第六話 fire sign
二人が、暗闇へ落ちていく。
――僕が落とした。
水に落ちる音は聞こえず、姿は見えなくなった。
まるで闇に包まれるように、少しずつ。
アズルさんの目は、もう開くことはなかった。
でも、その顔には、まだ何かを言いたげな光が、残っていた気がした。
兄ちゃんは俯いて、歯を食いしばっている。けれど、その目は前を向いている。
コーネルは怒っているように見える。でも、走っている。
僕だけがダメだった。
僕だけが役立たずだった。
なのに、自分の意思とは無関係に、なにかに操られるように、立ち上がって前を歩き出した。
ああ、これは夢なんだな。そう思った。
◆
目が覚めるのが、自分でもわかった。
夢は怖かったけれど、名残惜しくて、それから少し、目を開けなかった。
ふと、足を見る。
二日前から、ずっと立っている感覚がなかった。
ふわりと、宙に浮いているようだった。
だからこそ、目を離せない。
自分の足なのに、意志はなかった。
なぜか今日は、地に足がつきそうな気がした。
でも、それが自分の意思かどうかは、まだわからなかった。
誰かの気配に気づいて、扉の方を見た。
「ルカにい、あさだよ。きょうルカにいがごはんとうばんだよ」
年少組の子らが、ルカを起こしに来ていた。
「あ、ごめん。すぐ行くよ」
体を起こし、立ち上がる。
火で焼かれた傷は、何も感じなかった。
そのことに、もう驚きはない。
でも──
胸のあたりだけが、どうしようもなく痛んだ。
◆
食堂に降りると、ルカは食事を作り始める。
簡単なものを作り終えると、皆を呼び、「いただきます」と食べ始める。
「おい、ルカ。多いぞ」
コーネルが小声でそう伝える。
あっ、とルカは声を出してしまい、子どもたちもそれに気づく。
ルカは、アズル、ミツヤ、ガレオンの席を見た。
湯気は立っている。
でも、そこには誰もいなかった。
手を伸ばしかける。下げようとして──
子どもたちのスプーンが止まる。
一人の子が、鼻をすすった。
音を立てまいと、手で口を覆っていた。
隣の子が、そっと肩に手を置いた。
誰も泣き声を出さない。
でも、目元を拭う手だけが、いくつか動いていた。
「よっしゃー!チビども、今日は俺がぐるぐるごっこしてやるから、2階に行くぞ!」
コーネルがわざと大声を出して、変な顔をしながら子どもたちに近づいて行く。
そして、ルカに対して指で輪っかを作り、子らを引き連れて、去って行く。
◆
ルカは、食事を終え、皿洗いをしていた。
「おい、ルカ、またぼんやりしてるのか?」
声がそう聞こえた気がして、後ろを振り返る。
そこには誰もおらず、陽の光が、食堂を照らしていた。
少し探すように視線を泳がせるが、やはり誰もおらず、皿洗いに戻った。
水が落ちる音と、食器を拭く音だけが、小さく響いていた。
◆
村から、数人の大人が、蒼羽の巣へ様子を見にきた。
ヴァルトが不在の間を頼んだようだ。
ルカは、礼を言って、急に身支度をし始めたようだった。
「お前、明け方にも行ってただろ……」
コーネルが、ルカに聞く。
少し答えづらそうに、ルカは返す。
「うん……」
「そうか……」
二人のやり取りは、そこで終わると、ルカは扉に手をかけ、振り返らずに言った。
「絶対、見つけるから」
彼は何も言わず、その背を見つめていた。
◆
崖を下りると、朝の霧がまだ、水辺に残っていた。
草が濡れ、足元がすべる。
昨日の痕跡を探しながらも、なにかを祈るように、ルカは水際を歩いた。
川の流れは、昨日より濁っていた。足を踏み入れるたび、水音が跳ね返ってくるようだった。
そうしていると、一箇所だけ、水の色が暗くなっているところがあった。
ルカは、何かがある気がして、服を脱ぎ、川へ飛び込んだ。
二人を探すためなのか、自分のためなのか、そのどちらもなのか、ルカにもわからない。
夏だというのに、川は刺すように冷たかった。
あのときの二人は、この水の中で、何を思っただろう。
ルカは、答えのない問いを抱えたまま、水底へ潜っていった。
思ったよりも深く、底は暗かった。
水は濁り、指先すらよく見えない。
この深さなら――二人はまだ、生きてるかもしれない。
ルカは、祈るしかなかった。
意味があるかなんて、どうでもよかった。
祈らずにいたら、息を止めるより先に、心が潰れてしまいそうだったから。
そのまま、息の続く限り、泳ぐ。
水を掻く音だけが、耳に残った。
◆
ルカが水面から顔を出す。
幾度となく、潜り、泳ぐ。
何度も潜る。
見えない。触れられない。
水の中を掻き続けていた。
けれど、やめる理由がなかった。
「ルカ!なにしてんだ!あぶねえぞ!」
その声に、振り返る。
コーネルが、ロープをこちらへ投げ込むのが見えた。
「あがれ!バカ!」
ロープが、水面に浮かんでいる。
ルカは、それを見つめたまま、動けなかった。
本当に、あがってしまっていいのか。
彼らは、まだ水の底にいるかもしれないのに。
「バカ野郎!一回休憩だって言ってんだ!」
いないはずのガレオンの声が、コーネルのものと重なって聞こえた。
手が、勝手に動いていた。
気づけば、ロープを握っていた。
そのままぐいっ、と引っ張られ、川べりへと引き上げられる。
昨日のように、宙ぶらりんのまま、足は動きそうにない。
「なにやってんだよ。お前。一人で無茶しやがって。俺も呼べよ」
それ以上言うと、泣きそうだったのか。
コーネルは、鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「ごめん」
それだけ言うと、ルカも背を向けた。
唯一残った同い年の家族の言葉が、妙に胸に響いたから。
「ルカ、火ぃ起こそう。冷えたら風邪引くぜ」
そう言って立ち上がったコーネルは、いい塩梅の流木をすぐに見つけ、腰からナイフを抜いた。
刃の根元には、彼の名と小さな羽の印が刻まれている。
柄の皮は、飴色になっていた。
手に馴染み、角はすり減り、滑らかに光っている。
雑に扱われた形跡はない。
何度も磨かれ、何度も使われ、それでも壊されなかった時間だけが残っていた。
かつてアズルが、ルカたち四人に贈ったものだ。
……火も、獣も、命も。
かつて、アズルが言っていた言葉と、笑顔を思い出し、喉の奥が熱くなった。
コーネルは、刃先で枯れ草を削りながら、無言で火を起こし始めた。
迷いは、なかった。
石と木と、少しの草。
火打ち石を打つ手に、ためらいはなかった。
一度目。
火花が跳ねる。
二度目。
小さな煙が立つ。
三度目。
ぱちっ、と音がして、火が灯った。
無駄がなく、正確で、美しかった。
それを見て、ルカは思った。
……アズルさんは、今もここにいるんだな。
「……何じっと見てんだよ」
「たまには手伝えよ……バカ」
そういうと、指でちょいちょいと、自分の横を指し、座るように促した。
ミツヤみたいだな、とルカは少し吹き出した。
◆
火で暖を取る。あの夜の黒ずくめの男の魔法の火は、氷みたいに冷たく感じたが、この火は、優しく、暖かかった。
「アズルさんの手紙読んだ?」
ルカが聞くと、コーネルは寂しそうに鼻をすすった。
「ああ、読んだぜ。ありゃ、ひでえぜほんとに。誰か死んだらそいつの分は燃やせって、燃やせるわけねえだろ」
憎まれ口を聞きつつも、少し笑っていた。
「……僕、実はまだ、読めてないんだ」
ルカは彼の表情を見て、そう言うと、胸元から手紙を取り出した。
「なんだか怖くてさ。一緒に、読んでくれない?」
コーネルはきょとんとした顔をして、それでも頷いた。
「何やってんだよ、まあ俺は別にいいけど。恥ずかしい話書いてあっても、知らねえぞ」
「うん、頼むよ」
そう言って、ルカは封を切った
◆
ルカ・アルフェリオへ
手紙なんてお前に書くのは、初めてだな。
これは、全員宛に書いてることなんだが。
いなくなったやつがいたら、帰ってきた時に渡してくれ。
でも、もしそいつが死んでたら──その手紙は、もういらねえ。焼いてくれ。
こんなもの、柄にもねえし、本当は送るつもりはなかったんだが、俺が、死ぬって可能性もあるから、書き起こす。
まずは、この手紙を読んでるってことは、間違いなく、何か起きたってことだな。 俺は、なにかあるって予感しながらも、父としてなのか、兵士としてなのか、お前らのことを、蒼羽の巣に残しちまった。
すまねえ。
俺の力だけでは、たぶん解決するのは難しい。そう思っちまった。頼りにしちまった。
謝っても許されねえことだと、思う。
けど、俺はお前らの力を、勝手ながら信じさせてもらった。
それが、親ってもん、なのかはわからねえが、そういうことだ。
なにを書いてるか、自分でもわからなくなっちまった。
でもな、お前は、優しい子だ。
だから、自分を後回しにする。
それは悪いことじゃねえ。
けどな、それは、最善じゃねえ。
自分を守ってこそ、他人を守れる。
覚えときやがれ。
◆
その続きは、なぜか目が滲んで、焚き木の光を反射して、読めなかった。
「ありがとう。一緒に読んでくれて。居てくれて」
裾で目を覆う。
コーネルは、ルカの赤い髪をくしゃっ、と撫でる。
「お前は、二人を守ろうとしたんだ。もう二度と"殺した"なんて言うなよ。もし言ったら……兄弟やめるからな!」
その声は震えていた。
「うん。二度と言わないよ。約束する!僕……強くなるから!」
目を隠したまま、頷き、決意する。
薄暗くなった川辺に、焚き木の火が、ぱちぱちと、音を立てる。
それは、まるで――拍手をする観客のようだった。




