断章 世界の終わり
※グロ注意です。
ですが、読んでいただいた方が、より作品を楽しめると思います。
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その日、町は祝祭のようににぎわっていた。
空は晴れわたり、風には果物の瑞々しい香りが混じっていた。
騒がしさのなかに一人、ぽつんと立つ影。
「おかあさん、どこ……?」
赤い髪の幼子が、商店の前で立ち尽くしていた。
小さな手で服の裾をぎゅっと握りしめ、きょろきょろと周囲を見回す。
泣き出しそうな顔。でも、まだ泣いていなかった。
見つけてもらえなくなる気がして、涙をこらえている。
衛兵の笑い声。露店の呼び声。
どこにでもある、平和な町の風景だった。
――ほんの一秒前までは。
空が突然、光を捨てた。
雲もない。陽も沈んでいない。
なのに、空から“影”が降りてきた。
音だけがあった。鳥たちの鳴き声。羽は散り、天から粘り気のある雫が落ちる。
それは、焼けただれたような裂け目を全身に刻んでいた。
赤黒くにじむ血をまとい、ゆがんだ肢体を引きずるように立ち上がる。
見たこともない形。
“異形”だった。
関節をぎしりと軋ませ、毛を逆立てながら、異形は嗤っていた。
足が地を踏んだ瞬間、大地が震えた。
あちこちから上がる悲鳴は、旋律を奏でた。
衛兵の放った炎が目の前を走り、一直線に異形を襲う。
だが、それに意味はなかった。
炎は、まるで吸い込まれるように皮膚に呑まれていった。
返すように、異形の腕が伸びる。
骨が鳴る音がした。
喉が潰れる。肉が裂ける。――何かが折れる音だけが、一拍遅れて届いた。
朱色が地面に広がった。
悲鳴が、悲鳴を重ねた。
町が、地獄に変わっていく。
“それ”は、喰らい始めた。
熟れた果実を潰すように、頭部が割られる。
黒ずんだ液体が、喉の奥に吸い込まれていった。
咀嚼を繰り返し、ゆっくりと顔を上げる。
唇のまわりが、どす黒く濡れている。
その目は、一度も閉じられなかった。
ただの食事ではなかった。
――“儀式”のようにも見える。
「ルカ……?ルカ、どこ……!」
喧騒の中で、ひとりの女が人波をかき分けて駆けていた。
果物に手を伸ばした、ほんの一瞬の隙。
隣にいたはずの息子の手が、いつの間にか離れていた。
焦りと恐怖が、胸を締めつける。
目に飛び込んできた――赤い髪。小さな背中。
「ルカ……っ!」
押し寄せる群衆に逆らいながら、女は駆けた。
ぶつかっても、転んでも、構わなかった。
ようやく、幼い体へと手が届く。
あたたかい。震えている。泣いている。
それでも、確かに、生きていた。
教会の前に立つ女神像が、血を浴びていた。
目元を伝う赤が、まるで涙のように見えた。
その足元では、異形が遺体を弄んでいる。
四つ足でにじるように地を這いながら、遊ぶかのように。
幸い、まだこちらを見てはいなかった。
女は喉元に手を伸ばす。
鎖が揺れ、指先に冷たい金属の感触が伝わる。
亡き夫が遺した、たった一つの形見。
首飾りを、そっと息子の首にかけ直す。
震える小さな体を、ぎゅっと抱きしめる。
「……いい子だから。掴んでなさい。絶対に」
声は震えていた。
けれど、言葉には、迷いがなかった。
「お母さんも、離さないから……」
それは、祈りではなかった。決意だった。
群衆の波が押し寄せる。ぶつかる。
女は弾かれ、足を取られて転倒した。肘を地面に強く打ちつける。
それでも、腕の中のルカは離さなかった。
小さな腕が、必死にしがみついてくる。
耳元で、泣き声があがった。
その声に――異形が反応した。
血を踏みしめる、ぬめるような足音。
ばらばらに動く四肢が、重たく地を掻いて近づいてくる。指揮を振るうように、一心不乱にこちらに這う。
影が、すぐそこに迫っていた。
視界の先に、川が見えた。
間に合わない。走れない。
この腕の中の命を、守りきることはできない――。
女は、ためらわない。
ルカを抱きしめた。
小さな肩が、びくりと震える。
その背に手を回し、全身で包み込むように支える。
吐くように、息を止めた。
「生きなさい……ごめんね」
腕を、振り抜いた。
投げた。
風が髪を撫で、川面が迫る。
次の瞬間、水しぶきが高く弾けた。
冷たい。痛い。息ができない。
泡が舞い、暗闇がじわじわと視界を覆っていく。
――邪魔なのよ……連れ子のくせに。
耳を裂くような声が、聞こえた。
その音は、水よりも冷たかった。
水中には、何も見えなかった。
幻なのか、それとも異形の嘲りなのか。
分からない。でも、確かなことがある。
母の腕は、最後まで自分を守っていた――はずだ。
不意に、影が差した。
重たい何かが、ルカの体を掴む。
ぐい、と引き上げられた。
水面に出た瞬間、空気が喉を焼いた。
咳き込み、息ができない。
そして、目の前に――異形がいた。
紅い単眼が、まっすぐルカを見下ろしている。
もう片方の手には、何かを掴んでいた。
血と泥にまみれた布。袖口に、見覚えのある花の刺繍。
垂れ下がった腕。
ぐしゃり――鈍く響いた。
異形はそれを泥の中に叩きつける。
見てはいけないのに、どうしても目が逸らせなかった。
異形が、喉の奥で嗤う。
ただの音だった。
けれど――肩が、震えていた。
紅い単眼が、まっすぐこちらを見据えてくる。
まるで、懐かしい何かを見つけたように。
異形は、ぎしぎしと教会の方へ目を向ける。
女神像の目元を伝う血の筋は、やはり、涙に見えた。
それは、何かの――合図のようにも思えた。
世界が色を失っていく。
思考が止まり、体が動かない。
紅い目が、じわじわと近づいてくる。
その口が、ゆっくりと開いた。
ばちん。乾いた音が鳴る。
「そこの小僧!目ぇつぶれ!!」
雷鳴のような怒声が空気を裂いた。
本能で、まぶたを閉じる。
次の瞬間――瞳の裏が白く焦げた。
轟音。熱風。地の震え。
世界が、断ち切られた。
気配が遠ざかっていく。
そのなかで、かすかに残った音があった。
ざらついた、どこか嗤うような響き。
「面白いものが見られた。今日はここまでとしてやる」
霞む視界の中で青白い閃光がゆらゆらと揺れていた。
そして――闇が落ちた。
◆
目を閉じていたのは、一瞬のはずだった。
けれど、目を開けたときにはもう、熱も、痛みも、気配も、すべて遠くにあった。
誰かの叫ぶ声がした気がする。
誰かが走る音も聞こえたような気がする。
でも、もう動けない。
ただ、冷たい地面を感じていた。
母の顔が、記憶の底で揺れていた。
自分をかばったときの腕の重さ。
祈るようにかけてくれた言葉。
ずっとそばにいてくれた、あの声――。
どれがほんとうだったのか。
どれだけ信じてよかったのか。
けれど、一つだけわかることがあった。
この日僕の世界は、一度、終わった。
◆
――小さきものよ。悲劇を呪うか。
それとも、刻印を背負い進むか。
声が、闇に溶ける。その響きだけが、耳に残った。




