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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
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第三話 産声 前編

「おい!枝が折れちまった!どうすんだよ!」


 ガレオンが叫び、焦りをにじませながらも、視線は獣たちから外さない。

 左腕は血まみれだった。深く噛みちぎられた傷口が、生々しく口を開いている。

 それでも、彼は立っていた。歯を食いしばり、片腕でも構えを崩さない。


「僕のも……もう、限界かも……」


 ルカはそう呟くと、肩を上下させながら呼吸を整えようとする。

 頬には浅い切り傷。体力の消耗が激しく、膝は震え、意識もぼんやりしかけている。


 彼らの足元には、倒れた獣の死骸。

 幼い手には余るはずの相手を、彼らは確かに幾つも退(しりぞ)けてきた。


 しかし、雨すらも体力を奪い、限界は確実に近づいている。


 ミツヤは、前屈みになり、楽な姿勢をとる。濡れた髪の中から、視線だけで周囲を見渡していた。


 ――コーネルは、まだ親父の元へ着いていないか。頼む。急いでくれ。


 心の中で、願う。

 右の肩を浅く裂かれ、血が滲んでいる。二人が、傷ついている。俺の指揮のせいだ。何がバランスを取るだ、と深く自嘲する。


 けれど今は、その後悔も迷いも切り捨てた。ただ、目の前の敵に集中する。

 視界が冴える。雑音が消え、思考がひと筋に絞られていく。

 そのとき、ふと脳裏をよぎった。


――おかしい。

 “それ”が、まだ現れていない。


 狼の化け物は、群れで動く。ならば当然、統率者――“(ぬし)”がいるはずだ。

 姿を見せないのは、油断か? それともこちらの力量を測っているのか?


 ……いや、違う。


 ミツヤの胸に、静かなざらつきが残る。

 群れの主とは、最も賢く、最も慎重で、そして――最も勇敢な個体。

 だからこそ、出てこない。


 まるで“何か”を――警戒しているかのようだった。


 その瞬間。


 木々のざわめきがぴたりと止まり、空気が反転したような気配が漂う。

 風は止み、森全体が息を潜める。


 ただならぬ“何か”が、近づいている――

 ミツヤは、確かな確信としてそれを感じ取った。

 

 そこへ、声が響いた。



「ちょっと!危ないから入ってなさい!」


「離してよ、お母さん! 私たちのために、誰かが戦ってるのに……黙って見てるなんて、できないわよ!」


 震え混じりの少女の声が、張り詰めた空気を裂いた。

 思考を遮られたミツヤが、はっと顔を上げる。

 

「あなたたち!これ、使いなさい!!」


 馬車の扉から身を乗り出したのは、母親の制止を振り切った栗毛の少女だった。

 細い腕は震えていたが、それでも両手で剣をしっかりと抱え、まっすぐこちらを見据えている。


「アイリス! その手があったか!」


 男が驚きと共に声を上げ、振り返った――その一瞬。


 獣が動いた。

 地を蹴り、男の背中へ向けて前足を振り上げる。その動きは、昔見た記憶に重なった。


 アイリスは、迷いなく剣を投げた。


 宙を舞った剣は、落下の勢いで鞘から滑り落ちる。

 鈍色の刀身が、回転しながら雨粒を裂いて、落ちてくる。


 ルカは、それを無意識に受け止めた。

 そして次の瞬間――


 今にも男に突き刺さろうという獣の前足を、振りかぶることすらなく。

 ただ反射的に、本能のまま――


 斬り飛ばした。

 


 一瞬遅れて、赤い飛沫がルカの視界に焼きついた。


「大丈夫ですか!」

 体を震わせながら、ルカが叫ぶ。

 男は、獣の返り血を浴びながらも、首を縦に振り続けていた。

 

「ルカ!てめえ!やるじゃねえか!」ガレオンが嬉しそうに叫ぶ。


「剣がありゃ、まだやれる。俺は止まんねえぞ!行くぞ、ミツヤ!」

 俺たちはまだやれると、周りを鼓舞する。その声に、ルカたちは幾度となく背中を押されてきた。

「ああ、もちろんだ。だが油断するなよ...。奥の方から、何か来る」


 木々の合間を、ゆっくりと歩く足音が聞こえた。


 鈍色(にびいろ)に光る影は、闇を裂いて、一歩、また一歩と輪郭を帯びる。

 周囲の獣たちは、まるで空気が変わったかのように、次々と身を引いた。

 吠えもせず、唸りもせず――ただ、道を譲った。


「後ろに下がってて!」

 ルカが馬車の男たちに向かって叫ぶ。

 鈍く光る牙。

 鋭く光をたたえた双眸。


 その影は、これまでのどの個体よりも大きく、そして、静かだった。灰色と黒色の毛皮を風に(なび)かせ、悠然(ゆうぜん)と、そして冷酷に、現れた。


 ルカは、体の震えが止まらなかった。

 あの日、僕を見て愉快そうに笑っていた、赤い目の――

 落雷のような咆哮が、ルカを現実に引き戻した。


 その威圧感に、少年たちは、悟る。


 ――自分たちは、この“主”の意思によって、生かされていたのだ、と。


 主は、無言のまま、しばし彼らを見下ろしていた。

 やがて――その視線が、ぴたりと“ひとり”に絞られる。


 主の視線は、“黒毛の小さき雄”――ミツヤに定まっていた。


 群れの中でも、よく動き、よく吠え、よく目立つ。

 こいつが群れの長か。ならば、まず潰す。



 少年たちは、主の思考を――本能で、理解した。

 


 ミツヤは、直感する。

――俺は、ここで、死ぬ。


 空気が遠のく。

 指先の感覚が、すっと消えた。

 それでも、心臓だけはいやに騒がしく、胸の内を打ち鳴らしている。


 恐怖ではなかった。

 違う。

 ただ、理解してしまっただけだ。


 あれは“獣”じゃない。

 灰色の――理不尽だ。


 意志を持った死。

 それが、いま、俺に手を伸ばそうとしている。

 

 主は、唸りもせず、ひとつ瞬きをする。

 次の瞬間、全身の毛がわずかに逆立ったように見えた。


 まるで、狙いを定める前の“鳥”のようだった。

 目を細め、それは、黒毛の小さき雄を射抜こうとする。

 

 鋭い爪が振るわれ、空気が裂ける音が響く。

 世界が少しだけ(きし)んだ気がした。

 ミツヤは、身じろぎひとつできず、その一瞬を、ただ、目に焼きつけていた。


 誰も来るな。

 ルカ、来るな。

 コーネル、戻ってくるな。

 俺だけ、ここで、終わるから、他の奴らは――。

 

「ダメだ! させない!」


 ルカが絶叫する。

 体を投げ出すように、ミツヤの前へ走る――

 だが、間に合わない。


 ――神様、お願い。あの子を。


 祈りなんて、意味はないと知っていた。

 それでも、願わずにはいられなかった。


 瞬間、主の鼻先を何かがかすめ、動きを止める。


「さっきの石の借りだ! 馬鹿野郎!」


 ガレオンだった。

 手に残った棒きれを、全力で投げつけていた。

 丸腰になることなど、どうでもよかった。

――この賢くて、気高いあいつを、目の前で死なせるわけにはいかない。

 その想いだけで、体が動いた。


 だが、それが逆鱗に触れた。


 主は怒りに身を震わせ、吠えた。

 そして、次の瞬間――跳び駆ける。


「ガレオン、危ない!」


 ルカが叫ぶ。

 主の爪が、無防備なガレオンを貫かんと振り下ろされる――。


 熱い。


 右手が、胸が、脳が、燃えるように叫んでいる。


 守りたい。

 その言葉が、自然と浮かんだ。


――あの日のことは、まだ分からない。

 あの人は、僕を助けたのか。

 それとも、捨てたのか。


 けれど、今はもう、どうでもよかった。


 目の前にいるこの人たちは、僕に手を伸ばしてくれた。

 僕が、守りたいと思える人たちだった。


 ただ、それだけで、体が動いた。

 

 ルカの右手から、ふわりと淡い光がこぼれる。

 血が沸騰するような熱さ。

 地面が脈動した。


 瞬きする間に、土の壁が、ガレオンの前に隆起する。


 ずど、と鈍い音。


 主の爪が叩きつけられた土壁に突き刺さり、わずかに届かず止まった。


 ミツヤはその光景に、強く枝を握り、息を吐く。

 兄弟の無事を、噛み締めるように。

 彼にとって、今は、何が起きたのかは、どうでも良かった。

 

「ルカ……いまのは、てめえか……?」

 ガレオンが呆けたように声を漏らす。

 ルカ自身、答えることができなかった。

 手のひらに残る、光の余韻だけが、確かなものだった。

 

――わからない。けれど。


「でも……止まらなかったんだ、体が――」


 そう言い終わらぬうちに、全身から力が抜けていくのを、ルカははっきりと感じた。

 手足が重い。視界が揺れる。膝が笑って、踏ん張ることすらできない。


 たった今、何かが自分の中で弾けた。

 でも――それは、もう使えない。


 いまのルカには、それを再び呼び戻す力は、残っていない。でも後悔はない。

 あの日、僕を守るために散った、母の命。彼女の選択の意味が、少しだけわかった気がする。


 それでも、やはり、怖い。

 胸の奥がひやりと冷たくなっていく。


 もう、終わりなのか……。


 地面に手をつく。

 叫びも、涙も、もう出なかった。

 ルカは、首飾りを力なく握りしめ、呟く。「おかあさん」



 そのとき世界が変わった。


 空気が、ひやりと冷えた。

 次の瞬間、獣たちがぴたりと動きを止める。

 木々の影を、一斉に振り返った。

 群れの主すらも、音もなく、そちらへと顔を向ける。



 静寂。



 次の瞬間、森の木々がざわめき――一本の影が、音もなく現れた。

 その姿を認識するよりも早く、数匹の獣が、悲鳴を上げる暇もなく命を落とした。



 外套を羽織った前掛け姿に、戦闘用とは言い難い小さなナイフ。

 返り血を浴びながら、いつのまにか少年たちと“主”の間に割って入っていた男は、歯を剥き威嚇する巨獣に、一瞥もくれず通り過ぎ――。

 静かに、だが確かに言った。


「倅ども。よく耐えた。後で、抱きしめてやる」


 アズルが現れた瞬間、張りつめていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。

 ルカの視界がにじむ。もう、涙が止まらない。掌の首飾りを強く、強く握りしめた。

 恐怖でも、痛みでもない。

「ああ、助かった」

 そう思った。

 ただ、それだけだった。

 

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