第八話 此岸花 前編
あの世に旅立った人は、彼岸にいる。
そして、僕らは此岸にいる。
◆
焦げ臭い匂いで、目が覚める。
太陽は、少しだけ顔を出し、窓の外をうっすらと照らしており、火の手は見えなかった。
「コーネル、起きて。なにか焦げ臭いんだ」
そういって肩を揺らす。
「ん……あぁ、おはよう。たしかに何か、変な匂いするな」
そう言ってコーネルは鼻を鳴らして、「一階じゃねえかこれ」と人差し指を下に向けた。
一階が燃えている?その疑いに、体の芯が冷えていく感覚を覚えた。
しかし、なぜ?誰が?ミツヤ?ガレオン?
――考えるより先に、二人は階段を駆け降りる。
匂いは台所からだった。急いで扉を開けて、中に入る。
「あら、ルカ、ネル。おはよう。アンタたち、大きくなったわねえ。でも少し痩せたんじゃない?いまご飯用意するから、少し待ってな」
釜からは炎が吹き上がる。そして、何食わぬ顔で鍋を振る銀髪の女性――あの姿を見るのは、何年ぶりだろうか。
蒼羽の巣"長子"シエルだった。
「……姉さん」
懐かしさと同時に、舌の奥にあの"強烈な味"が蘇り、二人は顔を見合わせて、安心を覚える。
「火事じゃなくてよかったぜ」
コーネルは、ルカに小声でそう言うと、そろりそろりと扉まで後ずさりを試みる。
「はい、できたわよ。お姉ちゃん特製、野菜炒め」
振り返り、鍋をそのまま机にがちゃんと叩き置く。
そして、コーネルを見る。
鍋の中には、野菜だった何かが、黒い涙を流すかのように煙を上げていた。
「ネル、あんた、いつまでそこに突っ立ってんの。早く食べな。ほら、ルカ。アンタも。」
「いや、僕は今、あんまりお腹が……」
ルカは勇気を捻り出しそう言うと、席を立った。
コーネルもそれに同調するように首を縦に振る。
そして姉に聞こえぬ小さな声で「今日も元気にいきてえから、俺もちょっと……」と呟いた。
「なに?私の言うことが聞けないってわけ?ちょっと見ないうちに、偉くなったもんねぇ。で?どうすんの?」
「い、いただきます……」
二人は、首を垂れて、席につく。鍋の中の野菜だったものは、勝ち誇るように煙を吐き出している。お前らも苦しめと言うように。
◆
二人は、姉の手料理を久しぶりに食べ、涙を流している。それは嬉し涙ではないように見える。
シエルはそんな二人を慈しむように見ている。
そして、二人の頭を撫でた。
「あんたたち、頑張ったわね。一緒にいてあげられなくてごめんね。大変だったね」
不意に二人の肩をぐいっと寄せる。
「もう大丈夫よ。お姉ちゃんが来たからね」
そう言い終わると同時に、声が扉の前から聞こえた。
「おいなんだこりゃ。煙で廊下が真っ黒じゃねえか」
"長兄"の影が煙の向こう側から見える。
「げ!姉貴!もう来てたのかよ!」
シエルの姿を見たヴァルトは、腰を抜かし、床に尻餅をついた。
その、懐かしいヴァルトの反応に、三人は顔を見合わせて腹を抱えるように笑った。涙と煙にむせながらの笑い声が台所に響く。
「ヴァル、おはよう。手紙ありがとね。ほら、あんたもこっち座りな。いま出したげるから」
「いらねえよ!おめえ味見したことねえだろ!」
"長弟"は大声で、感謝の気持ちを――少し言葉を間違えて――表現した。
その音がひびき、頬の傷がずきりと疼いた。
沈黙と黒煙が同時に広がっていく。
「は?誰に口聞いてんのよ。あんたをここに連れてきたの、誰だか忘れたわけ?ルカ、ネル。あんたたちはこんな恩知らずになっちゃダメだからね。ヴァル、だからあんたはモテないのよ」
「ハイっ……すみませんでしたぁ……」
姉の圧力に押され、"無白の英雄"は、黒炭をすぐさま口にした。
――と同時に、窓を開ける。
口の中のものと、“当代無敗”の尊厳は、裏庭の土に沈んだ。
そこには、まだ芽吹かぬ彼岸花が眠っている。やがて秋、赤々と花を咲かせることだろう。
◆
「あ!おねえちゃんだ!」
「ほんとだー!」
年少組も目を覚まし、歓声を上げながら食卓に集まった。
シエルの作った“何か”はヴァルト率いる年長組が責任をもって平らげ、年少組の皿にはルカとコーネルが用意した朝食が並んだ。
「チビたちも、本当におっきくなって……。お姉ちゃんあくびが出ちゃうわ」
口を大きく開けるふりをして、目から溢れる雫を静かに拭き取る。
「あのね、おねえちゃん。おとうさんと、ミツにいと、ガレにい……しんじゃったの」
その声はあまりに無邪気で、食卓の空気を一瞬で呑むかに思えた。
食器の音は止まり、シエルに視線が集まる。
「トム、違うわよ。パパは虹の橋を渡ったの。いまもお空から、あなたたちを見守ってるの。それからミツとガレはね……長い川をずっと泳いでるのよ。だから、泣かなくてもいいの。いつか必ず、岸に上がってくるわ。この私の弟なんだから!」
その言葉に、涙で鼻をすすりながら、うん!と力強く返事をし、彼は大きな口でパンを頬張った。
それに釣られるように、他の子らも食事を再開した。
「……やっぱ姉貴には敵わねえよな、これだからよ」
ヴァルトはそう呟くと、黒焦げの鍋を、水に沈めた。
◆
久々の団欒が、そこにはあった。
ルカもコーネルも、ヴァルトさえも、以前腹を抱えて笑ったのは、遠い記憶のように感じた。
「おはようございます……」
よろよろと眠気まなこをこすりながら、髪を乱した女が、大きな欠伸を噛み殺しながら食卓へと現れる。
その衣服は少しボタンがかけ違っていて、襟元が乱れており、軽く肌がのぞいていた。
「……女!?誰よあんた!ヴァル、ちょっと!女連れ込むんじゃないわよ!」
子どもたちの顔を体で隠しながら、シエルが吠える。
「いやいや!俺じゃねえって!親父殿の友達の、リ、リンスレットさんだ!」
突然の叱責に、言い淀む"王国の矛"。
ヴァルトの言葉を聞き、シエルは目を細め、遠い日の記憶を探るように女を見つめた。
「……アンジー?アンジーなの?」
「はい。お久しぶりです。お姉さんになりましたね」
胸元にかけていた眼鏡を手に取り、掛ける。
その姿が、昔の面影と重なった。
その瞬間、シエルは彼女を強く抱きしめていた。
「お久しぶりです。アンジー……本当に……!」
アンジェリカは、それに驚くような素振りすら見せず、優しく抱き返した。
「まったく、もう。大きくなっても甘えん坊さんは変わりませんね。ほら、ご兄弟がぽかんとしてますよ」
シエルは涙をこすり、服に顔を押しつけながら、弟たちへ優しげに諭す。
「あんたたち、少し出てなさい。お姉ちゃんと、このお姉さんは昔からの友達なの」
姉の懐かしい命令と、見たことのない姿に、はい!と一同はいい返事をして、食堂を後にした。
***
「お久しぶりです、シエル。もう十三年――でしょうか。アズルが書き置きだけ残して、あなたを連れて行ってしまってから」
「父から『コラトンで孤児院を開く』とだけ伝えられて、お別れを言う時間もないまま、王都から出ていきましたから……。それからは、結婚するまで、私もこの家で育ちました。コラトンに向かう途中の森で、私がヴァルトを拾ったんですよ。いまではあんなに大きくなりましたけど、昔は本当に痩せていて、言葉もあまり喋れなくて……」
シエルは笑った。
「ほとんど野生児のようでした。それは今も変わりませんけど」
2人は、記憶の引き出しを一つずつ開けるように、昔の話をしていった。
「有り体に言えば……お父上、そしてご家族のこと、残念でしたね」
アンジェリカのその声に、悲しそうに弱々しく微笑む。その口癖を懐かしむように。
「はい。私はここを出て行ってから、一度も帰ってきませんでしたから。せめて年に一度くらいは顔を見せに帰るべきだったと、後悔しています」
「あんなにお父さんっ子だったあなたが、喧嘩してそれっきりとは。よほど激しい喧嘩だったと、理解できます」
「ええ。私の夫のことが、あまり気に入らなかったようで。でも意固地にならずに、私から謝ればよかった。弟たちにも、会いに来てやればよかった。行方不明になったガレオンとミツヤは、私にとっては二番目の、ヴァルトにとっては最初の弟なんですよ。他の子たちも、心細かったと思います」
瞳から涙を流し、手は震える。弟たちには決して見せることはできぬ、"長子"の慈愛と後悔だった。
「その件で、アズルから頼まれごとがありまして」
彼女のその言葉の詳細を理解しているかのように、シエルは頷く。
「"蒼羽"は解散、ですね?私も、そうするべきだと思い、馬をかっ飛ばしてここに戻ってきました。ここにはもう、守られるべき"子ども"しかいないから。父から、もし何かあったら使うようにと、お金も預かっています。ここから出て行ったあと一度だけ、私に会いに来まして――そのときに。私は会いたくなかったので、夫が対応しましたけど」
「その準備の周到さは、さすがアズル・プリュミノー、さすが"銀虎"、と言ったところですね。話が早いです」
そこまでで一度言葉を区切ると、自身を見つめているシエルに右手をかざし、委ねる。
「ヴァルトの手紙には、起こったことしか書いてありませんでしたが、ミツヤの出生が、今回のことの発端ですね?」
確信めいた問いに、アンジェリカは小さく頷く。
「その通りです。この国の、闇深い話です。ですので、子どもたちを分散させます。年少組の子らの里親もしくは奉公先は、私が教会の伝手で見つけます。安全で信用できるところを。お金は、その時に彼らに持たせてやりましょう。あとは、コーネル少年とルカ少年の進路。ルカ少年は、昨日初めてお会いした時に、剣を振るっていましたから、そちらの道に進みたいのでしょうか」
シエルは首を傾げる。思い出すのは、川辺で土をいじっていた幼いルカと、刃物の手入れを楽しげに眺めていたコーネルの姿だった。
「ルカもコーネルも、喧嘩や争いは嫌いなはずです。コーネルのことは、私に任せてください。考えてきているので」
「なるほど。さすがですね。それでは、ルカ少年の方は本人に、どうしたいのか、聞く方がよろしいですね。もしかしたら、ヴァルト青年に兵士としてついて行きたいと言うかもしれませんし」
「そうですね。何から何まで、本当にありがとうございます、アンジー。紅茶飲みますか?淹れますよ」
涙を拭き、椅子から立ち上がる。
「そんな気遣いまでできるようになって……。アンジーママ泣いちゃいますよ。あ、でもお茶は私が淹れますので」
アンジェリカは、シエルより先に水場へといそいそと走って行った。彼女が幼き日に淹れてもらったお茶の味を、その舌が鮮烈に思い出したから。
ルビが振れておらず、申し訳ございません。
時間が取れ次第、順次振っていく予定です。




