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序章

 低い雲が空を覆い、星の瞬きは遮られて地上にまで届くことはない。

 冷たい空気が風を凍らせ、夜の闇はひたすら暗く、平等に地上を包み込む。

 遠くにはグレイスミスの街の明かりが微かに見て取れる。色鮮やかなネオン、文明の光を振りまく街灯、家々の窓から漏れ出す優しい明かり。それらすべてが一緒くたになって、こんな遠く離れた場所にいる人間の目にまで光を届ける。

 低い位置に停滞する分厚い雲。

 そこから目を下に向けると、黒い森が広がっている。

 昼なお暗く、夜になると多種多様な生物の息づかいも聞こえてこない。

 ここは地元の人間からは魔の森と呼ばれている土地である。科学技術の発達した現代においても、こういった全貌の明らかになっていない土地は世界各地に少なからず存在している。

 目を森に向けてみると、真っ黒なタールを流し込んだように広がる森の一部が切り拓かれていることがわかる。

 道は舗装されてアスファルトが敷かれ、ぐねぐねと蛇のようにうねりながら伸びるその道路を、三台の車が連帯を組んで走行していた。

 中心を走るのは巨大な輸送トラックだ。合金製のコンテナには幾つものヘコみや傷が付けられており、よく見ると車体も所々が大きく傷んでいる。

 トラックを囲む他の二台も同様で、傷の大小はあるものの、まるで紛争地帯をくぐり抜けてきたような有様だった。両方のサイドミラーがむしり取られているのならまだ可愛いものだ。後方のバンはドアを一枚無惨に引き千切られている。

 トラックの前方を走る黒いセダン。その助手席に乗った黒髪の男が、元々フロントガラスのあったであろう空間へ忌々しげに目をやり、ため息と共にコートの襟を立てる。まだ若い男だ。二十代半ばか、または後半だろうか。切れ長の目は鋭く尖る目線を有し、鼻筋の通った精悍な容貌は身なりを整えて街を歩けば幾人かの女は振り向くだろう。だが今のような無精髭と疲労が見て取れる表情では、かえって人を遠ざけるだけだ。

 彼は軽く身震いしたあと、その鋭い眼光の宿る双眸をヘッドライトに照らされる暗闇の向こうへ戻した。

 十二月の気温は容赦がなく、吐き出した息はことごとく白く煙り、霧散した。

 フロントガラスの割られた車内には冷たい風が吹き込んできて、空を見上げると木々の狭間から分厚い雲が顔を覗かせる。

 今夜中には降り出すかも知れない、とそう考え、また憂鬱になる。雨にしろ、雪にしろ、せめてガラスを張り替えさせて欲しかった。

「……冷えてきたな」

 男は無意識に呟き、懐から煙草を取り出し口に咥えた。

 車内に吹く風のせいでなかなかオイル式点火器ジッポーが点かなかったが、手のひらで風よけを作ると簡単に火を灯した。一瞬だけ手のひらが温かくなり、次の瞬間には脳に焼けるような刺激が走る。軽く舌打ち。

「大丈夫ですか?」

 運転するスーツの男が前方に目をやったまま問うてきた。

 助手席の男は手をひらひらと振り、

「火傷した」

 そう苦笑した。

 スーツの男は軽く笑いながら、改めてハンドル操作に集中する。

「あと三十分もしないうちに到着します。そうしたら、こんな寒い車内ともお別れですよ」

「温かいスープが飲みたいな」

「毛布も欲しいですね」

 運転する男は、じつは三つほど年が上だ。しかし立場上、彼には敬語を使うようにしている。というのも、この仕事が終わるまでは彼が現場責任者であり、自分はあくまでその部下であるからだ。彼はしきりに「敬語なんてやめてくれ」言ってきたが、こればかりは譲れなかった。

「ここまで来ると、さすがに追ってきませんね」

「ん……そうだな。受け渡しが終わるまで気は抜けないが、追っ手は撒けたらしい」

 煙草の煙を吐き出し、車内に備え付けた灰皿へ灰を落とす。

 荷物の護送を言い渡され、トラックを渡されてからというものの、あり得ないほどのトラブルが続いた。街を抜けようとすれば直前で橋が落とされ、山を超えようとすれば謎の奇襲を受ける。そのせいで通常なら六時間ほどで済む移動に、わざわざ五日間もの時間を費やすことになってしまった。

 わざわざ護衛の車両を何台も寄越されたのだ。箱の中身がどれだけ危険な代物なのかは大体予想ができたことだ。しかし様々な妨害や奇襲を行っていたのが人間と異族の混成部隊となれば、こちらも本気で挑まなければ命の危険があった。最初は六台もあった護衛車両は、今ではたった二台にまで減ってしまった。すべて破壊工作と奇襲のせいである。

 異族。

 人間ではなく、しかし人間と同等、もしくはそれ以上の知性を持つものの総称。いつ頃から存在しているのかはわからない。ただ人間の発生と同じく、その起源は謎に包まれている。

 いつしか人間と袂を分かった彼らは、自身で自分たちを統治する〝皇国〟と呼ばれる国家を形成し、世界中から逃れてきた異族たちを招き入れ、そこに立てこもっている。そのため〝皇国〟の外で異族を目にすることは珍しい。

 つい二十年ほど前に人類は彼らと戦争状態に突入したが、三ヶ月の交戦の後に休戦してからはお互いと争い事はしないと、協定を結んだはずだ。だがそれがどういうわけだか、五日前から頻繁にその姿を目撃する。しかも人間と協力するかのように、こちらに襲いかかってくるではないか。荷物の中身が目的であることは、容易に想像できた。

「……まったく、俺たちは一体何を運んでるんだか」

「旦那、それは――」

「わかってる。見ざる聞かざる――だったか?」

 ハンドルを握る彼のような運び屋にしてみれば、それはごく当たり前のことだ。

 荷物の中身を見ない。詮索しない。

 運び屋は金で雇われたドライバーであったり、スーツケースを引いて公共機関を乗り継ぎ目的地へ向かう者であったりと様々だが、それら全てに共通して言える掟である。

 そしてこの運び屋は己の矜恃として、その警句を実直に守り続けていた。

「あなたのおかげで無事に仕事を終えることができたことには、感謝してます。被害はあったが、とりあえず無事に運んでくることができた。しかし、こればかりは私の領分です。くれぐれも、中身を気にしちゃいけない」

「あぁ、俺もあんたみたいな優秀な運び屋と組めてよかったよ。最初に言った通り、プロの言うことには従うさ」

 灰を落とそうと灰皿へ手を伸ばすが、風に吹かれて途中で落ちてしまう。小さく舌打ちし、煙草を咥え、手で灰を拾って皿へ棄てる。

「吸うかい?」

 男がくしゃくしゃに潰れたソフトケースを視界にちらつかせた。仕事の最中は禁煙するのが運び屋の流儀だったが、さすがに今回の仕事は疲れた。正直、今でも無事に生きていることが不思議なくらいだ。この隣の男が機転を利かせて輸送ルートを選択し、奇襲に対しての指揮を執らなければ、恐らく今頃蜂の巣か、海の底に車ごと沈んでいただろう。

 五日間を生き延びたことへの褒美だ、と運び屋は一本、煙草をケースから引き抜いた。

 煙草を咥えると、彼がジッポーを向けてくる。やはり火が点きにくい。

「――オールド、ウィン?」

 手で風防をつくり火を点けている間に、金属ボディに刻まれた刻印が目に入り、運び屋は自然とそれを口にしていた。

「ああ、名前だよ。俺の。オルドウィンだ」

 ジッポーを持った男――オルドウィンが気恥ずかしそうに笑う。

「贈り物でね。なかなか良いだろう?」

 ほう、と運び屋は唸った。

 彼の知る限り喫煙者という人種のほとんどはこういった骨董品アンティークを好んで蒐集する。このジッポーにしたって、現在ではメンテナンスフリーで強風の中でも点火できる便利な代物が出回っている。火を点けるだけなら、そちらの方が何倍も良い。維持費も整備の手間も掛からず、何より安価だからだ。

 だが煙草を吸うというそれだけの行為を、彼らは単なる習慣としてではなくひとつの儀式として生活の中に取り入れている。仕事の節目としてや精神状態を落ち着けるなど、ごく単純な指先の運動はその人間にとっての必要不可欠な小休止に他ならない。

 喫煙者の端くれとして、運び屋も自分の愛用品を人に自慢したくなる気持ちは大いに理解できた。

 オルドウィンは吸い殻を灰皿にねじ込んだあと、短く深呼吸した。やはり喫煙も、彼なりの儀式だったらしい。

「さて。残りも安全運転で行こう」

 彼の気を引き締める台詞を聞いていたかのように、ちらりと視界を横切ったものがあった。

 白く冷たい。

 雪だ。

 それを確認したオルドウィンは再び忌々しげに空に目をやる。いや、それともよく今まで持ってくれた、と感謝すべきなのだろうか。

 煙草の煙のような白い息を吐き出して、オルドウィンはうんざりしたように呟いた。

「とりあえず、凍死するまでには帰りたいもんだな……」



 程なくして、三台の車は目的地に辿り着くことができた。

 当初予定されていた到着時刻から四日ほど過ぎてしまったが、そのことはあらかじめ連絡しておいたため問題はない。

 目的地として指定されたのは、小綺麗な四角い三階建てのビルだった。深夜にも関わらず、施設内には明かりが灯されており、人の気配が伝わってくる。こんな森の奥には場違いな様相を醸していたが、真っ当な施設ならばこんな辺鄙な場所にわざわざ建造しないだろう。

 運んできたこの荷物も、おおかた何かの実験材料――と言ったところだろうか。

 車の助手席から降りたオルドウィンはまず、ぐいと大きく伸びをした。背骨がボキボキと軽快に音を立て、数時間ぶりの大地の感触を靴越しに確かめる。

 続く大型トラック、しんがりを務めていたバンも敷地内に止まり、各々に乗車していた人員が降りてきた。全員が全員共に憔悴しており、疲労困憊の文字が色濃く見て取れる。

 車両の到着に気付いたのだろう。施設内から三人ほどの白衣を纏った研究員とおぼしき人間が歩み寄ってきた。

 二人はトラックの元へ向かい、残るひとりがオルドウィンの元へと。

「ご苦労。よくぞここまで運び通してくれた」

 壮年の紳士だ。両手を広げこちらを賞賛するような大げさな仕草。白衣の下にスーツを着込み、満面の笑みを浮かべる。年齢から言って、トラックの元へ向かった研究員の上司だろうか。

「アクシデントで日程が大幅にずれてしまった。申し訳ない」

「いや、まずこうして辿り着いてくれて感謝している。どうやら――酷いアクシデントがあったようだね」

 目線をちらりと車両に向け、紳士は口元を歪めた。笑ったのだろうか。

 オルドウィンはその仕草が気に入らない。こっちは死ぬ思いでわざわざこんな辺境まで運んできたのだ。命を落とした人員だっている。冗談でもそういうことを言う奴は許せなかった。

 だが仕事だ。仕事なのだ。ここで手を出せば組織全体の信用も落とすことになる。この世界は信用と信頼が第一だ。わかっている。少し頭に血が上りかけただけだ。クールになれ。自分をコントロールしろ。

「――荷物の確認を頼む。できるだけ早めにな。俺たちはこれから、フロントガラスの割れたオンボロに乗って、雪の中を帰らなくちゃならないんだ」

 そう言って背中を向けた。もうこの紳士とは顔を合わせない方がいいだろう。それがどちらにとっても最良の選択のはずだ。

「……ふぅ」

 とは言え、これでこの大仕事も終わったわけである。もう不眠不休で車を走らせることもしなくていいし、毎朝車両を取り替えるような真似もしなくて済む。

「……寒いな」

 冷たい風が吹き、雪が暗闇に舞う。既にうっすらと積もり始めている白い絨毯を見て、再びオルドウィンはため息をついた。明日の朝には帰りたいと思っていたが、それも怪しくなってくる。

「……」

 ふと、大型トラックが視界に入った。この五日間、車両を変更せずに走りきったのはあの車だけだ。当然、中身は一回も見ていない。

 歩み寄ってみると、白衣の男たちはいなかった。建物の中へ戻ったのだろうか。何せこの寒さだ。防寒着でも取りに行ったのかも知れない。

 先ほどの紳士の姿も見えなかったが、かえって安堵する。

 貨物台に固定されたコンテナには数多の弾痕や、鋭利な刃物で抉られたような破損が見られる。被弾した弾丸はコンテナ内部の二枚目の金属板に遮られ、ひしゃげている。つまり被弾はしたが、貫通はしていない。それは確認済みである。

 だが先の奇襲において、虎の姿をした異族によってつけられた爪痕が思いの外深い。二枚目の金属板を貫通し、内部の空間まで及んでいる。その異族は背後の車両からの銃撃によってそれ以上の攻撃を続けられなかったようだが、肝の冷える話である。

 その傷跡を前にして、途端に興味が沸いてくるのがわかる。

 ――見ざる、聞かざる。

 それは運び屋の掟だ。仕事で顔を合わせたとき、最初にそう念を押されたことを思い出す。決して暴いてはいけない。

 傷跡の向こう側。

 そこにある闇が、オルドウィンを招き寄せるように蠢いて見える。

 気付いたら脚が動いていた。

 前へ。一歩ずつ進み。

 そして、その隙間から内部を覗き込んだ。

 通常コンテナ内部には照明があるものだが、故障したのか、意図的に潰されているのか、とにかく明かりはない。

 コートのポケットからペンライトを取り出す。光源としては弱いが、夜間の接近戦において無類の効果を発揮する。

 先端を隙間に差し込み、スイッチを入れた。

 光が作られ、コンテナ内部の闇が照らされる。内側の壁は金属色丸出しであるため、まるで鏡のように明かりが反射され、内部の照明が復活したかのような明るさを取り戻す。

 その状態で隙間から再度内部を覗き見た。

 今まで闇に包まれ見えなかった最奥。

 それは、そこに鎮座していた。

 見たこともないものだ。いや、普段生きている世界とは縁遠いが故に、オルドウィンには一目でそれがなんであるかを見極めることができなかった。

 それは培養槽と呼ばれるものだ。特殊ガラスを用いて造られた長方形の巨大な水槽である。水槽は横に長く、子供のひとりくらいなら横になれそうだ。透明の棺にも見える。

 培養槽は薄く色のついた培養液に満たされ、その周囲には培養槽内の環境を一定に保つための大量の機械に埋め尽くされている。その水槽に何が入っているのかが、気になるのだ。

 オルドウィンにはもう躊躇いはなかった。

 目を凝らし、ペンライトのか細い光で水槽の中身を、照らした。

「……なんだ、こりゃあ……」

 光が当たり、その中身が露呈される。

 まず最初に、土の色を認識した。次に形。なぜか人型に見える。いいや、人型だ。大人にしては小さすぎるから、子供か。性別はわからない。身体的な特徴がどういうなのではなく、それは腐りかけていた。皮膚も肉も、顔も。全部がボロボロで、直視してしまったオルドウィンは思わず後ずさりする。

 ……おいおい、マジかよ。

 まさかこんな冒涜的なものを運ばされていたとは。

 息を吐いて心を落ち着けて、再度隙間を覗き込む。

 ペンライトで水槽を照らし、もう一度――。

「……!」

 今度はペンライトを落とす。思わず上げそうになった声を、どうにか喉の奥に抑え込んだ。

「どうかしたかね?」

「!」

 背後。振り返ると、紳士がそこにいた。

 ……いつの間に近づいてきた?

 それよりも、コンテナを覗いていたところを見られただろうか。こいつの中身は紛れもない機密情報で、外部に漏れ出してはいけない情報だ。

 冷たい汗が背中を伝う。体温が急激に低下していく感覚を覚えた。

「酷い傷だ。異族にやられたのだね」

「あ、ああ……」

 しどろもどろながらも答えるオルドウィン。紳士は憂いた表情を浮かべ、コンテナに残された爪痕に目をやる。

「彼らは鋼鉄を易々と切り裂き、人間をいとも容易く捻り潰す。君たちもよく無事だった。あの様子では君たちの被害も大きかっただろうに……」

 そう言うと紳士は突然、深々と頭を下げた。

「先ほどは済まなかった。君たちへの礼儀を欠いてしまっていた。運んできてくれたのは何者でもない、君たちだというのに……」

「い、いや、いいんだ。わかってくれれば――」

「よくはない! 僕たちは研究者である前に、人間だ。犠牲となった者たちを偲ばずして、一体何が人間か」

 頭を上げた紳士の目から涙がつぅと、流れ落ちた。

「どうして……見ず知らずの他人のために泣けるんだ」

 自分でも知らず知らず、呟いていた。

 涙とは死人を悼むからこそ流れるものだ。その人の生きてきた道を知り、共に歩んだ時間を思い返し、初めて人の死を悼むことができる。見ず知らずの他人のために、人は泣けない。

 だが紳士は涙を拭き、首を振る。

「エイワス・ワックスマン、アーネスト・セシガー、ドワイト・フライ、ドニー・ダナガン、エドガー・ノートン、ボリス・カーロフ、ジョセフィン・ハッチソン、レナード・サルネド」

 彼の口から出てきたのはすべて、奇襲によって命を落としたメンバーの名だった。続けて彼らの生誕から今現在までの経歴を事細やかにそらんじて見せた。

 紳士から語られる経歴は、確かにひとりの人間が歩んできた道だった。どういうことを考え、選択し、この仕事へ参加したのか。

 オルドウィンはただそれを聞き続けることしかできなかった。

「僕は彼らの死を無駄にはしない。ああ、絶対にしない。命より価値のあるものなど存在しない。それなのに君たちは命を賭して、これを運んできてくれた。策謀に負けず、奇襲に耐え、ここまで来てくれた。僕は忘れない。関わった人間全ては、僕の財産だ。もちろん君だってそうだ、オルドウィン君」

「……調べたのか、全員分を」

「当然だ。関わった人間全員を覚えている。それが僕の信条だ」

 それよりも、と紳士が話を区切る。びくり、とオルドウィンが反応する。

「この雪の中、あの車で帰るのはおすすめしないね。どうだね? 僕の部下に君たちをグレイスミスまで送らせることもできるが」

「いや、いい」

「そうかね? まぁ、そう言うのなら我々としても干渉はしないさ。今防寒着を取りに行かせているところだ。それくらいは受け取ってくれるかね?」

「ああ、それなら。戴いてく」

「うむ。部下に持って来させよう。君は車の近くで待っているといい」

 では、と紳士が背中を向け、施設に歩き出した。

 ……バレてないのか?

 いつ口封じされるのかと冷や冷やしていたが、紳士は振り返ることなく去っていく。

 それとも、機密情報だというのは勘違いで、実際のところは機密でも何でもなかったのだろうか。

 ……いや、違う。

 あれは間違いなく、見てはいけないモノだった。

 ペンライトの明かりの先、培養液に浸された小さな腐乱死体。戦くオルドウィンが目にした光景。

 こちらの目線に気付いた死体が、ぐるりと首を回し、眼球の腐り落ちた空白の眼窩で以て、オルドウィンを見返したのだ。

 ないはずの眼球がそこにあったように見えた。

 あのとき確かに、二人は目が合ったのだ。

 あれが一体なんなのかはわからない。だが、好奇心が人間を殺すという言葉を、オルドウィンは今日初めて実感したように思えた。そしてこのことを誰にも口外しないことを、彼は密かに誓ったのだ。

 その後は紳士の言いつけ通りに部下から防寒着を受け取り、オンボロの車で帰路に就いた。疲弊した体に長時間の運転はきつかったが、凍り付くような寒さが眠気を吹き飛ばしてくれた。セダンにはオルドウィンがひとりで乗り、残った人員は来たときと同じようにバンに乗せて、運び屋に運転させることにした。

 グレイスミスに到着してもまだ街は眠ったままだ。ここから家に帰るには更に長い移動を繰り返すしかない。その前に車を乗り換えたいので、夜が明けるまでこの街に滞在するしかなかった。家で帰りを待っている女房と三歳になったばかりの娘に会うには、もう少し時間が掛かりそうだ。

 降り積もっていく雪の中、車から降りたオルドウィンは懐から煙草を取り出し咥える。コートの上から防寒着を羽織っているので、最初ほど寒くはなかった。

 ジッポーで火を点けながら思う。

 あの男は一体何をしようとしているのだろう。そしてあの死体は一体?

 彼の疑問も、感じた恐怖も、全ては氷解しないまま、時間が過ぎるごとに次々と記憶の底へ沈んでいく。

 七年前の冬の出来事である。



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