第三話 産声 後編
刃についた血と肉を、静かに振り払う。
子どもたちを背に、男は怒気を孕ませることなく、告げる。
「さて、犬ども。なぜこんな森の浅いところに出張ってきたのかは知らねえが――」
アズルは静かに、主を見据える。
「……ここで退くなら、見逃してやる」
その声音は低く、荒々しさの奥に冷えた鋼を孕んでいた。
――お前はもう、捕食者ではない。
狩られる側なのだと、視線が語っていた。
主は、男と、その背後に立つ子らを一瞥し、次いで、地に伏した同胞の屍を見やる。
そして、唸った。吠えた。
それは撤退の意志ではない。
怒りでもなければ、怯えでもなかった。
――群れの主としての、矜持。
「ほう……。犬っころにしちゃ、なかなか骨のある奴じゃねえか」
アズルは口元に、わずかな笑みを浮かべた。
そして、ちらとルカを見やる。
「ルカ。その剣、貸せ」
差し出された剣を受け取ると、アズルは静かに上段に構えた。
刃が、微かに光を孕む。
雨が止んだ。太陽が顔を出し、木々の隙間から光が差した。
一陣の風が吹き抜ける。
次の瞬間、鋭い静寂が森に満ちた。
森の鳥たちが、一斉に羽ばたく。
木々の枝を揺らし、羽音が空を裂いた――一瞬のことだった。
"彼"一人を除き誰もがその音に、わずかに目を奪われ――
子どもたちが気づいたときには、すでに終わっていた。
上段から振り下ろされた刃は、二撃目の位置に戻る。
しかしそれは必要ないようだった。
その巨体がぐらりと揺れ、呻き声ひとつ漏らさぬまま、崩れ落ちる。
大地が、重く鳴った。
地に伏した獣の傷跡からは、青白い魔素の光が漏れ出て、天へと昇っていった。
斃れた主を前に、残された獣たちは、戦意を喪っていた。
唸り声すらあげず、群れの主の遺体に目もくれず、森の奥へと駆け出していく。
誰も振り返らず、我先にと、音を残して消えていった。
「……狼の肉は、まずくてかなわねえ。筋ばっかでよ」
アズルはその場から一歩も動かぬまま、剣の刃先をひと振りする。
飛沫のように返り血が地に散り、陽を受けて赤く染まった。
わずかに腕を動かし、刃に残った血を、何気なく外套の裾で拭う。
そして、地面に転がっていた鞘を拾い上げ、剣をかちゃりとそれに納め、差し出すようにルカに返した。
そこには、巨大な魔物を斬った、高揚感などはなかった。
「返しとくぞ。軽くて、取り回しが効く。悪くねえモンだ」
鞘に収められたそれを受け取り、ルカの右の手のひらは、脈打つように震えていた。
"あの日"、白き視界の外で起こっていた闘争。
それは見ることは叶わなかったが、今日この出来事は、まるで神話を目の当たりにしたかのように、ルカの脳裏に焼きついた。
アズルはふう、と短く息を吐く。
そしてそのまま、ガレオンに近づき、左腕にそっと触れる。
「染みるぞ。前にも言ったが、俺のは応急処置にもならん。絶対無理するなよ」
そう言うと、掌から魔素を送り込む。灰色の光が左腕に滲んだのを確認し、アズルは前掛けを破って、その腕に巻いた。
そして、少年たちの顔をひとりずつ見渡す。
「……お前ら、よくやった。ガキどもだけで、ここまで耐えられるやつぁ、そうはいねえ」
その声には、確かに誇りと、安堵が滲んでいた。
「だがな。命を軽んじたことは、許さねえ」
ごんっ、ごんっ、ごんっ。
重たい拳骨が、順番に少年たちの頭を打つ。
怪我をしていても、遠慮はない。疲労していても、容赦もない。
「彼我の戦力差もわからねえで飛び込むから、こんなことになるんだ。……馬鹿どもが」
言葉は荒く、拳は痛い。
だが、それが父親という男の――不器用な、愛のかたちだった。
そして次の瞬間。
アズルは、三人をぐっと引き寄せた。
「……でもな、お前ら。ほんとうによくやった」
ごつごつした腕の中で、少年たちは一瞬、動けなかった。
声が、微かに震えていた。
肩が、僅かに揺れていた。
"銀虎"の目にも、涙があった。
◆
「……お父さん?終わったの?助かったの……?」
がちゃ、と馬車の扉が軋む音を立てて、ゆっくりと開く。
栗毛の少女が恐る恐る顔をのぞかせた。
その腕には、小さな乳白色の毛玉が抱かれていた。
つい先ほどまでの勇ましさは鳴りを潜め、大きな瞳には涙の光が宿っている。
「ありがとうございました!」
続いて現れた男が、アズルに深々と頭を下げた。
その腕には、戦いの痕が赤々と残っていた。
「私はニコラス・メルクーリ。旅の商いをしている者です。……あなたたちのおかげで、家族を守ることができました。ついでに、荷物と馬車も」
今しがた死地を抜けた者とは思えぬほど、軽やかな口調だった。
それは、妻と娘に「もう大丈夫だ」と伝えるための芝居でもあったのだろう。
その腕には、愛する者を護り抜いた証が、確かに刻まれていた。
「礼なら、うちのガキどもに言ってやってくれ。出来のいい護衛とは言えねえが……俺が間に合ったのも、こいつらが踏ん張ってくれたおかげだ」
アズルは親指で子どもたちを指し示し、冗談めかして笑った。
だがその目には、ほんのわずかに、誇らしげな色が差していた。
「君たちも、本当にありがとう。助けられた身で言うのも妙な話だが――たった三人で、あの群れに立ち向かうとは……」
そう呟いたニコラスの声には、驚きと敬意が滲んでいた。
「……四人です」
三人の声が、同時に重なる。
互いに顔を見合わせて、くすりと笑う。
そのときだった。
聞き慣れた、けれどふらふらな足音が街道の方から近づいてくる。
「ぶっ……無事か、みんなーっ!」
外套を肩に担ぎ、ふらふらになりながらも小さな影がこちらに向かってくる。
コーネルだった。
兄弟たちの顔をひとりずつ確かめると、彼は膝をつき、地面に崩れ落ちる。
「……お前ら、無茶しすぎなんだよ……ほんとに」
その声はかすれていた。
喉の奥で、言葉にならない何かが、つかえているようだった。
「おい、遅かったじゃねえかよ、てめえ。びびってたんじゃねえだろうな」
からかうようにガレオンが声をかける。
「たしかに遅かった……。その格好じゃ、散歩中なのかと思ったよ」
ミツヤの口元にも、自然と笑みが浮かんでいた。
「うるせー! お前らも全力でこの道往復してみろよ!」
肩をいからせて叫ぶコーネルに、普段あまり冗談を言わないルカが、ぽつりと口を挟んだ。
「……往復するくらいなら、いくらでもやるよ」
「ルカ、お前まで……。違うんだよ!」
コーネルは声を荒げかけたが、すぐに口調を落とす。
「……見ろよ、このボロボロの体を!すっげえ頑張ったんだよ!」
そんな他愛もないやり取りを交わしながら、少年たちは――
ようやく、自分たちの無事を、確かめ合っていた。




