第五話 美しい名前 結編
男の絶叫が、森に木霊した。
突然の痛みに、思考が追いつかない。
服を掴まれ、地面に叩きつけられたことさえ、すぐには理解できなかった。
「……誰だ、お前」
低い声が降る。
胸を踏みつけられ、視線を上げる。
――“王国の矛”。
なぜ、ここに。西方へ行っていたはずでは。
思考が追いつくより先に、顔を踏まれた。
「誰だ、って聞いてんだよ」
魔法を撃とうと、右腕を上げようとする。
けれど、動かない。
咄嗟に目をやる。
肘から先が、ない。
血が噴き出し、白いものが、覗いていた。
喉が鳴り、息が詰まる。
次の瞬間、顔を掴まれ、視界が暗転した。
すぐに明るくなる。
仮面が、なかった。
――やばい。顔を見られた。
「いったい誰なんだてめえは。俺の弟どもはどこだ!」
問いに答えるより先に、手が動いていた。
視界にいた赤髪の少年を、ないはずの右手で反射的に指差す。
「こいつが! 殺しました!」
ルカに向かって振り翳されたその腕からは、血が滴っていた。
◆
「ルカ、他の三人はどこだ」
声が落ちた。
けれど、ルカは動けなかった。
言葉も出なかった。
ヴァルトは剣の鞘で、男を殴りつける。
ごつん、と、乾いた音。ゆっくりと、倒れる。
「……知らねえ顔だ。俺への恨みじゃねえ。誰かに、使われてやがるな」
そう呟いて、ルカに歩み寄る。
「なんて顔してんだ。言ってみろ」
「ぼ、僕はミツヤとガレオンを……」
言いかけて、崖のほうを見る。
もう、声が出なかった。
涙が、こぼれた。
髪を、くしゃりと撫でられる。
「泣いてたら、わかんねえだろ……」
いつもの声だった。
けれど、手のひらは、震えていた。
手が離れた。
次の瞬間、ぱん、と音が二重に重なった。
ルカが顔を上げると、ヴァルトが、己の両頬を叩いていた。
赤くなった頬をそのままに、こちらを見下ろしていた。
「よっしゃ。まだ死んでねえ。兄弟を信じろ」
そして、手を差し出す。
「諦めんな。立てるか?」
ルカは、差し出された手を、取ることができなかった。
その手に触れたら、きっと崩れてしまう気がしたから。
◆
「おーい!」
崖の小道に、いくつも松明の灯りが揺れていた。
白みはじめた夜空に、炎の影が走る。
「無事かー!」
声を張り上げ、まっすぐに駆けてくる影は、コーネルだった。
「ルカ!!兄貴!よかった……!」
二人を見つけるなり、あたりを見回す。
倒れている黒ずくめの男に目を留め、きっ、と睨む。
……でも、それより先に確認すべき顔があった。
ルカのほうを向き直り、叫ぶ。
「ガレオンとミツヤは、どこだ!?」
「コーネル、あのな――」
ヴァルトがその問いに答えかけた、その瞬間だった。
言葉より早く、声が走った。
ルカが叫んでいた。
「僕が──突き落としたんだ……守るために……なのに、全部……!」
「は?」
コーネルが立ち尽くす。
意味が、わからなかった。
駆けつけた村人たちが、どよめくのが耳の奥で響いていた。
ある男は、引き攣った顔で、隣の女を見た。
衛兵は、崖に向かい、手を合わせている。
「お前、……何ふざけてんだよ」
怒鳴る。けれど、怒りの先が掴めない。
ルカの顔が、真っ青で、震えていて。
それでも彼は、叫び続けていた。
「ガレオンとミツヤは、どこにいるんだ!」
……本当なんだ、と。あの目が、そう言っていた。
「ふざけてない!本当だよ!僕が――僕が、二人を殺した!」
「……おい」
その声は、低かった。
たった一言で、空気が凍った。
「やめろ。言い合っても意味がねえ」
「いまは──やるべきこと、をやるぞ」
ヴァルトは目を細め、森の向こうを見据えた。
「親父殿がいねえってことは……あっちも、ただじゃすまねえな」
“蒼羽の巣”の方向を、顎で示す。
二人は、黙って頷いた。
「コーネル、よく走った」
「崖の下を探してくれ。村の人と一緒に行け。たしか、小道の途中、降りられるところがあったよな」
「ルカ、お前も、よくここまで耐えた」
「もう少しだけ頑張れ。……家に戻るぞ」
そう言って、ヴァルトは村人たちに頭を下げ、立ち上がれぬルカを背負った。
「ルカ!!……ごめん!!」
コーネルが叫んだ。涙声だった。
「大丈夫だ!!俺が見つける!!」
「絶対だ!!あとで三人で──また、向かうからよ!!」
その声に、ルカは小さく、震える声で呟くしかなかった。
「……ありがとう」
雷のような勢いで、ヴァルトは森を駆ける。
その背に揺られながら、ルカは後ろを振り返った。
松明の火が、遠く、滲んでいた。
◆
森を抜けると、瓦がずれ落ちた、見慣れた屋根が目に映った。
朝の陽を浴びた“蒼羽の巣”は、祝福されているようにも、憐れまれているようにも見えた。
けれど、聞こえるはずの音が、何ひとつなかった。
朝のざわめきも、鳥の囀りも、誰かの笑い声も――なにも。
「アズルさん……」
養父の名をかすかに呼び、ルカはそっと目を閉じた。
それは、祈りだった。
風が止む。目を開くと、ヴァルトの足が止まっていた。
「……親父」
応えるように、風が一度だけ吹いた。
まるで、誰かが歩き出そうとするかのように。けれどそれも、すぐに凪いだ。
数歩、前へ。
血の匂いが鼻を刺し、埃が頬を撫でる。
地に倒れた影が、目に映る。
「……親……父……」
ヴァルトが立ち尽くし、声を絞るように呼んだその名で、ルカはすべてを悟った。
“終わった”のだと。
「ルカ坊、目……閉じとけ」
その声が届くより早く、ルカは飛び降りた。
傷の痛みも、怖さも、もうどうでもよかった。
「アズルさん! アズルさん!」
地を蹴って駆け寄る。
首筋は真っ赤に染まり、胸の上に重ねられた手は、静かすぎるほど静かだった。
「……アズル、さん?」
胸の奥がざわめいた。
嘘だと言いたいのに、喉が詰まって、声にならない。
その顔を覗き込む。
唇は強く噛み締められ、口元に渇いた血。体の横には、転がっていた。
まるで怒っているように。いや、何かを伝えようとしているようで。
──悔しさの滲む、表情だった。
「……お……とう、さん」
初めて、そう呼んだ。
ずっと、呼びたかった。けれど、呼べなかった。
やっと、声に出せた。
「お父さん……!」
その手に触れる。
知っているはずの温もりよりも、ずっと、遠い。
こんなにも冷たかっただろうか――そう思ってしまうほどに。
胸に顔をうずめたそのとき、背中に誰かの腕が添えられた。
抱きしめたまま、引き剝がされるのが怖くて、縋るように身を丸める。
──だけど、どれだけ願っても。
その体温は、戻ってこなかった。
「……ルカ坊。もう、寝かせてやってくれ。親父殿も、頑張ったからさ」
兄の声が、震えていた。
首筋を、冷たい雫が伝わる。
ヴァルトも泣いている――それがわかった。
けれど、後ろを振り向くことは、できなかった。
――僕が死ねばよかった。
ルカは、崩れるように膝をついた。
喉が震えた。
何かを叫んだはずだった。
でも、それが声だったのか、ただの泣き声だったのか、自分でもわからなかった。
ただ、家の屋根の上にいた小鳥が、一斉に飛び立った。
風が葉を揺らし、何事もなかったかのように、いつも通りの朝が“蒼羽の巣”を包んでいた。
◆
――それからのことは、よく覚えていない。
コーネルが戻ってから、二人が見つからなかったことを聞いた。
崖の下に流れる川辺に、血が残っていたけど、そこには遺体はなくて、きっと違う人のものだろう、と言っていた。
きっと、僕を励ますための嘘だと、わかった。コーネルは優しいから。
何一つ、なくなってしまった。
彼は、「すまん」と泣きながら言ってきたけれど、悪いのは僕だ。
僕が全部、壊した。
気づいたら、父と、帰ってこなかった兄弟たちの葬式だった。
兄からは、「チビたちには、事故ってことにしといてくれ」と言われた。
何を問われても、そういうことにした。
世界は、何一つ変わっていなくて、救いはないんだって。
ふと、庭の方に目をやると、青い鳥が虫を食べていた。
僕がここに来た時も、そうだったっけ。
◆
「ガキ、お前がルカか」
銀色の髪をかき揚げるその男性を、見上げた。
少し怖くて、ヴァルトの背に隠れ、「ルカ・アルフェリオ……です」と自己紹介をする。
その瞬間、ルカは両腕で捕まえられ、抱えられた。
母に投げられたことを思い出し、身が固まる。
けれど、投げられることはなく、地面に降ろされた。
そして、ゴツゴツした手のひらで頭を撫でられる。
「俺は、アズル。ここの父親だ」
そして、続ける。
「よく生きたな。ルカ。これからはここがお前の家だ。"蒼羽の巣"ってんだ。俺の名前からとったんだよ。かっこいいだろう?」
ルカは、何も言わず、アズルを見上げた。
「今は、辛いかもしれねえ。でも、お前なら大丈夫だ。そんな目をしてる。それによ……」
そして、庭の方に目をやる。ルカもそれに続く。
ルカと同じような背格好の子が二人、泥で何かを作って遊んでおり、背の高い女の子がそれを見守っている。
「ここには、仲間がいっぱいいる。最初は仲良くなれるか不安かもな。でもいつか、兄弟になれるはずだ」
そんでもって、と一度話を切る。
「アルフェリオ、いい響きだな。もう一つ、お前に苗字をやる。プリュミノー。それがここの家族の証だ」
新緑が木々を彩り、青い羽を瞬かせ、鳥は軒下の巣に戻る。雛は口を開けて、餌を求めていた。
これから訪れる、運命に立ち向かうために。
第一幕 第一部 完
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本編第一幕 第一部は、ここで一区切りとなります。
次回更新は1/28(水)を予定しております。
引き続き、物語を見届けていただけましたら幸いです。




