AI小説の乱立
さて、ここからが本題となります。
前話では、AI小説の乱立によって「物語の価値が希薄化していくのではないか」という、小生の抱く漠然とした不安について述べさせて頂きました。
では、その根本にある原因は何か。
それは「AIを用いた小説執筆」という行為そのものにも、一因があるのではないでしょうか。
現在、生成AIは、プロット作成から本文執筆、推敲、宣伝文の作成に至るまで、創作活動のあらゆる工程を肩代わりすることが可能となりました。
もはや「補助ツール」という枠組みを超え、“共同執筆者”と呼んでも差し支えない存在となりつつあります。
ここで誤解のないように申し上げますが、小生はAIそのものを敵視しているわけではありません。
便利な道具を使うことは文明の必然であり、AIを創作に利用すること自体を「卑怯」「不正」「己で筆を運べぬ出来損ない」などと断罪するつもりは毛頭ございません。
問題は、『人間がどこまでをAIへ委ね、どこからを自分の仕事とするのか』
この線引きが、あまりにも曖昧なまま放置されている点にあります。
作者とは誰なのか。
AIを作り出したエンジニアなのか。
AIに指示を出した人間でしょうか。
それとも、文章を紡ぎ出したAIそのものでしょうか。
この問いは、単なる哲学論議にとどまりません。
創作者の誇りと責任、その在り方に、深く関わる問題であると小生は考えています。
そこでまず、小生は「AIを用いた小説執筆」という行為を、大まかに三つの段階に分けて考えてみたいと思います。
一つ目は、構想段階や資料収集の補助として、AIを“道具の一つ”として用いる場合です。
これは、電子辞書や検索エンジンの延長線上にある使い方であり、創作の主体はあくまで人間の側に残ります。
二つ目は、AIに一定の文章生成を担わせつつ、人間が加筆修正や構成整理を行う、いわば“共同執筆”の形です。
この段階になると、作品に流れる文体や思想は、人間とAIの折衷的なものとなり、どこまでを作者の個性と呼べるのか、判断は徐々に難しくなっていきます。
そして三つ目が、プロットから本文執筆に至るまで、創作の大部分をAIに委ねてしまう形です。
人間は指示を与えるだけとなり、文章の生成自体はAIが一手に担う。
ここまで来ると、もはや“作者”という役割が何を指すのか、極めて曖昧な境界線の上に立たされることになります。
もちろん、これらの段階の間には明確な線引きがあるわけではなく、実際の創作はそのグラデーションの中に存在します。
しかし、どこかの段階で
『作品が作者の内側から紡ぎ出されたのか』
『外部装置によって組み立てられたのか』
という問いが、静かに立ち現れてくるのです。
この問いに、いまの小説界隈は、どこまで真正面から向き合えているのでしょうか。
一時期、カクヨムで活躍される小説家を激震させた事件。AIによって執筆された作品群の大量更新という現象がありました。
投稿直後の作品は目に触れやすいという仕組みを利用し、大量の投稿によって閲覧機会を独占する――
いわば、数の暴力によるコンテンツ消費の加速です。
言うなれば、漁獲制限を無視した地引網漁のようなものでしょうか。
そこには、後続の創作者たちが温めてきたシナリオや設定。
あるいは、これから生まれてくるはずだった名作の萌芽までもが巻き込まれてしまう危うさを、小生は感じています。
何故なら、一度AIによって消費された展開は、たとえ後から人間が真剣に紡いだとしても、「二番煎じ」という烙印を押されかねないからです。
しかも、その先行者が人間である必然性すら失われつつある。
この事実を、我々はどこまで深刻に受け止めているのでしょうか。
読者というものは、往々にして「どこかで見たことのある展開」に敏感です。
それが面白いかどうかとは別に、既視感を覚えた瞬間、評価の基準が無意識のうちに変わってしまう。
つまり。
「また似たような話か」「〇〇先生のパクリ作品」「テンプレ乙」
というレッテルが、作品の内実とは切り離された場所で貼られてしまうのです。
そして恐ろしいことに、その“似たような話”を先に量産しているのがAIである場合、
後から真剣に物語を紡いだ作者ほど、不利になるという逆転現象が起きてしまう。
本来であれば称賛されるべき独創性や情熱までもが、
「後追い」「テンプレ消費」
という安直な言葉で片づけられてしまう可能性がある。
そのたびに、どれだけの創作者の心と筆が静かに折れているのか……。
小生は、そこに強い危惧を覚えているのです。
無論、問題はAIだけに限られません。
人間の創作者においてすら、先駆者の作品を極めて高い割合で模倣したものが、平然と世に出回る現実があります。
中には、その作品で出版社と契約に至っている例すらあると聞き、小生は少なからず困惑を覚えました。
小生自身、その顕著な例を目にしたことがあります。
Xに流れてきたおすすめポストの中に、ふと目を留めた作品がありました。
興味を引かれ、何気なくあらすじを開いてみたところ――
胸の内に、どこかで感じたことのある既視感が漂ったのです。
敬愛する先生の作品と、あまりにもよく似ている。
主人公の名前でさえ、僅かに音をずらしただけのような響きを持ち、設定や展開の骨格も酷似している。
感想欄を覗いてみれば、同様の指摘が多数見受けられましたが、作者はそれらに対して一切反応することなく、沈黙を保っている様子でした。
――果たして、これは偶然の一致と言えるのでしょうか。
無論、物語の世界において「似ている」という現象そのものは、決して珍しいものではありません。
先人の作品に影響を受け、敬意を込めて形を借りる――いわゆるオマージュやリスペクトは、むしろ創作史の中で連綿と受け継がれてきた営みでもあります。
誰しも、心を震わせた物語から、知らず知らずのうちに影響を受けてしまうものですし、それ自体を一概に否定するつもりは小生にはございません。
しかし、その線がどこかで静かに越えられてしまう瞬間がある。
構造、動機、台詞回し、固有名詞。
積み重なった一致が偶然の域を明らかに逸脱した時。
それはもはや「影響」ではなく、「盗用」と呼ぶほかない姿へと変質していくのです。
ここで問題となるのは、『作者がどれほど自覚的であるか』
そして、『どれほど誠実であろうとしているか』という点ではないでしょうか。
敬意なき模倣は、誰かが積み上げた努力の上に、無言で背伸びをする行為に他なりません。
そして昨今、AI生成の文章や大量投稿という潮流と相まって、
この境界線は、ますます曖昧に、見えにくいものとなりつつあるように感じられるのです。




