3.お前は俺の
五秒ほどの沈黙の後、私は眉間を指で押さえた。
「……あー、えーと、ごめんちょっと意味わからない」
王子? この茶髪ペルシャが? そういやナシロがちょくちょく殿下とか呼んでたようなそうでないような。
「殿下、異界の天秤には言葉が難しすぎたんじゃありませんかね」
「ああそうか。おい、いいか天秤」
イシューが謎の身振り手振りをしながら話しかけてきた。
「俺、イシュー王子。エライ。ナシロ、家来、エラクナイ。俺の国、南。あっち。俺、お前連れてかえ」
「いや言語は分かるのでいいです」
なんだあのジェスチャー。エライのところで右手を上げて一回転する必要がどこにあったのだろう。
「なんだ、言葉は通じているんじゃないか。だったら何がどう理解できないんだ」
イシューが呆れたように尋ねた。王子かなんか知らないが本当に腹の立つ奴だ!
「正直何もかも全て意味が分かりません。ここは異世界なの? どっかの国の王子がなんでこんなところにいるの? それに天秤って何? 私のことなの?」
「は? お前まさか自分がなんでここにいるかも分からないのか?」
「分かるわけないでしょうが!だいたい、いきなり……」
その時。
ずっとかんかん照りだった陽射しがさっと翳った。
辺りは急に薄暗くなり、暑かったはずの砂漠は肌寒いほどの気温に変わる。
空を見上げると黒く分厚い雲が太陽を覆い隠している。不穏な空気が漂いはじめた。
「な、何、これ……」
あまりの変わりように驚いていると、イシューが舌打ちした。
「運が悪いな……もたもたし過ぎた。行くぞ。すぐに雹が降る」
「ひょ、ひょう!?」
さっきまで長袖じゃいられないほど暑かった砂漠にどうしてそんなものが。
しかしこの気温の下がりようからすると、あながち嘘でもなさそうだ。イシューは有無を言わさない勢いで私を引きずり起こした。
「砂漠の雹は小石ほどだ。当たれば怪我じゃ済まないぞ。とにかく走れ」
「でも私、荷物が」
体操服やら筆箱が散らばっている辺りを見やると、既にナシロが鞄のジッパーを閉めるところだった。
「僭越ながら全てこちらに詰めさせていただきました。行きましょう」
「そういうことだ、走れ!」
イシューが私の腕を掴んで走り出す。わけが分からないまま、私はイシューに従った。
しばらく走ると砂漠の中にこんもりと木が茂っている場所が見えた。
いわゆるオアシスというものらしい。
そこでようやく、走る速度が弱まった。二、三分とはいえ砂の上で全力疾走するのは十分に辛い。
普段あまり運動をしない私はもう限界で、半分イシューに引きずられているような状態だった。
「がっ、んばれっ!あそこまで行けば、安心だからっ」
引っ張っているほうもきついのだろう、イシューが息も絶え絶えに言う。ナシロは口を利く余裕もなさそうだ。
今日は鞄に辞書とか便覧とか沢山入れてたからな……。
ああ、それにしても何で私は初対面のペルシャ絨毯男たちと砂漠を全力疾走する羽目になったんだろう。
何か悪いことしたっけ!?
半泣きの私の隣でドフッ、という鈍い音がした。
踏み出した足から十センチほど右のところに、小さいけれど深い穴が開いている。
なんだ?
後ろのほうからも、続けてドフッ、ドフッという音。
固まる私にイシューが叫んだ。
「くっそ!降り出してきやがった!!」
ってことはこれが雹!?
な、なんちゅうとんでもないものが降ってくるんだ!
あの大きさ、威力、当たったら確かに冗談じゃ済まない。
肺も足も痛くてしょうがなかったが、走らなければ。
とにかく必死で足を前に出す。出す。
一歩一歩が砂に埋まってなかなか進まないけれど、気付けばオアシスはもう目の前だった。
ヤシの木のような幹の太い木が並んで茂っている。
あと少し。
あと少し!
ぜえぜえ言いながら木の下へ滑り込む。イシューに手を引かれて、幹にぴったりと沿うように背を預ける。
ナシロも間に合ったらしい。
そのままずるずる、と座り込んだ途端、激しい音と共に砂漠が白い何かで覆われた。
ドドドドドッ!!
まるで爆発音のようだ。想像の範疇を超えた光景に私は目を見開く。
砂漠全体を真っ白く覆うそれは、雹だった。
あまりにも沢山、あまりにも勢いよく降る、子どもの拳ほどもある大きな雹の嵐。
呆然とする私に、はあはあと息を乱しながらナシロが言った。
「大地を分かつ、砂漠の、天秤に、光あれ。間に合ったのは、きっと、あなたのおかげですね」
「何が、光あれ、だ。いっしょに、死にかけて、おいて」
同じくぜえぜえ言いながらイシューが仰向けに寝転んだ。
首をこちらに傾けて上目遣いに私を見る。
「おい、お前、さっきの、質問に、答えてやる」
「い、いいよ、落ち着いて、からで」
「いいから、聞け。そろそろ、大丈夫だから」
イシューは目を閉じて大きく深呼吸した。
「――よし。まず、ここは恐らく、お前が元いた、場所からすると、異世界だ。俺はさっき言ったとおり、ナディールの王子。天秤というのはお前を指して、呼んだ。砂漠の天秤、お前を見つけるため、俺はここまで来たんだ」
……やっぱり意味が分からない。今までで一番丁寧に説明してくれているのは分かるのだけど。
天秤、って、一体なんのことだ?
そういえばさっき掘り当てたやじろべえのこと、イシューが天秤って呼んでなかったっけ。
この細工物、なんとなく握ったまま持ってきてしまった。
片手から少しはみ出す程度の“天秤”を見つめていると、ナシロが労わるように言った。
「理解できずとも仕方ありません、こちらにいらしたばかりでまだ混乱していらっしゃるのでしょう。その上このように急に走らされたのでは。雹が止んだら急いでルーパの街まで戻りましょう。そこでまずはゆっくりと休んでください」
ありがとう、それにしてもナシロの回復早いな!イシューはまだ少し苦しそうにしている。
目の前の砂漠では、止む気配もなく雹がドカドカ降っている。
やっぱりここは完全な異世界なのだ。
だってこんなとんでもない雹も、それに耐えられるような木も私の世界には絶対、存在しなかったはずだ。
一体どうすりゃいいんだ。とにかくこの状況では大人しく彼らについていくしかなさそうだ。くそう。
果たしてこの雹が本当に止むのか疑問だったが、現地人が止むと言っている以上そのうち止むのだろう。
体がクタクタだ。ルーパ(ついに異世界の地名まで覚えてしまった)とやらに行くまでどれくらいかかるかは知らないが、今は全力で休むことにしよう。私もイシューの真似をしてずるずると仰向けに横たわる。
ごろん、と右に寝返りを打つとこちらを見ているイシューと視線が合った。
ん? 何も考えずに寝転んだけど、随分距離が近い。
しかも何だか奴の視線が熱っぽいような、そうでないような……?
思わず身じろぎをした私の頬にイシューが右手を伸ばしてきた。
なんだこれ。
離れたいのに、体が疲れきっていて思うように動かない。息も乱れて声が出ない。
上体を寄せてきたイシューの、吐息がかかるほど顔が近い。
なんだこれ、ほんとなんだこれ!
頭がぐるんぐるんする。
これってもしかして乙女の危機ってやつじゃないんですかね!? そうですよね!? なんでぼけっと見てるんだナシロオオオォ!!
長い指がほっぺたに触れる。
ああもうだめだ、ほんともうだめだこれ。
目の前がぐにゃぐにゃと歪む。
イシューの茶色い髪と金色の目が幾つにも増殖して見える。
すっと通った鼻筋、長いまつげ、形のいい唇。おおイシュー、あなたはよく見るとイケメンだったのですね――でもやめてくれ。
そして囁くようにイシューは言った。
「ずっとお前を待ってた。砂漠の天秤。――俺の」
俺の、に続く一言が聞こえた瞬間。
混乱がピークに達した私は、気絶するように眠ってしまったのだった。