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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
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第一話 始マルセカイ 前編

 祈りは届かなかった。

 母の悲鳴も、ルカの声も、“それ”には何の意味もなかった。


 地に伏し、血に染まった母を、異形の眼が見下ろしていた。


 その瞳は、人の悲哀を玩具にするかのように、紅く光った。

 血に濡れた女神像の頬を、一筋の血が伝う。――涙みたいだ。


「面白いものが見られた。今日はここまでとしてやる」


 その音は、人の言葉にあまりにも似ていた。


 夢なのか、記憶なのか。

 ただ一つ言えるのは、それが日常の終わりであり――


 ルカという少年にとっての、“始まり”だった。



 陽が昇りはじめている。

 鶏の鳴き声は朝を呼ぶ。


 蒼羽の巣の朝は、今日も変わらない。

 それなのに、胸の奥に残るのは、夢とは呼べない“残響”だった。


 寝台の隙間から射し込む光に、ルカは目を細めた。

 ひとつ、深く息を吐く。

 それでも、胸の中の何かは消えなかった。


 脇机には、水の入ったコップが置かれていた。

 彼はそれをひと口飲み、ゆっくりと窓辺に腰をかけた。


 赤い髪と首飾りが、朝の光をちらちらと反射する。

 夏の風が土と草の匂いを運び、頬を撫でていった。


 空には、流れる雲。

 ただ、それだけの朝。

 今は、その当たり前にさえ――支えられている。


「……今日で、十二歳か」


 誰もいない部屋に、少年の声だけが静かに響いた。


 ここは孤児院《蒼羽の巣》。

 首都エルドラントの南、山村の外れにある森のふもと。


 十人ほどの子どもと、一人の男が暮らしている。

 ルカは、あの日から、この屋根の下で育った。

 そして今日もまた、変わらぬ日常の中にいた。



「――ルカ、今日もうなされてたな」


 朝食の時間、黒髪の少年、ミツヤがからかうように、けれど少しだけ心配するように声をかける。

「うなされてー」「されてー」と年少の子たちが口調を真似てはしゃぐ。


「ミツヤ、水、ありが――」


「おいルカ!腹でも痛ぇのか?」


 そう言って割り込んできたのは、大柄な少年――ガレオンだった。

 ルカは首を振り、小さく呟く。


「……いや、なんでもないよ」


 そして、いつも見る夢を振り払うように、席についた。


 孤児院の主であり、子どもたちの養父でもあるアズルが、無造作にルカの頭をがしがしと撫でる。


「おめでとうさん。……でもな、ぽやっとすんじゃねえぞ。お前は、すぐ何も見てねえような顔すんだからよ」


「アズルさん、僕もう十二歳なんだから! 子ども扱いしないでよ!」


 そう言って手を払いのけながらも、ルカはどこか照れくさそうに笑った。

 ルカも、皆も――アズルが大好きだった。



「ガレオン。お前、俺の服また勝手に着てるな」

 とミツヤが眉をひそめて言う。


「いいじゃねえかよ、ちょびっと小さめで動きやすいんだよ。嫌なら名前書いとけ」


「書いてるんだよ、このバカ。ヴァルト兄さんの服でも着てろよ。箪笥にいくらでも入ってるだろ」


 言っても無駄だなと、ミツヤは肩をすくめた。


「親父さん、やっぱ野菜の育ちが悪いな」

 コーネルは小さな根菜を持ちながら、アズルに聞く。


「四十年前、王都に星が堕ちた日からそうらしい。今年はまだマシなほうさ。しかし、最近じゃ年貢もキツくなりやがってな。もっと研師の仕事をしねえとダメだ」


 そんないつもの朝。

 そして、その「当たり前」が、今日だけは少し違った。


 やがてアズルが、年長の四人――ルカ、ミツヤ、ガレオン、コーネルに目を向ける。


「お前ら、少し聞け」

 パンをひと口大にちぎり、スープに浸しながら言葉を続ける。


「いよいよ今日が“識別式(しきべつしき)”だ」


「チビどもにも言っとくか。十二になったら、この国じゃ必ず受ける。――水晶に触れて、属性と魔力量を測る。覚えてるな?」


「うん!」


 年少組が一斉にうなずく。


「火や水みたいな属性持ちは“色付き”、無属性は“色無し”。大半は“色無し”になる。……だから“色付き”は貴重だ」


「えーっ!」


 小さな子が声を上げる。

「“いろつき”がいい!」と口々に叫び、アズルは肩をすくめて笑う。


「ま、そう思うよな。けどな――“色付き”は肩書きじゃねえ。“色無し”は烙印じゃねえ。魔力量だって、積み上げ方次第だ」


 ガレオンが腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。

 ミツヤは黙ったまま、パンをちぎっている。


 アズルは声を少し落とした。


「結局な、魔法の価値は“誰のために使うか”で決まる。……属性なんざ二の次だ」


 言い切る声は低い。


 その言葉に、ミツヤが視線を上げ、ガレオンの拳はわずかに震えていた。


 火元を見やりながら、アズルは口の端を上げる。


「──ひとつ、昔話をしてやろう」


 子どもたちが一斉に身を乗り出す。

 冷めかけたパンをちぎり、アズルはゆっくりと語り出した。


「昔な。識別式で“色無し”って出たガキがいた。『ふざけんな、俺はもっと特別なはずだ』って暴れた大馬鹿野郎だ」


「そんな奴いたの?」


 コーネルが目を丸くする。


「いたんだよ。だが“色無し”は工夫しだいで化ける。力を強めたり、動きを速めたり。地味だが、応用は利く。……あとになってそのガキも、それに気づいた」


「じゃあ“色無し”でも強くなれるの?」


 ルカが問いかける。


 アズルはうなずいた。


「そういうこった。……けどな、“色付き”は“色付き”で苦労する。属性魔法と基礎魔法、両方をやりこなすのは骨が折れる」


 ガレオンが「俺ならできる」と笑い、アズルは左腕をまくった。古びた大きな傷痕が浮かぶ。


「もちろん、失敗も山ほどだ。仲間も、多く失った」


 子どもたちが息を呑む。アズルは一拍置き、低く告げた。


「……けどな。そいつは王国騎士団の副長にまで登りつめた。“銀虎(ぎんこ)”って呼ばれてな」


「かっこいー!」


 年少たちの歓声に、アズルは苦笑するが、誇りは隠せなかった。


「団長の座は“色付き”に譲ったが……今なら俺の方が強え。たぶんな」


「そのひと、だれ?」


 幼い声の問いに「ああ、この国で一番の人さ」と、冗談めかして四人を見渡す。


「いいか。できることが多けりゃ、道も広がる。それは素晴らしいことだ」


 ひと呼吸置き、声をさらに落とす。


「だがな――たった一つしか武器がなくても、それを徹底的に磨いたやつには、そのやつにしかない強さがある」


 最後のパンを口に放り込み、アズルは背筋を伸ばした。


「……覚えていやがれ」


 その言葉に、ルカもミツヤもガレオンも、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


「"色付き"は、兵士に選ばれるのか?無属性は?」


 口角を下げながら、コーネルは問う。


「いや、そうじゃねえ。"色付き"は誘われるってだけだ。どう生きるか、それはてめえで選べる。

風ならポーター、水なら火消し。医者でも学者でもいい。選択肢はいくらでもある。無属性だって、てめえ次第さ」


 ――一拍置いて、アズルは笑う。


「……まあ、俺は戦士しか"選ばなかった"がな」


 父は、手拭いを腰に引っ掛けると立ち上がった。


「コーネル、仕事だ。手伝ってくれ」



 家事と、日課の剣の練習。そして夕食を終えると、子どもたちは順に寝台へ潜り込んでいった。


「ねえ、みんな。明日だね……怖くない?」


 ルカが問いかける。


「今さら神に祈ったって遅いだろ。何を与えられようが、それをモノにできるかは――自分次第だしな」


 ミツヤの声は、どこか突き放すような静けさを帯びていた。

 その余裕が、ルカには癪だった。

 自分の祈りを無視した女神に、“選ばれる”ということが、許せなかった。


「……そうやって言い切れるの、すごいよ」


 皮肉混じりの言葉に、ミツヤが眉をわずかに動かす。


「お前は怖いのか? 最近、土をじっと見たりしてただろ。何か、確信があるんじゃないのか?」


「……うん。きっと選ばれると思う」


 ルカは正直に頷いた。

 でも、その顔に喜びはなかった。


「でも、全然嬉しくない」


「……」


「何かを失ってしまいそうな気がするんだ。選ばれるってことが、離れていくことみたいで……怖いんだ」


 寝室が静まり返った。虫の声すら、今は聞こえなかった。


「選ばれるのが“嫌”……? 」


 ミツヤの声が低く落ちる。怒ってはいない。ただ、冷たかった。


「親父はああ言ってたが、属性なんて、あるに越したことはないだろ」


「それは、君の考えでしょ」


 ルカの返しは鋭かった。


「僕は、そうじゃないんだよ。何偉そうに言ってるんだよ。全部分かったふりして、平気な顔してさ。……卑怯者じゃないか」


 吐いた言葉は、取り戻すことはできない。一瞬の静寂が、ずっと永いものに思えた。

 思わず、ルカは目を伏せて、生唾を飲んだ。


「卑怯者……?違う」


 ミツヤが息を吐く。


「俺だって――怖い。」

「平気なんかじゃない。……ただ、それを言ったところで、何かが変わるのか?」


 声が少し熱を帯びる。


「お前はいいよな。どうせ“選ばれる側”だ。俺からすれば、お前の方がよっぽど“卑怯者”に見えるよ」


 二人の視線がぶつかる。

 睨み合う。けれど、何かを言い返すには、互いに言葉が足りなかった。


 そのとき――


 ぱたん、と誰かが寝返りを打つ音。

 続いて、壁を殴るような“ごつん”という音が響いた。


 拳をぶつけたのは、部屋の隅で黙っていたガレオンだった。


「……おい、やめとけ」


 低く、潰したような声。

 怒鳴りではない。だが、空気が変わった。


「うるせえよ、お前ら……何ガタガタ揉めてんだ。……明日は早えんだぞ」


 壁に当てた拳はまだ震えていた。

 それは、赤黒くなっていて、見ているだけで、こちらの手も痛んだ。


 ルカも、ミツヤも、言葉を飲み込んだ。


「さあ、寝ようぜ寝ようぜ!」


 コーネルがわざとらしく明るく言い、蝋燭の火をふっと吹き消す。


「……付き合ってられないな」


 ミツヤが布団に潜り込もうとして、ふと手を止める。


「“色無し”でも、“色付き”でも、俺は俺だ」


 一拍置いて、静かに続ける。


「けどな、さっきの"卑怯者"って言葉。忘れるなよ」


 その声は、警告でも、強がりでもない。


 ルカは、なにも返せなかった。

 ただ静かに、まぶたを閉じる。



 闇の奥に、記憶が揺れる。


 目を閉じると、思い出す。

 あの日のこと。

 蒼羽の巣に来た、始まりの日のこと。


 数年前。

 大打撃を受けた村で、魔物に親を喰われ――“獣災(じゅうさい)孤児”となった少年。

 それが、かつてのルカだった。


 川沿い、湿った崖のふもとで。

 膝を抱え、声も出せずにいた自分の前に、一人の少年が立った。


 金髪に、体に似つかわぬ長剣。まだ幼さの残る面持ちに、大人びた目をしていた。

 しかし、その目は、どこまでも真っ直ぐで――優しかった。


 彼は、ただ一言、こう言った。


「俺のことは、兄ちゃんと呼べ」


 迷いもなく、まるで、それが当たり前だというように。

 その言葉を聞いたとき、自分がまだ“誰か”と繋がっていいのだと、思えた。


 それ以来、ルカは彼のことを“兄”と呼ぶようになった。


 ――ヴァルト・プリュミノー。

 今は軍に勤めており、不在がちだが――あのとき、あの瞬間だけは、たしかに“救われていた”と、そう思えた。


 兄は、識別式は怖くなかったのだろうか。

 誰かに当たることもなく、笑っていられたのだろうか。


 けれど、そんな疑問は、

 今のルカにとって、あまりに遠くて、静かすぎた。


 彼が導いてくれたこの場所で、家族に出会った。

 名前を呼んでくれる声があり、朝の光が差す家があった。

 それがどれほど貴いものかを、ルカは、今になってやっと知った。


"選ばれたくない"。その気持ちは、きっと本当だった。

 それでも、それを誰かに投げつけるべきではなかった。

 卑怯者――その言葉の痛みを、彼自身が一番分かっていた。


 明日、“選ばれる”ことが何を意味するのか。誰が選ばれ、誰が選ばれないのか。その答えは、まだわからない。


 けれど祈る。女神に――ではない。

 お願いします。どうか――僕から誰も奪わないで。

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