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【超超短編小説】おねがい乳神様

掲載日:2025/12/22

 それは魅力的なおっぱいだった。

 張りのある乳房は垂れる事なくツンと上を向き、小さな乳首はぷくりと隆起していた。

 辺りを見回したけれど、誰もいない。

 夕暮れの山は虫たちがいるだけだった。

 長い影を伸ばす鳥居がやたら大きく見えた。

 がうがうと跳ね回る心臓を感じながら、ぼくはゆっくりと、祠の中にあるその乳房に手を伸ばした。


「ケン坊、触ってはいかん!」

 突如として響いた怒声に驚いて、ぼくは慌てて手を引っ込めた。

 恐る恐る振り向くと、顔を赤く上気させたおじいちゃんがこちらに向かってきていた。

 心臓も喉もぎゅうと締まって、まるで山肌に縫い付けられたみたいに動けなくなった。


 骨太で筋張ったおじいちゃんは、まるで小さな熊みたいに見えた。

 ぼくはてっきり怒られると思って目を瞑ったが、傍に立ったおじいちゃんはぼくの頭に優しく手を置くと「よく我慢したな、偉いぞ」と言って撫でた。

 その手は分厚くひび割れた皮膚だったけれど、とても暖かく柔らかい手だった。


 おじいちゃんに手を引かれて乳神様が祀られている小さな社を出るとき、振り向いて乳神様の祠を見た。

 夕陽に照らされる乳神様の社は金色に光っていて、その奥に鎮座する乳神様はもっと光輝いているように思えた。

 近づいてはいけないと聞いていたけれど、ここまで来てしまったのだからその理由を尋ねみることにした。

「おじいちゃん、どうして乳神様に触っちゃダメなの?」


 おじいちゃんは、大きらいな酢の物を噛んだときみたいな難しい顔をして、ゆっくりと話はじめた。

「乳神様はなぁ、みんなの小さい我慢が、ああやって乳になって蓄えられていくことで、豊作をもたらしてくれるんじゃよ」

 だから、今年も、畑が綺麗だろう?

 おじいちゃんが指差した先には、緑や金色の波がうねっていた。風に揺れるそれは、まるで海みたいに見えた。


 ぼくはその海を見ながらおじいちゃんに尋ねた。

「じゃあ、触っちゃうとどうなるの?」

 あのぱつんと張った、柔らかそうな乳神様に触れたら、きっと幸せそうなのに。

 おじいちゃんは短いため息をつくと、例の分厚い手でぼくの背中をとんと叩くと

「ケン坊があの乳に取り込まれてしまうんじゃよ」

 と言った。

 驚いておじいちゃんの顔を見上げると、その顔は見たこともないくらいの真面目な顔だった。


 びっくりしたぼくは足を止めた。

「え?ぼくが乳神様になっちゃうの?」

 ぼくが、あの山の中の祠で、乳神様になる。もうお父さんにもお母さんにも会えない。おじいちゃんにも会えないし、おばあちゃんのおはぎも食べられなくなる。

 急に悲しくなって、泣き出しそうになったぼくを、おじいちゃんは「なに、大丈夫」と頭を撫でた。

 その手が暖かかった。

「うん」

 見上げたおじいちゃんの顔は、血のように赤い夕陽に照らされて、深い皺が刻まれた影の所為で、酷く暗鬱で恐ろしげな仮面のように見えた。


 ある日の夕方、ぼくは胸の谷間を流れ落ちる汗を感じながら畦道を歩いていた。

 あの頃と同じように畑は緑色の光を放つ海のようだった。

 裏山に入ると、欲望を全開にして鳴き叫ぶ虫たちの声がうるさくも爽やかな気さえする。

「おじいちゃん、ごめんね」

 離れた火葬場の煙突から立ち昇る煙に向かって両手を合わせる。

 まだ太陽は空高く、初夏の黄色い光を放っていた。



 あの頃はあんなにも大きく見えたけれど、今ではすっかり小さくなった鳥居を潜った。

 ざくざくと手足に刺さる雑草や枝の伸びた参道に分け入って、社の中を覗くと、荒れて、虫や動物の臭いがした。

「こんなに狭かったっけ?」

 むかしはあんなに広く、大きく感じたのになと笑う。

 首に巻いた手拭いで台座の埃を払い、自身の肉体がそこに収まると、しっかりと言うか、本棚の隙間に文庫本がちょうど入る様な、奇妙で気持ちの良い感覚が全身を覆った。


 目を閉じる。かすかな風が耳朶を撫でる。

 遠くで水が流れるような音が聞こえる気もするし、風で転がる砂粒の音さえも聞こえる気がした。

 遠いはずの光はそれでも十分に照らしている。

 蝉の声が遠い。

 その中に軽くて小さい、子どもの足音が聞こえた。

 ぼくは目を閉じたままだった。

「触ってはいかん!!」

 老人の叫び声に驚いて少年がぼくの乳首から手を放した。

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