第四話 蝶々結び 中編
その夜、ルカは、夢を見た。
深い闇のなか、一人きり、道を歩いている。
アズルの姿も、兄弟たちの気配も、どこにもなかった。
けれど、寂しさは、不思議と湧かない。
はるか先に見える、蛍のようにほのかに瞬く淡い光を追って、歩みを進める。
辿り着いた先で見たのは、四肢を鎖に繋がれ、静かに宙に吊られた女。
どこにも触れず、どこにも届かないまま――それでも、彼女は、そこに在った。
目が合う。
深い悲しみを堪えている瞳。
なのに、どこか懐かしくて――どうしようもなく、痛かった。
彼女は、ただ、こちらを見ている。
声も、涙も、怒りもなく。
美しく、そして、とても悲しかった。
「……あなたは、誰?」
ルカの問いに、彼女は何も答えなかった。
ただ、少しだけ申し訳なさそうに、力なく微笑む。
その静けさは、諦めにも似ている。
それでも――哀しみだけは、にじみ出ていた。
そして、鎖に繋がれたその腕を、そっと持ち上げる。
指先が、ルカの右手を──ゆるやかに、静かに──指し示した。
思わず、自分の手を見る。
何もないはずだった掌には、見たことのない印が刻まれていた。
三本の線が螺旋を描き、ひとつの点へと収束してゆく。
それはまるで、この世界の始まりを象ったかのような紋様だった。
だが、完全ではない。
微かに裂けた輪郭が、何かを喪ったまま、そこに在る。
その印を見つめるうちに、ルカは妙な違和感を覚えた。
意識の底をかき乱すような、かすかなざらつき。
──と、その紋様が、脈打つように淡く光を帯びる。
次の瞬間。
手のひらが、眩い光を放った。
血と光が、溶け合い、混ざり合う。
強い痛みが走る。
膝を折る。――息を呑む。
そして、琥珀色の光が紋様を包み、霧散するように、あるいは、収縮するように、消えていった。
視界の向こう。
彼女の顔が、ふたたび哀しみに染まっていた。
さきほどよりも、ずっと深く、切なげに。
――小さき者よ。されど、お前は折れてはならぬ。
届かぬとも──届かぬと知りながらも。
それでも、手を伸ばした。
「ルカ、起きろ!」
――女神の手は届かず、空を切った。
次の瞬間、布団が容赦なく引き剥がされ、額に「ごつん」と何かがぶつかる。
「いてっ……」
目を開けると、コーネルがお玉をくるくると回していた。
妙に得意げな顔で、片眉を上げる。
「おはようさん。朝飯だぜ」
ルカは苦笑を浮かべながら、のそりと上体を起こす。
部屋の隅では、ミツヤが分厚い本に目を走らせていた。
窓の向こうからは、ガレオンが木刀を振る乾いた音が、規則正しく聞こえてくる。
それぞれが、それぞれに。
昨日の出来事が、胸のどこかに、なにかを残したのだろう。
ルカは、ふと、自分の右手に目を落とす。
夢の中で彼女が落とした涙は、温かった。あの琥珀色の光は、優しかった。……けれど、右手の中には、何もなかった。
それでも、何かが、静かに息づいている気がした。
◆
一階へ降りると、年少の子どもたちが朝食の配膳を手伝っていた。
ルカは「おはよう」と声をかけつつ、桶を抱えて外へ出る。
朝の空気はひやりと冷たく、夜露に濡れた土が足元でしっとりと沈んだ。
井戸のそばでは、ガレオンが木刀を握り、黙々と型を振っている。
その構えは、昨日のアズルを思わせる力強さを帯びていた。
その背後には、アズルが腕を組み、無言で立っていた。
目を細め、少年の動きをじっと見守っている。
やがて、ガレオンが小さく息をつき、ぽつりと呟いた。
「……親父。俺、浮かれてた。"英雄還り"とか言われて、町で褒められて。でも違うんだな。本当に強くないと、本当に大事なもんは守らねえ……」
その目には、わずかに涙が滲んでいた。
言葉を続ける声は、かすかに震えていた。
「……俺、自分のこと、それなりにやれる奴だと思ってたんだ。
魔物にだって、負けねえって、どっかで思ってた。
でも……いざ敵を前にしたら、足がすくんで、手が震えて……」
唇をかみしめ、言葉をつなぐ。
「情けねえよな……。
ミツヤが、あのデカいやつに狙われたとき──
“なにかしねえと”って思って、とっさに、手にしてた枝を投げたんだ。
そしたら、あいつ、俺に向かってきて……。
ルカがいなきゃ、間違いなく──やられてた」
少年の声は、朝靄に溶け込むように、静かに広がっていった。
──風も、木々も、何も言わなかった。
ただ、その場にあったすべてが、少年の悔しさを、そっと受け止めていた。
静けさのなか、アズルが一歩、踏み出す。
そして、何も言わずにガレオンの前に立ち、
無骨な大きな手を伸ばして──その頭を、ぐしゃりと撫でた。
乱暴で、荒っぽくて、それでも、温かかった。
昔から、アズルはこのやり方だった。
励ましの言葉を口にすることも、誰かをあからさまに褒めることも、ほとんどない。
それでも、このごつごつとした手のひらは、何よりも雄弁だった。
その手が頭を離れると、ぽん、ぽん──と、軽く二度、頭を叩く音がした。
そしてアズルは、ちらとガレオンの腕を細目で見やると、無言のまま背を向け、静かにその場を去っていった。
「おはよう。……そろそろ、ご飯だって。
腕の傷、どう?」
桶を抱えたまま、ルカが声をかける。
ガレオンは目元をぬぐい、照れくさそうに笑った。
「おお。もう塞がっちまったよ。いつも通りさ」
そう言って、左腕をぐるぐる回したあと、木刀を肩に担ぎながら辺りを見回す。
「……もうそんな時間か。薪、持って戻らねえとな」
木刀を片づけ始めるその背を見ながら、ルカはふと口を開きかけ──そして、飲み込んだ。
──違うんだ。
君がいたから。ミツヤがいたから。
僕は、立ち向かえたんだ。
その想いを言葉にできぬまま、ルカは軒下へと向かうガレオンの背を、静かに見送った。
◆
屋内に戻ると、配膳はほぼ終わっており、食堂にはニコラス一家の姿もあった。
アイリスの足元では、霧狐のタマが丸くなって寝息を立てている。
湯気の立つスープの香りが、朝の空気にやわらかく溶け込んでいた。
ミツヤは、子どもたちがこぼしたパンくずを拾いながら、無言で皿を並べていた。
その隣では、コーネルが鍋の中をのぞき込み、「……足りるかな」と、独り言のように呟く。
柄杓ですくったスープを、そっと口に運んだ。
ルカも、桶を所定の場所に置き、静かに腰を下ろす。
食卓を囲む皆の顔には、まだ昨日の出来事の余韻が残っていた。
言葉は少なかったが──それでも、不思議なほど、空気は穏やかだった。
食事を終えると、男たちは壊れた馬車の車輪を取り替え、荷物の積み込みを手伝った。
昼前の陽光が、やわらかに差し込み、彼らの影を淡く地に伸ばしていた。
「アズル殿、皆さん──本当に、ありがとうございました」
ニコラスが額の汗を手拭でぬぐい、深々と頭を下げた。
声には、はっきりとした感謝の念が込められていた。
「また、このあたりに立ち寄ることがありましたら──ぜひ、もう一度寄らせてください。
私どもは、行商のない日はクレアボンの町におります。
もし、そちらへお越しの際は……お声がけいただけたら、嬉しく思います」
そう言って、ニコラスは、蒼羽の巣の子どもたちに小さな包みを手渡していった。
中には、干し果物や焼き菓子が丁寧に詰められている。
旅の合間に作ったものだろうが、そのどれもが、温かみを感じさせる品だった。
「いやはや、最近は税が厳しくてですな。妻の手作りですが、味は保証しますぞ」
そう言って、肩を落としつつ、にこやかに笑った。
「本当にありがとう!」
アイリスが笑顔で声をかけると、年少の子どもたちが、少し照れながらも嬉しそうに頷いた。
そのとき、ルカがふと思い出したように、手にしていた剣を差し出す。
「……あ、これ。昨日、貸してもらった剣だけど……。
気づいたら、思いきり振り回しちゃってて……ごめん。
でも、アズルさんに研いでもらったから──たぶん、前よりよく斬れると思う。
本当に、助かった」
言い終えて、ルカは少しだけ目を伏せた。
その声には、照れと、感謝と──別れの名残が混じっていた。
アイリスは、その剣を受け取らず、そっと首を横に振った。
「それ──あげる!」
その声は少し震えていたが、どこか誇らしげでもあった。
「これアイリス、それは結構高価な──」
ニコラスが苦笑まじりに言いかけたところで、隣のキンバリーがにこやかに口を挟んだ。
「いいじゃありませんか」
柔らかい声だったが、その言葉には、どこか揺るがぬ強さがあった。
「女の子ですものね」
その圧に押されたように、ニコラスは肩をすくめて笑う。
「はは……」と、力の抜けた笑い声が漏れた。
それは、硬くなりかけた空気を、ほんの少し和らげた。
「……あと、これ──」
アイリスは自分の左耳にそっと手をやり、青い蝶の輪飾りを外す。
そして、ルカが手にしていた剣の柄頭に、それをゆっくりとかけた。
その動作は少しぎこちなかったが、どこか丁寧で、まるで想いごと、結びつけるように──慎重に、静かに。
飾りを掛け終えると、彼女は自分の右耳の赤い蝶の耳飾りを指さした。
頬を真っ赤に染めながら、少しうつむき、それでも微笑む。
小さな蕾が、初めて陽を浴びてほころぶように。
「……お揃い!」
その一言に、ルカの胸が弾けそうになった。
同時に、きゅっと何かに締めつけられるような痛みも走る。
「あ……ありがと……」
ルカは視線を落としながら、絞るように言葉をこぼした。
「ねえ──いつか、また会えるかな?」
頬の熱は消えぬまま、それでもアイリスは、真っすぐに問う。
「うん。……どこかで、必ず」
鼓動が早まる。けれど、ちゃんと応えなければ──ルカは、そう思った。
その答えに、アイリスはにこやかに、うん、と頷いた。
そして、まるで一歩を踏み出すように、やわらかく言った。
「……私のこと、絶対、忘れないでね、ルカ!」
そう言いきると、アイリスは足元でじゃれていたタマを抱き上げ、
馬車のもとへと駆け出した。
待っていた家族が、こちらへ向かって一礼する。
そのまま、ゆっくりと馬車に乗り込み、
車輪は軋みをあげながら、静かに動き始めた。
「みんな! さよなら! またね!」
アイリスが身を乗り出し、大きく手を振る。
その頭の上では、白い毛玉──タマが、ゆらゆらと揺れながら踊っていた。
馬車は坂道を下り、少しずつ遠ざかっていく。
ルカも手を振り返す。
全身で、できるかぎり、大きく。
その姿が小さくなっていくのを見つめながら、ルカはそっと呟いた。
「……また、必ず」
陽の光を受けて、剣の柄に揺れる耳飾りが、きらりと光った。




