第四話 蝶々結び 前編
「ねえ!」
高い声が、森の静けさを破った。
「あなたたち、本当にありがとう!」
駆け寄ってきた少女が、母親と並んで深々と頭を下げる。
「私、こんなに怖いと思ったの、生まれて初めて! あなたたち、ぜんぜん怖くなかったの? ……ほんっとに、すごかった!」
一気にまくし立てるような勢いに、少年たちはやや気圧されながらも――
「……怖かった」
先刻と同じように、三人の声が重なった。
直後、ガレオンがくるりと振り返る。
「おい、コーネル。てめえ、なにが『怖くなかった』だぁ?」
「なんでだよ! 俺はただ森を走っただけだろ?!」
やれやれ、とミツヤが両手を上げて立ち上がり、アズルの方へと歩き出す。
それを見送りながら、ルカはふっと微笑んだ。
そして、腰の剣の柄にそっと触れる。
鞣された革は、指にしっとりと吸い付くようだった。
「さっきは、これ……本当にありがとう」
少女の方へ向き直り、まっすぐに目を見て、言葉を届けた。
木の葉から漏れる西陽が、ルカの頬をやさしく照らしていた。
「僕はルカ。君は?」
少し視線をそらしながら、彼女は小さく答えた。
「……アイリス。アイリス・メルクーリ」
先ほどまでの勢いは、どこか影を潜めていた。
抱えた毛玉を、指先でそっとなぞる。
まるでそれが、自分の心をなだめてくれると信じるように――
「きゅん」と、柔らかい声が響いた。
ルカはその音に導かれるように、視線を下ろす。
少女の腕の中にいたのは、白くて、小さな毛玉だった。
けれど、そのつぶらな瞳は、こちらを射抜くようにじっと見つめてくる。
本能が、わずかに反応した。
ルカは無意識に、腰の剣へと手を伸ばす――
……が、すぐに、その手を引っ込める。
その小さな体からは、敵意を感じなかった。
ただ、不思議な静けさが、そこにあった。
「この子は……君の友達?」
「ううん、知らない子。馬車で走ってた時に、急に飛び込んできたの。そしたら囲まれちゃって、車輪が壊れちゃって……」
少女は小さく息を呑んでから、続けた。
「どうしたらいいのか、全然わからなくて。でも……私より小さなこの子は、守らなきゃって思ったの」
その腕の中から、再び「きゅん」と短く鳴き声が響く。
まるで彼女の気持ちに、応えるかのようだった。
「おーい!」
少し離れたところから、くぐもった声がかかる。
獣たちの亡骸の処理が終わり、アズルが手を振っていた。
「じきにまた雨が降る。馬車は壊れちまってる。手分けして荷物を運べ。お前らも手伝え。今日はお客さんが泊まる。粗相すんなよ」
まるで何事もなかったかのように、いつもの調子で言い放つと、アズルはゆっくりと踵を返す。
空は嘘のように晴れ渡り、木々の葉が陽を受けて、きらきらと瞬いていた。
◆
荷物をすべて運び終えるころには、日は大きく傾いていた。
空は淡く点滅するように色を変え、遠くで雷鳴が低く鳴っている。
ぽつり、ぽつりと落ちていた雨は、やがて勢いを増し、地面を叩き始めた。
「いやはや、本当に助かりました。なんとお礼を申し上げたら良いか……」
その言葉を受け、アズルは背に抱えた荷を下ろしながら、静かに口を開いた。
「申し遅れた。私はアズル・プリュミノー。これでも、一応、ここの父親をやっている」
その名を聞いたニコラスは、一瞬、目を見開いた。
「……まさか“銀虎”の……」
アズルは「はっはっは」と大きく笑って、答えは濁したまま。
手ぬぐいで額の汗をぬぐうと、荷の位置を直してまた歩き出す。
大人たちの会話をよそに、子どもたちの自己紹介はすでに済んでいた。
話題の中心は、もちろん、毛玉――もとい霧狐である。
「これ、本で見たことがある」
そう呟いたのはミツヤだった。
霧狐をじっと見つめる瞳には、獣を前にした少年というより、まるで研究者のような真剣さが宿っていた。
「……たしか、『ルミナ・フォクス』。別名『霧狐』。幻獣分類の幻想種。霊属性と獣属性の中間だな。けっこう――というか、かなり珍しい生き物だ」
言い終えたその横で、ガレオンが包帯の巻かれた左手をぽりぽり掻きながら、呆れたように声を漏らす。
「また始まったよ、こいつの物知り講座……」
そうぼやきながらも、霧狐の耳を指でつついた。
「ああ、言い忘れてた。耳に毒針がある。猛毒だから、触ってはならない」
ミツヤがさらりと付け加えると、ガレオンは目を見開き、勢いよく手を引っ込めた。
「……お前なあ! 先に言えっての!」
「というのは、何の根拠もない噂なので、信じなくてもいい」
相変わらずの無表情でそう言い残し、くるりと背を向ける。
「……おい!」
ガレオンの怒鳴り声が、思わず食卓に響いた。
だが、それすら意に介さず、ミツヤは語りを続ける。
「さっき俺たちがやり合った獣――“森狼”という魔物だ。こいつら、どうやら霧狐のことを、本能的に嫌ってるらしい。見かければ追いかけて優先的に狩る。……先祖代々、そういう習性があるらしいな」
彼の言葉に、誰もが思い当たるように黙り込んだ。
……それならば、とルカは思った。
あのとき、森狼が彼女たちを追いかけていた理由にも、説明がつく。
「……アイリスたちが追われてた理由も、森狼があんな浅い場所に出てきた理由も、全部つながる。そういうことだ」
そのとき。
少女の腕の中で、霧狐が「きゅっ」と短く鳴いた。
まるで、「そのとおり」とでも言いたげに、小首を傾げてみせる。
◆
「皆さん、ちゃんと食べてくださいね。お礼ですから」
にこやかに声をかけたのは、ニコラスの妻――キンバリーだった。
食卓には、豪勢な料理がずらりと並ぶ。
子どもたちから、思わず歓声が上がった。
「かたじけない」
アズルが一礼し、穏やかに言葉を継ぐ。
「馬に怪我がなくて何よりでした、ニコラス殿。それに、これほどの晩餐まで。キンバリー殿にも、あらためて感謝申し上げねば」
「いえいえ、こちらこそ。皆さんがおらねば、この雨の中――野営どころか、魔物の餌になっていたかもしれませんからな」
ニコラスは笑みを浮かべながらも、静かに語った。
「家内の料理は、手前味噌ですが……王国で百本の指に入りますぞ。どうぞ、たんと召し上がれ」
「百本なら、大したことはありませんわよ」
キンバリーがすかさず横から言い添え、夫の脇腹を軽くつついた。
ニコラスは苦笑しつつ、口ひげを撫でる。
包帯で巻かれた右腕は痛々しかったが、その表情に翳りはなかった。
子どもたちの卓では、誰一人として、食事の手を止める者はいない。
年少組の子らは、口いっぱいに頬張りながら、目を輝かせていた。
「こんなおいしい料理、はじめて食べたね!」
「うん!ほんとほんと!」
「姉貴の料理よりずっとうめえな」
ガレオンがぽつりと呟くと、ミツヤが返す。
「あれは食えたものじゃなかったからな。これが本当の料理ってやつだろ」
「ぶっ……やめなよ二人とも。でも、懐かしいね。元気かなぁ、姉さん」
思わずルカは吹き出して、諌め、懐古する。
「おいおい、バレたらどんな目に遭っても知らねえぞお前ら」
コーネルは三人の様子を見て、両手をあげた。
四人は顔を合わせ、笑った。その様子を、アイリスは楽しそうに見ている。
「そうだ。そういえば今日、教会の入り口にいたあの衛兵、なんだったんだろうな」
ミツヤの問いかけには、皆首を傾げていた。
「内勤だったんじゃない?」
ルカがそう切り返すと、「ま、そうかもな」と言って、皿に目を移した。
そんな賑やかな空気の中、キンバリーがミツヤに微笑みかける。
「あなた、とても綺麗な黒髪をしているわね。素敵だわ」
急に話しかけられたミツヤは、ぽかんとした顔で応じた。
「え、ああ……ありがとうございます」
そんなに珍しいのか――そんな戸惑いが滲む声だった。
それを見ていたニコラスが、くすりと笑いながら口を開く。
「これキンバリー、彼が困っているだろう」
そう穏やかにいさめられたキンバリーは、「ごめんなさいね。とても珍しかったから」と笑いながら詫びて、自分の席へ戻っていった。
孤児院には、大人と子ども、それぞれの笑い声が交じり合い、静かに、楽しげに、響いていた。
◆
「ねえ、あなたたち、何歳? 識別式はもう済んだの?」
アイリスが興味津々に問いかけると、ミツヤがパンをかじりながら答える。
「俺たちと、あそこでチビどもの面倒見てるコーネルも含めて、全員十二歳。今日、識別式が済んだところだ」
「年下じゃない!」
アイリスが目を丸くする。
「……私、馬車の中で怖くて何もできなかったのに。あなたたち、本当にすごいわ」
そう言って、少し間を置いてから、言葉を続けた。
「ねえ、識別式で、なにか属性はもらえた?」
「……なんで、そんなこと聞くの?」
ルカが問い返すと、アイリスは少し得意げに、ふふっと笑った。
「私がもらったから。ほら、水属性なの」
そう言って、彼女は手のひらをそっと上げた。
空中に、ふわりと水の玉が浮かぶ。
暖炉の火を反射して、きらきらと光るそれは、小さな宝石のようだった。
食事に夢中になっていたはずのガレオンが「おお」と感嘆する。
「……これくらいしかできないけど」
頬を赤らめながら微笑む彼女の耳元で、赤と青の蝶々の耳飾りが、小さく揺れていた。
その光に、思わず目を奪われていると――ミツヤが、いつもの調子で言った。
「俺は、"色なし"だった。もうわかっちまったからには、それを磨き上げるしかないだろ」
それは、きっとミツヤなら、そう言うだろうとルカは思っていた。
何かを“与えられる”より、“自分で得る”ことを大切にする――
そんな彼の姿を、ルカはずっと、かっこいいと思っていた。
"卑怯者"。やはりそんな悪口は、彼には相応しくなかったと、今日改めて思い知らされた。
「僕は……」
と口を開きかけて、けれど、言葉は続かなかった。
土属性、それを口にするのが、なぜか憚られた。
与えられた力を、あたかも“自分で手に入れた”ように語ることへの、妙な後ろめたさ。
あるいは――
口にした瞬間、その言葉ごと、自信まで逃げていってしまいそうな気がしたのかもしれない。
そんなふうに考えていたルカの弱さも、全部見透かしていたように――
ミツヤは、ふんっと鼻で笑った。
「なんだよ、土の壁を出して、俺たちを助けてくれたじゃないか。……女性には秘密主義なのか?」
きゅきゅきゅ、と足元で音がして、アイリスが「あっ」と声を上げる。
霧狐が、2本の尻尾をゆるやかに振っていた。
「この子にも、名前をつけてあげなきゃね」
しゃがみこんだアイリスが、ふわりとその身体を抱き上げる。
霧狐は、まるで「うんうん」と頷くように、細い尾をふにふにと揺らした。
「名前、か……」とルカがつぶやく。
「そうだね。何がいいかな」
「うーん……この子、白くて、ちっちゃくて、ふわふわで……」
アイリスは霧狐の毛をそっと撫でながら、考え込む。
「じゃあ、“シロ”」と、ガレオンが即答した。
「……反射だけで生きてるだろ、お前」
ミツヤが呆れたようにぼやく。
「うーん、タマちゃんってどう?」
アイリスが首をかしげて提案すると、ミツヤがすぐさま反応する。
「……玉藻か?興国の王の僕の名前だったか......」
「えっ、なにそれ、かっこいい……でも、難しいから“タマ”でいいや!丸まってて可愛いから!」
アイリスが笑顔でそう言うと、霧狐も嬉しそうに、ぱたぱたと尾を振った。
「うん……“タマ”か」
ミツヤは腕を組み、じっと霧狐を見つめると、ひとつ頷いた。
「悪くない。語感も呼びやすいし、由来もある」
「へぇ、お前にしては珍しく、素直じゃねえか」
ガレオンがからかうと、ミツヤはそっぽを向いて「……別に」とだけ返した。
「じゃあ、今日からこの子は“タマ”だね」
アイリスがふんわりと笑うと、霧狐――タマは、小さな声で「きゅ」と鳴いた。
◆
その夜――
雨はすっかり止み、雲の切れ間から淡い月が顔をのぞかせていた。
窓の隙間から流れ込む夜風が、部屋の空気をわずかに揺らす。
ルカは布団の中で、静かに目を開けていた。
右からはガレオンの寝息、左からはミツヤの寝返りの気配。
いつもの夜のはずなのに、どこか落ち着かない。
――なんだろう、この感じ。
胸の奥が、ふわりとざわめいていた。
戦ったことのせいか。命を守れたことのせいか。
あるいは、あの少女のことが、まだ頭に残っているせいか。
名前を聞いたときの、まっすぐな瞳――
笑ったときの声。抱えていた霧狐の、あの柔らかな毛並み。
「……へんなの」
ぽつりとつぶやくと、ルカは目を閉じた。
それ以上は考えず、まぶたの裏に浮かぶ残像も、そのままに。
――なにかが、呼んでいる。
微睡の中、声にならないその気配は、遠く、けれど確かに、ルカの中に触れていた。




