第七話 LADY 後編
そこからのアンジェリカは嵐のようだった。
下手くそな鼻歌混じりで振るわれる包丁の音は小気味良いリズムで鳴らされ、瞬く間に湯気が立ち、香りは台所に広がっていった。そして、少年らと淑女は共に卓を囲んだ。
そして、嫌がる年少組をよそに、風呂まで一緒に入ると、陽が落ちる前に、彼らを寝かしつけた。その時に歌っていた子守唄は「ママと呼んで」と言う歌詞だったし、調子はずれではあったが、優しい歌声であり、年少組はすぐに眠りについた。
「いったい、何が起こってるんだ」
「あのおばさん、なにかやべえぜ」
ルカとコーネルは目の前の状況があまりに目まぐるしく動くので、理解が及んでいなかった。けれど、アンジェリカの作る料理は、温かく美味しかった。
◆
「そういえば、先ほど『"兄のヴァルト"が帰ってくるまでは、何も決められない』と仰っていましたが、お姉さんのシエルは、どちらに?」
ホットミルクを、二つ机に差し出し、アンジェリカが問うた。
「……姉は、数年前に父と喧嘩したきり、帰ってきていません。たしか、ユグナーの街で暮らしている、と兄から聞いたことがあったと思います」
不意に、その名を聞き、ふたりの背筋は自ずと伸びた。
姉の名前を、皆が意図的に呼ばなくなったのは、いつからだろうか。当たり前にいたその人が、いなくなってしまったことが悲しくて、いつからかルカたち兄弟は、誰も名前を呼ぶことは無くなってしまった。
「ああ、結婚したい相手がいるとか言って、それがかなり年齢が離れてたんだよな。たしか」
コーネルは、組んでいた腕を解き、礼を言いつつホットミルクに手をやった。
「まあ!そうでしたか!それは……有り体に言うと、とても素敵ですね。これまでアズルから送られてきた手紙には、そういったことは書かれていませんでしたから」
うーん、と顎に手を置き、アンジェリカは考えたそぶりを見せる。
「シエルには、今回のことは伝わっているのでしょうか?」
その問いに、二人はハッとした。
連絡など一度もしていない。頭に浮かびもしなかった。
だが――姉の厳しい声が耳に甦った気がして、思わず胃の奥が重くなる。
「ルカ、やべえぞ俺たち。間違いなくぶっ飛ばされる」
コーネルの言葉に、ルカは首を垂れる。
「絶対そうだね。三時間は小言を言われる」
その様子を見ながら、アンジェリカは口元を抑えて、笑うのを堪えているようだった。
「しかし、連絡をしていないというのは、いけませんね。あなた方兄弟の"一番のお姉さん"なのですから。それにしても……あの子がそんなに大きくなっているなんて」
首元のロケットをそっと開く。蝋燭の灯りに照らされ、小さな肖像が揺らめいた。若い男女と、その腕に抱かれた小さな女の子。
アンジェリカは目を細め、懐かしさに沈むように微笑んだ。
◆
アンジェリカの提案で、明日隣町まで、シエルに手紙を出しに行くという話に決まった。
「おーい、兄ちゃんが帰ったぞー。やけに静かだな」
がちゃりと玄関の戸が開く音。低く優しい声とともに足音が近づいてくる。
「おかえり」
安堵の言葉を口にした瞬間、二人は息を呑んだ。
暗がりから現れた兄の顔は、ひどく疲れて見えた。右の頬には、戦場を感じさせる生々しい跡が走っていた。
「おお、小僧ども、いたのか」
ニヤリと笑ったその目が、卓に座る女を捉えた途端に鋭くなる。
「あんたは……放蕩の導師、"レディ"アンジェリカ・リンスレット……」
声には驚きと、わずかな緊張が滲んでいた。
「こんばんは、"無白の英雄"」
その気持ちを読んだかのように、柔らかくアンジェリカは微笑む。
「今日から私のことはアンジーママ、そう呼んでください」
「おん?」
急に発せられた素っ頓狂な言葉に、気が緩み、ヴァルトは、思わず吹き出した。頬の傷が少し引き攣り、痛むように顔を少ししかめながらも、笑う。
「ママってか。ならアンジーママ。……今日はどんなご要件で?」
「話が早くて助かります。蒼羽の巣の今後について、お話があります。あなたのお父様から申しつかっていましたので」
その言葉を聞き、ヴァルトは弟たちを視線を移す。心配すんな、と言っているように見えた。
「まずは、結論から。蒼羽の巣は解散。年少の子らは私が責任を持って、信頼できる人たちに託します。そして、年長の子らは十二歳なので、進路を考えねばなりません」
アンジェリカの言葉に片眉をあげて、問い直す。
「それが、親父殿の遺志、ってか?」
「有り体に申し上げると、そうです。そして、これを読んでください」
そう言うと、床に置いていた鞄から手紙を出すと、ヴァルトに渡す。
「……これは。俺に負担をかけぬように、か。そんでもって……」
その手紙を一読すると、ヴァルトは唇をぎゅっと強く噛み、天を仰ぎ、目を瞑った。
「親父殿、なんで俺に教えてくれねえんだ、こんな大事なことを。俺なら……力になれたろうがよ……」
そして、ゆっくりと瞼を開き、アンジェリカに向き直す。
「これは、こいつらに見せてもいいのか?」
手紙を指さすと、アンジェリカは首を縦に振った。
「はい。この子たちは、知っておくべきかと思います」
そして少年たちは差し出された手紙を見る。
そこには、ミツヤが非常に高い身分の生まれであること、そして、その存在が疎まれており、識別式の日に黒髪が暴かれ、身の危険の可能性があること、そしてヴァルトへの思いと、蒼羽の巣の解散を頼むことへのアンジェリカへの謝罪が記されていた。
「やっぱり、あの黒ずくめが言ってたことは、そういうことだったんだね……」
ルカはそう呟くと、コーネルも頷く。
「狙いは、完全にミツヤだったってわけか。今朝ルカが言ってた通り。でもよ、おばさんが言うには、崖から落ちた後、助かってる確率が高えんだろ?だったら、まだどこかで生きてるんじゃねえのか?」
「コーネル少年、まさに――そこなのです」
アンジェリカは、続ける。
「ミツヤ少年とガレオン少年が、もし生き延びていたら、間違いなくここに戻ってこようとするでしょう。人は、帰る場所を求めるものです。それは美しいことですが、敵にとっては計算のうち」
「アズルが亡くなり、ヴァルト青年も不在がち。そうなれば、これほど人質にしやすい集団は、ないのです。蒼羽の巣は"罠"に変わる」
そこまで言い切ると、アンジェリカは、二人を見つめる。眼鏡の硝子は蝋燭の灯りを反射して、その目は見えなかった。口元は申し訳なさそうに、それでも、強い意志を持っているようだった。
「私は、あなた方を生かす義務があります。なぜなら、託されたから。分かっていただけませんか?」
二人は、返す言葉が出なかった。彼女の言葉の正しさと想いは胸が痛いほど沁みたけれど、それでも、ミツヤとガレオンを待つのは、アズルとの思い出が詰まったこの家がよかった。
「分かった。それがいい」
ヴァルトの声が耳に届き、コーネルとルカは、視線を移す。
その声は、低く、しかし揺るがず。その眼差しは、真っ直ぐにアンジェリカを捉えていた。
兄の予想外の決定に、何も言うことができず、見ることも、二人にはできない。ただ、その言葉を反芻するように胸に押し込む。悔しさと、ほんの少しの不安が体に沁みていくように思った。
しばしの沈黙の後、頭をかきながらヴァルトは告げる。
「ただし、時間をくれ。明日には姉貴も来るはずだ」
「え?」
唐突に告げられた姉シエルの帰還に、二人は驚きの声をあげる。
「俺が手紙で、起きたことを知らせておいた」
「さすが、"長男"といったところですね」
女のその言葉に反応することもなく、弟たちを見る。
「悪りぃな、おめえさんたち。でも、絶対にこれで終わりじゃねえ。必ずまたここで、みんなで暮らすんだ。そのための小休止みてえなもんだからよ」
――絶対に終わりじゃない。
その言葉に、ルカは唇を噛み、コーネルは目を伏せる。
納得いくわけがない。現実が、押し寄せてくることに戸惑いもある。
皆と離れ離れになりたくない。他に手立てはないのか。その言葉が頭によぎる。
けれど――心の奥に、小さな炎が灯ったのを、二人とも感じていた。
◆
寝室に戻り、寝台に腰掛けると、コーネルが言った。
「なーんかさ、悪い夢みてえだよな。ほんの数日前まで、当たり前にみんな居たのにさ。」
「うん。夢なら、今すぐにでも醒めてほしいよね」
ルカは寝転がり、右手を天井に向かって伸ばした。
当たり前の日常が、壊れていく。この感覚を味わうのは二度目だ。二度と失わぬように、守りたかった。
けれど、それは叶わなかった。でも、まだ、消えた二人の兄弟たちへと続く糸は、切れてはいない。それだけがルカを支えており、兄の決断を飲み込むに足る理由だった。
――折れてはならぬ。
いつか見た夢で言われた言葉。それがルカの耳に、響いた気がした。
――バカじゃないの。あんたのせいじゃないでしょうが。
それと重なるように、懐かしい声が頭に浮かび、姉の顔が思い出される。
ガレオンが文句を言い、ミツヤがそれに乗り皮肉を言う。自分とコーネルは二人を止めるのに、なぜか四人まとめて姉に叱られた、遠い日の記憶。思い出せば胸が痛くなるけれど、いつかまた、その日が来ることを信じて、ルカは目を瞑った。
風見鶏が夜風に回り、屋根の上で小さく針路を変えた。




