優しい君に、さよならを告げる日。
私の命はもうすぐ尽きてしまう。
だから。
震える指で、番号を打ち込む。そのまま耳に押し当てれば呼び出し音が聞こえてきて、二回もならない内に彼が電話に出た。
『千代?』
受話器越しに聞こえた声は、確かに彼のものだった。懐かしい声に泣きそうになるのをこらえて、うん、と頷く。
「突然ごめんなさい……」
『別にいいよ、そんな事。それより、大丈夫? 最近連絡がなかったから心配してたんだよ?』
いつものように心配してくれる彼の姿が浮かぶ。昔からずっと変わらない、誰よりも優しい人。この優しい人が私を選んでくれた時は、どれほど嬉しかっただろう。でも、今の私には。
「ごめんなさい。あの、色々あって……」
『うん。あのさ……俺、今日暇だから。そっち行ってもいい?』
歯切れの悪い返事に怒ることもせず、優しく返してくれた彼に、私は小さく頷いた。
マンションに着いたと連絡があったかと思えば、そのすぐ後に、インターホンの音が部屋に鳴り響いた。外に立っているのが彼だと確認してからドアを開ければ、満面に笑みを浮かべた彼が確かにそこにいる。
「久しぶりに会えたね。ね、入ってもいい?」
「うん」
私が何を伝えようとしているかなんて知らないで、彼は嬉しそうに笑う。その笑顔が眩しくて、胸がじくじくと痛んだ。それを押し隠すように無理やり笑って彼を家に迎える。
……昔から、自分の感情を殺した作り笑顔は得意だった。
「何か食べる? お昼、まだだったら……」
時計を見れば、ちょうど正午に差し掛かる時間で、冷蔵庫の中からリンゴジュースを出して、グラスに注ぎながら彼に尋ねる。彼が以前好きだと言っていたこの飲料は、数日前に買ったものだった。
「うん、まだだよ。千代の手料理食べたい」
グラスを彼のところへ持っていくと、彼はやっぱり嬉しそうな顔をして頷いた。空白の時間なんてなかったみたいにそこにいてくれて、でも「今日は久しぶりがいっぱいだね」なんて笑って。温かくて居心地の良い彼の傍にいつまでもいられたらいいのに、と望んではいけない願いが浮かぶ。
今ならまだ引き返せる。何も告げずにいれば、幸せな時間は長引く。
(でも、その後は?)
もう、私は決めたのだ。
今更迷うなんて、きっとしてはいけない。
だから。
「じゃあ、何か作ってくるね」
そっと心を押し殺して、台所へ向かった。
昼食を終えた後、二人でベッドに並んで座りながら、他愛もない話をした。付けたままのテレビからは、出演者達の明るい声が聞こえてくる。
「それでね、そいつ酔ってるのに運転するとか言い張ってさ……。こう、みんなで止めに入って」
「ふふ、凄いね」
私が分かりやすいようにと、身振り手振りを交えながら話してくれる彼に笑って返す。
――まだ、切り出せない。
本当は、もう、言わなければいけない。そう分かっているのに、楽しそうに話してくれる彼を見て、心が揺らいでしまう。彼との時間を失いたくないと、浅ましくも願ってしまう。
(言わなきゃ……)
ゆっくりと唇を動かす。
「あのね、話したい事が、あるの……」
途切れがちに切り出すと、彼はぴたりと動きを止めて私の方を見た。濃い茶の瞳に不安の色が見え隠れする。この人を悲しませたくないと思うのに、それでも私は彼に告げなければいけない。
「千代?」
立ち上がってベッドから離れ、彼の斜め前にそっと座る。手を伸ばしてテレビを消せば、部屋には静寂が満ちた。
一つ、息を吐く。
不安げな様子でいる彼の視線が、痛いほどに突き刺さる。もう少しだけこのままで、と。そう思う自分の声に耳を塞いだ。
そうして、彼を見れないまま、私は口を開く。
「私達、もう、別れよう」
口にした言葉は、思っていたよりもはっきりと部屋に響いた。彼は驚いて目を丸くしたけれど、すぐに安心したように微笑んだ。
「また、いつも冗談だよね? これも久しぶり、かな?」
いつかの時と同じように彼が笑う。太陽のような温かさをくれる彼のその笑みは、私が一番好きな顔だった。
――ああ、お願いだからそんな風に笑わないで。
「ごめんなさい。もうね、笑えないの。嘘だよって。私、笑えないの」
例え、今まで過ごした時間がどれだけ幸せだったのだとしても、この先に待つのが、彼にとって幸福ではないのなら。
目の奥がじんわりと熱くなる。
「千代?」
涙が溢れそうになるのを堪えて、震える自分を叱咤して、私は彼にもう一度告げる。
「別れよう?」
今日までずっと悩んできたけれど、私はもう、決めたのだから。
もう、後ろは向かない。
これで、本当にさようなら。
「なん、で……? どうして急に、そんな……」
「急じゃ、ないの。ずっと、考えてたの。ごめんなさい。私達は、もう、一緒にいられない……」
誰よりも優しいこの人は、私なんかと一緒にいるべきじゃない。他の誰かと一緒に、もっと幸せになれる人と一緒にいるべきなのだ。
「ごめん、な、さいっ……」
優しい優しい彼に、私はただ、謝ることしかできない。
あの日、初めて遭ったあの日も、私はこんな風に泣いていた気がする。あの時はまだ見知らぬ他人だったのに、彼は私が泣き止むまで傍に居てくれた。
いつだってそう。
彼はいつも、ちゃんと私の事を見ていてくれた。傍に居て支えてくれた。それなのに、私は。
(何が怖かったの……)
彼が優しい事は知っていたのに、どうして信じられなかったんだろう。
もう前には進めない。もっと早く、彼を解放してあげるべきだった。こんなに悩んだりなんてしないで。
情けないと、そう思う。
あんなに沢山愛情をくれた彼に、何も返せないまま、突き放すことしかできないなんて。けれども今の私には、これ以外の選択肢が残されていなかった。
嗚咽混じりの声が、部屋に響く。
手を伸ばそうとする彼に、私は必死に首を振った。伸ばされた手に触れて、放したくなくなってしまう事が怖い。
「…………不安になる事なんか、何もなかったのに」
寂しそうな彼の声が、私の耳に届く。ふわりと大きな手が髪に触れる。
それでも私が何も言えずにいると、彼は静かに立ち上がって、一人で部屋を出て行った。バタン、と玄関の扉が大きく音を立てて閉まる。
暫くしてから、窓の向こう側でも、車のドアが閉まる音がした。
(今、追わなくていいの?)
そんな声が心の奥でする。囁くような、小さな声が。
(彼が行ってしまう……)
そう考えた途端、とっさに立ち上がりそうになった。
――けれど、今更呼び止めて、何を言えば良いと言うのだろう。
上げかけた腰を下ろして、少しだけ窓の方に寄った。見慣れた彼の車が遠ざかっていくのが、透明なガラスを通して目に映る。手を伸ばして、触れるのは冷え切った冷たい壁だけだ。
この手が彼に届く事は、もうこの先一生ない。
何があっても。そう言った彼の言葉を今更になって思い出した。
『何があっても、俺は千代が好きだよ』
あの時の彼は、何を思ってあの言葉を口にしたのだろう。もう分からない。確かめる事もできない。
(――私は、どうすれば良かったの……?)
彼の手を離さずにいたら、今も幸せだったのだろうか。
残り少ない、私の一生は。
何が正しいかなんて私には分からない。それにきっと、本当の正しさなんて誰にも分からない。
私はぎゅっと自分の体を抱き締めた。そうでもしないと、押し寄せてくる後悔に押し潰されそうだった。
居心地の良かった彼の腕の中も、彼の優しさも。思い出せば、きっと、その全てが愛しくなる。
でも、私は決めたのだ。
もう決して後ろは向かない。
彼の優しさにも縋らない。
小さくなっていく青い車を見つめて、最後にもう一度だけ、決別の言葉を口にした。
――さようなら……。
【了】
藤田麻衣子さんの「さよなら」という歌を聞く度に湧き上がってきたイメージを小説として吐き出させていただきました。
読んで頂けたのならば光栄に存じます。尚且つ楽しんでいただけたのであれば幸いです。
それでは、ここまで読んでくださった方にダリアの花を添えて。