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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
4/26

断章 世界の終わり

※グロ注意です。

 ですが、読んでいただいた方が、より作品を楽しめると思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ◆


 その日、町は祝祭のようににぎわっていた。

 空は晴れわたり、風には果物の瑞々しい香りが混じっていた。


 騒がしさのなかに一人、ぽつんと立つ影。


「おかあさん、どこ……?」


 赤い髪の幼子が、商店の前で立ち尽くしていた。

 小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめ、きょろきょろと周囲を見回す。


 泣き出しそうな顔。でも、まだ泣いていなかった。

 見つけてもらえなくなる気がして、涙をこらえている。


 衛兵の笑い声。露店の呼び声。

 どこにでもある、平和な町の風景だった。


 ――ほんの一秒前までは。


 空が突然、光を捨てた。


 雲もない。陽も沈んでいない。

 なのに、空から“影”が降りてきた。


 音だけがあった。鳥たちの鳴き声。羽は散り、天から粘り気のある雫が落ちる。


 それは、焼けただれたような裂け目を全身に刻んでいた。

 赤黒くにじむ血をまとい、ゆがんだ肢体を引きずるように立ち上がる。


 見たこともない形。

 “異形”だった。


 関節をぎしりと(きし)ませ、毛を逆立てながら、異形は(わら)っていた。


 足が地を踏んだ瞬間、大地が震えた。


 あちこちから上がる悲鳴は、旋律(せんりつ)を奏でた。


 衛兵の放った炎が目の前を走り、一直線に異形を襲う。


 だが、それに意味はなかった。


 炎は、まるで吸い込まれるように皮膚に呑まれていった。

 返すように、異形の腕が伸びる。


 骨が鳴る音がした。


 喉が潰れる。肉が裂ける。――何かが折れる音だけが、一拍遅れて届いた。

 朱色が地面に広がった。


 悲鳴が、悲鳴を重ねた。


 町が、地獄に変わっていく。


 “それ”は、喰らい始めた。

 熟れた果実を潰すように、頭部が割られる。

 黒ずんだ液体が、喉の奥に吸い込まれていった。


 咀嚼(そしゃく)を繰り返し、ゆっくりと顔を上げる。


 唇のまわりが、どす黒く濡れている。


 その目は、一度も閉じられなかった。


 ただの食事ではなかった。

 ――“儀式”のようにも見える。


「ルカ……?ルカ、どこ……!」


 喧騒の中で、ひとりの女が人波をかき分けて駆けていた。

 果物に手を伸ばした、ほんの一瞬の隙。

 隣にいたはずの息子の手が、いつの間にか離れていた。


 焦りと恐怖が、胸を締めつける。


 目に飛び込んできた――赤い髪。小さな背中。


「ルカ……っ!」


 押し寄せる群衆に逆らいながら、女は駆けた。

 ぶつかっても、転んでも、構わなかった。


 ようやく、幼い体へと手が届く。


 あたたかい。震えている。泣いている。

 それでも、確かに、生きていた。


 

 教会の前に立つ女神像が、血を浴びていた。

 目元を伝う赤が、まるで涙のように見えた。


 その足元では、異形が遺体を(もてあそ)んでいる。

 四つ足でにじるように地を()いながら、遊ぶかのように。


 幸い、まだこちらを見てはいなかった。


 

 女は喉元に手を伸ばす。

 鎖が揺れ、指先に冷たい金属の感触が伝わる。


 亡き夫が遺した、たった一つの形見。

 首飾りを、そっと息子の首にかけ直す。


 震える小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。


 「……いい子だから。掴んでなさい。絶対に」


 声は震えていた。

 けれど、言葉には、迷いがなかった。


 「お母さんも、離さないから……」


 それは、祈りではなかった。決意だった。


 


 群衆の波が押し寄せる。ぶつかる。

 女は弾かれ、足を取られて転倒した。肘を地面に強く打ちつける。


 それでも、腕の中のルカは離さなかった。


 小さな腕が、必死にしがみついてくる。


 耳元で、泣き声があがった。


 


 その声に――異形が反応した。


 血を踏みしめる、ぬめるような足音。

 ばらばらに動く四肢(しし)が、重たく地を掻いて近づいてくる。指揮を振るうように、一心不乱にこちらに這う。


 影が、すぐそこに迫っていた。


 視界の先に、川が見えた。


 間に合わない。走れない。


 この腕の中の命を、守りきることはできない――。

 女は、ためらわない。


 ルカを抱きしめた。


 小さな肩が、びくりと震える。


 その背に手を回し、全身で包み込むように支える。


 吐くように、息を止めた。


「生きなさい……ごめんね」


 


 腕を、振り抜いた。


 投げた。


 


 風が髪を撫で、川面が迫る。

 次の瞬間、水しぶきが高く弾けた。


 冷たい。痛い。息ができない。

 泡が舞い、暗闇がじわじわと視界を覆っていく。

 

――邪魔なのよ……連れ子のくせに。


 耳を裂くような声が、聞こえた。

 その音は、水よりも冷たかった。

 

 水中には、何も見えなかった。

 幻なのか、それとも異形の嘲り(あざけり)なのか。

 分からない。でも、確かなことがある。


 母の腕は、最後まで自分を守っていた――はずだ。


 

 不意に、影が差した。


 重たい何かが、ルカの体を掴む。


 ぐい、と引き上げられた。


 


 水面に出た瞬間、空気が喉を焼いた。

 咳き込み、息ができない。


 


 そして、目の前に――異形がいた。

 

 (あか)単眼(たんがん)が、まっすぐルカを見下ろしている。


 もう片方の手には、何かを掴んでいた。


 血と泥にまみれた布。袖口に、見覚えのある花の刺繍(ししゅう)


 垂れ下がった腕。


 ぐしゃり――鈍く響いた。


 異形はそれを泥の中に叩きつける。


 見てはいけないのに、どうしても目が逸らせなかった。


 異形が、喉の奥で嗤う。


 ただの音だった。


 けれど――肩が、震えていた。


 紅い単眼が、まっすぐこちらを見据えてくる。


 まるで、懐かしい何かを見つけたように。



 異形は、ぎしぎしと教会の方へ目を向ける。


 女神像の目元を伝う血の筋は、やはり、涙に見えた。


 それは、何かの――合図のようにも思えた。


 世界が色を失っていく。

 思考が止まり、体が動かない。


 紅い目が、じわじわと近づいてくる。

 その口が、ゆっくりと開いた。


 ばちん。乾いた音が鳴る。

 「そこの小僧!目ぇつぶれ!!」

 雷鳴のような怒声が空気を裂いた。

 本能で、まぶたを閉じる。


 次の瞬間――瞳の裏が白く焦げた。

 

 轟音。熱風。地の震え。


 世界が、断ち切られた。


 


 気配が遠ざかっていく。


 そのなかで、かすかに残った音があった。



 ざらついた、どこか嗤うような響き。


 「面白いものが見られた。今日はここまでとしてやる」


 

 (かす)む視界の中で青白い閃光がゆらゆらと揺れていた。


 

 そして――闇が落ちた。


 ◆

 目を閉じていたのは、一瞬のはずだった。


 けれど、目を開けたときにはもう、熱も、痛みも、気配も、すべて遠くにあった。


 誰かの叫ぶ声がした気がする。

 誰かが走る音も聞こえたような気がする。


 でも、もう動けない。

 ただ、冷たい地面を感じていた。



 母の顔が、記憶の底で揺れていた。


 自分をかばったときの腕の重さ。

 祈るようにかけてくれた言葉。

 ずっとそばにいてくれた、あの声――。



 どれがほんとうだったのか。


 どれだけ信じてよかったのか。


 けれど、一つだけわかることがあった。



 この日僕の世界は、一度、終わった。



 ――小さきものよ。悲劇を呪うか。

 それとも、刻印を背負い進むか。

 

 声が、闇に溶ける。その響きだけが、耳に残った。



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