その日、僕は門を越えた。
雨は駅前の光を薄く伸ばしていた。ネオンの赤も白い街灯も、濡れたアスファルトの上で溶け合っていく。結局どれも同じ色に見えた。
僕は傘を持っていない。持つ理由は先に失われた。職も予定も、帰る場所の気楽さも。
手の中のスマホは、雨粒を弾くたびに冷たさを増していく。画面の端に、今日も同じ通知が出ていた。
【お支払いのお願い】
期限を過ぎています。至急—
指で消しても、消えた気がしなかった。
駅前の大通りは、まだ息をしていた。人の流れが途切れない。店のガラス越しに温かいものが売られているのが見える。
コーヒーと肉まん。光る看板。
光はいつも通りそこにあるのに、僕だけが入れない。
門番は誰でもない。濡れたポケットの中身だ。
湯気だけが、ガラスの向こうで生きていた。
終電が近づくと街は少しずつ「外側」を作り始める。酔った笑い声。タクシーのドアが閉まる音。スーツケースの車輪。そこからこぼれる人間がいる。こぼれても拾われない人間がいる。
僕は、その一人だった。
雨宿りできる場所を探して視線をさまよわせた。駅前の大通りから一本入るだけで、音が変わることを僕は知っていた。明るさが急に切れて、換気扇の唸りと排水が落ちる水滴の音だけが残る。飲食店の裏口が並ぶ、ビルとビルの間の狭い道だ。
そこは誰にでも見えているのに、誰も見ていないふりをして通り過ぎる場所だった。
入口に立つと空気が違った。油と湿気と洗剤の匂いが混ざっている。段ボールが濡れて膨らみ、足元で柔らかく沈む。壁には「関係者以外立入禁止」と書かれたプレートがあった。角が剥がれ、粘着剤だけが黒ずんで残っていた。
僕は一歩、踏み込んだ。
背中から街の光が遠ざかる。肩に落ちる雨音が少し小さくなる。代わりに、どこかで水が滴る音が大きくなった。ぽた、ぽた。規則正しく、時間みたいに落ちていく。
そのとき布が擦れる音がした。
奥のほうだ。路地が少し折れて見通しが途切れるあたり。黒いゴミ袋が動いた。袋の口を裂く音がする。ぺり、ぺり。濡れたビニールが嫌な音を立てて破れる。
僕は足を止めた。引き返すべきだと頭のどこかが言う。ここは関係者じゃない。関係者になりたくもない。そういう場所だ。
でも、僕の足は動かなかった。
折れ目の向こうから人影が現れた。背は低い。年齢は分からない。顔は暗くて見えないのに、手の動きだけが妙に鮮明だった。
彼女はゴミ袋の中身を迷いなく取り出していた。濡れた紙袋。コンビニの弁当容器。破れたタオル。ビニール手袋。ひとつずつ見て、要るものと要らないものを分けていく。仕事の手際だった。
次に出てきたのは小さな財布だった。安物の合皮で、中身が膨らんでいるのが見えた。彼女は財布を開き、カードを一枚ずつ抜き取ってポケットに滑り込ませた。診察券のようなものが混じっているのが見えた。
カードの束の間から、小さなものが一つ滑り落ちた。細いヘアゴムだ。濡れて黒く光っている。金具だけがやけに新しい。
そのあと、指先ほどのチューブが転がった。匂いだけが一瞬、甘く残った。雨と油と洗剤の匂いの中で、それは場違いなくらい生活の匂いだった。
僕の喉が勝手に鳴った。
「……それ」
声が出たことに、自分で驚いた。雨と換気扇の音の中で、僕の声は細く情けなく響いた。
彼女は顔を上げた。暗闇の中で目だけが、こちらを正確に捉えた気がした。
その目は冷たいというより、擦り切れていた。
何もかもを諦めた顔をしながら、死を恐れる本能だけで生き残っている目だった。
「何」
「それ、誰のですか」
彼女は財布を閉じる手を止めない。「誰かの」とだけ言った。
僕は言い直した。「盗みじゃないですか」
自分の声に妙に安心した。まだ、そう言える。まだ僕はこっち側にいる。盗みは悪い。悪いことをしてはいけない。そんなこと、小学生でも知っている。
彼女は鼻で笑った。笑いというより、空気が抜ける音に近い。
「盗み、ね」
彼女は財布をポケットに入れ、別の袋を裂いた。中から濡れたスマホが出てきた。画面は割れていない。ケースが黒く光っている。側面に細いストラップが付いていて、そこだけ妙に丁寧だった。
彼女は掌で拭き、電源ボタンを押した。画面が一瞬だけ光った。
ロック画面に写真が浮かび上がる。夫婦と思しき男女が写っていた。肩を寄せて、どちらかが傘を持っている。顔は暗くて、笑っているのかどうかも判然としない。男と女。けれど、この端末がどちらのものなのかは分からない。
それでも「生活」の輪郭だけははっきりしていた。僕が今、手を伸ばせない側の。
僕の目が、その光に吸い寄せられた。
「落とし物は交番に届けろって?」
「……そうです」
「交番ね」
彼女はスマホを軽く振って水を切る。ぽた、と水滴が落ちた。規則正しい水滴の音が、一瞬だけ途切れたように感じた。
「届けたことある?」
「……あります」
嘘じゃない。傘を拾って届けたことがある。学生のころ、財布を拾って店員に渡したこともある。正しくした。ちゃんとしてきた。
彼女は僕の顔を見た。見透かすようにではなく、値踏みするように。僕が今、何を持っていて何を持っていないかを。
「じゃあ聞くけどさ」
彼女はスマホをポケットに入れた。
「今日、何食べた?」
僕は答えなかった。答えられなかった。喉の奥が乾いているのに唾が出ない。
「食べてない、か」
彼女は自分で結論を出し、肩をすくめた。
「ね。盗みが悪いって、誰が決めるの」
「……社会が」
「社会ね」
彼女は笑った。今度は少しだけ、笑いに近かった。
「社会は、あなたに何かくれた?」
僕は返事ができない。社会がくれたものは確かにあった。学校、道、電気、水。仕事も最初はあった。だけど今、僕のポケットを満たしているのは濡れた小銭と、止まらない通知だけだ。
「社会はルールをくれる。でもね」
彼女は路地の入口のほうを顎で指した。そこには明るい通りの光が滲んでいる。人の声も遠くで聞こえる。僕の背中側にあるはずの世界。
「ルールは腹を満たさない」
その言葉は雨より冷たかった。
僕の中で何かが揺れた。揺れたものに名前を付けたくなかった。名前を付ければ、そこに穴が開く気がした。
「じゃあ、悪いことをしていいってことですか」
僕は抵抗を続けたかった。続けないと崩れる。自分が自分でなくなる。
彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「いいかどうかじゃない」
そして言った。
「するか、しないかだよ」
彼女はまたゴミ袋を裂く。中から紙が束になって出てきた。伝票か書類か、よく分からない。彼女はその中に混じるカード類だけを抜き取る。迷いがない。指先だけが生き物みたいに正確だった。
「あなたが今日、盗まないなら」
彼女は言った。
「明日、あなたは正しいまま死ぬかもしれない」
その言い方には脅しの温度がなかった。天気予報みたいに淡々としていた。だからこそ怖かった。
僕の頭の中に数字が浮かんだ。家賃。滞納。奨学金。通帳残高。介護費。支払期限。明日。明後日。来週。全部が雨の水滴みたいに落ちていく。
ぽた、ぽた。
「……あなたは」
僕は聞いた。「あなたは平気なんですか」
彼女は一瞬だけ手を止めた。止まったのは手だけで、目は止まらなかった。僕を見ていない。僕の向こうにある何かを見ていた。もっと長い時間のほうを。
「平気じゃないよ」
そう言って彼女は肩をすくめた。
「……でも、平気じゃなくても腹は減る」
雨の音が大きくなる。僕の指先が冷えて感覚が薄くなる。ここに来てから何分経ったのか分からない。時間の代わりに、水滴だけが落ちている。
僕は路地の入口を見た。明るい通り。そこに戻れば、僕はまた「見ないふり」をできる。できるはずだ。そうやって今まで生きてきた。駅前の裏にあるものを見ないふりして、清潔な顔をして、正しい言葉を使って。
でも、今ここで僕が見ているものは、もう見なかったことにはできない。
彼女はスマホを取り出した。さっきの濡れたスマホだ。画面がまた光る。ロック画面に、さっきの男女が並んでいる。通知が重なり、写真の表情はさらに曖昧になっていた。
彼女はそれを指で払った。パスコード入力画面が出る。
彼女は僕を見て、にやりともせずに言った。
「ねえ」
淡々と言い切った。
「ここから先は倫理の門だよ。越えたら戻れない」
僕は笑いそうになった。笑う理由なんてないのに。言葉が妙にぴったりで皮肉みたいだった。倫理の門。そうだ、門だ。ここは境目だ。僕の足元の濡れた段ボールと、背中にある明るい通りの間に、見えない線が引かれている。
僕はその線を今まで何度も跨いでいた。違う形で。見ないふり。触らないふり。知らないふり。そのたびに、門は少しずつ低くなっていたのかもしれない。
彼女はスマホを掌に乗せたまま、僕のほうへ少し差し出した。差し出すというより見せた。光が僕の顔を照らす。雨粒が画面に落ちて、写真の輪郭がさらに歪む。
「この人だってさ」
彼女が言った。
「正しかったかもしれないよ。今日までは」
僕の喉が勝手に鳴った。我知らず、あの光の向こう側を欲していた。
腹の底が遅れて掴まれる。空っぽの胃が、内側から自分を噛む。音なんて出ない。ただ、じわじわと酸っぱく熱い。
空腹が、今まで守ってきたものを順に剥いでいく。
胸の奥が軋む。やめろ、正しいほうへ戻れ、と訴えかけてくる。
でも、その声は薄く飢えに喰われていく。——僕の中で、獣が目覚めた。
僕は彼女の手元を見た。何の変哲もないスマホ。小さなガラスの板だ。
だが、その向こうには誰かの生活が詰まっている。金も家族も仕事も記録も全部。僕が今、失ったものが全部。
僕の手が動きかけて止まった。けれど指先は、もう理性の外側で震えている。
きっと、まだ間に合う。光のほうへ戻れば、また「見ないふり」ができる。だが、本能ははっきりとそれを否定する。
欲しいのは端末なんかじゃない。端末の向こう側——僕が失くした生活だ。
手を伸ばした瞬間、世界が初めて僕の動きに遅れてついてきた。
冷えた指先が彼女の掌に触れた瞬間、妙に温かかった。人の体温は、こんなにも生々しい。
彼女は抵抗しなかった。抵抗する必要がないみたいに。門のこちら側で、もう勝負は終わっているみたいに。
僕はスマホを掴んだ。
その瞬間、僕の中で何かが切れた。切れた音はしなかった。雨音に紛れて、誰にも聞こえないように静かに。
僕は走った。
路地の濡れた床で足が滑りそうになる。段ボールを踏んで、ぐしゃりと音がした。換気扇の唸りが遠ざかる。背中に光が戻ってくる。明るい通りの喧騒が近づく。
僕は通りに出た。
人は相変わらず流れている。笑い声。イヤホンの音漏れ。タクシーのエンジン。誰も僕を見ていない。見ているのに見ていない。僕が濡れていることも息を切らしていることも、ポケットの中の重みも。誰も気にしない。
街はいつも通りだった。
僕だけが違っていた。
信号が青に変わる。人の波が横断歩道へ動く。僕もその中に混じった。混じれば匂いも体温も、僕の震えも見えなくなる。便利だった。安全だった。
スマホがポケットの中で震えた。雨の振動とは違う、機械の震えだ。
取り出すと画面が光っていた。通知がいくつか並んでいる。名前も数字も、僕にはただの光の列にしか見えなかった。写真の男女も、ぼんやりとしか分からない。
画面の下に小さく出ていた。
「本人確認が必要です」
指を進めるたびに別の壁が出てくる。暗証番号。顔。持ち主だけが知っている答え。
僕にはひとつも越えられない。
雨粒が画面をにじませる。にじんだ文字を見ていると、少しだけ楽になる。くっきり見えるものほど、僕を責めるからだ。
それでも、手放すことはできなかった。
倫理の門を越えても、現実は開かない。
開かないのはこの画面だけじゃない。僕の戻り道も、もう同じようにロックされている。
……その日、僕は門を超えてしまった。
街は、いつも通りだった。
光も、人の流れも、街の熱も、同じ場所に同じようにある。
変わったのは、僕だけだ。
僕の手だけが、いつまでも濡れている気がした。
初めまして。雨ノ宮と申します。
これからよろしくお願いします。




