感想とレビューという存在
さて、ここまで小生は、AIと創作環境の関係について述べて参りましたが、次に触れておきたいのは、「小説家になろう」という文化圏そのものについてです。
特に小生が疑問を抱いているのは──
「感想」や「レビュー」という制度が、本当に創作者と作品のためになっているのか
という点にあります。
本来、感想とは読者が自由に抱いた思いを言葉にしたものであり、レビューとは作品を広く紹介し、新たな読者との橋渡しをする行為であるはずです。
しかし現実には、
作者を持ち上げるための社交辞令的な賛辞
あるいは論評の名を借りた一方的な断罪
といった、極端に歪んだ形へと変質してしまっている光景を、幾度となく目にしてきました。
読者としての率直な意見を述べることは、本来であれば尊い行為です。
しかし同時に、創作というのは非常に繊細な営みであり、一つの言葉が作者の筆を折ることもあれば、静かに背中を押すこともある。
その両極の間で、我々は果たしてどれほど自覚的でいられているのでしょうか。
小説家になろうという巨大な海の中で、感想とレビューは今、どのような役割を果たしているのか。
そしてその在り方は、本当に健全と言えるのか。
本章では、小生が日々感じている疑念を、いくつか挙げていきたいと思います。
一、「優しすぎる感想」という現象
小説家になろうという場は、基本的に作者同士が近い距離に存在するコミュニティでもあります。
するとどうしても、感想というものが
「作品に対する評価」
ではなく
「作者という人間への配慮」
へと、静かにすり替わっていく。
その結果、
本心からの批評は避ける
欠点にはそっと蓋をする
とにかく優しい言葉だけを選ぶ
──そんな、やわらかい砂の上に立つような感想が増えていくのです。
もちろん、優しい言葉そのものが悪いわけではありません。
むしろ多くの創作者にとって、それは大いなる救いであり、筆を支える温かな灯火となるでしょう。
しかしその一方で、小生はこうも思うのです。
「それでは作者は、本当に成長できるのだろうか」と。
二、「残酷すぎる指摘」
そして、もう一つの極端があります。
それが「残酷すぎる指摘」です。
批評という名目でありながら、
作品に対する冷静な分析
個人的な憤り
その境界が曖昧なまま吐き出された言葉。
そうしたものが、作者へ与える影響は計り知れません。
感想を書く側にとっては、ほんの一行、助言のつもりであったとしても──
受け取る側の胸には、それが錆びた針のように刺さり続けることもある。
もしそれが図星であったならなおさら、頭に血が上り、行き場のない感情が胸を締め付けるでしょう。
一方で、優しい馴れ合いによる感想やレビューは、
「もらったから返さねばならない」
という相互関係を生み出しやすい。
しかし批評性の強い指摘が増えてくると、
“報復”とも取れる悪意ある感想
が生まれてしまうこともある。
批判と攻撃は本来、似て非なるもののはずですが──
現実には、その境界線はあまりにも容易く踏み越えられてしまうのです。
つまり小生が感じているのは、
感想が「優しすぎる砂糖菓子」か、
あるいは「刃物のような批評」か──
そのどちらかへ偏りすぎてはいないか
という疑念なのです。
寄り添いながらも正直で、正直でありながらも相手を傷つけぬよう気遣う。
本来あるべき“成熟した言葉の往復”が、どこかへ置き去りにされてはいないか──
小生は、時折そんな不安を覚えてしまうのです。
三、「評価のための感想」
本来、感想とは作品を読んだ上での自然な反応であり、レビューとは他の読者へ向けて差し出す誠実な紹介文であったはずです。
しかし現代の創作環境においては、いつしかそれらが
「数字を伸ばすための道具」
へと静かに変質しつつあるように思えるのです。
XにおけるRT企画。
「#RTしてくれた人の作品を読みに行く」
これを利用し、
「感想を書いてくれた人から優先して読みに行きます」
と、堂々と宣言する作者のいかに多いことか。
なろうでもカクヨムでも、
ランキングに乗せたい
PVを底上げしたい
総評価を上げたい
そうした思惑が透けて見える場面に、幾度となく出会ってきました。
そしてその企画へ参加した作品の感想欄には
AIが書いたかのような形式的な感想
あらすじだけを読んだような感想
第一話しか読んでいない感想
そうした言葉がずらりと並び、
作者はそれらすべてに、律儀に返信を返していくのです。
しかし小生は、どうしても問いかけずにはいられません。
「それは本当に作品のための言葉なのか」
それとも
「評価システムに適応した結果として生まれた言葉なのか」
もちろん、小生は相互交流そのものを否定するつもりはありません。
互いに励まし合い、支え合う関係は、創作活動において何より尊いものです。
しかし同時に、こうも感じてしまうのです。
数字という外側の価値尺度に、
我々はいつの間にか心を明け渡してしまってはいないか──と。
本来、感想とは
“作品と読者の間に生まれる静かな対話”
であったはずなのに、
いつしか
“ランキングを押し上げるための手段”
へと変質してしまう。
その過程で失われていくものの大きさを、小生はどうしても見過ごすことができないのです。
四、レビュー文化の「光」と「影」
ここまで「優しすぎる感想」と「評価のための感想」という二つの側面について述べてきましたが、もう一つ触れておきたいのが、レビュー文化そのものが抱える「光」と「影」についてです。
まず前提として、小生はレビューという制度そのものを否定しているわけではありません。
むしろ誠実なレビューは、まだ見ぬ作品と読者を結びつける、かけがえのない架け橋となり得ます。
埋もれてしまいがちな佳作が、一つのレビューをきっかけに多くの読者へ届くこともある。
作者にとっても、自らの強みや魅力を再発見する機会となるでしょう。
そうした意味で、レビューは確かに創作文化を豊かにする光の側面を持っているのです。
しかし同時に、小生はこうも感じています。
その光が強すぎるがゆえに、影もまた濃くなってはいないか──と。
レビューという形式は、どうしても“評価”としての色合いを帯びます。
そして人間というものは、評価される側だけでなく、評価する側に回ったときにもまた、少なからず優位性を感じてしまう生き物です。
その結果として、
自分の価値観こそが正解だと信じ込み
作品を「採点」する視点から逃れられなくなり
時に作者をも「裁く対象」として見てしまう
──そんな危うさを、小生は感じるのです。
本来、レビューとは“好き嫌いの共有”であるはずが、いつしか“作品の優劣を決める裁定文”のように扱われてしまう。
それが称賛であればまだ救われるかもしれません。
しかし否定的なものであった場合、その一文だけが切り取られ、他者の嘲笑の材料とされることすらある。
レビューが「光」として機能するほど、それに照らされなかった作品は、より深い闇へ沈んでいく。
さらに厄介なのは、レビューを書く側の影響力が、無自覚のうちに肥大化してしまうことです。
一人の読者の主観であったはずの言葉が、「レビュー」という名を得た瞬間、あたかも“客観的評価”であるかのような顔をして歩き出す。
読者は無意識のうちに、その言葉へ寄りかかり、自分で作品と向き合う前に、他者の評価を通して作品を見てしまう。
それは果たして──
豊かな読書体験と言えるのでしょうか。
小生は思うのです。
レビューが強い力を持つ世界では、作品そのものよりも「語られ方」の方が先行してしまう。
そして、
「語られ方」によって作品価値が上下する文化
それは果たして健全と言えるのだろうか、と。
もちろん、小生はレビューを書く人々の善意を疑っているわけではありません。
むしろ多くのレビューは、作品への愛情と敬意に満ちています。
ただ小生は、静かに問い続けたいのです。
我々は本当に、
“作品を広げるための言葉”としてレビューを書いているのか。
それとも知らず知らずのうちに、
“評価システムの一部”として言葉を生み出してしまってはいないのか。
その境界線が曖昧なままの現在地に──
小生はどうしても、拭い切れぬ違和感を覚えているのです。




