第四話 蝶々結び 後編
「……また、必ず」
そう呟き、少しだけ、空を見上げた。
陽射しが、剣の耳飾りをきらりと照らす。
「ひゅーっ!」
コーネルが年少組の子どもたちと一緒になって、からかうように歓声をあげる。
「おいおい、ルカ、やるじゃねえか」
ガレオンが、にやにやと笑いながら肩を肘で小突いてくる。
「なっ、べ、別に……!」
「へえ、そういうのを“恋”って言うんじゃないか?」
珍しく、ミツヤまでもが茶化すように言った。
「きみまで……!」
ルカは言い返すものの、声に力が入らなかった。
「ははっ。でもさ──」
ガレオンがふっと表情をやわらげる。
「なんか……嬉しいな。
お前が、そんな顔をするなんてさ」
ルカは何も言わず、ただ黙って、剣の柄に揺れる耳飾りを見つめ続けていた。
「……昼飯にするぞ」
アズルの声が響く。
その瞬間、張り詰めかけていた空気がふっと緩み、
子どもたちは「わーい!」と声を上げて駆け出していく。
コーネルは「腹減ったなー」と笑いながら、孤児院の方へ小走りに戻っていった。
ガレオンは照れ隠しのように鼻を鳴らし、ミツヤはそっとルカの肩を叩く。
ルカはまだ、耳飾りから目を離せないまま、やがて、ゆっくりと歩き出し、皆のあとを追った。
◆
「とっても素敵なご家族だったわね」
キンバリーが、娘の頭をそっと撫でながら言った。
アイリスは、小さく頷きながら、ぽろりと涙をこぼす。
「うん……」
自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。
だって、彼のことは、ほとんど知らないのに。
それでも──
もう少しだけ、一緒にいたかった。
あの時、剣を握り締め、狼を斬った彼の姿が、瞼に焼き付いて離れない。
気づけば、そんなふうに思っていた。
そのとき、頬を伝った一筋の涙を、タマが背伸びをして舐めとった。
まるで、「泣かないで」と励ますように。
「……ありがとう」
アイリスは小さく呟き、タマを胸に抱いた。
目を閉じる。昨日の出来事を、そっと思い返すように。
馬車の振動に揺られ、赤い蝶の耳飾りが微かにきらめく。
それは、いまにも空へ舞い上がろうとするようだった。
◆
昼食を終えたあと、ミツヤはひとりで皿を洗い、そのまま食卓に残っていた。
窓から差す柔らかな光が、静かな室内を照らしている。
誰もいない時間。
その静けさの中で、昨日の戦いが脳裏をよぎる。
主に狙われた、あの瞬間。
あの巨躯の魔物の視線が、自分を真っすぐに貫いていた。
足はすくみ、声も出なかった。
──でも。
ガレオンが、木の切れ端を投げてくれた。
あれがなければ、間違いなく──主の牙は自分に届いていただろう。
標的が変わり、今度はガレオンが危機に陥った。
そのとき、動いたのはルカだった。
魔法を使い、土の壁を生み出し、ガレオンを守った。
──なのに、自分は。
俺は、何もできず、ただ立ちすくんでいた。
偉そうに指示を出して、肝心なところでは、ただ立っているだけ。それじゃ、案山子と変わらないじゃないか。
磨き上げる価値のあるものを、なにひとつ持っていない人間は──一体、どうすればいいんだろう。
独り、自嘲気味に鼻で笑った。
ふっ、と漏れたそのかすかな音が、誰もいない食堂にぽつりと響いた。
──がちゃ。
休憩に訪れたコーネルは、頭の手拭いを外しながら、室内を見渡し──ミツヤの姿に気づいて、立ち止まった。
「……なに、こんなとこで、たそがれてんだ?」
声をかけられたミツヤは、わずかに肩をすくめる。
「いや、別に」
椅子から立ち上がり、そのまま出口へ向かう。
が、背中越しに、名前を呼ぶ声が届いた。
「──ミツヤ」
足を止める。
けれど、振り返らずに、ただその場に立つ。
「ありがとな」
コーネルは、まっすぐな声音で言った。
「……なんか、上手いこと言えねえけど。
たぶん、お前があのとき、俺たちをまとめてなかったら──
とんでもないことになってた気がする」
照れくさそうに、鼻の下を指でこすりながら、ぽつりと続けた。
沈黙。
少しの間を置いて、ミツヤは静かに答える。
「……そう言ってもらえると、助かるよ。……けど、次こそは……うまくやるさ」
それだけを言い残し、扉に手をかけて、出ていった。
誰もいなくなった食堂に、コーネルがひとり残る。
ふう、と息を吐きながら、天井を仰いだ。
◆
その夜、ルカとミツヤは年少の子どもたちと一緒に、風呂へと入っていた。
コーネルは「親父さんに鍛冶屋の話を聞くんだ」と言って、アズルの部屋に向かい、それっきり戻ってこない。
ガレオンは、ひとりで剣を振り続けていた。
途中までルカとミツヤも付き合っていたが、昨日の戦いの疲れが抜けきらず、早々に引き上げ、体を休めることにした。
「ミツにい、これ、きえないねえ」
湯の中、年少組の子どもがミツヤの胸を指でつついた。
そこには、ルカにとっても見慣れた――
あざのような、印のようなものが、浮かんでいた。
なぜか、胸の奥に引っかかるような既視感を覚えて、ルカは小さく問いかける。
「……なんなんだろうね、それ」
ミツヤは湯に沈めた手で胸を軽くさすりながら、
「なんなんだろうな。物心ついた頃には、もうあったから。気にもしてないよ」
と、肩をすくめてみせた。
「どこで見たんだっけ」と呟くと、ルカは右の手のひらを無意識に見ていた。
何もないはずのそこに、ふと光の残滓を見た気がして──ルカは目を細めた。
“折れることは許されぬ”。
夢の中の声が、なぜだか、今はずっと身近に感じられた。
風呂の中の湯は、昨日の戦いの傷を、ちくりと刺すようでいて、じんわりと癒してくれているようだった。
「おい、小僧ども」
大きな声が、風呂の出入り口から届いた。
ふと振り向くと、湯気の向こうに、見慣れた長身の影があった。
水を汲んだ桶を片手に、ヴァルトがのそりと現れる。
「兄ちゃん……!」
ルカが思わず声を上げると、ヴァルトは「よう」と軽く片手を上げて見せた。
その瞬間、年少組の子どもたちが「うわーっ!」と叫びながら湯船から飛び出す。
「にいちゃんだー!」「またせなかのせてー!」「バケツかぶってー!」
ヴァルトは片腕で二人、もう片方でひとりをひょいと抱き上げ、そのまま脱衣場まで運んでいく。
「おめえら、濡れたまま来るな!滑るって言ってんだろ!」
文句を言いながらも、タオルで子どもたちの体を雑に拭き、ぐしゃぐしゃの髪をくしゃっと撫でる。
「チビども、兄ちゃんが風呂から上がったら――」
と、わざと間を置いてから指を突き立てる。
「ぐるぐるごっこだぞォ!」
「やったー!」「きょうこそわたしがいちばんまわる!」「おれこないだはいたからやだー!」
湯気の向こう、笑い声が湧きあがった。
ルカは、その光景をぽかんと見つめていた。
ミツヤは、ふっと笑って、湯をすくって額にかける。
──英雄じゃない。
いま、そこにいるのは、“蒼羽の巣の、ただの兄ちゃん”だった。
「こんな時間に来るなんて珍しいな、兄さん」
ミツヤが広くなった浴槽で、足を伸ばしながら言った。
「仕事が片付いたからな。少しだけ寄るつもりだったが……風呂の湯気に釣られた」
そう言って、彼は桶の湯を頭からざぶりとかぶる。
その動作のどこかに、剣ではなく“日常の中にいる男”の柔らかさが滲んでいた。
「なんか、久しぶりに見た気がする。兄ちゃんの、その顔」
ルカがぽつりと呟くと、ヴァルトは手拭いで髪を乱暴に拭きながら、苦笑を漏らす。
「何言ってんだ、いつも通りいい男だろ?」
その言葉が、ふわりと湯気のなかに溶けた。
ミツヤは、そのやり取りを聞いていた。
ふと、湯の中の痣に触れ、目を伏せる。
その横で、ルカがまた、自分の右手を見つめていた。
ヴァルトの視線が、その動きに気づいたように、ほんの一瞬だけ鋭くなり――
けれど、何も言わずにそっと目を閉じた。
「ミツ坊、ルカ坊、おめえさんたち、どうやら頑張ったみてえじゃねえか」
ヴァルトは、二人の体の傷を見て、顎に手をやる。
「いい面構えになったな、ルカ坊。……で、ミツ坊」
ふと、視線がミツヤにだけ重なる。
その鋭さに気づいたのか、ミツヤは立ち上がる。
「──もう出る」
そう言って、湯を後にしようとしたその背に、声がかかった。
「ルカ坊」
ヴァルトが、意外なほうに呼びかける。
「ちょっと 悪いが、二人にしてくれねえか」
ルカはきょとんとしたあと、少しだけ、頷いた。
「……うん」
湯から上がり、そっと戸を閉める。
湯気の中に、ヴァルトとミツヤの二人きりが残った。
「まあミツ坊、逃げんなよ」
こっちに来いというように、湯船の湯をちゃぷちゃぷと叩いた。
それを一瞥し、ミツヤは黙って、湯に浸かり直した。
「ネル坊からさっき聞いたぜ、次はもっと上手くやるって言ったんだって?」
「その考え方は否定しねえ、次はもっと次はもっと、ってのは大事なことだ。でもな、その前に、できたことにも目を向けてやれ」
「なにもできなかった。俺は、ただ突っ立ってただけだよ」
ミツヤは湯の中で、強く拳を握りしめていた。
「何もできてねえ奴が"ありがとう"なんて言われるかよ。おめえさんは昔っからそうさ。人のことはちゃんと見れるのに、てめえのこととなると、何も見えなくなる。ちゃんとやれたんだよ。おめえさんは」
ヴァルトが言い終わると、しばらくの間、沈黙が響いた。
ミツヤは、硬く握りしめていた手をほどき、目尻を指で摘むようにした。
「俺、怖かったんだ。俺が立てた作戦のせいで、あいつらが死ぬんじゃないかって。悔しかったんだ。俺は動けなかったのに、ガレオンも、ルカも、コーネルも、自分にしかないものを持ってる」
その言葉を聞き、はっはっ、と笑い、そして、ミツヤの目を見ながら言った。
「誰も死んでねえ。それだけで、おめえさんはじゅうぶんにやった。ガキだけで、獣の群れ相手に立ち回ったんだ。褒めてやりてえくれえだ」
そんで、と言いつつさらに言葉を紡ぐ。
「悔しくてもいい。でも、てめえのことをてめえで傷つけて、折れて、動けなくなっちまったら、あいつらはどうするんだ」
「ネル坊は足、ガレ坊は腕、ルカ坊は心臓。それでもって、おめえさんは頭ってとこだな。頭が指示しなきゃ、あいつらは動けねえし、あいつらはそれを待ってる」
「てめえでてめえのやれたことを、勘定できるようになれ。おめえさんはそれができる男のはずだろ?」
ミツヤの目から流れた水滴が、湯船に落ちた。
「うるせえよ……」
と呟くと、ミツヤは背中を向けた。
ヴァルトはミツヤの肩をぽん、と叩き、「兄ちゃん、かっけえだろ」と言って去っていった。
「バカ兄貴が……」そう独りごちると、ミツヤはようやく泣いた。




