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第4話:暗闇の洞窟と夢遊病

始まりの街『アルカディア』の北門を抜けると、それまでの穏やかな平原とは空気が一変した。 地面は緑の絨毯から、ゴツゴツとした岩肌が露出した荒地へと変わり、吹き付ける風には微かな硫黄と鉄錆の匂いが混じっている。


彼方に見えるのは、鋭利な刃物のように天を突き刺す『ニードル山脈』。 その山裾に、巨大な怪物の口腔のようにぽっかりと開いた暗黒の穴があった。


ここが今回の目的地、ダンジョン**『常闇の洞窟』**だ。


「……ふむ。いい暗さだ」


洞窟の入口に立ったネムは、満足げに頷いた。 外の太陽は眩しすぎるが、ここなら遮光カーテンを閉め切った部屋のような安らぎが得られそうだ。 洞窟の奥からは、ひんやりとした冷気が漂ってくる。 湿度は高めだが、乾燥して喉を痛めるよりはずっといい。天然の加湿器完備の寝室と言えるだろう。


「よし、行くか」


ネムが足を踏み入れようとした、その時だった。


「待ちなさい! そこの貴方!」


凛とした、よく通る声が背中に投げかけられた。 振り返ると、そこには一人の女性プレイヤーが立っていた。 全身を白銀のプレートメイルで固め、背中には身の丈ほどある大盾を背負っている。 金色の髪を後ろで一つに束ね、その碧眼は強い意志を宿していた。 ジョブは間違いなく『パラディン』だろう。


「……なんだ? セールスならお断りだぞ。俺は今から寝床の素材探しで忙しい」 「セールスではありません! 貴方、その格好でこのダンジョンに入るつもりですか!?」


女騎士は、ネムの姿を指差してわなわなと震えた。 現在、ネムの装備は以下の通りだ。


頭: なし(寝癖あり)


右手: 手作りの粗末な枕(マンドラゴラの汁で少し汚れている)


上半身: 裸(初期装備のシャツは羊毛に変えたため)


下半身: 右足だけ猪革のズボン、左足はトランクス


足: 裸足


誰がどう見ても、追いはぎに遭った被害者か、露出狂のどちらかだ。


「見て分かりませんか? 推奨レベル15以上の『常闇の洞窟』ですよ。中は視界ゼロの暗闇、出現するのは吸血コウモリや毒蜘蛛……。初心者が、しかも防具なしで入れば3分で死に戻りです」 「3分か。カップラーメンが出来上がるな」 「茶化さないでください! 私はエレオノーラ。この先でソロプレイヤーが死ぬのを黙って見過ごすわけにはいきません。どうしても行くと言うなら、私が護衛します」


エレオノーラと名乗った女騎士は、正義感の塊のような性格らしい。 ネムにとっては正直鬱陶しいが、彼女が「蜘蛛が出る」と言ったのが気になった。 蜘蛛。 つまり、目的である『スパイダー・シルク』を持つモンスターだ。


「……毒蜘蛛の場所を知ってるのか?」 「ええ、最深部の巣穴でしょうけど……まさか、そこまで行く気ですか?」 「案内してくれるなら助かる。じゃあ頼むわ」


ネムは軽く手を振り、スタスタと洞窟の中へ入っていった。 エレオノーラは「ちょっ、待ちなさい!」と慌ててたいまつを取り出し、後を追った。



洞窟内部は、その名の通り『常闇』に支配されていた。 入口からの光が届かなくなると、そこは本当の漆黒だ。 足元すら見えない。 壁を伝う水滴の音が、ピチャリ、ピチャリと不気味に反響している。


「灯りをつけますね。足場が悪いので気をつけて……」


エレオノーラが松明を掲げようとした瞬間。


「消せ」


ネムが低い声で言った。 それは、これまでの飄々とした態度とは違う、絶対零度の命令だった。


「は? 何を……」 「眩しい。そんなものが目の前でチラチラしていたら、目が冴えてしまうだろ」 「当たり前でしょう! 冒険において視界の確保は最優先事項です! 灯りなしでどうやって進むんですか!?」 「どうやって? こうするんだよ」


ネムは立ち止まり、ゆっくりと両目を閉じた。 そして、そのまま歩き出した。


「は……?」


エレオノーラは絶句した。 暗闇の中で、さらに目を閉じる。 正気の沙汰ではない。自殺志願者としか思えない。


「見えなければ、見なければいい。簡単な理屈だ」


ネムの論理は破綻していたが、彼の感覚は研ぎ澄まされていた。 視覚を遮断したことで、聴覚と肌感覚が極限まで鋭敏になる。 風の流れ。 湿気の変化。 そして、暗闇に潜む殺気。


キィッ!


頭上から、羽ばたきの音が聞こえた。 『ケーブ・バット』の群れだ。 暗闇に乗じてプレイヤーの血を吸う厄介な敵。 エレオノーラが「危ない!」と剣を抜こうとするよりも早く、ネムが動いた。


ゆらり。


ネムの上半身が、幽霊のように揺らめいた。 彼の耳元を、コウモリの鋭い牙が空振りしていく。 一匹ではない。 二匹、三匹、十匹。 四方八方から襲いかかるコウモリの群れの中を、ネムは目を閉じたまま、まるでダンスを踊るかのようにフラフラと歩き続けている。


「な……何よ、あれ……」


松明の明かりに照らされたその光景に、エレオノーラは戦慄した。 避けているのではない。 まるで「そこには最初から誰もいなかった」かのように、攻撃がすり抜けていく。 ネムの足取りは覚束ない。 今にも寝てしまいそうなほど脱力している。 だが、その脱力こそが、敵の攻撃の「風圧」を感じ取り、柳のように受け流す理想的な回避運動となっていた。


ネムの脳内には、心地よいシステム音が響いていた。


>> 視覚情報の完全遮断を確認。 >> 聴覚・触覚による空間把握レベルが上昇しました。 >> 無意識下での自動回避行動オート・ドッジが発動しています。 >> スキル《夢遊病スリープ・ウォーク》を習得しました。


(……ああ、楽だ。自分で歩く必要すらない)


今のネムは、半分夢の中にいた。 体は勝手に、最も安全で、最も障害物のないルートを選んで進んでいく。 地面の凸凹も、天井から垂れ下がる鍾乳石も、全て自動で避けてくれる。 これは移動ではない。 オートパイロットだ。


「おい、置いていくぞ。蜘蛛の場所まで案内するんだろ?」


振り返りもせず、目を閉じたままのネムが言った。 エレオノーラは呆然と立ち尽くしていたが、ハッと我に返り、慌てて追いかけた。


「あ、貴方……一体何者なんですか……?」 「ネムだ。ただの熟睡志願者だよ」


枕を抱きしめ、ふらふらと闇の奥へ進んでいくパンツ一丁の背中。 それはアルカディア最強の聖騎士を目指すエレオノーラにとって、今まで見たどんな高レベルプレイヤーよりも、底知れない不気味さと強さを感じさせるものだった。


「……前言撤回します。貴方に護衛は必要ないみたいですね」


彼女は苦笑し、松明の火を少し弱めた。 この不思議な男の安眠を、妨げないようにするために。

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