第五話 美しい名前 後編
息が、喉を焼いた。
ぬかるんだ森の地面が、走るたびに跳ね返ってくる。
ルカたちは、飛ぶように駆けていた。
めざすは崖。
そこに抜ければ、隣村へ続く小道がある。足を滑らしたら、かなりの高さから、川へ落ちることになる。
希望というには頼りないが、今はそれだけが道標だった。
どん――。
腹の底を殴られたような音が、森を震わせた。
地面が、わずかに鳴った。葉がざわめき、獣の気配が消える。
「……今の音、何だ……?」
誰からともなく漏れた声に、誰も応えなかった。
ルカが振り返ると、“蒼羽の巣”の屋根が、遠くでわずかに揺れているのが見えた。
「親父さん……」
コーネルの声が、祈るように震えていた。
「行くぞ。止まるな」
ミツヤが進行方向を指し、促すように言った。
けれど、次の瞬間。
「――お、俺が、先に行く!」
声が裏返った。だが、確かに響いた。
月明かりが、コーネルの頬を照らす。
口を一文字に結び、肩を強張らせていた。
「俺が一人で村まで走って助けを呼ぶ!足なら、一番速い!」
唾を飲み込む音さえ、痛いほどに響いた。
それでも目は、まっすぐだった。
「……だから、お、お前らも絶対にあとで来いよ!」
一瞬だけ、仲間の顔を順に見やる。
何かを託すように、確かめるように。
そして――ミツヤを追い越して、コーネルは駆けていった。
ルカは、その背中を見つめた。
風を裂くように走る、仲間の小さな背中。
「バカやろ……」
ガレオンが一歩踏み出す。
「待て」
ミツヤが手を伸ばして制する。
「速い奴は、一人のほうが速い。……あいつ、自分でわかってる」
ぽつりと呟いた声には、かすかな戸惑いが滲んでいた。
「……いつの間に、あんな顔するようになったんだ」
静かな風がすり抜けていった。
三人は、何も言えないまま、その背中を見送った。
◆
「……一体、なんなんだ、あいつら」
ガレオンが息を切らしながら漏らす。
ルカは答えない。ただ、視線だけを背後に向けた。
風が――止んでいた。
森の音が、すべて遠のいていく。虫の羽音も、葉擦れも、まるで引いてゆく潮のように。
右の掌が、じわりと熱を帯びる。
「……ミツヤ、ガレオン。急ごう」
静かにそう言い、ルカは再び前を向いた。
けれど――。
胸の奥に、何かが引っかかっていた。
それは、言葉にならない違和の感覚。
耳の奥にだけ、残響のように、響いていた。
何かが、這い出してくる。
足元の闇から、森の底から、気配がせり上がってくる。
ルカは、その感覚を振り払うように駆け出した。
――ぴし。
乾いた音が、背後で割れる。
誰かが、枝を踏み折った。
三人は、一斉に足を止める。
振り返っても、そこには誰もいない。
ただ、たしかな"圧"を放っていた。
「……こっちに気づいた」
ミツヤが低く呟く。
ぴし、ぴし。
続けざまに、枝の折れる音が重なってゆく。
土を踏みしめる、重い足音が近づいてくる。
枝のはじける音に続き、まるで何か巨大なものが、森の奥から這い寄ってくるようだった。
「逃げろ!」
ミツヤの叫びと同時に、全員が駆け出す。
風を切り、草を踏み、木の合間を──獣のように駆け抜ける。
「俺が残る!」
ガレオンが叫び、立ち止まった。
「ダメだ、ガレオン!」
ルカも止まり、怒鳴り返す。
「このままじゃ追いつかれる! 誰かが止めないと――」
「だったら、僕が――!」
声が重なり、空気が張り詰めた。
「黙って走れ!」
ミツヤが吠えるように振り返る。
「走れって!全員で逃げるんだよ!それが最善だ!」
その声に応えるように、森が途切れた。
木々が割れ、視界が開ける。
風が吹き抜け、その先に崖が姿を現す。
「見ろ、崖だ!あそこを抜ければ――撒ける!」
崖の縁に沿って、小道が続いている。
そこを抜ければ、隣村まではそう遠くない。
ルカたち三人は、息を切らせながら道へ向かった。
泥を跳ね上げ、岩場を蹴り、ただ前へ――。
あと少し。誰もが、そう信じていた。
◆
――けれど。
「……はい、ご案内、ご苦労さん」
その声が、背後から聞こえた。
反射的に振り返る。
森の影から、男が現れていた。
極端に痩躯。黒ずくめの外套、顔は白い仮面に隠されていた。
笑っていた。
顔が見えないのに、はっきりとわかる。
「足速いんだよお前ら。あれ、四人じゃなかったっけ?まあいいや」
言葉の端に、冗談のような調子。
けれど、その目は笑っていない気がした。
「開けた場所に出てくれて助かったよ。俺の魔法、森じゃ使いづらくてね」
片手を上げると、空気が爆ぜた。
轟音。閃光。
大地がえぐれ、崖の縁が砕ける。熱が肌を焼いた。
「伏せろ!」
ミツヤが叫ぶ。
ルカは遅れてしゃがみ込む。
破片が頭上をかすめ、熱風が頬を斬った。
「試し撃ちだよ。次はちゃんと狙うさ」
男が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
仮面の奥の視線が、まっすぐミツヤを捉えていた。
「……ああ、いたいた。そっちの黒髪な」
少し笑って、肩をすくめる。
「ま、他はついでだ」
ミツヤが眉をひそめる。
その意味を測ろうとした刹那――
彼は、自然と一歩、ルカの前に出ていた。
躊躇はなかった。まるで、それが当然のことのように。
それを追うように、ガレオンもルカの前に立った。
ルカは、二人の背中に守られていた。
いつものように。
ずっとそうだった。
――自分は、ずっと二人の背中を見ていた。
「焔種」
小さく呟き、呼吸とともに魔素が震える。
――名を口にする、その一瞬で、魔法は形を定める。
敵は、笑っていた。
手のひらの上で、火球をくるりと転がしている。まるで、火遊びに興じる子どものように。
「僕……」
ルカは呟いた。
声が震えていた。でも、その震えは恐怖ではなかった。
「僕が、守る番なんだ」
火球が、飛ぶ。
それは三人めがけて、弧を描き、飛ぶ。
「下がって!」
ルカは叫んだ。右手が熱い。掌が脈を打つ。
地に手をつく。魔素が奔る。
土が隆起し、防壁を成した。
火球が爆ぜ、壁が揺れる。だが、耐えた。
「はは!すげえな!お前!"名"を呼ばずに、そのデカさの壁出すのかよ!」
仮面の男は嬉しそうに手を叩きながら、声を上げる。
ルカは膝をついた。視界が滲む。体内の魔素は、ほとんど残っていなかった。
「逃げて……小道へ……!」
ルカが叫ぶ。けれど、すぐに止まった。
敵の足音が、すぐそこに迫っていた。
もう間に合わない。
ルカは、前に出ようとする二人を見て、叫んだ。
「……僕が、こいつを止めるから!」
「お前だけじゃ無理だ!」
ガレオンが怒鳴る。
「三人でやるぞ!」
ミツヤが、遮るように前に立つ。
ルカの胸に、何かが突き刺さった。
心が叫んでいた。
――僕が助けなきゃ。
ルカ、ごめんね。
その瞬間、過去の記憶がよみがえる。
川の水音。母の声。震える手。冷たくなる体。
あのとき、死ぬほど怖かった。
でも、生き延びた。
生きてほしかったから、母さんは突き落としたんだ。
ルカは、口を開いた。
「ガレオン、ありがとう。いつも、守ってくれて」
一歩、二人の背中に近づく。
ガレオンは、応えない。
「ミツヤ……あの日、ひどいこと言って、ごめん」
「何言ってるんだ!切り替えろ!」
ミツヤが後ろを振り返らず、叫ぶ。
足が動く。
ふたりの背中へ。
崖の縁、そのすぐ前に立つ二人に向かって。
「だから――生きて」
そう言って、思い切り服を引っ張り、突き落とした。
ミツヤが、咄嗟にルカの腕を掴もうとする。
でも間に合わず空を切る。
しかし、何かを"掴んだ"ように、宙で体が停止した。
けれど、それは一瞬も続かず、落下していく。
ガレオンが「ルカ!お前!」
と絶叫する。声は悲しく響いた。
そして、手を伸ばしミツヤの腕を掴み、抱え込んだ。
落下音。ざぶん、と水が割れる音。
それで、よかった。
これで、ふたりは助かる。
そう思った。その瞬間までは。
◆
何かが焦げる匂いが、風に乗って流れてきた。
乾いた破裂音が、遠くで爆ぜる。
その合間に、叫び声と、水を裂く音が交じる。
気配がひとつ、森を逆行していた。
ただ、まっすぐに。ためらうことなく。
彼は、足を止めなかった。
◆
「へえ……お前、味方突き落としたの?」
その声に、ルカは振り返る。
男が、やや呆れたような顔をしていた。
「この高さから。すげえな、おい。はは」
冗談みたいに言ったその言葉が、ルカの胸の奥を、冷たく叩いた。
「俺にはできないね。落ち方によっちゃ、普通に死ぬけどな。川があるとはいえ、さ」
「……うそ、だ」
脚が、震えた。
さっきまでの“決意”が、どこかへ消えていく。
「ほんとに助かると思ってたの? マジで? すごいなあ」
男が笑う。
「なあ、お前が殺したんじゃね? 二人とも」
膝が折れた。
地面に、崩れ落ちた。
肩が震える。手が痙攣する。息ができない。
「僕……助けたのに……!」
誰も応えなかった。
掌が熱い。
なにかが噴き出そうとしているように思えた。
「……バカだな、お前」
男が、吐き捨てるように言った。
「黒髪がターゲットだっつーのに。
お前が、殺してんだもん。まあ、手間が省けたよ」
「あんがとね」
ルカは、理解できなかった。
心の芯みたいなものが、音を立てて砕ける。
男が右手で虚空に丸を描く。
火が、膨らむ。
「黒髪の死体は、あとで探しに行くとするよ。"英雄還り"は……見つけなきゃ、依頼人に殺されそうな気がするな」
男は楽しげに笑った。
「ま、いいや。それはそのうちだ。とりあえず──」
右手を、こちらに向ける。
「お前、燃やしとくか」
ルカは、動けなかった。
“立ち上がる”という発想さえ、浮かばなかった。
空が、白く滲んでいた。
その手前で、火球が生まれていた。
剣の柄に結びつけられた、小さな蝶の飾りが火光に揺れた。まるで、その光から逃げるように。
「ごめんなさい」
目を瞑り、独りごちる。
――ばちん、という音が轟き、目を開く。
「おい、俺の弟に――」
その声と同時に、火を生み出していた男の手が切り落とされた。
「何してくれてんだッ!!」
金髪の巨躯が、叫ぶ。
長剣を振り抜き、間髪入れずに男の胸ぐらを掴み、地に叩きつける。
その瞳は、焼けつくような怒りに赤く、爛れていた。
“蒼羽の巣”の長兄、ヴァルトだった。
悲鳴と共に、火は消え失せた。




