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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
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第二話 雨の強い日に 後編


 その悲鳴が雨音を切り裂き、響いたとき、四人はちょうど街道を歩いていた。

 誰もがそれを聞いた。


 「今……聞こえたか?」


「……悲鳴、だよね……?」


「おい、冗談だろ……」

 コーネルは顔をしかめ、尻込みする。


「おい! 行くぞっ!」

 ガレオンが叫ぶ。その声は、どこまでも真っ直ぐだった。

 誰かが助けを呼ぶのなら――思考は必要ない。

 駆け出す足取りには、一片の迷いもなかった。

 


 「……ったく、あのバカは……!」

 舌打ち交じりに、ミツヤも地を蹴る。

 その背には、いつもの冷静な気配は残っていなかった。


 ルカは一瞬だけ立ち止まる。あの日自分を助けてくれた、"蒼羽の巣"の長兄の幼き日の姿を思い出し、自身を奮い立たせるように。


 震えているコーネルを振り返った。


「……怖いよね。でも、もしかしたら、僕たちより怖い思いをしてる人が――この先にいるかもしれない」

「行こう」


 そう言って、ルカはコーネルの背中に、そっと手を添えた。


 その手が、震えているのを、コーネルははっきりと感じた。

 けれどそれが、かえって勇気をくれた気がした。


 コーネルは、小さく頷く。


 二人は、無言のまま駆け出した。


 濡れた地面が、ぐしゃりと音を立てる。

 森の木々の葉擦れの音は、やけに遠くに感じられた。


 

 森の方へ駆ける。距離は意外と近かったようで、すぐに悲鳴の原因がわかった。

 狼じみた化け物が円を組み、馬車を囲んでいた。

 

 馬も人も、今のところは無事らしい。

 馬車の扉の前では、中年の男が鞭を振り回し、荒々しく獣たちを牽制している。


 悲鳴は――馬車の中からだった。


 手にしたのは、木の枝。武器とは呼べないそれを、ガレオンは両手で握りしめた。

 声を上げる暇もなく、肩から突っ込むように飛び出す。

 一番手前、眼前の敵に向かい全身の勢いをそのままに、振り抜いた。

 

 だが、獣は素早く距離を取り、攻撃は空を切った。

 

 大きさこそ、せいぜい子犬ほど。だが、牙は異様に発達しており、噛まれたなら皮膚は裂かれ、肉すらも削がれるだろう。

 

「ちくしょう、振りがデカくなっちまった……!」

 ガレオンが歯ぎしりしながら振り返る。


「……いつも言われてるのに、直さないからだ。バカ」

 ミツヤの口調は冷たかったが、その目だけは――どこか強張っていた。


「うるせえ!今、覚えたんだよ!」

 舌打ちし、すぐに姿勢を立て直すと、ガレオンは怒鳴った。


 「で、どうする!俺らはどう動く!?」

 ガレオンの声に、誰もがミツヤを振り返る。

 全身の毛が粟立(あわだ)つのを感じた。

 喉が渇く。指先が冷たい。己の出す命令に、兄弟の命がかかっている。

 怖い、と素直に思った。

 しかし、こういう時こそ自信を持て。俺を信じるこいつらを裏切るわけにはいかない。


「ルカ、お前は馬車の男のところへ行け。守れ」

「ガレオン、お前はそのために突っ込んで、隙を作れ。思いっきり暴れろ」

「コーネル、町へ戻って、親父を呼んでこい。お前が一番速い」

 ミツヤは矢継ぎ早に命じると、最後に言い添えた。


「――そして、俺が、お前らのバランスをとる」

 兄弟たちの動きを察知し、戦場を調律する。

 それが、ミツヤが自らに課した、責務だった。


 コーネルは一歩、後ずさるように足を引いた。

「で、でも……」


「てめえ! 見捨てるとかじゃねえ!」

 ガレオンが怒鳴る。「俺たちが生き残るために、親父を呼べって――この皮肉野郎は言ってんだよ!」


 ルカも、兄弟の肩にそっと手を置いた。

「コーネル、大丈夫だよ。僕たちを信じて。僕たちも、君を信じてるから」


 しばし、唇を噛んでいたコーネルだったが、

「わ、わかった! ちゃんと呼んでくるからな!」

 叫ぶように言って、くるりと踵を返し、森の入り口へと駆け出していった。


 その背中は小さく、心細げに見えた。だが、その足は――誰よりも速かった。


 ルカは、折れなかった。

 ガレオンは、揺るがなかった。

 コーネルもまた、最後には一歩を踏み出せた。


 そんな“兄弟”たちの姿を、ミツヤは横目で見ていた。

 その胸に去来するのは――憧れと、うまく言葉にできない苛立ち。

 強がってしまう自分の、どうしようもない“卑怯さ”。

 それを、痛いほど自覚していた。


 

 残った三人は、互いに顔を見合わせることなく、まっすぐ前を向いた。

 その視線の先には、獣に包囲された馬車と、扉を背に立つ男の姿があった。


「……お前ら、いけるか」


 ミツヤが低く問う。

「右側、三匹。――あそこから行くぞ」


「いつでも行けるっつってんだろ」

 ガレオンが鼻を鳴らし、枝を構え直す。


「……僕もだ!」

 ルカの声には、わずかに震えが混じっていた。

 それでも、その眼差しは揺るがなかった。


 ミツヤが短く息を吐く。

「――行け!」


 ミツヤの合図で一斉に三人は動く。拙く、練度は低い。しかし、意思の共有は、できている。

 

 ガレオンが一歩前に出る。

 唸るように声をあげ、最も近い獣へと飛びかかる。

 失敗は許されない。手が震える。でも、止まらない。


「そこどけぇッ!!」


 木の枝を、小さく――鋭く振り抜く。枝についた水滴は、一条の線となり、軌道を描く。

 その一撃は、先ほどとは違っていた。


 獣は反応しきれず、肉を裂かれたような悲鳴をあげて、よろめいた。

 そのまま、地面に転がる。


「よし……!」


 恐怖はもう、なかった。

 ただ、戦う目をしていた。


 すかさず、ガレオンは二匹目との間合いを詰める。

 枝を横なぎに振る――が、牙に止められる。雨に濡れた草は、いつもよりも踏み込みにくく、振りは鈍かった。

 そして、前脚がガレオンを狙う。


「ちっ……!」


 その瞬間。


 獣の横から、何かが飛ぶ。


 礫だった。

 ミツヤが放ったそれは、獣のこめかみに命中した。

 鈍い音。獣は悲鳴をあげ、体勢を崩す。


「今のは無しだ」

 ガレオンが歯を食いしばり、枝を構え直す。

「ちょっと振りがデカくなっちまっただけだ!」

 言葉は虚勢だが、声の揺れは隠せなかった。

 それでも彼は、退かない。


 その背には、仲間がいる――。

 それだけで、何度でも立ち上がれると思えた。

 

 ガレオンとミツヤが拓いた突破口を縫い、ルカは獣の隙間をすり抜ける。

 叫びもせず、構えもせず――ただ静かに、だが迷いなく。

 一直線に、馬車の男のもとを目指して飛び込んだ。

 雨に濡れた靴の音だけが、獣の唸りを切り裂く。

 

 鞭を振るっていた男が、ちらりとこちらを振り返る。

 腕からは血が垂れ、息が切れている。

 その瞳に浮かんでいたのは、助けを乞う色ではなかった。

 むしろ、誰かを守ろうとする――強く、まっすぐな意志。

 


 牙がすぐ足首を裂かんと迫るのを、地を蹴ってかわし、その勢いのまま馬車に飛び乗った。

 水滴が、体と共に跳ねた。

 馬車の中の二人の女性の悲鳴は、雨音よりも鮮明に聞こえた。

「任せてください!」


 ルカは男の前に立ち、構える。

 獣との間に身を投じ、まるでそこが自分の居場所であるかのように。

 足は震えていた。呼吸も早い。それでも――決して退かなかった。


 怖い。

 自分に、果たして何ができるというのか。

 たった一本の枝で、何が守れるというのか。


 それでも――


 この人を。

 この人が守ろうとしている、大切な誰かを。

 僕が、守る。


 雨に薄まった血と獣の匂いが鼻に刺さる――それが、ルカにとっての初めての“戦い”だった。

 


 はぁ、はぁ、と肩で息をしながら――それでも、少年は走っていた。

 小柄なその体で、懸命に、まっすぐに。


 あいつらは、今日の識別式、いちばん凡庸だった自分を信じてくれた。

 だから今、自分にできることは――たった一つ。

 父親を、呼んでくることだ。


 体が、重く感じる。雨を吸った外套のせいか。それとも、慣れない町への道のせいだろうか。


 震える足。乱れる呼吸。雨粒も、目に入る。

 それらを、ただ気力だけでねじ伏せるようにして、木々の間を抜けていく。


 やがて――町の門へと辿り着いた。目的地は手紙屋。


 一度も足を止めなかった。

 振り返ることもなかった。

 ただ、真っ直ぐに、走った。


 手紙屋へ辿り着く前に、アズルが町の出口へ歩いてくるのが見えた。


「親父さん!化け物が……!」

 

 "蒼羽の巣"へ戻ったはずの息子の慌てふためき、疲れ果てた姿を見て、アズルは目を細めた。


 そして、短く――問うた。


「……何匹だ?」


 その声を聞いた瞬間、限界まで張りつめていた膝が、崩れた。


「わからない!けど!狼の群れだ!」

 力の限り伝える。

 

 けれど、息子の心には、はっきりとした確信があった。

 ――もう、大丈夫だ。

 

 ――違う。

 “大丈夫だと思いたい”ではない。

 “この人が動けば、必ず間に合う”。

 ずっとそう信じていた、背中だった。


 コーネルは、震える体に力を込める。

 崩れた膝を持ち上げ、地面を蹴ろうとする。

 もう一度――あの場所へ、戻るために。


 その視線の先で、アズルが動いた。


 父は、何も言わずに走り出した。

 雨に濡れた地面を、長い足で蹴るようにして。

 大地を鳴らすような足音が、その背中から響いてくる。


 それを、コーネルは見ていた。

 そして歯を食いしばり、泥を払うようにして立ち上がる。


 さっき、ルカが言った。


 ――「信じてる」って。


 ならば、今度は――自分の番だ。


 強い雨は止まない。

 それでも、少年はもう一度、走り出した。

 

 

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