13.朝市問答
次の朝目を覚ましたとき、私はお日さまの匂いのする敷物の上に丸まっていた。一瞬、ここがどこだか分からずにぼんやりする。
(えっと……なんだここ……こんなの部屋にあったっけ、旅行? なんかやたら異国っぽ……)
そこまで考えて、ようやく昨日の出来事を思い出す。ああそうだ、なんか、異世界に来たんだった……目が覚めると現実に戻っていた、とか、そういう都合のいいことはどうやら起きなかったようである。
しかしせっかく部屋を用意してもらったのに、なんで奥の寝台じゃなくて、入り口の敷物に寝転がっているんだろう。その疑問の答えも私はすぐに思い出した。
イシューのせいである。
昨日、イシューがわけのわからないことを言ったせいで、寝台まで歩く気力も湧かず、ドアにもたれたままうんうん唸っていたのだ。どうやらそのまま寝てしまったらしい。
一晩中寝付けないかも、と思っていた割に体は正直だ。昨日の騒動で思ったよりくたびれていたのだろう。一晩中木の床の上で寝ていたせいで体のあちこちが痛むが、頭は不思議とすっきりしていた。昨日の悩みに答えが出ていないのは変わらないが。
(しかし、どうしたもんか……)
動くのも億劫だったので、敷物の上に転がったまま昨日の続きを考える。
確かイシューが「おれのものになってほ」と言ったのだったか。えーと、ほ、というのは何なのだろう、新手の語尾か? いや、ここまでは昨日考えたんだった。そう、で問題は「オレのものになって」の部分だったと。
……だめだ、やっぱり何も考え付かない。
私は考えるのを諦め、とりあえず着替えることにした。昨日買った服はナシロが部屋に運び入れてくれている。まずは支度を整えて顔でも洗いに行こう。無理に考えない方が、いい考えが浮かぶかもしれない。
深呼吸をして扉を開くと、丁度隣の部屋から出てきたナシロと鉢合わせた。
「おはようございます。お早いお目覚めですね」
「お、おはよ」
にっこり笑うナシロは朝からしっかりと身支度を整えている。辺りの明るさを見るに、まだかなり早い時間だろうに、その顔からは眠たそうな様子が一切見られなかった。黒く艶光りする髪の毛に、淡い灰色に金の刺繍が施されたペルシャ絨毯がよく似合っている。
それにしても、イシューじゃなくて良かった。心の底からほっとしていると、ナシロがにこやかに話しかけてきた。
「昨日はよくお休みになれましたか? 異界の地でのこと、環境の変化もあるでしょうし、なかなか落ち着かない点もあったかと思いますが」
「ああ、うん、寝るには寝れたよ」
「それは何より。寝台は硬くありませんでしたか?」
「あー、えっと、よく分かんない、かな。私昨日、床で寝ちゃったから」
ハハ、と笑って誤魔化すと、ナシロは目を丸くした。
「天秤のいらしたところではそういう風習が?」
「いやそれは違う」
すかさず否定しておく。なんだか、ナシロがイシューの部下になっている理由、分かる気がしてきた。この二人、ボケたところが非常によく似ている。
ナシロはしばし沈黙して何かを考えている様子だったが、やがてにっこりと笑うと、ある提案をしてきた。
「私、今から旅の支度を整えに市場へ出ようかと思うのですが、もしお疲れでなければ天秤もご一緒にいかがですか? 遊山ついでに朝食でも頂きましょう。イシュー様はもうしばらくお休みでしょうから」
そういうわけで、私はナシロと一緒にパラウマを牽きながら市場へ向かっていた。この世界の朝市に興味もあったし、何より気まずいイシューと二人宿に残りたくなかったのだ。
砂漠の街の朝、空気は思いのほかすっきりと冴えていて、気温も涼しい。路地には人影もまばらで、パラウマを連れていても歩きやすかった。朝日を浴びて建物の白壁が眩しい。正に明るく爽やかな一日の始まり、といった雰囲気だ。
宿から少し離れたあたりで、ナシロが切り出した。
「昨日、私が知らないところで殿下と何があったのか、よろしければ教えていただけますか?」
思いがけない言葉に、私はびくっと震えた。恐る恐るナシロを伺うと、やはり優しい表情を浮かべていたものの、瞳は何かを見透かすように、けれどどこか面白そうにこちらを見据えている。
……どうやら、彼にはばれていたらしい。仕方なく、私はぽつぽつと昨日の夕食前の出来事を話した。
「オレのものになってほ、ですか」
イシューの言葉を繰り返し、ナシロは少し眉をひそめた。なんだろう、そりゃあムリです逆らえません、とか言うのだろうか。一応この人、イシューの部下だし。しかしナシロは私の予想に反して首を横に振った。
「それは、ダメですねえ。もちろんイシューさまがダメですねえ」
「……やっぱり!? そうだよね、おかしいよね!」
「おかしいかと言われるとおかしくはないんですけど、でもイシューさまが悪いです」
「だよね!」
きっぱりと言い切る。ナシロのほうが常識を弁えていそうだとは思っていたが、まさかここまで肯定してくれるとは。私は嬉しさと安心感で思わずナシロの手を握った。さすがお母さん、公明正大です!
ナシロは私の手を自分の絨毯の端に誘導すると、昨日人ごみの中でそうしたように、服を掴ませた。うーん、今となってはこういう行動の一つ一つからも紳士的な精神の細やかさを感じる。これは思わぬ命綱かもしれない。私は「しがみついてでも絶対に助かってやるぞ」という思いをこめてナシロの絨毯を強く握った。
気が付けば、昨日露店の並んでいた広い路地に差し掛かっており、辺りを行きかう人と荷物を積んだパラウマの数も増え始めていた。
ナシロはゆったりとした歩みを続けながら、苦笑いをしてみせる。
「わざとではないとはいえ、天秤のお気持ちを煩わせてしまったようで。申し訳ありません。――その、天秤はイシューさまのことをどのように思われますか? ああいえ、そういう意味合いではなく」
私が不満顔になったのに気付き、ナシロが柔らかく訂正をはさむ。そういう意味合いではないっていうなら、ええと。イシューがどういう人物か、印象を答えればいいのか。といっても昨日会ったばっかりだし、いろいろ、混乱してばっかりだったし。少し、ゆっくりと考えをまとめてみる。
まず、イシューとは昨日が初対面である。自己申告によるとヤツはこの国のイケメン王子だそうだ。初めて話した言葉は「ヌャー。チョベリピッチョン」。意味の分からない男だ。やたらソワソワしていて落ち着きの無い男でもある。
「うーんと、なんか、落ち着きが無いというか、支離滅裂というか……悪い奴じゃなさそうかな、とは思うんだけど」
「ああ、よかった。ではイシューさまのお人柄の良さは分かっていただけているのですね。さすがは天秤、人を見る目がおありです」
「ああ、うん……」
なんかこの人褒め殺しで私のこと誤魔化そうとしてないか? 最終的に「いい主人だからあきらめてイシューさまのものになってほ」とか言わないだろうな……。
「イシュー様は緊張していらっしゃるのですよ、天秤、あなたにお会いできたものだから」
私の警戒をよそに、ナシロはゆっくりと話し始めた。
「少し、私の話を聞いていただいても? 天秤の疑問を解決するのに、少しはお役に立つかと思います」
ナシロの話によると、二人が王都を出発したのはもう半年近く前のことらしい。ルーパに到着したのはそのたった二週間後のことだった。
「じゃあ、それから昨日まで、ずっと砂漠に通ってたってこと?」
「毎日ではありません、予言に当てはまる候補日は幾つかありましたし、それにこちらでイシューさまが果たさねばならない務めもありましたから」
商人から穀物の袋を受け取り、パラウマに積む。そうして少しずつ荷物を増やしながら、私はナシロの話を聞いた。
「本当なら、他のものが天秤をお迎えに上がる予定でした。一国の王子が危険と苦労を偲んで旅をするなど、普通は有り得ませんからね。ですが、今回のことはイシューさまの強い希望があってのことなのです」
イシューは子どもの頃から「砂漠の天秤」に憧れていた節があったのだと言う。それで周囲の反対を押し切って、他のもろもろの用事も請け負って、ナシロだけ連れてルーパにやってきた。近辺の町をいくつか移動することはあったが、ここ半年お城に戻っていないらしい。そういえば、そういうことをやらかしそうな男ではある。
なかなかの執念を感じる……。
「ですが、天秤のことを下衆な目で見ているということは、断じて有り得ません」
ナシロは、この時だけは私の目を見てハッキリと言った。
「あっ、はい」
……なんだろう。それでいいはずなのにこうも言い切られると微妙な気持ちだ。恋愛対象として戦力外通告されたような気さえする。
「イシューさまのそれは、純粋な憧れなのです。天秤のいらっしゃった世界には、ありませんでしたか? 誰もがその伝説を知り、会ってみたいと憧れる。そんな存在は」
言われてみて、そんなもんいたか?と悩む。
考えに考えた末、一つのひらめきにたどり着き、私はポンと膝を打った。
サンタさんだ。
そう考えるとイシューの様々な行動に合点がいく。あのソワソワした感じ。「会ってみたかった」などの言葉。そうだそうだ、私もマジモンのサンタさんとなら会ってみたいし友達になりたいし、多分ソワソワする。
けどあの年でそれを全く隠さないってのもどうよ……。しかも「オレのものになって」とかサンタさん独り占めしようとするのは、どうよ。ダメだろうそれは、大人として。
悪い人間じゃないのは確かだろうが、イシューという人間の新たな問題点に目が行き、わたしはふと遠い目をした。どうやらそれはナシロにも伝わったらしい。
「ま、まあ、確かに、イシュー様は少々幼いというか、素直すぎるという点で問題点もおありですけど……ですから天秤にも妙なことをおっしゃったりしますけど……」
と言葉を濁している。
「そ、その分、気安く話せる心の広さも持ち合わせていらっしゃいますから。ですから天秤も、イシューさまには『いやだほ』とでも言って差し上げればよろしい」
「いやだほ?」
「だってイシューさまが「なってほ」って仰ったんでしょう?」
ナシロはウインクしてみせた。それが彼の冗談だと気付いて、私は笑った。
「あはは、確かに」
「でしょう?」
悩んだ一晩に比べればあっという間の問答だったが、それを終えた私の心は格段に晴れやかだった。笑いながら確信する。
やっぱり、お母さんは偉大だ。