19.王都目前
「さあ、できたよ」
ルーパを出発して丁度十日目、私たちはそこそこ大きな町に立ち寄っていた。王都はもう目前で、イシューの語った布の流通路もいよいよ終わりに近づいている。
その証拠に、初めの村で分けてもらった小さな繭が、いま私の目の前でコバルトブルーの布へと織りあげられたところだ。
この町で一番の織物上手だというおばちゃんからそれを受け取って、私は思わず、わあ、と感嘆の声をあげた。
細いリボン状の布は目映いほどに鮮やかで、太陽の光を浴びて艶やかに光っている。繭から紡いでもらった糸はとても細く、そのためか出来上がった布は氷の表面のように滑らかだった。
「さすが、見事だな」
イシューが横から私の手元をのぞき込んで言った。
「織り甲斐があるいい糸でしたよ。それにイシュー様のお頼みじゃあ手を抜くわけにいきませんからね」
機織りの前に座ったおばちゃんが愛想良くほほえむ。
「お嬢ちゃん、お城に上がったら殿下によくお仕えしておくれね。あたしらのぶんまでね。すごいお方なんだから、イシュー様は」
イシューがちらりと視線を投げてくる。私はなんと答えてよいやら困ってしまって、曖昧にうなずいた。
ごめんなさいおばちゃん、その設定嘘だから……。
繭が布に変わる行程はまるで魔法のようだった。まず、もらった楕円の玉繭は私の世界の蚕と同じものだと思っていたのだけど、どうやらかなり違うものらしかった。虫が作ったものだというところは、同じ。だが、これは蛹ではなくて卵なのだという。道中パラウマの上でナシロに色々訊ねているうちに発覚した。
「えっ、じゃあこれ、今から孵化するの?」
トゥーラ大河の川沿いはしっかりとした大地で、砂漠の面影はどこか遠くに行ってしまっていた。少し湿った土、木々の木漏れ日の間を、カポカポとマイペースにパラウマは進む。
「そうですよ。といっても、日の当たらない木の虚なんかの中に一週間は置いておかないと孵化しませんが」
「へええ。繭の部分は卵の殻ってこと?」
「卵は繭の芯に入ってる。すごい小さいから、出てくる虫も小さいぞ。その繭からはもう何も出てこないと思うが」
「すごく繊細な虫なんですよ。こうやって長距離を移動して振動を与え続けると死んでしまうんです。だから糸を紡ぐのはよその村まで運んでからが一般的です」
私は素直に感心した。
さすが異世界、なんか私、カルチャーショックも通り越してきたよ。
ちなみにイシューが私の世界の蚕について訊ねてきたのでテレビとかで見た知識を総動員して答えてあげたら、ナシロもイシューもその夜は食欲が減退していた。
中に芋虫入ってる事実が気持ち悪かったという。肝の小さい奴らだ。
ともかくその日の夜のうちに私の繭は細い糸玉になり、次の村で織物や刺繍に使える太さに紡がれ、その次の村で染められ……といった具合に布へ近付いていった。
そしてとうとう、この村でリボン状の布へ織りあげられたというわけだ。
ナシロの言ったとおり、この繭は中までぎゅっと詰まっていて、一つの玉からたくさんの糸がとれた。効率的でいいと思う。
ただ、織物はやっぱりペルシャ絨毯みたいな厚みのある布になるらしく、最初にもらった繭玉からはこの布と、それに刺繍するための金糸ぶんの糸だけができたのだった。
ここしばらくは最初の数日に比べると、嘘のように穏やかな旅路となった。イシューの甘酸っぱい空気やナシロのドキリとする仕草も格段に減って、立ち寄る村でからかわれる回数も減ったからだった。
作戦会議で決めた設定は効を奏している。加えてその設定が嘘だとばれないように、イシューとナシロの私への接し方もかなり慎重になった。これは私にとってありがたいことだった。
だって、謎のイケメン攻撃でそわそわしなくていいんだよ。どれほど心臓に優しいことか。
まあたまにパラウマに乗っているときナシロから「天秤を抱いていると温かいですね」だの、休憩中のイシューから回し飲みで渡された水を飲んでいるときに緊張した空気を感じたりだのということはあったが、なんてことない。
私も少しは耐性がついてきたんだよ。よかった、私。偉いぞ、私。
慣れてしまうとイシューやナシロとの道中は楽しいぐらいだった。
パラウマに乗って離れている限り、イシューは気安くて喋りやすかったし、ナシロはお母さんらしい細やかさで快適な旅を提供してくれた。
急に異世界トリップなんぞしてしまって不安も結構あったけど、二人と一緒にいるといつの間にか笑っていることが多くて、マイナスな感情を忘れられる。
ずっとこのままでいたいような気もしていたけれど、王都はもう目の前だ。
イシューと揃って機織りのおばちゃんの家から出ると、ちょうどナシロがパラウマの世話を終えてこちらへ歩いてくるところだった。
ナシロの歩みに併せて柿渋色のペルシャ絨毯がひらひらと翻る。ナシロは淡い色合いも似合うけど、こういう深みのある色を纏うとぐっと大人の男らしさが増す。
「イシュー様、いかがでしたか」
「おう、見事なもんだ。やっぱりあのおばちゃんはタダモノじゃないな」
上機嫌に軽口をたたくイシューは初めの日に見た赤いペルシャ絨毯を身につけている。王子だけあって、ファッションショーのように毎日衣装替えをしていたイシューだが、こいつにはこれが一番しっくりくると思う。ちょっと脳天気そうに見えるところとか。
私はお気に入りの深緑の服を着ている。ちなみにイシューからもらった紫の布には、最初の日以来手を触れていない。なんか危険な気がして。
などとちょっと失礼なことを考えていると、ナシロが柔らかな語り口で思考を遮った。
「ナツキ様、今日はまだ日が落ちるまで余裕がありますし、少し大きな町ですから、イシュー様もご一緒に観光しませんか?」
「する!」
私は一も二もなく頷いた。なにしろ明日の夕方には王都に入ることになる。
イシューたちの話によると、王都に着いたら私は神殿の人に預けられるらしい。天秤とやらについて、あとワンワンについて説明してもらわねばならない。
ただ王都ではイシューたちとは別れることになり、おそらく神殿での諸々を終えるまでは多少窮屈な生活をする羽目になるだろうとのことだった。
だったら王都に着くまで、少しでも自由に過ごしたい。
もちろん放蕩王子イシューも観光に乗り気のはず、と思って様子を伺うと、イシューは困ったように後ろ頭を掻いた。
「いや、悪いけど俺はやめとく。ナシロとナツキで見てきてくれ」
「行かないの?」
「ああ」
「本当によろしいのですか?」
ナシロも驚いた顔でイシューを見ている。そうだよね、イシューが遊びの誘いを断るなんて、ありえないよね。何ならナシロの目を掻いくぐってその辺をフラフラしてたぐらいだ。
「宿で少しやることがあってさ。なあナツキ、さっき織ってもらった布と金糸、しばらく預けてくれないか?」
「それはいいけど」
首から下げた袋ごと布と糸を差し出すと、イシューは嬉しそうに受け取った。
「土産に期待してるぞ」
「私お財布持ってませーん。イシューのお金で買ってくるね」
「うっ……仕方ないけど、それは土産っていえるのか?」
複雑な表情を浮かべ、イシューは私たちに背を向けた。
「じゃ、夕飯のときにな」
木漏れ日の下を軽やかに駆け去っていく。
……そういえばナシロと長時間二人きりになるのはあの勘違い集落以来だったっけ。
「それでは二人で行きましょうか、ナツキ様」
お嫌でなければ、と続いたけれど、私が嫌がるなんて微塵も考えちゃいないのだろう、ナシロはいつも通りに微笑んでいた。
まず一つ訂正しておきたい。耐性がついたというのは私の勘違いでした。少なくともナシロに関しては。
「手が汚れますから、私が食べさせて差し上げますよ」
「いいよ、そういうサービス求めてないよ!! 自分で食べれるからっ! 人に見られたらまた勘違いされるでしょ!?」
「大丈夫です、見られても誰かわからない程度には人口の多い町ですから。それよりナツキ様のお手が汚れる方がよほど問題です」
「そんな汚れに弱い手じゃないよ!!」
問題の発端となったタレつきの串焼き餅は目の前に迫っている。私は半分涙目で、顔を真っ赤にして体を反らした。市のはずれの倒木に腰掛けているせいでうまく避けられない。人通りも殆どないので見つかる心配はないけど、むしろ通って誰か、そして私を助けて。
ナシロは私が嫌がれば嫌がるほど面白いようで、タレでべったべたに汚れた串を私の代わりに持って食べさせようとしてくる。
「観光ついでに食べ歩きがしたいとおっしゃったのはナツキ様でしょう? 遠慮なさらずどうぞ」
「そうだけど!! 食べ歩きってのは自分で食べるからこその醍醐味むがっ」
口を開いたところに無理矢理餅を押し込まれた。
な、何という力技。
ナシロは串を持っていない方の手で私の顎をそっと上向かせた。
「美味しいでしょう」
にっこりときれいに笑うその顔は一見無邪気で悪気のかけらもなさそうにみえるけど、鬼だ。この人の本性は根っからのサディストだよ!
口に入れられたものは仕方がないので、涙目のままむぐむぐと咀嚼すると、ナシロは満足そうに私から離れた。
「ナツキ様がお食事をされる姿は本当にお可愛らしいですね。ついつい手ずから召し上がっていただきたくなります」
へ、変態かこいつ。
もしかしてこの前の果物食べさせ事件のせいで妙な趣味に目覚めたとか?
「殿下もお小さい頃はこうして私の手から召し上がっていたものでした。それが、失礼な表現ですが、まるで小鳥の世話をしているようで楽しくて愛らしくて」
「……」
私は複雑な気持ちで餅を嚥下した。ああ、うん、要は餌やりなわけね、これって。やっぱりナシロはお母さん枠だ。
「そういえば、イシューは何で来なかったのかな」
ちょっと遠くまで飛んでいきそうになった思考を呼び戻すため、私は馬鹿王子の話題を口にした。
「気になりますか?」
ナシロが意地悪く笑う。
ああもう、意地悪だよ! 優しいお母さんのナシロはどこに行ったんだよ、二人きりになったとたんこんなのって詐欺すぎる。
それもこれもイシューがついてこなかったせいだ。何が宿で用事だ、あのバカ!
明日には王都に着いてしまうし、そうなったらこんな風に一緒に町を歩き回ることもできなくなるのに、なんでついてきてくれなかったの。
イシューに対する様々な憤りでむくれていると、ナシロがそっと私の顔をのぞき込んだ。
「ナツキ様はいつの間にか殿下と随分仲良くなったんですね」
「なってない」
ナシロもバカだ。こんな時だけ普段通り優しい口調に戻って、これじゃ強く言い返せないじゃないか。
「王都に着いたら寂しくなりますね」
まるで私の頭の中を見透かしたように、ナシロがしみじみと言った。
寂しい。
たぶん、そうなんだろう。でも絶対に言いたくない。
私を振り回してばっかりの二人にいつの間にかこんなに馴染んでいたなんて、口では認めたくない。
緑色のペルシャ絨毯の裾を撫でる。その手の上にナシロの片手が重ねられた。
「短い間でしたが、ナツキ様のお陰で楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます」
「……そんな、お別れみたいなこと言わないでよ」
「ええ、もちろん。王都でも落ち着けばいくらでもお会いできますよ」
大丈夫です、とナシロの手のひらに力がこもる。その手は私の手よりもずっと大きくて、少しひんやりとして心地よかった。
……だけど明日からは彼の安心感からも離れて過ごすことになるのだ。
「泣かないでください」
「な、泣いてないよ!」
慌てて顔を上げるとナシロは満面の笑みを浮かべていた。
「それならよかった。じゃ、もう一つ串に刺さってますから召し上がってくださいね。はい、口を開けて」
「い、いや! いいから自分で食べるから!!」
ちょっとでも感傷的な気分になった私もバカだった。
こうして私は最初のやりとりをもう一度繰り返す羽目に陥るのだった。