序章 ご挨拶
初めまして、蛇蝎と申します。
何故名前が蛇蝎か? それは蛇蝎の如く嫌われる覚悟があるからですね。
この世は不思議と、ド正論や歯に衣着せぬ言葉を吐くと友人を失ってしまう。
だからこそ、人は皆、仮面を被って生きていると言っても過言ではないでしょう。
さて、今回は小生の初小説──エッセイにはなりますが、書いていこうと思います。
最近、創作の世界では「AI小説」という言葉を耳にする機会が増えました。
投稿サイトを覗けば、毎日のように大量の物語が生まれ、そして静かに沈んでいく。
その現象を、皆さまはどう感じておられるでしょうか。
便利な道具が生まれれば、人は必ずそれを使います。
それは昔から変わらない摂理であり、筆がペンへ、ペンがワープロへと変わっていった歴史を思えば、AIもただその延長線上にある存在なのでしょう。
しかし、問題はそこではありません。
小生が危惧しているのは、
「作品の数が爆発的に増えることによって、物語というものの価値そのものが薄まってしまうのではないか」
という点です。
誰もが簡単に小説を書ける。
これは確かに素晴らしい進歩です。
創作の敷居は下がり、物語を生む喜びは、より多くの人へと開放された。
しかし同時に、
一つ一つの物語が「使い捨てのコンテンツ」として消費されていく速度もまた、加速しています。
これは果たして、喜ぶべき現象なのでしょうか。
人間が書こうが、AIが書こうが、心を込めて読まれないのであれば、それはただ視覚情報として神経を通過していく電流に過ぎません。
そして流し読みが当たり前になれば、人は次第に、比喩表現や、あえて暈された表現を読み取ろうとせず、書かれている文字通りにしか考えなくなる。
それが進行していけば、物語を味わうことも、言葉を咀嚼する楽しみも、いずれ忘れ去られてしまうでしょう。
それこそが、小生の恐れている未来なのです。
現に、いわゆるZ世代と呼ばれる若い青少年たちは、SNSや動画サイトにおいてショート動画を好み、何事にも「タイパ」「コスパ」を求める傾向があると耳にしています。
小説や活字も、彼らにとっては原稿用紙一枚分の文章ですら「長い」と切り捨てられてしまう。
それゆえ、TikTokなどのプラットフォームにおいては「百文字小説」なるものが流行しているのです。
もちろん、百文字であっても、物語は成立します。
短い言葉の中に起承転結を詰め込み、オチまで綺麗にまとめる技術は、決して軽んじられるものではありません。
むしろ、そこには高度な編集力と、言葉の密度が求められる。
百文字で世界を成立させるという試み自体を、小生は否定するつもりは毛頭ないのです。
しかし、同時に思うのです。
百文字に削り落とされた瞬間、書かれずにこぼれ落ちてしまった感情や情景は、どこへ行くのだろうか、と。
物語とは、本来「効率」とは最も遠いところにある営みです。
登場人物の心の揺らぎ、寄り道のような情景描写、何の意味もない会話。
そうした余白の積み重ねによって、初めて読者の胸に静かな余韻が残るのだと、小生は考えています。
しかし百文字という枠の中では、その余白は真っ先に切り捨てられる。
感情は要約され、葛藤は単語へ圧縮され、世界は骨格だけの構造体となる。
そこに残るのは「分かりやすさ」と「即時理解」であり、
味わう時間は存在を許されないのです。
人はいつから、物語を「味わう」ことよりも、
「理解するスピード」を優先するようになってしまったのでしょうか。
小説とは、もともと時間を奪う存在でした。
ページを捲り、登場人物の息遣いに耳を澄まし、
時に遠回りをしながら物語と一緒に歩いていく。
その不便さこそが、
人が物語に心を預ける行為だったのではないか──。
そう考えるのは、小生だけでしょうか。
次話からはタイトル通りのAIの小説執筆利用について記していきます。
良ければご拝読頂いた際に感じた事。疑問点。感想の方へお寄せくださいませ。




