事以外は結局解明されることはなかった。ようやく急造のワクチンが製造されたが、あくまで予防だ。既に発症した人間には通用しない。

 だがそれでも人間だったモノの命を救うため、病院内では医師たちが奔走し、指示が怒号のように飛び交った。

 手術室ではある患者が、たった今変貌が確認された部位の切除が試されたが、既に内臓が変貌しきってしまっていて、手遅れだった。

 治療しようとして投薬量を増やし、その結果心肺停止してしまった患者をどうにか蘇生しようと試みる医師がいた。しかしどれだけ探っても心臓が見当たらない。くそ、くそ、と泣きながら蘇生施術を行う。その間も、患者たちは次々と人間の姿から遠ざかって行く。

 病院内は地獄だった。

 大切な人が目の前で本来のカタチを失っていく様を見続けることしかできなくて、誰もが無力感に打ちひしがれた。

 完全に擬獣化した患者は暴れ出す前に銃殺された。命を救うはずの現場がただの処刑場になっていた。平和だった世界は、もう死んだのだ。

 そんな院内の集中治療室に、オルドウィンはいた。

 たくさんの管で機械に繋がれ、その先の心電図は弱々しく脈打ち、まだエレインが生きていることを示している。

 ベッドに横たわったエレインは、もう人間のカタチをしていなかった。

 実にゆっくりとした速度で彼女の体は変貌し、そして二時間前からとうとう、言葉すらも喋れなくなってしまった。

 エレインは言葉を失うまでずっと言っていた。怖い、怖いと。このまま眠ってしまったら、もう二度と目覚めないような気がすると。たとえ目覚めたとしても、そこにいるのはもうエレインではなく、別の何かなのだということをわかっていたようだった。

 オルドウィンはずっと訴え、彼女を励まし続けた。きっと大丈夫。きっと元に戻る。きっとまた元気になる。きっと、きっと大丈夫だ。パパが付いてるから――そうしてとうとう、娘の声は聞こえてこなくなった。柔らかい小さな手は硬質のごつごつした皮膚の塊になり、つぶらな瞳は盛り上がった肉に覆われて見えなくなっていた。

 辛うじて人の面影を残していた少女は消え去り、最後に残った理性と人間としての心で、エレインはその言葉を残した。

「――殺して、パパ――」

 言葉がなくなっても、彼女はずっとそう訴え続けているように感じた。その言葉が耳の奥で反響して、オルドウィンに判断を迫るのだ。

 もうすぐエレインは他の患者のように理性を失い、暴れ出すだろう。そうなってしまう前に自分にできることは――。

 オルドウィンはただ突っ立っていた。

 無表情で、無力で、目の前の現実を受け入れられそうになかった。

「なぜだ……」

 またか。また失うのか。また俺は、独りに戻るのか。

「なぜだ……!」

 なぜ俺は、誰も守れない。なぜ守りたかった者だけが先にいなくなってしまうのだ。なぜ大切な者たちが、こんな目に遭わなければならない!

 懐には一丁の拳銃があった。その銃口は今、守りたかった大切な家族に向けられている。

 引鉄ひきがねに指を掛けると、涙が溢れてきた。ごめんな。銃身が震えるので、ごめんな。両手で持ってそれを支えた。ごめんな。パパは、お前を助けてやれないよ――。

 心電図が弱々しく脈打つ。まだ生きている命。紛れもない娘の鼓動。

 銃声が響いた。

 一度、二度、三度、四度――。

 心電図はツゥという単音のみを発して、男はその場に崩れ落ちる。赤いはずの血は真っ青に変色してしまっていて、ベッドを中心に広がる青い血だまりにその身を浸した。ぬるく、饐えたような悪臭の沸き立つ体液だった。だがそれでも、愛する娘の一部であったことに変わりはない。

 命を救う場で命を奪い、声が枯れるまでむせび哭く。

 守りたかった命があった。しかしてそれは叶わず、最期はよりによって自分の手で、その命を止めてしまった。殺めてしまった。

 この日、男の心は死んだ。

 体だけがひとつの感情――憎しみに突き動かされるがまま、歩き出した。歩を進めるその姿はまるで地獄の幽鬼か、悪鬼羅刹か。体は男のものだというのに、彼の面影はもうなくなっていた。

 男の心が死ぬと同時に、一匹の餓狼が生まれた。

 人にして人の心を持たぬ野獣。その牙の向けられた先は、街に蔓延る擬獣共だった。

 それは勝てぬ戦いだった。擬獣の動きは人間の目には捉えきれず、単独では恰好の餌にしかならない。所詮は人と獣。切り裂く爪も食い千切るための牙も持たない人間では捕食される側にしかならなかった。

 男は斃れる。勝てぬ戦いに身を投じ、しかし最後の最後まで家族の仇を討とうと戦った。

 だが斃れた男は死にすら抗った。そして組織の仲間たちも、彼が生きることを望んだ。擬獣化の発症を抑える急ごしらえのワクチンが、彼の命を繋いでいた。

 かくして彼はその肉体のほとんどを機械に置き換え、新たな命を得た。

 最新の機械技術の粋を集めて造られた鋼の体は、人間や擬獣を軽く超越する性能を有していた。もう擬獣が何匹来ようとも後れを取ることはない。

 その力に溺れ、まるで狂ったかのように、黒い獅子を象った仮面でその憤怒と憎悪に歪んだ貌を隠し、男は擬獣を屠り続けた。

「死ね」

 擬獣の顔面を握り潰す。よくも殺したな。

「死ね」

 打ち放った手刀が胴体を貫く。よくも奪ったな。

「死ね」

 手足を引き千切り、身動きの取れなくなったモノを踏み殺す。よくも、よくも、よくも!

「死ねえええええッ!!」

 手にする巨大な回転式斬撃刃チェーンブレイドが絶叫のような騒音を立てながら擬獣を再生不能な状態まで解体していく。息のある奴は踏み潰して息の根を止める。皆殺しだ。だが彼女らが感じた苦痛と恐怖はこんなものではない。まだ足りない。足りないのだ!

 やがてその区画の駆除が終わると天を仰ぎ、哭き喚く。

 建物の残骸と擬獣の死骸が散らばる只中。機械化した躯では涙はもう流れぬというのに、人の形をした黒き獅子はひたすらに怨嗟と悲嘆の慟哭を上げ続けている。鬼哭啾々と。

 場面が移り変わる。


 オルドウィンの耳に、その情報は入ってきた。

 麻薬を拡散させた下部組織のコンピュータに、気になるファイルが残っていた。制圧に踏み込んだ際に機械の類はすべて物理的に破壊されてしまっていたが、フランツの手によって修繕され、どうにか一部分だけ読み取れるように整理したものだ。

 そのファイルは高度な暗号化が施されており、正体は電子書簡のログだった。そこには麻薬と金の流れとやり取りが事細かに残されていた。わざわざログを暗号化して残しておくものだろうかと訝しんだが、もしかするとこのログをダシにして、取引がこちらの有利に動くように操っていた可能性もある。この件をバラされたくなかったらこちらの言うことを聞け、という風に。身内を裏切ってまで金を得ようとした連中だ。そういうこともするかもしれない。

 最後のやり取りはフランツたちがこの場所へ乗り込む数時間前。そこまで取引が続けられていたということは、つまり向こうが条件を呑んだのだろう。そのログを、フランツは発見したのだった。

 そういった話を聞いている内に、オルドウィンは自分の体が怒りで震え出すのを感じた。

 今にも飛び出しそうになる自分を必死で抑え付け、オルドウィンはフランツへ問う。

「つまり、そのログには麻薬を造り出した連中の手掛かりがあったんだな?」

「ええ。案外簡単に取引先の調べは付きました。ですが――」

 フランツが言い淀む。何かを迷っているようで、オルドウィンは思わず襟首へ掴み掛かった。

「どこだ。……そいつらはどこにいる!」

 とうとう見つけた。事件の元凶。そいつらを見つけ出して、炙り出して八つ裂きに解体してやる。恐怖を刻み込んだ末に殺してやる。殺してくれと懇願しても、血の一滴を絞り尽くすまで死なせてやるものか。地獄を見せてやるのだ。生まれてきたことを後悔するくらいに!

 だがフランツから返ってきた言葉は、あまりにも予想外の事実だった。

「もう……壊滅しています」

「……何?」

「取引先は、既に壊滅しているんです」

「…………どういう、ことだ」

 襟首を掴んでいた手から力が抜ける。ともすれば首の骨を折られる寸前だったため、フランツは安堵の息を吐きながら言う。機械化してから――家族を失ってから、上司と、相棒と慕った彼の様相は一変してしまっていた。

「以前私たちが訪れたグレイスミス郊外の、あの研究所を覚えていますか? 私があなたと最初に仕事をした、あの貨物護送の目的地です」

 覚えている。異族と人間の混成部隊に追われた、今までで一番キツい仕事だった。だがどうして今、あの場所が話に出てくる。

「麻薬の製造元はあの研究所でした。少し前の新聞ですが、この記事を見つけました」

 手渡されたヴィーコンに数ヶ月前の新聞記事が表示される。

 見出しは――秘密研究所、炎上。

 内容はこうだ。今から数ヶ月前――ちょうど下部組織のアジトへ踏み込んで粛正を行った直後だ――、グレイスミスの郊外の村から「森が燃えている」との通報を受け、対森林火災装備の消火隊が現場へ急行。しかし燃えているのは森ではなく、所属不明の研究施設と思しき建物だった。施設内からは研究員数十人と、実験動物らしきものが十数頭、焼死体として発見された。グレイスミス市警は発見された焼死体の身元と施設の所有者を捜索すると共に、出火原因も調査中とのこと。続報は未だにない。

 地方新聞の片隅に小さく載ったその記事の写真には、見覚えのある建物が写っていた。そうだ。ここに間違いない。あの夜はひどく寒い思いをして帰ったことを覚えている。早く妻と娘に会いたいと、疲れた体を引き摺って帰路へ着いたことも。

「……確か、なのか」

 フランツは重々しく頷く。

「確かです。現地に部下を飛ばして調べさせました。手掛かりも、何も見つからなかった」

「……そんな、馬鹿な……」

 これから復讐を始めようとしていたところなんだ。やっと家族の無念を晴らせる機会に恵まれたんだ。やっと復讐するべき相手を見つけたんだ。それなのに。

「はは……」

 あり得ない。

「ハハハ……」

 こんな不条理があっていいはずがない。理不尽だ。でないと、この想いは、この憎しみは、一体どこにぶつければいいんだ。どこの誰に復讐すれば、彼女たちは浮かばれるんだ。

「ハハハハハ」

 教えてくれフランツ。誰でもいい。教えてくれ。誰か。誰か。

「……。オルドウィン……」

「……いいさ、わかってる。俺は擬獣狩りの改造人間だ。大丈夫。俺は大丈夫だフランツ。殺すさ。今まで通り、この街から擬獣を根絶するために殺し続けるよ。ハハハ、ハハハハハ」

 呵々、と。渇ききった哄笑が響いた。

 フランツは何も言えずにただ目を逸らすことしかできない。彼の苦しみは近くにいる自分が一番よくわかって――否、家族を失ったことのないフランツは結局、オルドウィンの苦しみの半分もわかってやることができなかった。何の言葉を掛けてやることもできず、ただ相棒の壊れていく様を見ていることしかできなかったのだ。

 場面が移り変わる。


 胸中に抱いた憎しみの捌け口をなくしたオルドウィンの精神は崩壊寸前にまで迫っていた。もういくら擬獣を殺しても、死んだ家族が浮かばれることはない。なのにこうして戦場に立っているのはなぜなのか。

 きっと死を求めているのだ。

 討つべき仇を失い、この手に残ったのは大量の返り血と冷たい機械の体と、そして実の娘を殺めたという事実だけだ。仇のいない今、真に苦しんで死ぬべきは自分なのだ。

 ストレスで唯一の生体部品だった脳が破裂しそうになったことが何度もあった。それでも戦うことをやめず、オルドウィンは限界量以上の薬物を投与しながら一日中、擬獣を殺し続けた。

 だが奴らの増殖手段がウイルスに加え、産卵という手段が増えたことが明らかになった辺りで、アイヴァン市は軍部による大々的な『介入』を受けることとなった。

 凄惨な虐殺が行われた。

 無差別に飛び交う銃撃と悲鳴の中、オルドウィンはその場で立ち尽くすことしかできない。

 大量の航空機が空を覆った。まるで卵が産み落とされるかのように、気体爆薬の雨が降ってきた。

 街が火の海に沈み、燃え落ちた。組織は軍部の侵攻が始まる直前に生き残った住人たちを連れて街を脱出したらしい。その際の呼びかけにオルドウィンは応えず、この場に留まることを選んだ。

 目の前の光景。それは故郷アイヴァンの終焉だった。地獄が業火によって焼き尽くされていく中、オルドウィンはふらふらと歩き出した。

 場面は――ここで途切れている。

 全ては四年前の冬の出来事だった。



 オルドウィンの記憶はここでひとまず終わる。この後どこをどう彷徨いイアペトゥスへ辿り着いたのかは不明だ。ただアイヴァンが地図から抹消されてからの一年間、彼は転々と街を渡り歩き続けていたのだろう。その放浪の中で整備不良に陥った体は次々と異常を吐き出し、ボロボロに朽ちていった。

 だが次に意識を取り戻したとき、なぜか彼の体は新しく生まれ変わっていた。

 自分を修理したのだという老人に、オルドウィンは思わず掴み掛かる。

「どうして俺を助けた!」

 老人はその言葉に対してただ一度だけ鼻を鳴らし、オルドウィンの鼻っ面を殴った。

 突き刺されるような痛覚が走り抜け、反射的にオルドウィンは顔を手で覆う。あまりにいきなりのことで、わけがわからなかった。

 老人は目深に被った作業帽の下から鋭い視線をこちらへ投げ掛ける。

「何があったかは知らねえし、興味もねえ。だが機械を粗末に扱う奴は許さん。せっかくの体をぶっ壊したてめえは、死ぬ価値もねえぜ」

 そう辛辣に言い放ったあと、老人はまるで実の息子に話し掛けるような優しい声で告げる。

「だが、あんな状態でよく生きてたよ。――よく、よく生きてやがったな、ポンコツめ」

 頭をぐしゃぐしゃと撫でられ、オルドウィンはなぜか不思議な気分に陥る。現状が掴めず、目の前の老人が誰なのかもわからなかったが、すとん、と胸の中の何かがはまり込んだような気がした。

「俺は……生きてて、いいのか……?」

 無論、赦されることはない。事実は罪として永久に消えることはない。

 だが、それでも生きていていいと言うのなら――。

 オルドウィンは恐る恐ると、一歩を踏み出した。

 そうして彼は常に付きまとう罪悪感と、仇を取れなかったという深い悔恨を身に纏いながら生きていくことを決めた。

 一年前の冬の出来事である。



 深夜一時。

 何かの物音を耳にした気がして、レジーナは目覚めた。時計を見てからまだ夜中だということを認識する。寝起きが悪いはずだったが、なぜか頭は冷静に働いていた。

 物音は店の入り口の方からした。

 ベッドから上体を起こすと、いつの間にか隣にルトゥーシトが潜り込んできていることに気付く。彼女は半年前に亡くなった母の部屋を貸してやったはずだが。

 なぜか微笑ましくなり、さらさらとした銀の髪を一度撫でてやる。起こさないようにベッドを出る。最も暗い時間帯である今は寒さもあり、上着を羽織って寝室のドアをそっと開けた。

 廊下には暗闇が広がっている。

 ……盗人?

 電灯を点けようと思ったが、それを思うと何となく憚られた。

 ベッドに戻り、横の寝台から小さな拳銃を取り出す。女の細腕でも扱える小口径だ。弾倉を抜いて弾丸が込められていることを確認。戻したらスライドを引き、装填。

 護身用に習っただけにしては様になってるかな、と薄く自嘲しながら、レジーナは物音を立てぬように寝室を出た。

 廊下の曲がり角でしゃがみ、耳を澄ます。

 すると角の向こうで何かが動く、ごそごそとした音が微かに聞こえてきた。

 ……いる。

 もはや誰かがいることは間違いない。そして彼女の身内には、こんな夜更けに勝手に家に忍び込んでくるような輩は存在しない。

 拳銃のセイフティ装置を外す。引鉄に指を掛け、一息。まさかこんな映画みたいなことをするはめになるとは。どうか勘違いであって欲しい。吐き出した白い息が暗闇に溶け込み、消えたと同時に身を出す。

 銃口は物音の方向。目線は部屋全体を。暗闇の中で何かが動いた。銃口をそちらへ向けようとするが――、

「ダメ! レジーナ!」

 背後からの声が響き渡る。異変を察知した少女によるもの。

 ……ルトゥーシト!?

 注意が背後に向けられ、レジーナの体が揺れた。

 消音された、低くくぐもったような銃声が響いたのはその直後だった。レジーナのものではない。侵入者のものだ。

 次いで左の脇腹に衝撃が走った。

 思い切り突き飛ばされたような衝撃のあと、それによってもたらされる鋭い痛みが神経を撫でながら体中を走り抜ける。撃たれたのだと気付くには、あまりにも遅かった。

「ッ!? ぐッ、あ……!!」

 フローリングに鮮血が散る。痛みが脳髄を焼き焦がし、足元がおぼつかなくなった。ガクガクと震えてくる体は既に持ち主の言うことを聞かず、ただ崩れ落ちることを選択する。

「レジーナ!」

 壁により掛かって何とか廊下へ退こうとする彼女へ手を伸ばすルトゥーシト。だがレジーナは食いしばった口を開き、絞り出すように吼えた。

「来るな!」

 ルトゥーシトはその場に静止し、彼女の身を案ずる目線だけがレジーナへ向けられる。

 顔色は青く、傷口からは痛々しく出血が続き、止まらない。

 しかし痛みに耐え、二度目の叫びを上げる。

「逃げろッ!」

 こいつは、お前を狙っているんだ!

 血まみれの手で銃を握り、出鱈目な照準で引鉄を引き絞った。軽い銃声しかしないが、それでいい。放たれた銃弾は窓ガラスを割り砕き騒音を生み出す。誰かが気付いて駆け付けてくれれば、それで。

 二度目の低い銃声。それと同時に右足に衝撃が走った。

「ああああッ!」

 奴め、このままいたぶり殺すつもりか。よりによって彼女の目の前で。

「レジーナ!」

 声が出ない。ただ、まだ腕は動く。

 物陰から近づこうとする侵入者へ向け発砲を続ける。その度、返ってくる銃弾は身動きの取れなくなった彼女の体を貫き、絶叫が走る。

 だがレジーナは銃口を向けることをやめない。意識の朦朧とする中、既に弾切れとなった拳銃の引鉄を引き続けた。

「や、やめて!」

 血を流しすぎて頭がおかしくなったのか。目の前に立ち塞がる少女の背中が見えた。

「だ――め、……逃げ……て……」

 言葉が出てこない。

 ルトゥーシトは既に頭を垂らし、虫の息となったレジーナの前に立ち、侵入者へ向けて言い放つ。

「わた、わたしを連れ戻しに来たんでしょ!? 行くから! か、帰るから! レジーナは助けてあげて!」

 銃声が鳴り止み、物陰から影がぬっと出てきた。中背の男。表情がなく、蛇のような容貌をしている。そいつの近づいてくる足音を耳にして、レジーナは今まで保ち続けてきた意識を失った。

「話が早くて助かります。コード006、ルトゥーシト」

 甲高い声でそう呼ばれ、ルトゥーシトはびくりと身をすくめた。しかし男をきっと睨み付け、震えた声で言い放つ。

「れ、レジーナを助けてあげてっ」

「――わかりました。救急車を呼んでおきます」

 懐から出したヴィーコンで救急を手配する最中も、レジーナから銃口を離さない。隙を突いて逃げようとするものならば彼女を撃ち殺す、との無言の圧力だ。

 男に連れられて家を出ると、黒いワンボックスカーが駐車してあった。広い後部座席にたったひとりだけ押し込められると、車は走り出す。

 ……お別れかぁ……。

 外界で過ごした時間はひどく短かった気がする。これから一生見ることはできないのかと思うと、ひどく悲しかった。

 せめてこの風景を焼き付けていこう。そう思って窓を見ても、そこには分厚い鉄板が貼り付けられているだけだ。

 それでも殺された窓の向こうに見える風景を思い描き、ルトゥーシトは思う。

 どうかレジーナが無事でありますように。そしてごめんなさい。さようなら。

 遠ざかっていくイアペトゥスの風景を思い描きながら、過ぎた日々を思い出す。たくさんの異族や人間との出会いがあった。ずっと求め続けた外の世界での生活は想像した幸せよりもずっと、温かいものだった。

 ……オルドウィン。

 機械の彼を思い浮かべる。傷付けてしまってごめんなさい。一緒にいてくれてありがとう。もっと一緒にいたかったです。

「……ばいばい、オルドウィン」

 何もしてあげられなくて、ごめんなさい。

 光る粒のような涙が一滴落ちた。

 車はイアペトゥスを抜けて、人間の世界へ入り込む。

 黒いワンボックスカーは少女を乗せて、元いた場所へと戻っていくのだった。

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