第三話 産声 前編
「おい!枝が折れちまった!どうすんだよ!」
ガレオンが叫び、焦りをにじませながらも、視線は獣たちから外さない。
左腕は血まみれだった。深く噛みちぎられた傷口が、生々しく口を開いている。
それでも、彼は立っていた。歯を食いしばり、片腕でも構えを崩さない。
「僕のも……もう、限界かも……」
ルカはそう呟くと、肩を上下させながら呼吸を整えようとする。
頬には浅い切り傷。体力の消耗が激しく、膝は震え、意識もぼんやりしかけている。
彼らの足元には、倒れた獣の死骸。
幼い手には余るはずの相手を、彼らは確かに幾つも退けてきた。
しかし、雨すらも体力を奪い、限界は確実に近づいている。
ミツヤは、前屈みになり、楽な姿勢をとる。濡れた髪の中から、視線だけで周囲を見渡していた。
――コーネルは、まだ親父の元へ着いていないか。頼む。急いでくれ。
心の中で、願う。
右の肩を浅く裂かれ、血が滲んでいる。二人が、傷ついている。俺の指揮のせいだ。何がバランスを取るだ、と深く自嘲する。
けれど今は、その後悔も迷いも切り捨てた。ただ、目の前の敵に集中する。
視界が冴える。雑音が消え、思考がひと筋に絞られていく。
そのとき、ふと脳裏をよぎった。
――おかしい。
“それ”が、まだ現れていない。
狼の化け物は、群れで動く。ならば当然、統率者――“主”がいるはずだ。
姿を見せないのは、油断か? それともこちらの力量を測っているのか?
……いや、違う。
ミツヤの胸に、静かなざらつきが残る。
群れの主とは、最も賢く、最も慎重で、そして――最も勇敢な個体。
だからこそ、出てこない。
まるで“何か”を――警戒しているかのようだった。
その瞬間。
木々のざわめきがぴたりと止まり、空気が反転したような気配が漂う。
風は止み、森全体が息を潜める。
ただならぬ“何か”が、近づいている――
ミツヤは、確かな確信としてそれを感じ取った。
そこへ、声が響いた。
◆
「ちょっと!危ないから入ってなさい!」
「離してよ、お母さん! 私たちのために、誰かが戦ってるのに……黙って見てるなんて、できないわよ!」
震え混じりの少女の声が、張り詰めた空気を裂いた。
思考を遮られたミツヤが、はっと顔を上げる。
「あなたたち!これ、使いなさい!!」
馬車の扉から身を乗り出したのは、母親の制止を振り切った栗毛の少女だった。
細い腕は震えていたが、それでも両手で剣をしっかりと抱え、まっすぐこちらを見据えている。
「アイリス! その手があったか!」
男が驚きと共に声を上げ、振り返った――その一瞬。
獣が動いた。
地を蹴り、男の背中へ向けて前足を振り上げる。その動きは、昔見た記憶に重なった。
アイリスは、迷いなく剣を投げた。
宙を舞った剣は、落下の勢いで鞘から滑り落ちる。
鈍色の刀身が、回転しながら雨粒を裂いて、落ちてくる。
ルカは、それを無意識に受け止めた。
そして次の瞬間――
今にも男に突き刺さろうという獣の前足を、振りかぶることすらなく。
ただ反射的に、本能のまま――
斬り飛ばした。
一瞬遅れて、赤い飛沫がルカの視界に焼きついた。
「大丈夫ですか!」
体を震わせながら、ルカが叫ぶ。
男は、獣の返り血を浴びながらも、首を縦に振り続けていた。
「ルカ!てめえ!やるじゃねえか!」ガレオンが嬉しそうに叫ぶ。
「剣がありゃ、まだやれる。俺は止まんねえぞ!行くぞ、ミツヤ!」
俺たちはまだやれると、周りを鼓舞する。その声に、ルカたちは幾度となく背中を押されてきた。
「ああ、もちろんだ。だが油断するなよ...。奥の方から、何か来る」
木々の合間を、ゆっくりと歩く足音が聞こえた。
◆
鈍色に光る影は、闇を裂いて、一歩、また一歩と輪郭を帯びる。
周囲の獣たちは、まるで空気が変わったかのように、次々と身を引いた。
吠えもせず、唸りもせず――ただ、道を譲った。
「後ろに下がってて!」
ルカが馬車の男たちに向かって叫ぶ。
鈍く光る牙。
鋭く光をたたえた双眸。
その影は、これまでのどの個体よりも大きく、そして、静かだった。灰色と黒色の毛皮を風に靡かせ、悠然と、そして冷酷に、現れた。
ルカは、体の震えが止まらなかった。
あの日、僕を見て愉快そうに笑っていた、赤い目の――
落雷のような咆哮が、ルカを現実に引き戻した。
その威圧感に、少年たちは、悟る。
――自分たちは、この“主”の意思によって、生かされていたのだ、と。
主は、無言のまま、しばし彼らを見下ろしていた。
やがて――その視線が、ぴたりと“ひとり”に絞られる。
主の視線は、“黒毛の小さき雄”――ミツヤに定まっていた。
群れの中でも、よく動き、よく吠え、よく目立つ。
こいつが群れの長か。ならば、まず潰す。
少年たちは、主の思考を――本能で、理解した。
ミツヤは、直感する。
――俺は、ここで、死ぬ。
空気が遠のく。
指先の感覚が、すっと消えた。
それでも、心臓だけはいやに騒がしく、胸の内を打ち鳴らしている。
恐怖ではなかった。
違う。
ただ、理解してしまっただけだ。
あれは“獣”じゃない。
灰色の――理不尽だ。
意志を持った死。
それが、いま、俺に手を伸ばそうとしている。
主は、唸りもせず、ひとつ瞬きをする。
次の瞬間、全身の毛がわずかに逆立ったように見えた。
まるで、狙いを定める前の“鳥”のようだった。
目を細め、それは、黒毛の小さき雄を射抜こうとする。
鋭い爪が振るわれ、空気が裂ける音が響く。
世界が少しだけ軋んだ気がした。
ミツヤは、身じろぎひとつできず、その一瞬を、ただ、目に焼きつけていた。
誰も来るな。
ルカ、来るな。
コーネル、戻ってくるな。
俺だけ、ここで、終わるから、他の奴らは――。
「ダメだ! させない!」
ルカが絶叫する。
体を投げ出すように、ミツヤの前へ走る――
だが、間に合わない。
――神様、お願い。あの子を。
祈りなんて、意味はないと知っていた。
それでも、願わずにはいられなかった。
瞬間、主の鼻先を何かがかすめ、動きを止める。
「さっきの石の借りだ! 馬鹿野郎!」
ガレオンだった。
手に残った棒きれを、全力で投げつけていた。
丸腰になることなど、どうでもよかった。
――この賢くて、気高いあいつを、目の前で死なせるわけにはいかない。
その想いだけで、体が動いた。
だが、それが逆鱗に触れた。
主は怒りに身を震わせ、吠えた。
そして、次の瞬間――跳び駆ける。
「ガレオン、危ない!」
ルカが叫ぶ。
主の爪が、無防備なガレオンを貫かんと振り下ろされる――。
熱い。
右手が、胸が、脳が、燃えるように叫んでいる。
守りたい。
その言葉が、自然と浮かんだ。
――あの日のことは、まだ分からない。
あの人は、僕を助けたのか。
それとも、捨てたのか。
けれど、今はもう、どうでもよかった。
目の前にいるこの人たちは、僕に手を伸ばしてくれた。
僕が、守りたいと思える人たちだった。
ただ、それだけで、体が動いた。
ルカの右手から、ふわりと淡い光がこぼれる。
血が沸騰するような熱さ。
地面が脈動した。
瞬きする間に、土の壁が、ガレオンの前に隆起する。
ずど、と鈍い音。
主の爪が叩きつけられた土壁に突き刺さり、わずかに届かず止まった。
ミツヤはその光景に、強く枝を握り、息を吐く。
兄弟の無事を、噛み締めるように。
彼にとって、今は、何が起きたのかは、どうでも良かった。
「ルカ……いまのは、てめえか……?」
ガレオンが呆けたように声を漏らす。
ルカ自身、答えることができなかった。
手のひらに残る、光の余韻だけが、確かなものだった。
――わからない。けれど。
「でも……止まらなかったんだ、体が――」
そう言い終わらぬうちに、全身から力が抜けていくのを、ルカははっきりと感じた。
手足が重い。視界が揺れる。膝が笑って、踏ん張ることすらできない。
たった今、何かが自分の中で弾けた。
でも――それは、もう使えない。
いまのルカには、それを再び呼び戻す力は、残っていない。でも後悔はない。
あの日、僕を守るために散った、母の命。彼女の選択の意味が、少しだけわかった気がする。
それでも、やはり、怖い。
胸の奥がひやりと冷たくなっていく。
もう、終わりなのか……。
地面に手をつく。
叫びも、涙も、もう出なかった。
ルカは、首飾りを力なく握りしめ、呟く。「おかあさん」
そのとき世界が変わった。
空気が、ひやりと冷えた。
次の瞬間、獣たちがぴたりと動きを止める。
木々の影を、一斉に振り返った。
群れの主すらも、音もなく、そちらへと顔を向ける。
静寂。
次の瞬間、森の木々がざわめき――一本の影が、音もなく現れた。
その姿を認識するよりも早く、数匹の獣が、悲鳴を上げる暇もなく命を落とした。
外套を羽織った前掛け姿に、戦闘用とは言い難い小さなナイフ。
返り血を浴びながら、いつのまにか少年たちと“主”の間に割って入っていた男は、歯を剥き威嚇する巨獣に、一瞥もくれず通り過ぎ――。
静かに、だが確かに言った。
「倅ども。よく耐えた。後で、抱きしめてやる」
アズルが現れた瞬間、張りつめていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
ルカの視界がにじむ。もう、涙が止まらない。掌の首飾りを強く、強く握りしめた。
恐怖でも、痛みでもない。
「ああ、助かった」
そう思った。
ただ、それだけだった。




