第五話 美しい名前 中編
「ミツヤに引き取り手ができた。急遽だが、三日後の朝に迎えにくるらしい」
そう、アズルが伝えた日の午後から、“蒼羽の巣”は、異様なくらい静かになった。
ミツヤは「ふざけんな、勝手に決めやがって」と怒鳴っていた。
けれど、他の子たちは──その怒りを、まるで聞かなかったかのように笑った。
「……よかったな」
寂しさを押し殺して、誰もがそう言った。
ヴァルトが出立して、二日。
朝の鐘が鳴っても、誰も競うように階段を駆け下りてこない。
炊事場には、鍋の煮立つ音だけが、ぽつり、ぽつりと響いている。
空気は澄み、空は晴れている。けれど、どこかおかしい。
昨日の午後には、教会の使者がガレオンを名指しで訪ねてきた。
アズルは一言も語らず、そのまま門を閉じた。
その後、誰もそのことには触れなかった。
“蒼羽の巣”全体が、まるで――息をひそめ、嵐の訪れを待つ森のようだった。
年少組は、隣村の農家へ手伝いに出されていた。
アズルが昨日頼み込んだらしい。
なぜミツヤが引き取られる直前なのか、わからなかった。
「ミツにい、ばいばいじゃないよね?」と子らは聞いていたが、ミツヤは「当たり前だろ?はやく行きな」と少し寂しそうに笑って送り出していた。
子どもたちが帰ってくる頃には、自分はいないかもしれない。
けれど、それよりあの子たちの泣く顔を見たくなかった。
コーネルが「俺たちは手伝いに行かなくていいのか?」と問うても、アズルは少し黙って──こう言った。
「……お前らは、ここにいてくれ……。すまない」
その声は、低く、どこか冷たく響いた。
すまない、と言った理由がわからず、コーネルは戸惑ったが、口にはしなかった。
命令ではなかった。けれど、拒めるものでもなかった。
子どもたちが部屋を出ていったあと。
アズルは、一人、静かに天井を見上げた。
──護るべき命は選べ。
昔の戦場で、幾度も聞いた言葉だった。
その教えを、こんなかたちで思い出すことになるとは思いもしなかった。
幼い子らを遠ざけたのは、生かすため。
年長の三人を残したのは、託すため。
それでもなお、一人でも多く、“ミツヤの盾”になれるようにと──剣を持たせた。
けれど──それが、戦士としての選別なのか。
父としての願いなのか。
自分でも、もうわからなかった。
そして、その日の夜、それぞれ手渡した武器を、枕元に置いておくよう、促した。
ルカは、アイリスからもらった剣を、脇机に立てかけた。
◆
その日の深夜、月は赤く光っていた。
ルカは、眠ることができず、窓辺でじっと夜空を見ていた。
胸の奥に、小さな棘が刺さったままだった。
──明日、ミツヤはここを出ていく。
言い合いのあと、なにもなかったように、話していた。
けれど──ごめん、の一言が、やけに遠かった。
ほんの一歩なのに、胸の奥では、踏み出せなかった。
謝る隙なんて、いくらでもあったのに。
「……明日、謝ろう」
ぽつりと呟いて、窓から目を離しかけたそのときだった。
遠く、光が瞬いた。
ほんの一瞬後、地の底から這い上がるような轟音が、巣を揺らした。
窓が震え、寝台の足元で何かが倒れる音がした。
子どもたちの悲鳴が夜空へ響いた。
「無事かッ……!!」
階下から、アズルの怒鳴り声が響く。
乾いた床を、誰かの足音が走っていく。
次の瞬間、子ども部屋の扉が乱暴に開かれた。
斧を片手にしたアズルが立っていた。
その姿は恐ろしく見えたけれど、
声には、怒りも威圧もなかった。
「……こっちに来い。怖がらなくていい」
それは、戦士の声じゃない。
迷いなどない。守るために、武器を握った──親の声だった。
子どもたちはアズルに誘導され、一階へと降りていく。
階段の途中で、誰かの手が、そっと彼の背を押した。
見ずとも、ガレオンだと分かった。
そのぬくもりを感じた直後──
再び、轟音が響いた。
床が軋み、玄関の扉が、内側から叩き壊された。
木の破片が、夜風に乗って宙を舞う。
音の中に、女の笑い声が混じっていた。
甲高く、乾いた笑い──まるで、子どもたちの悲鳴に酔うような声だった。
扉の残骸を踏みしめ、靴音が一歩ずつ、床を軋ませる。
黒ずくめの五名が、隊列を組み、入ってくる。
笑いは止まない。先頭の女の仮面のなかから。
誰もが言葉を失うなか、鞘から金属音が響いた。
それは、最初の一撃のための音だった。
「こんばんは。夜分遅くに申し訳ありません」
笑っていた。
その目に、謝罪の色はなかった。
ただ、愉悦。獲物を前にした狩人のように、静かな昂ぶりだけを滲ませながら。
ガレオンは、剣を構える。真っ直ぐに敵を見つめ、ごくりと喉を鳴らした。
「……おやおや。迎えに来てくださったんですか?」
「ならば、手土産に、その坊やの首でも持ち帰らねば――上に叱られてしまいますので」
言葉と同時に、刃が走る。
一撃。斧と交錯し、鋼が火花を散らした。
「これはこれは。“元”銀虎殿。ご存命とは……てっきり、血の海で錆びついたものとばかり」
「……てめえみてえな下衆と喋る気はねえ。殺す」
「お褒めにあずかり、光栄の至りです」
「私は“小石”。あなたに踏み潰される運命の、“小石”」
「ですが今宵は、どうやら“そちら”が躓く番のようで――」
その皮肉を最後まで、言わせてやる気などなかった。
ごう、と斧が唸った。空気が裂け、灰色の閃光が走る。
振るわれたのは獣の腕ではない。精密に設計された、殺戮の機構。
“小石”は身を翻し、殺意の軌道から抜けた。
だが、その背後に立っていた男の喉元は、すでに裂けていた。
目が見開かれる。理解が追いつく前に、胴が斜めに滑り落ちた。
血の華が咲いた。
月に照らされた白壁に、鮮やかな弧を描く。
斧は、すでに次の構えへ戻っている。
「ひっ」と悲鳴が聞こえた。コーネルだった。
「……これは無理だ」
ガレオンは、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
そして、無謀な突撃はしないと判断し、剣を納めた。
アズルは、ガレオンの所作を横目でちらりと覗き、小さく頷いた。
「一人目。あと四人しかいねえぞ……どうすんだ」
声は冷ややかで、どこか皮肉げだった。だがその裏で、アズルの意識はすでに“殺す”だけではなかった。
足音。風。気配の揺らぎ。
建物の裏、崖に抜ける小道――誘導できるとすれば、あそこだ。
音で釣れば、こちらに意識が向く。抜ける隙は、つくれる。
建物の外の敵の残りは、たぶん一か二。
指す手を誤れば、子どもたちは逃げ切れない。
だが、数が多いほうが楽だ。
まとめて片付ければ、手間も減る。
斧の重みを、掌が確かめる。
やるべきことは、ひとつも変わらない。
殺して、逃がす。
それだけだ。
思考が定まり、獣のように睨みつける。
冷ややかな殺意は消え、全身から噴き上がるような熱が滾る。
喉の奥から、咆哮が噴き出した。
「うおおおおおおッ!!!」
"銀虎"が吠える。
斧を両腕で振り抜く。
壁が砕け、土煙が爆ぜた。
怒涛の一撃が、空気ごと敵を薙ぎ払う。
背後に気配を残したまま、アズルは指を向けた。
子どもたちにしか見えぬ角度で。――逃げ道を。
理解は及ばなくとも、その指だけは明確だった。逃げろと。
ミツヤは振り返り言った。
考えるよりも、早く。家族のために。反射的に。
「コーネル。ルカ。ガレオン」
兄弟たちの名を呼ぶ。
「行くぞ」
その声は、力強かった。
ミツヤが裏口を指したそのとき、
コーネルは足元の敷居に引っかかり、膝をついた。
「っ……ごめ──」
「大丈夫だから」
ルカがそう言い、ガレオンとともに無言でその襟を掴み、引きずるようにして走り出す。
――行くぞ。
言葉の響きが、自分でも驚くほど――“似ていた”。
あの夜、ヴァルトに言われたあの声に。
――ルカは心臓。ガレオンは腕。コーネルは足。
そして――お前は、“頭”だ。
あの言葉が、今、ミツヤの背を押す。
「……わかったよ。兄さん」
裏口から外に出たミツヤを、赤い月がぼんやりと照らしていた。
◆
「外に、私の部下が、いないとお思いですか?」
「……ああ、すぐに合図を出さずいてくれて、ありがとよ」
アズルは静かにそう言うと、片手で斧を立て、
次の瞬間、それを“地ごと裂く”ように叩きつけた。
地鳴りのような轟音。
壁の埃が舞い、誰かが仮面の奥で、思わず耳を押さえる。
「おかげで、外に出たガキどもが──まだバレずに走れてる」
その声音は低く、鋼のように冷たかった。
“誰ひとり、追わせない”という意志が、空気そのものに刻まれる。
アズルは靴棚をつかみ、投げ捨てた。
木片が爆ぜ、壁を叩き、玄関の出口が塞がる。
全身へ、灰色の魔素が、燃え立つように灯る。
揺らめきながら、しかし一点の曇りもなく──
ここからは、「逃さぬ者」と「追う者」の死合だった。
もはや一歩たりとも、引くことはない。
アズルの魔力を見て「ほう、それなり、ですね」
と"小石"は耳を抑えながら言ってのけ、そして、部下に、手で指示を下す。
――囲みなさい。
敵は、ジリジリと、足音を立てず、左右に広がっていく。
前、右、左。三方へと、アズルは視線を散らし、牽制する。
その瞬間、足元に、小さな魔導工具が投げられるのが見えた。ひとつ、ふたつ。
無音のまま、一つの閃光が炸裂する。
光の正体を、見た瞬間には察していた。
それでも、間に合わなかったように一瞬だけアズルは目を抑える。
その隙を見逃すことなく、敵は無属性魔法で脚力を強化し、一気に距離を詰めた。
小石は、それをただ観察していた。
一斉ではない。アズルの動きに警戒し、順番に攻撃を仕掛けてくる。まずは右──横殴りの一撃。
がきん、と金属がぶつかる音。
剣は、アズルの左手の籠手に阻まれた。
次の瞬間、右手の斧が唸り──首を落とした。
からん、と転がる頭。数拍遅れて、体が崩れる。
床と壁は赤く染まり、灰色の魔素が、それを静かに照らした。
「ちっ……全員で来てりゃ、横薙ぎでまとめて捌けたのによ」
左手から流れる血を、一度だけ、払う。剣戟を受けた籠手は、割れていた。
「目が眩んだのは、演技でしたか。あなた、嘘つきですね」
値踏みが終わったように、"小石"が笑う。
「私もなんですがね」
その瞬間アズルは、身体に違和感を覚える。
あの時、投げられた魔導工具は二つ。
「そういえば、光ったのは一つだけだったな……」
アズルがつぶやく。足元に、じわりと広がる痺れ。視界の端が、わずかに滲む。
「もう一つは……毒か」
"小石"は、笑った。
「とんでもない。そんな物騒なものじゃないですよ。せいぜい――子供騙しです」
「無味無臭なんです。でも、その代わり撒ける範囲は狭いですし、効き目もすぐ切れます。……あ、でも」
わざとらしく指を立てて、続ける。
「“痺れる”って、違和感ございませんか?」
アズルの肩がわずかに揺れたのを見て、"小石"は楽しげに笑った。
「よかった……。私、間に合ったんですね。あなたと、また殺りあえると聞いて。
一日、予定を早めましたよ」
少し首を傾げ、仮面の奥から声を低く落とす。
「……あの日から何度も、あなたの殺し方を考えました。
何通りも、何通りも。寝る前に、それしか浮かばないほどに」
顔は見えずとも、口角をあげるのがわかった。
「でも、私のこと──覚えてませんよね?」
アズルが無言を返したその瞬間、仮面の奥で、声が揺れた。
「それでいいんです。あなたに忘れられたからこそ、私は今日まで生きられた」
「だから今度こそ、刻む。あなたの肉に、この名を」
「すまねえな、覚えてねえ。そして、今日でまた忘れるよ。そろそろ行かねえと。息子たちが待ってる」
その言葉に、"小石"が一拍遅れて顔を上げた。
「……ああ!そうでしたね。黒髪の坊やの首。ついでに"英雄還り"の確保。任務でした」
「ま、部下が追ってます。……私の手など、必要ないでしょう」
声に笑みが滲む。だが、それは軽薄なものではなかった。
仮面の奥から、震えるような声が漏れる。
「──いまの私は、“それどころ”じゃないんです」
アズルは、片手で斧を握り直す。
左手の傷は存外深く、右手は痺れている。それでも、まだ握れる。
“振るえるか”ではない。
“振るうしかない”。
身体が軋む。視界が滲む。
けれど、その足は、一歩も退かなかった。
「……叩っ斬る」
腕に持った"轟哭"が、ぎらり、と光った。




