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第5話:女王蜘蛛の寝床

『常闇の洞窟』の最深部は、異様な静けさに包まれていた。 それまでの湿った岩肌とは異なり、壁も天井も、一面が白銀の「糸」で覆われている。 足を踏み出すたびに、ネチャリ、と靴底が張り付く不快な感触。 ここは既に、あるじの胃袋の中と言っても過言ではない。


「……気をつけて、ネム。空気が変わったわ」


エレオノーラが大盾を構え、緊張した面持ちで囁く。 彼女の松明が照らす先には、巨大なドーム状の空間が広がっていた。 その中央に、闇よりも深い黒色をした塊が鎮座している。 八つの赤い瞳。 鋼鉄をも噛み砕く鋭利な顎。 そして、艶かしく光る甲殻に覆われた巨大な腹部。


ダンジョンボス**『クイーン・スパイダー』**。 推奨レベル20。初心者のパーティなら、姿を見ただけで戦意喪失するほどの威圧感を放つ怪物は、侵入者たちを値踏みするようにギチギチと牙を鳴らした。


「作戦を言います。私が『挑発』で注意を引きますから、貴方はその隙に……って、ちょっと!?」


エレオノーラが振り返ると、ネムは既にスタスタとボスへ向かって歩き出していた。 まだ《夢遊病》が発動しているのか、その目は半開きで、焦点が合っていない。 だが、その口元だけが、恍惚とした笑みを浮かべていた。


「……素晴らしい」


ネムは、壁に張り巡らされた糸の一本を指先で弾いた。 ビンッ、と琴線のような澄んだ音が響く。


「この光沢。この弾力。そして何より、この肌触り……!」


彼は糸を頬に押し当て、うっとりと目を閉じた。 普通なら粘着質で不快なだけの蜘蛛の糸。 だが、この女王蜘蛛の糸は違った。 極限まで精製されたタンパク質の繊維は、まるで最高級のシルクのように滑らかで、かつ鋼のように強靭だ。 これで作ったパジャマなら、寝返りを打っても決して破れず、それでいて肌を優しく包み込んでくれるだろう。


「キシャアアアアアッ!!」


餌が自ら近づいてきたことに興奮したのか、クイーン・スパイダーが咆哮を上げ、口から白い塊を吐き出した。 スキル《拘束の粘糸》。 当たれば身動きが取れなくなり、そのまま毒牙の餌食となる必殺の攻撃だ。


「危ないッ!」


エレオノーラが叫ぶ。 だが、ネムは避けなかった。 あろうことか、飛来する粘液の塊に向かって、両手を広げたのだ。


「待っていたぞ、素材!!」


ベチャッ! 粘糸はネムの顔面と上半身を直撃した。 普通なら悲鳴を上げる場面だ。 だが、ネムは違った。 彼は顔についた糸を舌で舐め、指でこねくり回し、その強度を確認した。


「……合格だ。少し粘り気が強いが、洗えば落ちる。強度は申し分ない」 「な、何を評価してるのよ!?」


エレオノーラのツッコミなど聞こえていない。 ネムの目が、獲物を狙う捕食者のそれ――いや、バーゲンセールのワゴンに群がる主婦のような鋭い輝きを帯びた。


「もっとだ。もっと糸を吐け。俺のパジャマを作るには、あと三十メートルは必要だ」


ネムが走った。 武器である枕を構え、ボスに向かって一直線に。 クイーン・スパイダーは困惑した。 獲物が糸に絡まったまま、嬉々として突っ込んでくるなど、AIの想定外だ。 慌てて前脚を振り上げ、鎌のような爪で薙ぎ払う。


「遅い」


ネムの体が揺らぐ。 《夢遊病》によるオート回避だ。 鋭い爪はネムの鼻先数センチを通過し、空しく空を切る。 ネムはその隙を見逃さず、ボスの懐――巨大な腹部の下へと潜り込んだ。


「ここが出口(生産ライン)か……!」


ネムはあろうことか、ボスの腹にある糸の噴射口に直接しがみついた。 そして、垂れ下がっている糸の端を掴むと、全力で引っ張った。


「キィッ!? ギチチッ!?」


女王蜘蛛が悲鳴を上げた。 ダメージはない。HPバーも減っていない。 だが、これは生物としての尊厳に関わる攻撃だ。 自分の体の一部を、物理的に無理やり引きずり出されているのだから。


「出ろぉ! 俺の安眠のために、その全てを出し尽くせぇぇぇ!!」


「ギ、ギシャアアアア!!(やめろおおおお!!)」


洞窟内に、男の叫びと蜘蛛の絶叫がこだまする。 ネムが糸を引っ張るたびに、シュルルルル!と勢いよく純白のシルクが引き出されていく。 彼はそれを手際よく腕に巻きつけ、あたかも糸巻き機のように回収していく。


「な、なんなのこれ……」


置き去りにされたエレオノーラは、盾を下ろし、呆然と立ち尽くしていた。 目の前で繰り広げられているのは、戦闘ではない。 ただの「収穫」だ。 巨大なボスモンスターが、パンツ一丁の男にしがみつかれ、泣き叫びながら糸を搾り取られている。 聖騎士として多くの戦場を見てきた彼女だが、これほどまでにモンスターに同情した戦いは初めてだった。


「ギッ……ギギッ……!」


ついに、女王蜘蛛の精神が限界を迎えた。 こいつは敵じゃない。捕食者ですらない。 もっと恐ろしい、関わってはいけない「変態」だ。


女王蜘蛛は残った足で必死に地面を掻き、ネムを振り落とそうと暴れた。 だが、ネムの執着心(握力)は万力のように固い。 振り回されながらも、彼は叫ぶ。


「逃がすか! まだ袖の部分が足りないんだよ!」


「キシャアアアアッ!!(助けてえええええ!!)」


ドォォン! 女王蜘蛛は壁を突き破り、新たな横穴を掘って逃走を開始した。 ボスがエリア外へ逃亡する。 前代未聞の事態だが、システムはこれを「プレイヤーの勝利」と判定したようだ。


>> ボス『クイーン・スパイダー』の逃走を確認。 >> 戦闘終了。プレイヤーの勝利です。 >> レベルが上がりました。 >> 特定条件を達成しました。ボスにトラウマを植え付けました。 >> 称号《蜘蛛の天敵》を獲得しました。 >> 大量のドロップアイテム『最高級クイーン・シルク』を入手しました。


「……ちっ、逃げたか」


ネムは地面に着地し、腕に巻きついた大量の白い糸を見て満足げに頷いた。 光沢のある美しいシルク。 これだけの量があれば、パジャマ上下どころか、ナイトキャップまで作れるかもしれない。


「ま、今回はこれくらいで許してやるか」 「……貴方、本当に人間?」


エレオノーラが恐る恐る近づいてくる。 その表情は、英雄を見る目ではなく、未知の生物を見る目そのものだった。 だが、ネムは気にしない。 彼の手には、ついに「最高のパジャマ」の素材が揃ったのだから。


「帰るぞエレオノーラ。裁縫の時間だ」


枕と大量の糸を抱えたパンツ男は、鼻歌混じりに来た道を引き返していく。 その背中を見送りながら、エレオノーラは深くため息をついた。


「……私、とんでもない人とパーティを組んじゃったのかも」


その予感は、残念ながら的中することになる。 この男が作り出すパジャマが、ただの寝間着ではなく、サーバー最強の防具になることを、彼女はまだ知らない。

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