第一話 始マルセカイ 前編
祈りは届かなかった。
母の悲鳴も、ルカの声も、“それ”には何の意味もなかった。
地に伏し、血に染まった母を、異形の眼が見下ろしていた。
その瞳は、人の悲哀を玩具にするかのように、紅く光った。
血に濡れた女神像の頬を、一筋の血が伝う。――涙みたいだ。
「面白いものが見られた。今日はここまでとしてやる」
その音は、人の言葉にあまりにも似ていた。
夢なのか、記憶なのか。
ただ一つ言えるのは、それが日常の終わりであり――
ルカという少年にとっての、“始まり”だった。
◆
陽が昇りはじめている。
鶏の鳴き声は朝を呼ぶ。
蒼羽の巣の朝は、今日も変わらない。
それなのに、胸の奥に残るのは、夢とは呼べない“残響”だった。
寝台の隙間から射し込む光に、ルカは目を細めた。
ひとつ、深く息を吐く。
それでも、胸の中の何かは消えなかった。
脇机には、水の入ったコップが置かれていた。
彼はそれをひと口飲み、ゆっくりと窓辺に腰をかけた。
赤い髪と首飾りが、朝の光をちらちらと反射する。
夏の風が土と草の匂いを運び、頬を撫でていった。
空には、流れる雲。
ただ、それだけの朝。
今は、その当たり前にさえ――支えられている。
「……今日で、十二歳か」
誰もいない部屋に、少年の声だけが静かに響いた。
ここは孤児院《蒼羽の巣》。
首都エルドラントの南、山村の外れにある森のふもと。
十人ほどの子どもと、一人の男が暮らしている。
ルカは、あの日から、この屋根の下で育った。
そして今日もまた、変わらぬ日常の中にいた。
◆
「――ルカ、今日もうなされてたな」
朝食の時間、黒髪の少年、ミツヤがからかうように、けれど少しだけ心配するように声をかける。
「うなされてー」「されてー」と年少の子たちが口調を真似てはしゃぐ。
「ミツヤ、水、ありが――」
「おいルカ!腹でも痛ぇのか?」
そう言って割り込んできたのは、大柄な少年――ガレオンだった。
ルカは首を振り、小さく呟く。
「……いや、なんでもないよ」
そして、いつも見る夢を振り払うように、席についた。
孤児院の主であり、子どもたちの養父でもあるアズルが、無造作にルカの頭をがしがしと撫でる。
「おめでとうさん。……でもな、ぽやっとすんじゃねえぞ。お前は、すぐ何も見てねえような顔すんだからよ」
「アズルさん、僕もう十二歳なんだから! 子ども扱いしないでよ!」
そう言って手を払いのけながらも、ルカはどこか照れくさそうに笑った。
ルカも、皆も――アズルが大好きだった。
◆
「ガレオン。お前、俺の服また勝手に着てるな」
とミツヤが眉をひそめて言う。
「いいじゃねえかよ、ちょびっと小さめで動きやすいんだよ。嫌なら名前書いとけ」
「書いてるんだよ、このバカ。ヴァルト兄さんの服でも着てろよ。箪笥にいくらでも入ってるだろ」
言っても無駄だなと、ミツヤは肩をすくめた。
「親父さん、やっぱ野菜の育ちが悪いな」
コーネルは小さな根菜を持ちながら、アズルに聞く。
「四十年前、王都に星が堕ちた日からそうらしい。今年はまだマシなほうさ。しかし、最近じゃ年貢もキツくなりやがってな。もっと研師の仕事をしねえとダメだ」
そんないつもの朝。
そして、その「当たり前」が、今日だけは少し違った。
やがてアズルが、年長の四人――ルカ、ミツヤ、ガレオン、コーネルに目を向ける。
「お前ら、少し聞け」
パンをひと口大にちぎり、スープに浸しながら言葉を続ける。
「いよいよ今日が“識別式”だ」
「チビどもにも言っとくか。十二になったら、この国じゃ必ず受ける。――水晶に触れて、属性と魔力量を測る。覚えてるな?」
「うん!」
年少組が一斉にうなずく。
「火や水みたいな属性持ちは“色付き”、無属性は“色無し”。大半は“色無し”になる。……だから“色付き”は貴重だ」
「えーっ!」
小さな子が声を上げる。
「“いろつき”がいい!」と口々に叫び、アズルは肩をすくめて笑う。
「ま、そう思うよな。けどな――“色付き”は肩書きじゃねえ。“色無し”は烙印じゃねえ。魔力量だって、積み上げ方次第だ」
ガレオンが腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
ミツヤは黙ったまま、パンをちぎっている。
アズルは声を少し落とした。
「結局な、魔法の価値は“誰のために使うか”で決まる。……属性なんざ二の次だ」
言い切る声は低い。
その言葉に、ミツヤが視線を上げ、ガレオンの拳はわずかに震えていた。
火元を見やりながら、アズルは口の端を上げる。
「──ひとつ、昔話をしてやろう」
子どもたちが一斉に身を乗り出す。
冷めかけたパンをちぎり、アズルはゆっくりと語り出した。
「昔な。識別式で“色無し”って出たガキがいた。『ふざけんな、俺はもっと特別なはずだ』って暴れた大馬鹿野郎だ」
「そんな奴いたの?」
コーネルが目を丸くする。
「いたんだよ。だが“色無し”は工夫しだいで化ける。力を強めたり、動きを速めたり。地味だが、応用は利く。……あとになってそのガキも、それに気づいた」
「じゃあ“色無し”でも強くなれるの?」
ルカが問いかける。
アズルはうなずいた。
「そういうこった。……けどな、“色付き”は“色付き”で苦労する。属性魔法と基礎魔法、両方をやりこなすのは骨が折れる」
ガレオンが「俺ならできる」と笑い、アズルは左腕をまくった。古びた大きな傷痕が浮かぶ。
「もちろん、失敗も山ほどだ。仲間も、多く失った」
子どもたちが息を呑む。アズルは一拍置き、低く告げた。
「……けどな。そいつは王国騎士団の副長にまで登りつめた。“銀虎”って呼ばれてな」
「かっこいー!」
年少たちの歓声に、アズルは苦笑するが、誇りは隠せなかった。
「団長の座は“色付き”に譲ったが……今なら俺の方が強え。たぶんな」
「そのひと、だれ?」
幼い声の問いに「ああ、この国で一番の人さ」と、冗談めかして四人を見渡す。
「いいか。できることが多けりゃ、道も広がる。それは素晴らしいことだ」
ひと呼吸置き、声をさらに落とす。
「だがな――たった一つしか武器がなくても、それを徹底的に磨いたやつには、そのやつにしかない強さがある」
最後のパンを口に放り込み、アズルは背筋を伸ばした。
「……覚えていやがれ」
その言葉に、ルカもミツヤもガレオンも、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「"色付き"は、兵士に選ばれるのか?無属性は?」
口角を下げながら、コーネルは問う。
「いや、そうじゃねえ。"色付き"は誘われるってだけだ。どう生きるか、それはてめえで選べる。
風ならポーター、水なら火消し。医者でも学者でもいい。選択肢はいくらでもある。無属性だって、てめえ次第さ」
――一拍置いて、アズルは笑う。
「……まあ、俺は戦士しか"選ばなかった"がな」
父は、手拭いを腰に引っ掛けると立ち上がった。
「コーネル、仕事だ。手伝ってくれ」
◆
家事と、日課の剣の練習。そして夕食を終えると、子どもたちは順に寝台へ潜り込んでいった。
「ねえ、みんな。明日だね……怖くない?」
ルカが問いかける。
「今さら神に祈ったって遅いだろ。何を与えられようが、それをモノにできるかは――自分次第だしな」
ミツヤの声は、どこか突き放すような静けさを帯びていた。
その余裕が、ルカには癪だった。
自分の祈りを無視した女神に、“選ばれる”ということが、許せなかった。
「……そうやって言い切れるの、すごいよ」
皮肉混じりの言葉に、ミツヤが眉をわずかに動かす。
「お前は怖いのか? 最近、土をじっと見たりしてただろ。何か、確信があるんじゃないのか?」
「……うん。きっと選ばれると思う」
ルカは正直に頷いた。
でも、その顔に喜びはなかった。
「でも、全然嬉しくない」
「……」
「何かを失ってしまいそうな気がするんだ。選ばれるってことが、離れていくことみたいで……怖いんだ」
寝室が静まり返った。虫の声すら、今は聞こえなかった。
「選ばれるのが“嫌”……? 」
ミツヤの声が低く落ちる。怒ってはいない。ただ、冷たかった。
「親父はああ言ってたが、属性なんて、あるに越したことはないだろ」
「それは、君の考えでしょ」
ルカの返しは鋭かった。
「僕は、そうじゃないんだよ。何偉そうに言ってるんだよ。全部分かったふりして、平気な顔してさ。……卑怯者じゃないか」
吐いた言葉は、取り戻すことはできない。一瞬の静寂が、ずっと永いものに思えた。
思わず、ルカは目を伏せて、生唾を飲んだ。
「卑怯者……?違う」
ミツヤが息を吐く。
「俺だって――怖い。」
「平気なんかじゃない。……ただ、それを言ったところで、何かが変わるのか?」
声が少し熱を帯びる。
「お前はいいよな。どうせ“選ばれる側”だ。俺からすれば、お前の方がよっぽど“卑怯者”に見えるよ」
二人の視線がぶつかる。
睨み合う。けれど、何かを言い返すには、互いに言葉が足りなかった。
そのとき――
ぱたん、と誰かが寝返りを打つ音。
続いて、壁を殴るような“ごつん”という音が響いた。
拳をぶつけたのは、部屋の隅で黙っていたガレオンだった。
「……おい、やめとけ」
低く、潰したような声。
怒鳴りではない。だが、空気が変わった。
「うるせえよ、お前ら……何ガタガタ揉めてんだ。……明日は早えんだぞ」
壁に当てた拳はまだ震えていた。
それは、赤黒くなっていて、見ているだけで、こちらの手も痛んだ。
ルカも、ミツヤも、言葉を飲み込んだ。
「さあ、寝ようぜ寝ようぜ!」
コーネルがわざとらしく明るく言い、蝋燭の火をふっと吹き消す。
「……付き合ってられないな」
ミツヤが布団に潜り込もうとして、ふと手を止める。
「“色無し”でも、“色付き”でも、俺は俺だ」
一拍置いて、静かに続ける。
「けどな、さっきの"卑怯者"って言葉。忘れるなよ」
その声は、警告でも、強がりでもない。
ルカは、なにも返せなかった。
ただ静かに、まぶたを閉じる。
◆
闇の奥に、記憶が揺れる。
目を閉じると、思い出す。
あの日のこと。
蒼羽の巣に来た、始まりの日のこと。
数年前。
大打撃を受けた村で、魔物に親を喰われ――“獣災孤児”となった少年。
それが、かつてのルカだった。
川沿い、湿った崖のふもとで。
膝を抱え、声も出せずにいた自分の前に、一人の少年が立った。
金髪に、体に似つかわぬ長剣。まだ幼さの残る面持ちに、大人びた目をしていた。
しかし、その目は、どこまでも真っ直ぐで――優しかった。
彼は、ただ一言、こう言った。
「俺のことは、兄ちゃんと呼べ」
迷いもなく、まるで、それが当たり前だというように。
その言葉を聞いたとき、自分がまだ“誰か”と繋がっていいのだと、思えた。
それ以来、ルカは彼のことを“兄”と呼ぶようになった。
――ヴァルト・プリュミノー。
今は軍に勤めており、不在がちだが――あのとき、あの瞬間だけは、たしかに“救われていた”と、そう思えた。
兄は、識別式は怖くなかったのだろうか。
誰かに当たることもなく、笑っていられたのだろうか。
けれど、そんな疑問は、
今のルカにとって、あまりに遠くて、静かすぎた。
彼が導いてくれたこの場所で、家族に出会った。
名前を呼んでくれる声があり、朝の光が差す家があった。
それがどれほど貴いものかを、ルカは、今になってやっと知った。
"選ばれたくない"。その気持ちは、きっと本当だった。
それでも、それを誰かに投げつけるべきではなかった。
卑怯者――その言葉の痛みを、彼自身が一番分かっていた。
明日、“選ばれる”ことが何を意味するのか。誰が選ばれ、誰が選ばれないのか。その答えは、まだわからない。
けれど祈る。女神に――ではない。
お願いします。どうか――僕から誰も奪わないで。




