それでもAIは使われ続ける理由
では、これほどまでに問題を孕みながらも、何故AIは創作の場から排除されることなく、むしろその存在感を増し続けているのでしょうか。
小生は、その背景に現代の創作環境が抱える三つの事情があるように思うのです。
第一に、評価至上主義の加速です。
現代の創作は、PV数、ブックマーク、ランキング、RT、いいね──
数値として可視化された評価が、作品の命運を大きく左右します。
本来、物語は「読者の心にどれだけ響いたか」で語られるべきものだったはずが、
いつしか「どれだけ数字を獲得したか」という指標が、作者と作品の価値を測る秤として、強い影響力を持つようになってしまった。
無論、企業が書籍化の判断材料とする現状を考えれば、これらの数字を完全に無視することも出来ません。
しかしこの環境において、
より早く、より多く、より目立つ場所へ
と向かう誘惑から逃れることは、決して容易ではないのです。
今日は10PVが付いた。
今日は感想をもらえた。
今日は総合ポイントが600を超えた。
そんな小さな喜びを与えてくれる数字が、やがては傲慢にも“己の作品の影響力”であるかのように振る舞い始める。
ドラ○ンボールにおける「戦闘力」のようなものへと、静かに変貌していくのです。
『ちやほやされている他作より、自作の方が面白いのに』
悔しさ、嫉妬、高い壁への失望。
それは、数値化され見えてしまうことの弊害でもあります。
1話〜3話で切られてしまうのは何故か。
最低限の文法が整っていない。
文字が固まり過ぎて圧迫感がある。
あるいは、単純に面白くない。
理由は様々でしょう。
そんな中で、AIが“時間と労力を節約し、一定以上の品質を保証してくれる道具”である以上、
その力に頼ろうとする作者が現れるのも、ある意味では当然の帰結と言えるのです。
第二に、承認欲求の肥大化です。
言葉が独り歩きする時代。
他者からの反応は、これまで以上に手軽で、そして強烈になりました。
「投稿した瞬間に誰かが読んでくれる」
「いいね一つで、自分の存在が肯定されたように思える」
その甘美な感覚を一度でも知ってしまえば、
人は再びその刺激を得ようとして、筆を急がせてしまう。
そこでAIは、即効性の高い成果を生み出すための手段として機能し始めるのです。
かつて話題となった、AI執筆作品の大量更新。
その是非を巡る議論の中で、
「当たり障りがなく、無難で、安心して読み進められる文章だからではないか」
という意見を目にしたことがあります。
人が苦悩し、努力し、推敲を重ねて紡ぐ、山あり谷ありのワンオフ作品ではなく、
“するすると読める、無難で心地よい物語”こそが求められていたのだ──と。
であれば、既視感のある展開であろうとテンプレであろうと、
数字が取れ、反応が得られる作品を、通常の何倍もの速度で供給してくれるAIへ頼るのは必然と言えるのかもしれません。
そして第三に、「創作は孤独だ」という事実です。
物語を紡ぐという営みは、本来、静かで長い対話を自分自身の内側と続けていく作業です。
しかし、その孤独は時に重く、苦しく、筆を止めてしまうほどに圧し掛かってくる。
AIは、その孤独を一時的に癒す存在ともなります。
話し相手となり、案を提示し、共に物語を形作る“相棒”となる。
寄りかかる相手がいるという安心感が、作者の心を支えてしまう瞬間も、きっとあるのでしょう。
これら三つの要因が絡み合う中で、
AIを使うという選択は、誰かの弱さや怠慢の産物としてのみ断じられるものではない
と小生は考えています。
むしろ現代の創作環境そのものが、
AIの利用を、半ば必然のように促している。
――だからこそ、この問題は根深いのです。
では、我々はどうするべきなのでしょうか。
ここまで述べてきたように、AIを巡る創作環境の問題は、単なる是非論や、好き嫌いの議論に矮小化できるものではありません。
ゆえに、小生がここで提示したいのは、禁止や規制ではなく、姿勢の問題です。
第一に、作者自身が、自らの創作に対して誠実であること。
AIを使うにせよ使わないにせよ、
「自分は、どこまでをAIに委ねたのか」
「その結果生まれた作品を、作者として胸を張って世に出せるのか」
この問いから目を背けない覚悟が、何より大切なのではないでしょうか。
どれほど表現技術が進歩しようとも、
作者としての責任だけは、決して外部へ委譲することは出来ない
と、小生は考えています。
小説界隈だけでなく、イラストや漫画を手掛ける絵師様には深刻な問題であると、日々のポストを見る度に実感させられています。
有名な絵師様が、AIで書いた絵のトレスであった。
手書きと銘打っていたのに、実態はAIだった。
反AIを謳っていたいたにも関わらず、自身の作品もAIだった。
これが露呈すると、反AI界隈は普段その絵師を応援している訳でもないのに、鬼の首を獲ったかのように騒ぎ立て、引退もしくは鍵垢へと追い込むのです。
この騒ぎを目にしていたのであれば、初めから「この作品はAIを使用しています」と明言できない作者が居てもおかしくはないでしょう。
「あぁ、やっぱりね」
「自力で書けないのに書くなよ」
「ゴーストライター」
こうした声が、彼らの脳裏に幻聴のように響いてしまうのではないでしょうか。
それ故に表立って「AIは補助程度にしか使っていません」と答える人が多いのでしょう。
だとしても、分かる人には例え言い繕いしても、AIの癖は見て分かってしまうのです。
何故なら、その人もAIが書く文章を何度も目にしているからです。
第二に、読者が“作品の背景を想像する力”を取り戻すこと。
数字や話題性だけで作品を評価するのではなく、
その物語がどのような経緯で紡がれたのか、
その裏にどれほどの試行錯誤や祈りのような時間が流れていたのか。
――そこに、少しだけ思いを馳せてみる。
それだけでも、
「消費される物語」と「寄り添われる物語」の境界線は、きっと変わってくるはずです。
第三に、我々は“効率よりも豊かさを選び取る自由”を忘れてはならない、ということ。
時間を奪われる読書。
回り道だらけの物語。
余白と沈黙に満ちた文章。
そうしたものを、なお愛おしいと思える感性を手放さない限り、
人間の物語は、決して形骸化し尽くすことはないでしょう。
そして最後に、小生はこう考えています。
AIの利用そのものが悪なのではない。
問題なのは、
我々が“楽な物語”ばかりを求めるようになってしまうこと。
そして、“苦しくても紡ぐ価値のある物語”を見失ってしまうことなのだと。
どれほど技術が進歩しようとも、物語の根源はやはり人の心の揺らぎにあります。
その揺らぎを見つめ、自らの言葉で拙くとも掬い上げようとする。
その姿勢を忘れない限り、AIがいかに発展しようとも、人間の創作が無意味になることは決してないと、小生は信じているのです。




