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いつか、呼べる名  作者: 塩治房智
第一幕 第一部
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第四話 蝶々結び 後編


「……また、必ず」

 そう呟き、少しだけ、空を見上げた。

 陽射しが、剣の耳飾りをきらりと照らす。


「ひゅーっ!」

 コーネルが年少組の子どもたちと一緒になって、からかうように歓声をあげる。

 

「おいおい、ルカ、やるじゃねえか」

 ガレオンが、にやにやと笑いながら肩を肘で小突いてくる。

「なっ、べ、別に……!」

 

「へえ、そういうのを“恋”って言うんじゃないか?」

 珍しく、ミツヤまでもが茶化すように言った。


 「きみまで……!」

 ルカは言い返すものの、声に力が入らなかった。


「ははっ。でもさ──」

 ガレオンがふっと表情をやわらげる。

「なんか……嬉しいな。

 お前が、そんな顔をするなんてさ」


 ルカは何も言わず、ただ黙って、剣の柄に揺れる耳飾りを見つめ続けていた。

 

「……昼飯にするぞ」

 アズルの声が響く。


 その瞬間、張り詰めかけていた空気がふっと緩み、

 子どもたちは「わーい!」と声を上げて駆け出していく。


 コーネルは「腹減ったなー」と笑いながら、孤児院の方へ小走りに戻っていった。


 ガレオンは照れ隠しのように鼻を鳴らし、ミツヤはそっとルカの肩を叩く。

 

 ルカはまだ、耳飾りから目を離せないまま、やがて、ゆっくりと歩き出し、皆のあとを追った。

「とっても素敵なご家族だったわね」

 キンバリーが、娘の頭をそっと撫でながら言った。


 アイリスは、小さく頷きながら、ぽろりと涙をこぼす。

「うん……」

 自分でも、なぜ泣いているのかわからなかった。

 だって、彼のことは、ほとんど知らないのに。


 それでも──

 もう少しだけ、一緒にいたかった。

 あの時、剣を握り締め、狼を斬った彼の姿が、(まぶた)に焼き付いて離れない。


 気づけば、そんなふうに思っていた。

 そのとき、頬を伝った一筋の涙を、タマが背伸びをして舐めとった。

 まるで、「泣かないで」と励ますように。


「……ありがとう」

 アイリスは小さく呟き、タマを胸に抱いた。

 目を閉じる。昨日の出来事を、そっと思い返すように。


 馬車の振動に揺られ、赤い蝶の耳飾りが微かにきらめく。

 それは、いまにも空へ舞い上がろうとするようだった。


 昼食を終えたあと、ミツヤはひとりで皿を洗い、そのまま食卓に残っていた。


 窓から差す柔らかな光が、静かな室内を照らしている。


 誰もいない時間。

 その静けさの中で、昨日の戦いが脳裏をよぎる。


 主に狙われた、あの瞬間。

 あの巨躯の魔物の視線が、自分を真っすぐに貫いていた。


 足はすくみ、声も出なかった。

 ──でも。

 ガレオンが、木の切れ端を投げてくれた。

 あれがなければ、間違いなく──主の牙は自分に届いていただろう。


 標的が変わり、今度はガレオンが危機に陥った。

 そのとき、動いたのはルカだった。

 魔法を使い、土の壁を生み出し、ガレオンを守った。

 

 ──なのに、自分は。

 俺は、何もできず、ただ立ちすくんでいた。

 偉そうに指示を出して、肝心なところでは、ただ立っているだけ。それじゃ、案山子と変わらないじゃないか。


 磨き上げる価値のあるものを、なにひとつ持っていない人間は──一体、どうすればいいんだろう。


 独り、自嘲(じちょう)気味に鼻で笑った。

 ふっ、と漏れたそのかすかな音が、誰もいない食堂にぽつりと響いた。


 ──がちゃ。

 休憩に訪れたコーネルは、頭の手拭いを外しながら、室内を見渡し──ミツヤの姿に気づいて、立ち止まった。

「……なに、こんなとこで、たそがれてんだ?」


 声をかけられたミツヤは、わずかに肩をすくめる。

「いや、別に」


 椅子から立ち上がり、そのまま出口へ向かう。

 が、背中越しに、名前を呼ぶ声が届いた。


「──ミツヤ」

 足を止める。

 けれど、振り返らずに、ただその場に立つ。

 

「ありがとな」

 コーネルは、まっすぐな声音で言った。

「……なんか、上手いこと言えねえけど。

 たぶん、お前があのとき、俺たちをまとめてなかったら──

 とんでもないことになってた気がする」

 照れくさそうに、鼻の下を指でこすりながら、ぽつりと続けた。


 沈黙。

 少しの間を置いて、ミツヤは静かに答える。

「……そう言ってもらえると、助かるよ。……けど、次こそは……うまくやるさ」

 それだけを言い残し、扉に手をかけて、出ていった。

 誰もいなくなった食堂に、コーネルがひとり残る。

 ふう、と息を吐きながら、天井を仰いだ。

 

 

 その夜、ルカとミツヤは年少の子どもたちと一緒に、風呂へと入っていた。

 コーネルは「親父さんに鍛冶屋の話を聞くんだ」と言って、アズルの部屋に向かい、それっきり戻ってこない。


 ガレオンは、ひとりで剣を振り続けていた。

 途中までルカとミツヤも付き合っていたが、昨日の戦いの疲れが抜けきらず、早々に引き上げ、体を休めることにした。


「ミツにい、これ、きえないねえ」 

 湯の中、年少組の子どもがミツヤの胸を指でつついた。


 そこには、ルカにとっても見慣れた――

 あざのような、印のようなものが、浮かんでいた。

 なぜか、胸の奥に引っかかるような既視感を覚えて、ルカは小さく問いかける。

「……なんなんだろうね、それ」


  ミツヤは湯に沈めた手で胸を軽くさすりながら、

「なんなんだろうな。物心ついた頃には、もうあったから。気にもしてないよ」

 と、肩をすくめてみせた。


「どこで見たんだっけ」と呟くと、ルカは右の手のひらを無意識に見ていた。

 何もないはずのそこに、ふと光の残滓を見た気がして──ルカは目を細めた。

 “折れることは許されぬ”。

 夢の中の声が、なぜだか、今はずっと身近に感じられた。


 風呂の中の湯は、昨日の戦いの傷を、ちくりと刺すようでいて、じんわりと癒してくれているようだった。 


「おい、小僧ども」

 大きな声が、風呂の出入り口から届いた。

 ふと振り向くと、湯気の向こうに、見慣れた長身の影があった。


 水を汲んだ桶を片手に、ヴァルトがのそりと現れる。


  「兄ちゃん……!」


 ルカが思わず声を上げると、ヴァルトは「よう」と軽く片手を上げて見せた。

 その瞬間、年少組の子どもたちが「うわーっ!」と叫びながら湯船から飛び出す。

 「にいちゃんだー!」「またせなかのせてー!」「バケツかぶってー!」

 

 ヴァルトは片腕で二人、もう片方でひとりをひょいと抱き上げ、そのまま脱衣場まで運んでいく。

 「おめえら、濡れたまま来るな!滑るって言ってんだろ!」

 

 文句を言いながらも、タオルで子どもたちの体を雑に拭き、ぐしゃぐしゃの髪をくしゃっと撫でる。

 

 「チビども、兄ちゃんが風呂から上がったら――」

 と、わざと間を置いてから指を突き立てる。

 「ぐるぐるごっこだぞォ!」

 

 「やったー!」「きょうこそわたしがいちばんまわる!」「おれこないだはいたからやだー!」

 

 湯気の向こう、笑い声が湧きあがった。

 

 ルカは、その光景をぽかんと見つめていた。

 ミツヤは、ふっと笑って、湯をすくって額にかける。

 

 ──英雄じゃない。

 

 いま、そこにいるのは、“蒼羽の巣の、ただの兄ちゃん”だった。


「こんな時間に来るなんて珍しいな、兄さん」

 ミツヤが広くなった浴槽で、足を伸ばしながら言った。

 

 「仕事が片付いたからな。少しだけ寄るつもりだったが……風呂の湯気に釣られた」


 そう言って、彼は桶の湯を頭からざぶりとかぶる。


 その動作のどこかに、剣ではなく“日常の中にいる男”の柔らかさが滲んでいた。


「なんか、久しぶりに見た気がする。兄ちゃんの、その顔」


 ルカがぽつりと呟くと、ヴァルトは手拭いで髪を乱暴に拭きながら、苦笑を漏らす。


 「何言ってんだ、いつも通りいい男だろ?」


 その言葉が、ふわりと湯気のなかに溶けた。


 ミツヤは、そのやり取りを聞いていた。

 ふと、湯の中の痣に触れ、目を伏せる。


 その横で、ルカがまた、自分の右手を見つめていた。


 ヴァルトの視線が、その動きに気づいたように、ほんの一瞬だけ鋭くなり――

 けれど、何も言わずにそっと目を閉じた。


「ミツ坊、ルカ坊、おめえさんたち、どうやら頑張ったみてえじゃねえか」

 ヴァルトは、二人の体の傷を見て、顎に手をやる。

「いい面構えになったな、ルカ坊。……で、ミツ坊」


 ふと、視線がミツヤにだけ重なる。

 その鋭さに気づいたのか、ミツヤは立ち上がる。


「──もう出る」

 そう言って、湯を後にしようとしたその背に、声がかかった。


「ルカ坊」

 ヴァルトが、意外なほうに呼びかける。

 「ちょっと 悪いが、二人にしてくれねえか」


 ルカはきょとんとしたあと、少しだけ、頷いた。

「……うん」

 湯から上がり、そっと戸を閉める。


 湯気の中に、ヴァルトとミツヤの二人きりが残った。

「まあミツ坊、逃げんなよ」

 こっちに来いというように、湯船の湯をちゃぷちゃぷと叩いた。

 それを一瞥し、ミツヤは黙って、湯に浸かり直した。

 

「ネル坊からさっき聞いたぜ、次はもっと上手くやるって言ったんだって?」


「その考え方は否定しねえ、次はもっと次はもっと、ってのは大事なことだ。でもな、その前に、できたことにも目を向けてやれ」


「なにもできなかった。俺は、ただ突っ立ってただけだよ」

 ミツヤは湯の中で、強く拳を握りしめていた。


「何もできてねえ奴が"ありがとう"なんて言われるかよ。おめえさんは昔っからそうさ。人のことはちゃんと見れるのに、てめえのこととなると、何も見えなくなる。ちゃんとやれたんだよ。おめえさんは」


 ヴァルトが言い終わると、しばらくの間、沈黙が響いた。

 ミツヤは、硬く握りしめていた手をほどき、目尻を指で摘むようにした。

「俺、怖かったんだ。俺が立てた作戦のせいで、あいつらが死ぬんじゃないかって。悔しかったんだ。俺は動けなかったのに、ガレオンも、ルカも、コーネルも、自分にしかないものを持ってる」


 その言葉を聞き、はっはっ、と笑い、そして、ミツヤの目を見ながら言った。

 「誰も死んでねえ。それだけで、おめえさんはじゅうぶんにやった。ガキだけで、獣の群れ相手に立ち回ったんだ。褒めてやりてえくれえだ」

 そんで、と言いつつさらに言葉を紡ぐ。


「悔しくてもいい。でも、てめえのことをてめえで傷つけて、折れて、動けなくなっちまったら、あいつらはどうするんだ」


「ネル坊は足、ガレ坊は腕、ルカ坊は心臓。それでもって、おめえさんは頭ってとこだな。頭が指示しなきゃ、あいつらは動けねえし、あいつらはそれを待ってる」


「てめえでてめえのやれたことを、勘定できるようになれ。おめえさんはそれができる男のはずだろ?」


 ミツヤの目から流れた水滴が、湯船に落ちた。

「うるせえよ……」

 と呟くと、ミツヤは背中を向けた。


 ヴァルトはミツヤの肩をぽん、と叩き、「兄ちゃん、かっけえだろ」と言って去っていった。


「バカ兄貴が……」そう独りごちると、ミツヤはようやく泣いた。

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