第二話 雨の強い日に 後編
その悲鳴が雨音を切り裂き、響いたとき、四人はちょうど街道を歩いていた。
誰もがそれを聞いた。
「今……聞こえたか?」
「……悲鳴、だよね……?」
「おい、冗談だろ……」
コーネルは顔をしかめ、尻込みする。
「おい! 行くぞっ!」
ガレオンが叫ぶ。その声は、どこまでも真っ直ぐだった。
誰かが助けを呼ぶのなら――思考は必要ない。
駆け出す足取りには、一片の迷いもなかった。
「……ったく、あのバカは……!」
舌打ち交じりに、ミツヤも地を蹴る。
その背には、いつもの冷静な気配は残っていなかった。
ルカは一瞬だけ立ち止まる。あの日自分を助けてくれた、"蒼羽の巣"の長兄の幼き日の姿を思い出し、自身を奮い立たせるように。
震えているコーネルを振り返った。
「……怖いよね。でも、もしかしたら、僕たちより怖い思いをしてる人が――この先にいるかもしれない」
「行こう」
そう言って、ルカはコーネルの背中に、そっと手を添えた。
その手が、震えているのを、コーネルははっきりと感じた。
けれどそれが、かえって勇気をくれた気がした。
コーネルは、小さく頷く。
二人は、無言のまま駆け出した。
濡れた地面が、ぐしゃりと音を立てる。
森の木々の葉擦れの音は、やけに遠くに感じられた。
◆
森の方へ駆ける。距離は意外と近かったようで、すぐに悲鳴の原因がわかった。
狼じみた化け物が円を組み、馬車を囲んでいた。
馬も人も、今のところは無事らしい。
馬車の扉の前では、中年の男が鞭を振り回し、荒々しく獣たちを牽制している。
悲鳴は――馬車の中からだった。
手にしたのは、木の枝。武器とは呼べないそれを、ガレオンは両手で握りしめた。
声を上げる暇もなく、肩から突っ込むように飛び出す。
一番手前、眼前の敵に向かい全身の勢いをそのままに、振り抜いた。
だが、獣は素早く距離を取り、攻撃は空を切った。
大きさこそ、せいぜい子犬ほど。だが、牙は異様に発達しており、噛まれたなら皮膚は裂かれ、肉すらも削がれるだろう。
「ちくしょう、振りがデカくなっちまった……!」
ガレオンが歯ぎしりしながら振り返る。
「……いつも言われてるのに、直さないからだ。バカ」
ミツヤの口調は冷たかったが、その目だけは――どこか強張っていた。
「うるせえ!今、覚えたんだよ!」
舌打ちし、すぐに姿勢を立て直すと、ガレオンは怒鳴った。
「で、どうする!俺らはどう動く!?」
ガレオンの声に、誰もがミツヤを振り返る。
全身の毛が粟立つのを感じた。
喉が渇く。指先が冷たい。己の出す命令に、兄弟の命がかかっている。
怖い、と素直に思った。
しかし、こういう時こそ自信を持て。俺を信じるこいつらを裏切るわけにはいかない。
「ルカ、お前は馬車の男のところへ行け。守れ」
「ガレオン、お前はそのために突っ込んで、隙を作れ。思いっきり暴れろ」
「コーネル、町へ戻って、親父を呼んでこい。お前が一番速い」
ミツヤは矢継ぎ早に命じると、最後に言い添えた。
「――そして、俺が、お前らのバランスをとる」
兄弟たちの動きを察知し、戦場を調律する。
それが、ミツヤが自らに課した、責務だった。
コーネルは一歩、後ずさるように足を引いた。
「で、でも……」
「てめえ! 見捨てるとかじゃねえ!」
ガレオンが怒鳴る。「俺たちが生き残るために、親父を呼べって――この皮肉野郎は言ってんだよ!」
ルカも、兄弟の肩にそっと手を置いた。
「コーネル、大丈夫だよ。僕たちを信じて。僕たちも、君を信じてるから」
しばし、唇を噛んでいたコーネルだったが、
「わ、わかった! ちゃんと呼んでくるからな!」
叫ぶように言って、くるりと踵を返し、森の入り口へと駆け出していった。
その背中は小さく、心細げに見えた。だが、その足は――誰よりも速かった。
ルカは、折れなかった。
ガレオンは、揺るがなかった。
コーネルもまた、最後には一歩を踏み出せた。
そんな“兄弟”たちの姿を、ミツヤは横目で見ていた。
その胸に去来するのは――憧れと、うまく言葉にできない苛立ち。
強がってしまう自分の、どうしようもない“卑怯さ”。
それを、痛いほど自覚していた。
◆
残った三人は、互いに顔を見合わせることなく、まっすぐ前を向いた。
その視線の先には、獣に包囲された馬車と、扉を背に立つ男の姿があった。
「……お前ら、いけるか」
ミツヤが低く問う。
「右側、三匹。――あそこから行くぞ」
「いつでも行けるっつってんだろ」
ガレオンが鼻を鳴らし、枝を構え直す。
「……僕もだ!」
ルカの声には、わずかに震えが混じっていた。
それでも、その眼差しは揺るがなかった。
ミツヤが短く息を吐く。
「――行け!」
ミツヤの合図で一斉に三人は動く。拙く、練度は低い。しかし、意思の共有は、できている。
ガレオンが一歩前に出る。
唸るように声をあげ、最も近い獣へと飛びかかる。
失敗は許されない。手が震える。でも、止まらない。
「そこどけぇッ!!」
木の枝を、小さく――鋭く振り抜く。枝についた水滴は、一条の線となり、軌道を描く。
その一撃は、先ほどとは違っていた。
獣は反応しきれず、肉を裂かれたような悲鳴をあげて、よろめいた。
そのまま、地面に転がる。
「よし……!」
恐怖はもう、なかった。
ただ、戦う目をしていた。
すかさず、ガレオンは二匹目との間合いを詰める。
枝を横なぎに振る――が、牙に止められる。雨に濡れた草は、いつもよりも踏み込みにくく、振りは鈍かった。
そして、前脚がガレオンを狙う。
「ちっ……!」
その瞬間。
獣の横から、何かが飛ぶ。
礫だった。
ミツヤが放ったそれは、獣のこめかみに命中した。
鈍い音。獣は悲鳴をあげ、体勢を崩す。
「今のは無しだ」
ガレオンが歯を食いしばり、枝を構え直す。
「ちょっと振りがデカくなっちまっただけだ!」
言葉は虚勢だが、声の揺れは隠せなかった。
それでも彼は、退かない。
その背には、仲間がいる――。
それだけで、何度でも立ち上がれると思えた。
ガレオンとミツヤが拓いた突破口を縫い、ルカは獣の隙間をすり抜ける。
叫びもせず、構えもせず――ただ静かに、だが迷いなく。
一直線に、馬車の男のもとを目指して飛び込んだ。
雨に濡れた靴の音だけが、獣の唸りを切り裂く。
鞭を振るっていた男が、ちらりとこちらを振り返る。
腕からは血が垂れ、息が切れている。
その瞳に浮かんでいたのは、助けを乞う色ではなかった。
むしろ、誰かを守ろうとする――強く、まっすぐな意志。
牙がすぐ足首を裂かんと迫るのを、地を蹴ってかわし、その勢いのまま馬車に飛び乗った。
水滴が、体と共に跳ねた。
馬車の中の二人の女性の悲鳴は、雨音よりも鮮明に聞こえた。
「任せてください!」
ルカは男の前に立ち、構える。
獣との間に身を投じ、まるでそこが自分の居場所であるかのように。
足は震えていた。呼吸も早い。それでも――決して退かなかった。
怖い。
自分に、果たして何ができるというのか。
たった一本の枝で、何が守れるというのか。
それでも――
この人を。
この人が守ろうとしている、大切な誰かを。
僕が、守る。
雨に薄まった血と獣の匂いが鼻に刺さる――それが、ルカにとっての初めての“戦い”だった。
◆
はぁ、はぁ、と肩で息をしながら――それでも、少年は走っていた。
小柄なその体で、懸命に、まっすぐに。
あいつらは、今日の識別式、いちばん凡庸だった自分を信じてくれた。
だから今、自分にできることは――たった一つ。
父親を、呼んでくることだ。
体が、重く感じる。雨を吸った外套のせいか。それとも、慣れない町への道のせいだろうか。
震える足。乱れる呼吸。雨粒も、目に入る。
それらを、ただ気力だけでねじ伏せるようにして、木々の間を抜けていく。
やがて――町の門へと辿り着いた。目的地は手紙屋。
一度も足を止めなかった。
振り返ることもなかった。
ただ、真っ直ぐに、走った。
手紙屋へ辿り着く前に、アズルが町の出口へ歩いてくるのが見えた。
「親父さん!化け物が……!」
"蒼羽の巣"へ戻ったはずの息子の慌てふためき、疲れ果てた姿を見て、アズルは目を細めた。
そして、短く――問うた。
「……何匹だ?」
その声を聞いた瞬間、限界まで張りつめていた膝が、崩れた。
「わからない!けど!狼の群れだ!」
力の限り伝える。
けれど、息子の心には、はっきりとした確信があった。
――もう、大丈夫だ。
――違う。
“大丈夫だと思いたい”ではない。
“この人が動けば、必ず間に合う”。
ずっとそう信じていた、背中だった。
コーネルは、震える体に力を込める。
崩れた膝を持ち上げ、地面を蹴ろうとする。
もう一度――あの場所へ、戻るために。
その視線の先で、アズルが動いた。
父は、何も言わずに走り出した。
雨に濡れた地面を、長い足で蹴るようにして。
大地を鳴らすような足音が、その背中から響いてくる。
それを、コーネルは見ていた。
そして歯を食いしばり、泥を払うようにして立ち上がる。
さっき、ルカが言った。
――「信じてる」って。
ならば、今度は――自分の番だ。
強い雨は止まない。
それでも、少年はもう一度、走り出した。




