後編
「ラージ兄様」
朝早くに山菜を摘みに出た森の中、捨てた妻に会った。
十年。随分長い間見つかることがなかったとはいえ、それは絶対ではない。いつかは見つかるだろうと思っていたから然程驚きはしない。
フィリアと暮らす家ではなく、ヴィンラージが一人になる時を狙って現われたのは気遣いなのか。それとも恐れからだろうか。
そんなことを思いながら、妻の顔ではなく、女の顔で昔の呼び名を口にしたマリィアに、ヴィンラージは顔色一つ変えずにああ、と言う。
「久しいな、マリィ」
「兄様!他に言うことはないの!?」
「他に?何を?」
「兄様!!」
悲鳴のような叫び。それに心は動かない。
大切な従妹だった。厭ったことはない。けれどヴィンラージは決めた。フィリアが姿を消した時、硬く硬く心に決めたのだ。
「お前との結婚、後継ぎ。義務は果たした」
「義、務?」
「そう、義務だ」
マリィアが目を見開いた。
彼女は何をしにきたのだろう。ヴィンラージを連れ戻しにきたのだろうか。それとも真実を知りたくてきたのだろうか。
真実。彼女にとっては優しいものなど何一つない真実。
「お前は私でないと嫌だと言った。お前の両親はその願いを叶えようと働きかけた。私の両親は受諾した。私の反論は封じられた」
もう決めたのだと。
フィリアとマリィア以外の女性を寄せ付けない息子に、良縁だと両親は言った。マリィアのことは従妹としてしか見られないのだと言えば、夫婦になれば意識も変わるものだと言われた。フィリアを愛しているのだと言えば、もう決まったことだから諦めなさいと言われた。
知っていた。両親は姪を愛していたけれど、マリィアの方をより気に入っていた。それはフィリアにはない無邪気さや明るさにあったのだろう。フィリアはマリィアと違って大人しかった。一歩後ろに下がって微笑むような女性だった。
「フィリアは言った。お前を幸せにしてくれと。私は答えた。不幸にはしないと」
「今の私が幸せなの!?」
「不幸ではないだろう」
「兄様がいないのに!?」
「子供達がいる。城でお前は慕われているし、両親にも可愛がられている。何不自由なく暮らしているだろう?そして未来の国母だ」
不幸ではないだろう。
これは不幸とは呼ばないだろう。
望まぬものを押しつけられているわけではないのだ。
けれどマリィアはくしゃりと顔を歪めた。
「帰って、きて。兄様、帰ってきて!子供達も待ってるわ!」
「私は死んだ身だ」
「生きてるわ」
「死んだ」
戦争だった。勝利して、誰もが歓喜に湧き、ようやくの終わりに安堵した隙に行方を断った。
戦場で誰がいつ死んだのか、どういう死に方をしたのか、それを覚えているものなどそういない。誰もが必死だった。生き延びることに必死で。そして疲れていた。
だから気づかれなかった。
戦場を駆ける姿を視界に映した覚えがあるものはいた。敵を屠る姿を見たものもいた。ただ、勝利の鬨が上がった時、その姿を見たものが誰一人としていなかった。
ようやく終わった戦争。姿が見えない王太子。探しても見つからないその姿。ヴィンラージが生きているのか、死んでいるのか、誰にも分からなかった。
それから十年だ。国は一向に見つからない王太子の死を発表した。だからヴィンラージという王太子はもうこの世にはいない。
マリィアの目から涙が溢れる。
ドレスを握る手が震えている。
「…っ、なに、そんなに、リアが好きなの?」
ああ、知っていたのか、と思う。
知っているような気がしていた。フィリアが姿を消した時、心配する傍ら、安堵したように息をもらしたから、知っているのではないかと思っていた。
「愛している。全てを捨てても後悔したことがないほどに」
マリィアの目から涙が零れ落ちた。どうして、と叫ぶマリィアの髪が揺れる。フィリアと同じ髪の色。同じ目の色。よく似た容貌。フィリアが泣いているのではないか、と錯覚するほどに。
けれどヴィンラージは錯覚することなく、冷静にその姿を見る。心は揺れない。
何故なら目の前にいるのはマリィアであって、フィリアではない。捨てた妻であって、最愛の人ではない。
「どうして…っ、私じゃだめなの!?私だってラージ兄様を愛してる!リアに負けないくらい愛してるのに!!」
「さあな。お前はフィリアじゃない。それだけだろう」
我ながら冷たい言葉だと思う。酷い言葉だと思う。けれど撤回する気はない。
大切な従妹だけれど、フィリアには代えられない。フィリアをこの腕に抱くために待っていたのだ。己に代わる王太子の誕生を。そして行方を眩ませる機会を。ずっとずっと待っていたのだ。
ようやくフィリアを腕に抱けた今を手放す気はない。そんな状況は許さない。そのためならば大切な従妹でも、血を分けた子供でも切り捨てる。
「……リア、は?リアは何て言ってるの」
マリィアが知るフィリアならば、と思うのだろうか。そこに光を見出したなら、マリィアはフィリアに会うつもりなのか。会ってヴィンラージを返せと言うつもりなのだろうか。
ヴィンラージと寄り添う姿を見るのが怖くて、こうして一人の時を狙ってきたのだろうに。
「フィリアが何と言おうと関係ない」
「関係あるわ!」
「ない。私は拒まれても、お前の元に戻れと言われても聞かなかった」
フィリアが泣いても、怒っても、決して聞かなかった。ただ愛しているのだと繰り返した。お前の側でなければ何者にも意味はないのだと繰り返した。
傷つけているのが分かっていたのに。それでも繰り返した。愛しているから。そして昔と変わらず愛されていることを知っていたから。
マリィアが放心したようにヴィンラージを見た。
ヴィンラージは無表情のままマリィアに告げる。
「私はフィリア以外はいらない。何も言わず、諦めて、そうして絶望するのはもう御免だ。もうこの手を離しはしない。何があっても」
残された森の中、近くで待たせていた侍従の声が聞こえる。
それを耳にしながら、マリィアの膝が崩れ落ちる。仰いだ空はマリィアの心とは裏腹に澄み切っていた。
欠片でもよかった。欠片でも取り戻せる希望があればよかった。それを支えに手繰り寄せるから。
けれどそんなものはなかった。どこにもなかったのだ。
知っていた。ヴィンラージとフィリアが両想いだということを。
知っていた。ヴィンラージに愛されていないということを。
けれど、知らなかった。
ヴィンラージが王位も立場も国も家族も友人も、何もかも捨てても構わないほどにフィリアを愛しているのだということを。
流れる涙は止まることがなく、延々流れ続ける。
悲しかった。
悔しかった。
苦しかった。
辛かった。
痛かった。
憎かった。
ああ、けれど。
これが報いなのだろうか。
愛する人と愛する従妹を傷つけ、引き裂いた報いなのだろうか。
従妹が泣くと知っていて。従兄が嘆くと知っていて。それでも我を通した報いなのだろうか。
遠く聞こえる鐘の音を聞きながら、ああ、この鐘の音をフィリアはどんな気持ちで聞いたのだろうと、今更に思った。