マンガの神が微笑んだ
ある静かな町の、古びた出版社の会議室でのことです。窓の外には、春を待つ柔らかな夜が広がっていました。
そこには、二人のマンガ家が向かい合って座っていました。
一人は、雨雨権藤。かつては飛ぶ鳥を落とす勢いだった、伝説の大御所です。彼はひどく偏屈で、口を開けば文句ばかり。
「最近のマンガは、どれもこれも味が薄い。まるで、水で薄めたインクで描いているようだ。おい、獅子崎。この珈琲はなんだ。苦すぎて、私の描く哲学が苦みに負けてしまうじゃないか」
佐藤二朗さんの声が、低い地鳴りのように響きます。
もう一人は、中堅作家の獅子崎ガオー。そこそこの人気はありますが、自分の才能に限界を感じて、いつも震えるような焦りの中にいます。
「先生、今はこういう『わかりやすさ』が大事なんですよ。僕だって、必死に流行を追いかけてるんですから。そんな風に全部を否定しないでくださいよ」
ムロツヨシさんの声が、少し裏返りながらも必死に言葉を返します。
二人の前には、新人賞の最終候補に残った、一通の汚れた封筒がありました。作者は、どこかの町に住む、まだ小さな少年です。
権藤は、その封筒を指先で弾きました。
「こんなボロボロの原稿を出すなんて、マンガをなめている。読むまでもないだろう」
「まあ、そう言わずに。最後の一作なんですから」
獅子崎がため息をつきながら、封筒から原稿を取り出しました。
部屋の明かりの下で、二人はその原稿を読み始めました。
そこには、技術なんてまるでない、歪な線が並んでいました。でも、ページをめくるたび、会議室の空気が変わっていきました。
描かれていたのは、一匹の小さな虫が、大きな空を見上げるだけの物語です。でも、その虫の瞳の中には、見たこともないような「生命の輝き」が溢れていました。
その線は、まるで生きているように紙の上を躍動し、読んでいるだけで、懐かしい草原の匂いがしてくるようでした。
「……なんだ、これは」
権藤の手が止まりました。彼の鋭い眼光が、少しずつ潤んでいきます。
「先生……これ、背景の雲が、全部『笑って』います。ただの風景じゃない。世界が全部、祝福されているみたいだ」
獅子崎も、原稿を握る手が震えていました。
そこには、理屈を超えた「描きたい」という純粋な祈りが詰まっていました。
どんなに立派なペンを使っても、どんなに洗練されたセリフを並べても、忘れてはいけない「たった一つの大切なもの」が、そこには確かにありました。
権藤は、深く、深く椅子に体を預けました。
「悔しいなあ、獅子崎。私は、いつの間にか『正解』ばかりを描こうとして、自分の『驚き』をどこかに置いてきてしまったようだ」
彼は、誰にも聞こえないような小さな声で、そっと呟きました。
「マンガって、こんなに優しくて、恐ろしいものだったんだな」
獅子崎も、溢れてくる涙を拭おうともせず、少年の原稿を抱きしめるように見つめていました。
「僕、もう一回、机に向かいます。流行じゃなくて、僕の中にある『一番古い記憶』を、この子みたいに描いてみたい」
夜が明け始め、窓の外が薄い紫色に染まってきました。
「おい、獅子崎。さっきの珈琲、もう一杯淹れてくれ。今度は少しだけ、砂糖を入れてもいい」
「はい。とびきり甘い、やる気の出るやつを淹れますよ」
二人は、どちらからともなく笑い合いました。
重かった肩の荷が、朝日の中に溶けていくようでした。
彼らは再び、マンガという名の終わらない旅に出る準備を始めたのです。
それは、世界中でたった二人の、でも一番幸せな、新しい物語の始まりでした。




