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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
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余話 其の一 小さな手のひら

 平原を、女と男児は歩く。

「ネル。なんでパパは私に教えてくれなかったのかな」

 姉のその声に、コーネルは即答する。

「そりゃそうだよ。あんな事件が起こる可能性がありゃ、巻き込む訳ないだろ」

 その答えに、シエルはふふっ、とこぼした。

「やっぱあんた、ヴァルの弟ね。全く同じこと言ってたわ」

 少年は誇らしげに「当たり前だろ」と胸を張った。


 

 ユグナーの街に着いた時には、陽が落ちていた。夜だというのに、石畳に靴音が絶えなかった。香辛料の匂いと、客引きの声。ここは孤児院とは違う、眠らぬ街。

「なあ姉御。やけに人が多いけどさ、今日は識別式なのか?」

 コーネルの問いに、シエルは笑った。

「あんた、やっぱ私の弟だわ。私も初めてこの街に来た時には、歩いてる人に同じ質問をしたのよ」

 弟は少し照れくさそうに鼻を指で擦る。

「それで、どうなんだよ」

 気持ちを悟られぬよう、もう一度問う。

「なーんにもない、ただの一日よ。これがユグナーの当たり前」


「マジかよ。そりゃすげえ」

 どこまでも続くような店々を照らす魔導灯(まどうとう)と、店外を彩る看板に目をやりながら、コーネルは姉の後ろに続いた。

 この街の日常。緑の屋根の露天商は、からからと音を立てて回る魔導工具から綿飴を取り出していた。弟たちの喜ぶ顔が、頭によぎった。

 いつか、ミツヤとガレオンが帰ってきたなら、みんなにこの街を案内してやろう。


「ネル、夜は一人じゃ当分危ないからね。この辺は治安は悪くないけど、一本でも道を間違えたら――身ぐるみ剥がされてポイよ」

 振り返り、両手の甲を見せつつ、にやりと意地の悪そうに口角を上げる。


「大丈夫だよ。俺足速いから。逃げ切るさ」

 昔なら怖がったであろう弟のその言葉に、姉は成長を感じ、嬉しくもあり、寂しくもあった。

「あんた、ほんと変わったね。強くなった」

 

 それから何度か角を曲がり、姉は足を止める。気づけば喧騒は遠のき、街の中心からは忘れ去られた夜が、訪れていた。

「ここよ。私たちの家」

 二階の窓から溢れる明かりが、静かに二人を出迎えていた。


 

「ダーリン、ただいまー!」

 扉を開けて、大きな声で、姿の見えぬ夫に声をかけるが、返事はない。

「お邪魔します」

 姉のその甘えたような声を、なぜか気まずく思いながら、コーネルは、愛の巣へ足を踏み入れた。


「あなたのシーちゃんのお戻りよー!」

 虚しく響くその帰宅宣言は石壁に反射して、コーネルはついに抑えきれず吹き出した。

「ぶはっ、シーちゃんって、姉御。あっはっは」

 そして心の中で、兄弟たちに誓う。お前らと再会した時には、死ぬほど笑える話をしてやると。

「なに?なにが面白いわけ?」

 聞き覚えのある姉の声のトーンに、感情の予兆を察知して、先ほどの約束を撤回する。すまん、みんな。俺は今日死ぬかもしれない、と。

「あ……なにも」


「おかえりなちゃ〜い。僕のシ〜ちゃ〜ん」

 男の、にゅるりとした猫撫で声が、別部屋の扉越しに聞こえ、少年はまたも腹の奥が震え、奥歯を噛み締め堪えた。

 姿を表す。顔は全く違う上、目つきは柔らかい。けれど、前掛け姿に、少し禿げ上がった髪。育ての親に、一見似ていた。

 腰袋に見える金槌の持ち手は、かなり使い込まれているようで、それでも美しい木の色を保っていた。


「初めまして、コーネル・ドー――あ、いや。コーネル・プリュミノーです。姉がいつもお世話になってます。これから自分も、お世話になります」

 コーネル・ドータではなく、プリュミノー。たしかに、コーネルはいま、自ら姓を選んだ。

 そして、義兄、というには歳が離れすぎている男に、ゆっくりと頭を下げる。


「おお!君が、僕のシ〜ちゃ〜んの弟のネルちゃんだね!これからよろしくね〜」


「はあ……えーと、ネルちゃんってのはちょっと……」

 予想外の声掛けに、少しだけ面白さを感じつつ、いい人であることは確信した。


「まあ良いじゃない!僕はポポッツ・ポッツ。略してポッツ。鍛冶と魔導工具の職人さ。楽しくやろうね〜」

 ――ポとツしかねえじゃねえか。親は何してんだ、それにポッツってもはや略してねえだろ。と心の中で思いつつ、差し出された手をコーネルは握り返した。

 その瞬間、思い知る。

 厚い手のひら、指の腹にできたマメ。そして――繊細な指先。

 この人は、"作る"人の手をしている。父や兄とは違う山の高みにいる。

 自分の手のひらに、これほどの深みを持つことができるだろうか。


「そうだネルちゃん。この鉛筆、削ってくれないかな〜?ナイフ持ってる?」


 不意に渡されたそれを、不思議に思いながら、受け取る。

 腰帯からナイフを取り出し、当てる。刃先を走らせると、木の香りがふわりと立った。削り屑が細かくならぬように、巻くように削っていく。

 刃の根本に刻まれた羽の刻印が、灯りを反射させる。

 慣れた手つきで先を細くしていくその様を、ポポッツは頷きながら見ている。


「うん。上手だね〜。ナイフもよく手入れされてる」

 返されたものを手のひらで転がし、満足そうに男は笑った。

「シ〜ちゃ〜ん!この子、すごいことになるよ」

 愛妻に視線を移し、ポポッツは両拳を天井へ伸ばした。


「当たり前でしょ!私の弟なんだから!ちゃんと教えてあげてね!」

 片目を閉じ、唇に指を一本つけ、夫に向けて飛ばすように弾く。

 彼はそれを受け取り、飲み込むそぶりをしてみせた。


 コーネルは、その一連の動きを見て、ほんの少しの期待と、大きな不安を覚え、ぼやいた。

「きもちわり……」


 


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