1章
「空って何?」
『目を閉じて。――これが空』
「わぁ……」
「広い。この部屋よりもずっと広いね」
『時間によって色が変わるの。今度、空の絵が載っている本を持ってきてあげる』
■
快晴の空の下、喧噪に賑わう街がある。
冷たい風の吹く中、温かな日差しの降り注ぐ街だ。
昼下がり。大通りを賑わす人間の半数は観光客である。石畳にレンガ造りの建造物は今では珍しくなってしまった旧建築物たちだ。無論、それらは近年に建て直された複製品であるが、その場所全体を包み込む空気ともいうべき存在が何とも言えない異国情緒を駆り立てる。
まるで故郷に帰ってきたかのような――そんな郷愁にも似た感情が浮かび上がってくる。それがこのイアペトゥスの街が観光客で賑わう要因のひとつになっていることを、改めて実感させられた。
「この辺りは見ての通り、イアペトゥスの中央通り(メインストリート)だ。東区と西区の中間に位置してる。この辺の店はあんたのような観光客にも好意的だ。ただ地元の人間以外には高値で物を売ってくる。何か気になる物があったら交渉するから、俺に言ってくれ」
前を歩くガイドが無愛想な声で言ってくる。ガイドを雇ったのは初めてだが、普通はもう少し愛想よく笑いかけてくるものではないのか。
ガイドは長身痩躯の黒髪の男だ。年の頃はおそらく三十代前半辺りだろう。声は若々しく聞こえるが、醸し出す雰囲気までは隠せない。どこかくたびれた老犬のような空気が彼の周囲にはあった。もしかすると、もっと年上なのかも知れない。
服装だって今のような着古したよれよれのシャツにスーツではなく、身なりを小綺麗に正してやればそれなりの容姿にはなるだろう。
若い外見に成熟した中身。意外とイケるかも知れない、と観光客はそう思った。
道沿いの店に目をやると、全身毛むくじゃらで狼の頭をした異族が観光客とおぼしき人間に接客していた。ちゃんと人間の言葉を喋っている。
「異族が珍しいか?」
ガイドが立ち止まり、声を掛けてくる。
少し躊躇ったが、観光客は頷いた。
「この街にはたくさんの異族と人間が生活している。中にはまぁ、行儀の悪い奴らもいるが、大半は好意的だ。人間も異族もな」
狼人から品物を受け取り、観光客が手を振ってその場を去っていく。狼人は人懐こい笑顔を浮かべ、客が人混みに消えるまで手を振っていた。
「言葉が通じていれば、案外共存できるもんだ」
多種族が交われば、文化の違いや生活習慣の違いが問題として浮き彫りになってくる。しかしこの街はそれら全てを受け入れて、種族の違いですら気にせず生活できている。
イアペトゥスという街は、それを体現している街だった。
それが双方の無関心によるものの結果なのか、それとも本当に理解し合ってお互い譲歩し合っているのかまではわからないが。
現在、世界は二分されていると言ってもいいだろう。
異族の統治する通称〝皇国〟と、それ以外の人類の生活する国々だ。このイアペトゥスはそんな〝皇国〟と人類側に挟まれるようにして存在する独立都市国家である。二つの種族の緩衝帯にして、最も大きな窓口だ。
それ故に人類と異族の文化が交流する数少ない土地であり、こうした観光地としての側面も持っている。〝皇国〟にしかないものが直接売り買いできる貴重な場所だった。
「今回は観光ということだが、何か見たいものはあるか?」
ガイドからの問いかけ。
観光客は用意していたガイドブックを開き、それを指差した。
「ふむ……西区――異族街だな。異族の生活圏だ。橋を渡った先の奥の方だから、少し歩くことになる。何ならタクシーを呼ぶが、どうする?」
迷った末、首を振る観光客。
「それじゃ時々ガイドしつつ、歩いて向かう」
嬉しそうに笑う観光客に、ガイドは無愛想に答えた。
距離にして約三キロと言ったところだろう。起伏もなく、散歩するにはちょうどいいコースだ。
街を貫流する大きな河川。それに沿うようにして、東区側に中央通りがある。そして河川を隔てた向こう側が西区と呼ばれる異族たちの住まう地区だ。
東区と西区を繋ぐ橋を渡る。石造りの古い街並みに合わせて再建された橋から見る街の景観は言葉では言い表せない程に美しく、観光客にも人気のスポットだ。特に晴れた日は夕日が海へ沈んでいく光景が見られ、その時間帯になると橋の上を人が埋め尽くしてしまう程である。
「今日辺りも綺麗な夕日が見られるだろう。まぁ、人混みもあるし雰囲気もへったくれもないが、この街に来たなら一度見ておいて損はない」
観光客は興味ありげに頷きながら、取り出したメモ帳に一心不乱にガイドの言葉を綴った。
橋を渡り終えてしばらく歩くと、街の様相は一変する。
郷愁を感じさせる懐かしい造りを残した整然とした街並みから、多くの文化の混じり合った騒がしい景観へ。東区と同じレンガ造りの建物もあれば、木造の民家、コンクリートを用いた建築物、果ては見たこともない材質と手法で建てられた家も見られる。通り沿いの店で行商してるのはほとんどが異族で、東区とは別の意味で異国情緒に溢れていた。いや、異界情緒とでも言うべきか。
「東区に住んでるのは人間が多いが、西区は異族街と呼ばれてる。理由は見ての通りだ」
観光客はぽかんと街並みに見入っていた。生まれて初めて訪れたイアペトゥス。異族の生活を見ることができるとは聞いていたが、まさか視界の中のほとんどの人が異族という光景を目にすることができるとは。
額から角の生えた人間、耳が長く、瞳が三つある人間。明らかに人間とは異なり、独特の甲殻で身を包んだヒト型。腕が四本ある。他にもいろいろな特徴を持つ異族がいた。
生物学的には全く別の種族であっても、それらは異族として一括りにされている。けれどここに生きる彼らから見たら、人間もまた異族ということになるのではないか。それがなんだか不思議だった。
「ここに来たいと言ったからには、何か探してるものがあるんだろう」
異族によって売られる皇国製の品物。そういったものが外の街よりも手に入りやすいのもイアペトゥスの特徴である。
観光客はメモを取り出し説明した。
「……寂光石? 鉱物か。それを加工した装飾品……すまないが、ちょっと待っててくれ」
聞き慣れない単語にガイドは最初首を捻っていたが、取り出した大きな携帯端末で誰かと連絡を取り始めた。
ヴィーコンは個人で携帯する手のひらサイズの情報端末機械だ。様々な情報の渦巻く電網から探し出した情報を、見やすくビジュアライズして提供する機械の通称のことである。情報検索の他に通話や電子書簡も使えて、今ではひとりにつき一台を持つまで普及している。
一昔前は大きな液晶画面に人体の電気刺激を検知するパネルを内蔵し、液晶画面を直接タッチして操作する機種が流行ったものだ。しかし今では完全に液晶画面はなくなり、空間投影式の画面に切り替わってしまっている。
ガイドが取り出したのはそれより更に昔に発売された、液晶画面の下に小さなキーが配置されたモデルだった。最新式の二倍の長さに二倍の幅、二倍の厚み、そして三倍の重さを持つほとんど骨董品のようなモデルなのに、未だに現役で使用しているらしい。服装から見ても新しいもの好きではないだろうし、物持ちが良いのだろうか。この仕事、まさか儲からないというわけではあるまい。
通話する相手と三、四度の問答があり、ため息をつきながら通話を終えたガイドがこちらへ振り返る。
「――待たせたな。古本と生薬は何度か案内したことがあるんだが、アクセサリは初めてでね。そういう客がいないわけじゃないんだが、運悪く俺は今まで当たったことがなかった。だからそういうのに詳しそうな同僚に場所を聞いた。案内する」
ガイドは迷う様子もなく、ゆっくりとした足取りで街中を進み始める。改めて気付いたことだが、彼は自分の歩幅に合わせて歩く速度を落としてくれているようだった。それが何だか嬉しく思えて、観光客はまた少しだけガイドのことを見直した。
しかし先ほど同僚と通話していたという彼だが、同僚から聞いた目的地の場所をメモしていたわけでもなく、またヴィーコンで地図を見ている様子もない。場所だけ聞けば行ったことのない場所でも位置がわかるものなのだろうか。ガイドならばそれくらいできて当然というのなら、自分にガイドは不可能だ、と観光客は思った。
中央通りほどではないが、そこそこ賑わいを見せていた大通りを抜けると、閑散とした住宅街に辿り着く。道同士が複雑に入り組んでおり、住人でなければまず確実に迷うことになるだろう。目的地はこんなに奥まった場所にあるのかと思うと、ガイドを頼んでよかったと改めて思う。
途中、ガイドを付けずに単独でここまでやって来た旅行者らしき人間が、数人の異族に囲まれていた。空気がぴりぴりと張り詰めており、不穏な影が見える気がする。囲まれた人間は明らかに怯えていて、それを感じ取った異族がじりじりと詰め寄っていた。
ガイドは面倒な場面に出くわしたと言わんばかりにため息を吐いたあと、背後の観光客に「ちょっと待っててくれ」と言い残し、異族たちに向かって歩を進めていった。
「よう。お前ら何してるんだ?」
まずは何気なく挨拶をしただけだ。言葉にドスを利かせるわけでもなく、ただの日常で交わされる言い方だった。
ところが異族たちはガイドの姿を見るや否や、急にオドオドと落ち着きをなくし始める。こっそり逃げ出そうとする者もいた。
人間を取り囲んでいた異族たちのリーダーだろうか。その者がガイドと何か話をしている。彼は小さく頷きながら、チラチラと怯える人間を見る。
やがて異族たちは解散し、散開していった。
囲まれていた人間は凄まじい勢いで頭を下げ、やがてガイドの指し示した方向に向かって早歩きで進んでいく。
戻ってきたガイドに問うた。彼らは一体何をしていたのか、と。
「郷に入っては郷に従えという言葉がある。あの旅行者は住人に無断で写真撮影をしたんだ。彼らの中にはそういったことを好まない輩もいる。だから取り囲まれていた。あんたも気を付けた方がいい」
曰く、彼はこの辺りでも割と顔の利く人間で、そういう厄介事に巻き込まれた人間と異族の間に入り、ああやってちょくちょく仲裁をしているのだという。
「ここは一応人間と異族の窓口だからな。悪い噂が流れるのは、お互いにとってよくないことだ。だからガイドを雇うように推奨してるんだがな。まぁ、どうしても金を惜しむ奴も中にはいる。そういった意味では、あんたのような人は俺たちにとっちゃ生活の糧だ。今後とも、ご贔屓を」
囲まれたいた旅行者には帰り道を教えてやったらしい。無愛想なのに、どうしてだか気の利く人間だった。
それから程なくして目的地に辿り着ついた。
目的地は一見すると普通の民家のように見えたが、近くまで寄るとようやくそこが店だと言うことに気付く。看板も出ていないため、ひとりだと見つけるのは苦労するだろう。辿り着けない場合だってある。
店の中に入ると数々の装飾品が棚に置かれていた。同じ形をした商品がないことから、ここで扱っているのは全て手作りされた物なのだろう。見たことのある石を使った物や、見たこともない鉱石や信じられない色彩を放つ石もある。とてつもない昂揚が観光客を襲った。素晴らしい。
店の奥から顔をローブですっぽりと覆った小柄な人影が出てきて、店の中に入ってきた二人の人間をじっと見つめていた。
ガイドが話し掛ける。
「寂光石って石を使ったアクセサリを探してるんだが、置いてないか?」
小柄な影はローブを引き摺りながら棚まで移動し、そして売り物の置かれた一角を指し示した。ローブの影から見えた手は、昆虫の節足に似ていた。
示された売り場には艶やかに磨かれた真っ黒な石をはめ込んだ装飾品が置かれていて、観光客はそれらひとつひとつを手にとって吟味し始める。これぞ寂光石。夢にまで見た〝皇国〟でしか採掘されない稀少石だ。
真っ黒に見えるが、これは光の透過率が極めて低いがためにこんな風に見えるだけで、実際は無色透明の美しい石なのだ。ただひとつ変わった性質があり、満月の光にだけ反応し、淡く輝くのだという。何ともロマンチックな石ではないか。
観光客はさんざん迷った挙げ句、大きめの石が使われた金色のブローチに決めた。ガイドが値段の交渉をしてくれたので、案外安く購入することができた。
店を出る頃には既に日が傾き始めていて、ガイドはふと、背後の観光客に問う。
「すまないが、少し急ぎ足で戻ってもいいか?」
問われた観光客は質問の意図がわからず、やや困惑した表情で頷いた。
ガイドは先ほどよりもほんの少しだけ歩調を早める。それでもしきりに振り返り観光客の様子を見ながら、歩調を調整しつつ、やや急ぎ足といった程度の速さで西区の街並みを抜けていく。
そして西区と東区を繋ぐ橋にまで辿り着くと、橋の上、その周囲はヒトで埋め尽くされていた。観光客の姿もあるし、この辺りの住人の姿もある。異族の観光客だって、そこにいはいた。
たくさんのヒトがそこに集まり、ひとつの方向を見ている。
橋の掛かる河川の行く末。その先に広がるのはメルデウス海であり、夕日が水平線にゆっくりと沈んでいく神秘的な光景があった。
同じ方向をじっと見つめ、集まった人々はただその日が沈む様に見入っていた。
やがて夕日が水平線に吸い込まれ、完全に消える。
同時に人々から歓声が上がった。いろいろな国の言葉が一斉に唱えられた。バラバラの言語だったが、意味は全て一緒だ。「素晴らしい」。見ず知らずの他人同士が同じ場所で夕日を見ただけで、こうもひとつにまとまることができる。
「ふぅ。……間に合うか冷や冷やしたが、ちょうどいい時間だったみたいだな」
ガイドは相変わらず無愛想な表情で息を吐いた。
「イアペトゥスの夕日、見ておく分には損はなかっただろ?」
とんでもない。最高だ!
ただ惜しむらくは、あまりの感動で持ってきたカメラをろくに使えず一日が過ぎてしまったことだろう。せっかく街を訪れる記念に、と新調したのだ。持ち慣れていない物を持つと、つい持っていることを忘れてしまう。
「写真? ああ、撮ろう。すっかり暗くなっちまったが、どこを背景に撮ればいい?」
観光客は強引にガイドの腕を取り、夕日の興奮が未だ冷めやらぬ他の観光客にカメラを手渡し、シャッターを頼んだ。
ガイドは眉間にシワを寄せて何とも言えない表情をしていたが、隣の観光客が嬉しそうに橋の欄干を背に並ぶと、観念したのかカメラの方を向いた。
電子音と共にフラッシュが焚かれ、撮影が終わる。
渡されたカメラの小さな液晶には、満面の笑みでガイドの腕に抱きつく観光客と無愛想なガイドのツーショットがあった。
その後、最後の仕事として東区のホテルにまで客を送り届けたあと、別れ際にふと問われる。
「あの……つ、次に来たときも、あなたにガイドをお願いしたいの。だからその……お名前を、教えてくださらない?」
去りかけたガイドは振り返り、無愛想な口調と表情で、自分の名前を答えた。
「オルドウィンだ。電話口で言ってくれれば、俺のことだとわかる。またのご贔屓を」
なぜか頬を赤らめていた観光客を残し、再び背を向け街へと戻る。
あとは事務所に戻って書類を作成し提出すれば、一日の仕事が終わる。
毎日同じようなことの繰り返しだけれど、オルドウィンは今の日常が嫌いではなかった。少なくとも、以前よりは。
イアペトゥス観光協会は市によって運営される観光者支援の窓口である。市内の観光名所案内、ツアーの申込み、市営バスの時刻表の確認やガイド派遣の申請もこの窓口を通して行われている。
窓口と言っても、実際にここへ出向いて申込みする観光客は少数だ。今時は大体が電網を通じて電子書簡や電話で予約や依頼が受理される。窓口に座っている係員はそういった少数に対する接客に必要なだけで、実際の業務は奥の事務所で執り行われていた。
一日の仕事を終えて、報告書作成のためにオルドウィンは事務所を訪れる。外から見た事務所にはまだ明かりが点いており、窓の外からは誰かが中で仕事をしている様子が窺えた。
「少しの間デスクを貸してくれないか。報告書を作りたいんだ」
事務所の奥のデスクで仕事をしていたのは室長のアウルシュテムだ。深い青色をした隻眼でぎろりとこちらを睨んだあと、
「好きなところを使え」
と腹に響く低い声で了承する。
アウルシュテムは白い硬質皮膚に四本の角を戴く隻眼の魔人である。百九十センチの身長を持つオルドウィンを超える長身の持ち主で、その外見は見た者へある種の恐怖心を抱かせるような、正に悪魔のような容姿をしている。
彼はその大柄な体躯にオーダーメイドで仕立てたスーツを着込み、同じく特注品のネクタイを締めて、椅子に腰掛け仕事をしていた。毎度のこと思うのだが、窮屈ではないのだろうか。スーツの下にある硬い甲殻の存在が浮き上がっていて、遠目に見ても一発で彼だとわかる。
彼の言った通り適当なデスクに腰を下ろし、コンピュータの電源を入れた。
お互いに無言で仕事を片付けていく。アウルシュテムとは仲が悪いわけではないが、良いわけでもない。身元の不確かな自分を雇い入れてくれた恩人であるが、仕事場ではあくまでただの仲間という認識だった。
アウルシュテムが席から立ち上がる気配がした。鞄に荷物を纏め始めていることから、残業は終わったのだろう。
少し何かに迷うような素振りを見せていた彼だが、意を決してオルドウィンに近づいていく。
「……オルドウィン。ご苦労」
「お疲れ。残業かい?」
「ああ。帰るときは戸締まりを頼む。――最近、調子はどうだ?」
「ぼちぼちだよ。仕事が多いのはありがたいことだ」
「そうか。わざわざお前を指名してくるリピーターも多い。その調子で貢献してくれ」
「……あまり自信がないな。だが、そうだな。期待を裏切らないようにはする」
少しの沈黙。
その後、アウルシュテムが口を開く。
「職員の皆がな、まぁ、非番の連中に限るが。来週末に宴会を開くと言っていた。是非ともお前にも参加してほしいそうなんだが――」
オルドウィンはやや言い淀んで、いつもの答えを返す。
「……すまん。用事があるんだ。誘ってくれて、ありがたいと思ってるんだが……」
「そうか。……わかった。ラミアムには私の方から言っておく」
「すまんと、伝えておいてくれ」
「了承した。――オルドウィン。お前がここに来てもうすぐ一年になる。皆は、お前と打ち解けたがっている。少しでもいいんだ。顔を出してやることはできないか?」
「……すまん」
絞り出すようにして口にした言葉がアウルシュテムへ届く。
何度か小さく頷き、大柄な魔人はぽん、とオルドウィンの肩を叩いて事務所から出て行った。
気配がなくなったのを確認し、オルドウィンはため息をついた。
すまん、すまん――この言葉を一体どれだけ使っただろう。一度もこうした付き合いに参加したことがないのに、未だに自分を誘ってくれている同僚たちは果たして自分をどう思っているのだろうか。
オルドウィンにはただ、すまん、と言い続けることしかできなかった。
夜の十時を過ぎると、街の明かりは徐々に細々としたものになっていく。
食堂や雑貨屋などが店じまいを始めるからだ。その代わりに賑わいを増すのは酒場である。とはいえネオンの光で煌々と輝く看板などはイアペトゥスにはない。街の景観を壊すとして条例が定められているからだ。
ぽつりぽつりと灯る酒場の看板を尻目に、報告書の作成を終えたオルドウィンは自宅への帰路の途中だ。
中央通りから歩いて三十分ほどの奥まった場所にあるアパートの一室に彼は住んでいる。この周辺一帯は戦火を免れた正真正銘の昔ながらの建物が軒並みを連ねる地区だ。
隅々まで手の行き届いている中央通り周辺とは異なり、こちらは昔から変わらない街並みであるらしい。壁に付いているただの汚れにさえ、百数年の歴史が積み重なっているかのように見える。
煤けた色のレンガ造りの二階建て。一階につき四部屋が横に連なっており、四つある部屋の中央部分に二階への階段がある。
壁面はところどころコケに浸食され、住人たちの生活で活気に溢れているわけでもない。一見すると廃屋や幽霊屋敷の類に見えてしまうようなボロボロの建物だ。
オルドウィンが住んでいるのは二階の、階段を上った先の手前側。二〇三号室である。毎日帰宅しては寝て、起きたら仕事へ行っての繰り返しのため、自室というよりは寝床といった表現の方が正しいような気がする。
今晩もそうだった。
スーツの内ポケットに入れておいた古い鍵を取り出しながら階段を上る。カードキーと暗証番号といった電子ロックが普及するこの時代、未だにこんな骨董品のような技術は鍵が掛かっていないと同じ意味であり、文字通り有って無いようなものだ。
しかしオルドウィンはこういった趣向は嫌いではない。むしろ好感が持てる。昔からそういうのが好きだったこともあり、安全性においては皆無とも言えるが、味気ない電子ロックよりもそれはずっと人間らしく、微笑ましいと思えたのだ。
階段を上り終えた先を左へ。
もしかすると自分は鍵を回すために家に帰っているのではないか、と真剣に考え始めたところで、いつもと違う光景が広がっていることに気付く。
自室へ続く廊下。オルドウィンの自室の扉の前。
そこに何か――何かの塊が放置してある。小汚いボロ布に包まれ、ちょうどオルドウィンの膝くらいまである大きさだ。
「……?」
朝に家を出たときは、あんなものはなかった。このアパートの住人は自分以外に誰がいるのか、会ったことがないのでわからないが、少なくとも二階の住人はオルドウィンひとりだけだ。
仮に一階に誰かが住んでいたとしよう。どういった事情があるのか甚だ見当も付かないが、あの物体を二階のオルドウィンの部屋まで運んだ。見た目に反して実は軽いのかも知れない。だが手間が掛かることには変わりはない。目的だって不明である。
……しかも汚えし。
スンスンと嗅覚素子を働かせると、やはり異臭が漂っている。無論、それはあのゴミのようなものを中心に広がっている。
どこの誰だかわからないが、不愉快な置物を残していったものだ。近所の住人の嫌がらせだろうか。いや、何か嫌われるようなことをした覚えはない。それに悪戯をするなら階段の下とか、一階の部屋の前とか、いずれにせよ手間の少ない方を選ぶはず。
そうなると、残る可能性は絞られる。
この荷物を置いていった奴は、ここに住んでいる個人を知っている。このアパートの部屋を借り、二階に住んでいる者へ宛てて、この荷物を置いたのだ。
オルドウィンに僅かな緊張が走る。ゴミを注視したまま後退し、階段の手すりの影に隠れて置物を観察する。あれは迷惑な小汚いゴミなどではなく、危険な置き土産という認識にまで警戒レベルを上げた。
続いて聴覚の感度を強化。同時に視野を熱源センサに切り替え、物体の保有する温度を視覚化させる。
……温度があるな。
ボロ布の内側が仄かに緑に近い青色に色付いている。二十八度といったところだろう。爆発物にしては不自然に高く、人間にしては恐ろしく低い。
そのままの状態でアパートの周辺を見回したが、他に熱源はない。近くに監視している人間はいないようだった。物陰に隠れているのだとしても、聴覚素子からは逃げられない。
指向性を持たせた聴覚素子からはひどくゆっくりな鼓動が聞こえてきた。十数秒おきにトク、トク、と定期的に脈打つ何か。
……心音?
やけに間隔が空いているが、その音の感じは心臓の鼓動にそっくりだった。
心音と同じく間隔は非常に長いが、呼吸音も微かに聞こえてくる。
視野を切り戻すと途端に世界に色彩が戻り、聴覚を元に戻したことで心音のような音も聞こえてこなくなる。
……踏み出すべき、か?
あれが一体何なのかはわからないが、どうやら生物か、それに似たものだということは確かなようだ。いや、それ自体が既にブラフで、全ては自分を抹殺するために仕掛けられた罠だという可能性もある。そもそも、どこの誰が自分を抹殺しようとしているのだ?
とはいえ、このまま動かないでいても仕方がない。
オルドウィンは階段の手すりから離れ、自室までの短い廊下を歩く。何かあったらすぐさま反応できるように、頭の中をクリーンにしながら。
「――――」
結局何事もなく、自室の前まで辿り着いてしまった。いきなり奇襲を受ける可能性や、近づいたと同時に荷物が爆発する、ということまで考えていたのだが。
オルドウィンの見下ろす先に、荷物はある。
それにゆっくりと手を伸ばしたところで、ぴくり、とボロ布が動いた。
思わず手が止まった。
のそのそ、と。ボロ布が身じろぎし、布の一部が持ち上がる。布の中にいた生き物が動き出したのだ。
持ち上がった布の中に、街灯の微かな光を受けて輝く紫色に輝く二つの宝石があった。
宝石は目の前に人間の脚があることに気付き、ゆっくりと視線を上へとスライドさせていく。
頭を覆っていたボロボロのローブが落ちて、隠されていたくすんだ銀色の髪がこぼれた。
放置された小汚いゴミの正体は、座り込んだ少女だった。
髪は肩口で綺麗に切り揃えられ、顔立ちは幼い。おそらく十代になったばかりだろう。女と呼ぶには年若すぎる。
もしかすると、これは人形なのではないかと思った。誰かが人間に似せようとして作り、放置していった被造物なのだと。でなければ、こんな一目見ただけで息を呑むような美しさを持てるはずがない。こんな少女が。
そうでなければ、それは死体だと思った。色素が抜け落ちてしまったかのような蒼白い肌は、血が通っているようには到底見えなかったからだ。
しかしこちらを見上げる双眸は確かな輝きと現実感を持っていて、紛れもない意志を感じさせる。だからこいつは生きた人間なのだと、理解することができた。
いや――彼女の不自然に長い耳は、明らかに人間のものではない。
「……異族?」
少女はぴくりと耳を動かし、
「――オル……ド、ウィン……?」
小さな唇をやっとの思いで動かすように、途切れ途切れに少女は問いかけてきた。
「あ、あぁ……俺がオルドウィンだが……」
突然名前を呼ばれたことに驚きつつ頷くと、少女は全身から力が抜けたかのように四肢を弛緩させ、廊下に倒れる。
あわや頭が打ち付けられそうになるも、咄嗟に伸ばしたオルドウィンの腕が少女の身を受け止めた。だが腕の中の少女はぴくりとも動かない。まさか、と最悪の事態が脳裏を駆け抜ける。
冗談じゃない。どこの誰かもわからない奴が、人の家の前で勝手に死んでもらっては困る。
「おい!」
呼びかけてみても少女は目を開けはしなかった。口元に手を持っていくと、辛うじて呼気を感じ取れる。どうも死んだわけではないらしい。
顔色こそ悪いものの、その表情は穏やかに見えた。安心しているのだろうか。こんな見ず知らずの人間を前にして。
そうして考え込む間もなく、次々と疑問が湧き上がる。
まずこいつはどこの誰で、どうして自分の名前を知ってるのか。そしてなぜこの場所がわかったのか。
とりあえず、それらの疑問に対する答えはこの少女が目を覚まさない限り、出ることはない。
顔をしかめ、大きくため息をつく。面倒が舞い込んできた、という意味だけではない。
オルドウィンは子供が苦手だったのだ。
1DKの室内は非常に質素だ。
備え付けてあった椅子が二つにテーブルがひとつ。どちらも木製で、形状や変色具合から見てかなりの古い代物だとわかった。入居して最初の内は使っていたが、今では掃除するときくらいしか触っていない。
アウルシュテムに雇われてから買わされたスーツとシャツが何着か入った衣装ケースも、椅子とテーブルと同じくなかなかの年代品だったため、素直にそれを使っている。
ベッドは備え付けられてなかったのでセミダブルサイズのものを運び入れた。ちなみにこれだけは木製ではない。
しかし今晩は違う。
ベッドに寝かされているのは先ほど、家の前にいた少女だ。特に苦しむ様子もなく、身じろぎひとつすらせずに眠っている。あまりに静かなので死んでいるのではないか、と何度か確認してしまった程に、彼女は穏やかに眠っていた。
いつもの特等席を奪われてしまったオルドウィンが行き着くのは、久々の椅子だ。
ダイニングに置いてあった椅子をわざわざ寝室のベッドの横にまで持っていき、腰掛けてじっと眠る少女を見つめる。軽く体を動かすだけでギシギシと音を立てるため、これでもなかなか気を遣う。
彼女は驚いた事に、身に纏ったぼろ布以外の持ち物を有していなかった。どこの誰なのかを示すICチップの封入された身分証も、だ。
イアペトゥスに住まう異族は自らの出自と種族、現住所などの細やかなデータが細やかに書き込まれた身分証の携行を義務付けられている。首にぶら下げたり腕に巻き付けたり、いろいろな携行方法があるのだが、見た限り少女はそれを携行していない。どこかに落としたのか、又は元々所持していないのか。それとも、街の外からここまでやって来たのか。
他にも所持金や着替えなども持っておらず、服装に至っては所々が擦り切れたボロボロのボディスーツという有様だ。まさかどこぞの戦場から逃げてきたというのではあるまいな、と若干の不安に駆られる。
汚い服だったが、ベッドに寝かせる以上不衛生な状態ではいけない。疲労している様子だったので本当はボディスーツではなく、もっとゆったりした服に着せ替えてやった方がいいのだろうが、それは少し躊躇われた。
だから女性の知り合いに頼もうと思ったのだが、
……レジーナめ、なんで呼び出しに出ない。
ヴィーコンへコールすること十数回。彼女は一度も電話に出ることはなかった。もう寝てしまったのだろうか。
そういうわけで仕方なくボディスーツのままでベッドに寝かせているが、今のところ寝苦しそうな様子は見られない。シーツは間違いなく汚れているので、彼女の目が覚めたら取り替えた方がよさそうだ。
壁に掛かった機械式の古時計に目をやると、今で二十三時を回ったところだった。この様子だとまだ目を覚ましはしないだろう。こうして座ってジッと睨み付けていても仕方がないのだが、何せやることがない。いつも帰ってきたらすぐに眠ってしまうため、ベッドを占領された以上横になれるのは床の上しかない。
……どうしたもんか、これは。
思わずため息をつく。時間を持て余すのも久しぶりだった。とにかく何も考えないようにしながら生活してきたから、こういう少しの時間がオルドウィンにとっては苦痛となる。思い出したくないことを何気ない出来事で思い出してしまいそうになる。
「……くそっ」
いても立ってもいられず、オルドウィンは寝室から出て行くことにした。その途中でジッポーと煙草を探しかけるが、それらがもう必要ないものなのだということを思い出し、ハッと我に返る。
一息ついて、ゆっくりとした緩慢な動作で寝室のドアを開けダイニングへ移動した。
寝室のドアを閉めると、いつもの静寂が部屋を包み込んでいる。
オルドウィンは残ったもう片方の椅子に腰掛けた。腕を組んで体重を背もたれに預けるとやや軋んだ音がする。
目を閉じてジッとしていると、まるで睡魔が襲ってくるような感覚に見舞われる。あくまでそういう感覚がするだけだが、そういうときは便乗するようにして脳を休めることに決めている。ほんの一、二時間だ。その間ならば少女も目を覚ましたりはしないだろう。
そう決めた瞬間、オルドウィンの意識が沈んだ。
非常に驚くべきことだが、どうやら自分は夢を見ているようだった。
オルドウィンはこの四年、睡眠の中で夢を見たことがない。きっとそういうものなのだろうと思って深く考えずにいたが、それは間違いだったらしい。
オルドウィンは雑踏の中、立ち尽くしていた。見渡す限り人間しかいない。とすると、ここはイアペトゥスではなく、自分の生まれ育ったアイヴァンの街だろう。見慣れた光景のはずが、オルドウィンは今すぐ目を覚ましたくなる程の不快感を覚えた。
雑踏の中、自分ひとりだけが立ち止まっている。そんな状況なのに誰ひとりとしてオルドウィンを気に留めないのは夢の中だからだろう。
……起きろ。
起きて、忘れるんだ。
そう念じても現実のオルドウィンは眠ったまま、覚醒の兆しを見せない。
しばらくそうして足掻いていると、場面が急転する。
「!」
病院。病院だ。
あの、病院だ。
忙しなく行き交う救急車両。院内に入りきれず、敷地内で応急手当を受ける患者たち。頭から血を流し、包帯を巻かれながらもその瞳は既に宙を見ている。
救急車から降ろされたのは人の形を保っていない――元々人間だったモノ。しかしそうなってしまっても未だに生きていて、助けを求めていた。痛い、嫌だ、と。
「やめろ……」
場面が急転する。
舞台は病院の中。集中治療室。
「やめろ……」
ありったけの数の医師と看護師が走り回り、怒号とも取れる指示と悲鳴が飛び交う阿鼻叫喚の地獄のような院内で、そこだけは妙に静かだった。
その中にはオルドウィンがいた。
オルドウィンが、突っ立っていた。
ベッドには娘が寝ている。いや、娘のような、娘でないような。もう人間ですら、ないような――。
心電図が弱々しく脈打っている。娘は生きている。こんな姿になってしまっても、まだ生きているのだ。
「やめろ……!」
突っ立ったオルドウィンは無表情で、極めて無力で。
目の前の現実を受け入れられそうになくて。
けれど娘は、「※して」って。言葉を失っても、ずっとそう言っていて。
「やめろ!」
目の前で繰り広げられる光景に耐えきれず、堪らずオルドウィンが駆け出す。
何もできずにただ突っ立っている自分へ、過去の自分へ。
拳を握り占め、思い切り殴りかかった。
「……ッ!」
何者かの強烈な思念を感じ取って、少女は目を覚ました。飛び起きたと同時に周囲を警戒するが、何の気配もない。敵意の感情もない。
気のせい、と断じてしまうのは軽率な気がしたが、現段階では何とも言えない。
「……?」
何の気配もしなかったが、自分が今、見慣れない空間にいることはわかる。全体的に古くさく、しかし不潔な感じはしない。
「あ……」
だんだんと思い出してきた。
やっと辿り着いたイアペトゥスという街。異族と人間が同じ場所で、同じ権利を持って生活する変な街。なるべく人目に付かぬように隠れながら昼間を歩き、ようやくこの場所を見つけることができたのだった。
「オールド、ウィン。オルドウィン……」
彼は別れ際、そう言っていた。
少女はボロボロのボディスーツを脱ぎ捨て、生地の裏に隠すように貼り付けられた一枚のカードの無事を確認する。
名の刻まれたカード。名刺と呼ばれる旧時代の習慣の名残であるらしい。今では珍しくなった紙製のカードにはひとつの名前がある。
裏の空白にはとある住所が乱暴な文字で記されていた。無論、その住所とはここのことだ。彼女はこの名刺の導きに従って、ここまでやって来たのだ。その下に、彼から彼へ宛てた短いメッセージがある。
「オルドウィン……」
辿り着いた部屋の前で、少女はずっとその男の帰りを待った。何時間も待って、その間いろいろなことを考えていた。これから自分はどうするべきか。なぜ自分はここにいるのか。その男は本当にここへ戻ってくるのか。
そんなことを考えている内に眠ってしまって、気が付いたら人間が目の前に立っていた。
見上げてみると、不思議そうに、訝しげにこちらを見る男がいた。
ああ、この人が。そう思った。
それからの記憶はない。気を失ってしまったらしく、気が付いたらこの状態だったというわけだ。
汚れてしまっていたローブを脱がせてベッドに寝かせてくれた、という事実だけを見ると、どうやら彼は悪い人ではないらしい。だが、世の中には優しい顔をして当たり前のように嘘を吐くような人間もいる。まだ安心するのは早い。
きぃ、と部屋にひとつしかないドアが開けられた。
そちらへ目を向けると、ぽかんと口を開けた男がこちらを見ている。男の目線を追っていくと自分の体に辿り着いた。ああ、そうだ。自分は今、何も着ていなかった。
こういう時はどうするべきだったか、少女は一通り考えた。確か以前、読んだ本に書かれていたと思う。……うん、この反応で間違いない。
大きく息を吸って。
「きゃあ――――――ッッ!」
少女は精一杯の声を上げて、叫んだ。
アパートに誰もいなくてよかった、とオルドウィンはこのときばかりは神に感謝してもいいと思った。社会的に抹殺されることは何としてでも避けたく、いや、一応自分にも今は定職があるわけで、職場の人間に迷惑を掛けるような真似はしたくなかったのだ。
シャワーの音が聞こえる。浴びているのはあの少女だ。
非常に不愉快な悪夢から目覚めたオルドウィンは時計の針を見て、眠りに就いてからまだ一時間ほどしか経っていないことにうんざりし、とりあえず少女の様子を見るために寝室のドアを開けた。
するとそこには一糸纏わぬ年端もいかぬ少女がいて、状況を確認している間に叫ばれてしまったのだった。ベッドに裸の少女がいたくらいで取り乱すとは、情けないことだが。
あのときは何者かの陰謀か、世界が自分の敵に回ったか、と気が気でなかったが、少女の口を手で塞ぎ、しばらく経っても戸を叩く音がしなかったため、ようやく彼女を解放することができた。
しかもその少女。裸を見られて悲鳴を上げたくせに、なんら羞恥する素振りも見せずにニコニコと笑みを浮かべ始めたではないか。まるで「どうだ!」と言わんばかりに!
間違いない。こいつは確信犯だ。新手の美人局だ。油断したところで相方の男が押し入ってきて、金を強請られる。
……馬鹿が。来るなら来い。
殴り合いなら負ける気はしない。どんな屈強な男が押し入ってきても、秒殺できる自信があった。入り口の前にドンと、まんじりともせずに椅子に腰掛けて待ち構え、臨戦態勢を崩さない。
その間に少女がバスルームから出てくるのを背後の気配で感じ取る。
「……服を着たら帰ってくれ。そして相方に伝えろ。俺は誰にも負けるつもりはないとな」
少女から返事はない。
舌打ちしてバスルームの方へ振り返ると、銀の髪からぽたぽたと湯を滴らせながら立ち尽くす少女の姿があった。
「何してる! くそ、床が……!」
びしょびしょだ。既に床は局地的に豪雨でも降ったのかと言うほどに、見事な水たまりができあがってしまっていた。
きょとん、とした表情で少女が言う。
「拭くもの、ちょうだい?」
「あ?」
「タオル。欲しいなぁって」
「……!」
美人局の分際でなんと図々しいことか。オルドウィンは怒りを顕わにしかけるが、どうにかそれを抑え付ける。
そうだ。自分は大人だ。こんなガキに本気で怒って何になる。何せ身分証を持たない出自も種族もわからない異族だ。常識が欠けているのも仕方がないではないか。
大きく深呼吸し、無言で衣装ケースからタオルを一枚取り出し、少女の頭に掛けてやった。
「バスルームを出る前に、まず体を拭け。じゃないと床が濡れるだろうが」
できる限り寛容な態度で接してやる。水面下でふつふつと湧き上がる怒りを無視することだけに心掛け、少女の少女の常識のなさを受け入れた。
少女は自分の言葉を聞き入れたのか、バスルームへ戻って行った。残った水たまりを片付けていると、今度はバスルームから顔を出して言ってくる。
「ねね。着るもの、ちょうだい?」
「~~~ッ!」
この理不尽さを受け入れ、寛容な態度で接すると決めていた覚悟が、途端に揺るぎだした。怒りが湧き上がってくる。
「お前にやる服なんてない! さっさと自分の服を着てここから出て行ってくれ!」
もういい。大人気ないと言われてもいい。我慢の限界だった。むしろここまで声を荒げなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
すると少女は首を傾げて、
「……オルドウィン?」
再び、自分の名前を呼んだ。
「――そうだ。お前、どうして俺の名前を知ってる」
美人局がどうこう言っている場合ではなかったことを思い出す。
そうだった。こいつはなぜか誰にも教えていない自分の部屋の前にいて、自分の名前を呼んだのだ。
「どこの誰に雇われたか知らないが、一体俺に何の用だ? こんな回りくどいことをしなくても、俺は聞かれたら何でも答えてやる。俺に答えられることだったらな」
どうせ答えられることなんてない。何も知らないし、相手が誰だかもわからない。隠すようなことなんてもうないのだ。そして思い知らせてやるのだ。俺を訪ねたのは無駄足だったな、と。
少女は不思議そうに首を傾げたままオルドウィンのことを見つめていたが、やがて寝室へ戻り、ベッドの上に置きっ放しにしていたカードを持ってきた。ベッドに寝かせたときは何も持っていないと思っていたのだが、どこかに隠しておいたのだろうか。
それは今時珍しく紙製のカード――おそらく名刺だろうか。良い趣味をしている。
「これ」
「……わかった。わかったから、お前はこれでも着てろ」
素っ裸で目の前を行ったり来たりされたら気分が悪い。
オルドウィンは衣装ケースの着古したシャツの中から一枚を取り出し、少女に差し出した。
少女はカードを渡した手でシャツを受け取ると、きゃっきゃと騒ぎながら袖を通し始めた。
そのとき気になったのが、彼女の二の腕に巻き付いているように見えるソレだった。アクセサリか何かだと思ったが、よくよく見ると両手両足にそれはある。肌と同じく真っ白な、細く長い紐状の触手のような器官。
限りなく人間に近しい外見をしているが、彼女もやはり異族であることに変わりはないのだ。
それを見て見ぬ振りをして、シャツの代わりに受け取ったカードを見て――動きが止まる。そこに書いてある名前があまりにも意外な人物だったからだ。
「……フランツ」
フランツ・ベルデ。元運び屋。四年前、組織を抜ける直前まで自分の相方だった男の名前だ。
懐かしいような、忌まわしいような――なんと反応したらいいものか。だがそういった感情よりも先に浮かび上がるのが疑問だ。
なぜ、今頃?
カードを裏返すと乱れた筆跡でこの部屋の住所が記してあった。彼女はこの住所を頼りにここまで来たということか。組織との関わりを絶ってから連絡を取っていなかったが、一体どうやってこの場所を突き止めたのだろう。
そして住所の下にメッセージがある。
『FからOへ。二三〇メレル帳消し』
一見するとわけがわからないが、すぐに気付く。
フランツからオルドウィンへ。二三〇メレルは今までオルドウィンがフランツにポーカーで負けた分の金額だ。それを帳消しにするという意味。
これは紛れもなく二人しか知り得ない事柄であり、彼女にカードを持たせたのはフランツ自身の意志であることを証明するものだった。
「おい、フランツはどうした。こいつをどこで手に入れたんだ。どうしてお前が、このカードを持ってここへ来る?」
住所を知っていたのなら、フランツ自身がここを訪ねてくるはずだ。わざわざ彼女をひとりでここへ寄越すなんてこと、元運び屋である彼の美学に反する。となると。
「フランツに何かあったのか?」
当然、そういう結果に行き着く。
フランツが今どんな仕事に手を出しているのか知らないが、彼はこの異族の少女をどこかに送り届ける依頼を受けていた。しかし途中でアクシデントに見舞われ、やむなく彼女と二手に分かれざるを得なくなった。そして彼女の当面の潜伏先として、頭に浮かんだ元相方の住所を書き込んだカードを持たせたのでは?
問われた少女は少しだけ表情を曇らせ、答えた。
「フランツはわたしを逃がしてくれたの。けど、途中でニンゲンたちに見つかって、フランツは囮になってくれたの。別れ際にここへ行って匿ってもらいなさいって」
「もらいなさい、ってなぁ……」
フランツ。どうやらお前は何か誤解をしてるようだが、俺はもう堅気だ。もう日陰の仕事とは縁を切った身だ。そういったことには協力できない。
「あとで連絡をするって言ってたよ。きっと迎えに行くって」
「あとでって、いつだ?」
「わかんない」
言い切られてしまい、オルドウィンは黙ってしまう。それ以上の情報を彼女は知らないということだろう。
それよりも気になるのは先の説明で出てきた「逃がしてくれた」という言葉。その言葉が、すっかり抜けたはずの日陰の臭いを彷彿とさせる。当然やばい類の依頼に違いない。
こういったことには関わらないと決めた。たとえ元相方の頼みだったとしても、だ。
「すまんが、俺がお前にしてやれるようなことは何もない。当てにしてここまで来たんだろうが、見込み違いだ」
オルドウィンはそう言い切った。
少女は話が通じているのかいないのか、ニコニコと笑っている。
「……おい、どうして笑ってる。俺は出て行けと言ってるんだ。愛想を振りまいたって俺の考えは変わらない」
そうしてすごんで見せても、少女は笑うのをやめない。
「やめろと言ってるんだ!」
不愉快だった。心の余裕のなさを読み取られているようで、どうにも落ち着かなくなってしまう。
「どうして?」
少女はそう問うた。
「わたし、嬉しいよ。だって今、お話してるんだもん」
「なに?」
少女はとても嬉しそうに笑っている。
楽しそうに、生き生きとした笑みを浮かべながら言う。
「でも、家の人がそう言うなら仕方ないかぁ。困った困った」
「……お前は、何で笑ってる? 何がおかしい?」
「おかしいんじゃないの。わたしはただ、嬉しいの」
嬉しい?
こんなやりとりの、どこが?
「俺はお前に出て行けと言ってるんだぞ? 長い道中、このカードを頼りにここまで来たんだろう。なのにどうして笑える? 遠慮することはない。お前には怒る権利があるんだ」
「怒るなんて。怒る必要なんてないよ」
こいつは何を言ってるんだ、と本気で思う。人間と言葉を話すくせに、まるで話が通じている気がしない。
「あ。でも外は寒いからなー。寒いのは嫌だなぁ」
だが一応出て行く気はあるらしい。眉をハの字にして、唸り始める。長い耳もしおれるように垂れ下がった。
何も口出しせず、オルドウィンはその様子を見ているだけだ。手を差し伸べるつもりはない。
よく考えろ。どういう道を通ってきたか知らないが、少女はここまでひとりで辿り着くことができた。ならこの先もひとりで大丈夫なのではないか。
……ああ、そうだ。きっと大丈夫だ。
そう思うのに。
「おい、今日はもう……いい」
全く合理的ではない。むしろオルドウィンにとってはリスクしかないはずだ。
だが気付いたら、彼はそう口に出していた。
「とにかく、今日はもう休め。明日、日が昇ったらまた考えよう」
「……なんで? あ、わたしが寒いの苦手だって言ったから……?」
「違う。いや、あぁもう、何でもいい。とにかく、子供は大人の言うことを聞け」
言った。言ってしまった。
「ホントにいいの?」
「いいって言っただろ。俺の気が変わらないうちに、さっさと寝ろ」
少女はにっこりと微笑み、嬉しそうに寝室へと戻っていった。
ドアが閉まると同時に特大のため息を吐き出すオルドウィン。次に出るのはフランツへの恨み言だ。二三〇メレルを帳消しにする? 冗談じゃない。これは一発返済したあと、十分におつりが来るレベルだ。面倒な仕事を押しつけやがって。
「……くそ」
こんなに心を掻き乱されるのは久しぶりだ。疲労が溜まっているのかも知れない。悪夢を見たのも、きっとそのせいだ。
時計を見ると午前二時を指している。まだ夜明けまでは遠い。
オルドウィンは何もせず、ただ椅子に座って日が昇るのを待つことにする。
彼を癒してくれた煙草も酒も、今はもうない。