第2話:目覚めと、朝の運動
チュン、チュン……。
小鳥のさえずりが聞こえる。 頬を撫でる風は、エアコンの乾燥した風とは違う、湿り気を帯びた優しい春風だ。 遠くから聞こえる川のせせらぎ。 土と草の匂い。
「……んん……」
ネムはゆっくりと瞼を開けた。 視界に広がっていたのは、見慣れた黄ばんだ天井ではなく、どこまでも広がる青空だった。 体を起こす。 体の節々が痛くない。 首も凝っていない。 頭も重くない。 それどころか、全身に力がみなぎっているような感覚さえある。
「……おはよう、世界」
ネムは感動に打ち震えた。 これだ。俺が求めていたのはこれだ。 アラームの不快な電子音に叩き起こされることもなく、胃の痛みに耐えながら起き上がることもない。 ただ自然に、体力が全回復したことを以て覚醒する。 これこそが、生物として正しい朝の迎え方だ。
彼は愛おしそうに、自身が作り上げた『手作りの粗末な枕』を撫でた。 昨晩――といってもゲーム内時間での話だが――草原で野宿をしたにも関わらず、この枕のおかげで快眠できたのだ。
ふと、視界の端にシステムログが流れていることに気づく。
>> 睡眠を確認しました。 >> 固有スキル《微睡みの再生》が発動しました。 >> 睡眠中、HP・MP・スタミナの回復速度が300%上昇しました。 >> 野犬の攻撃を受けましたが、回復速度が上回りました。
「……ん?」
最後の一行に不穏なことが書いてあった。 どうやら寝ている間にモンスターに齧られていたらしい。 だが、そんなことは些末な問題だ。 熟睡していて気づかなかったのだから、実質ノーダメージである。 さすがは『レムマスター』。 睡眠に関しては無敵のジョブだ。
「さて、二度寝といきたいところだが……」
ネムは立ち上がり、大きく伸びをした。 さすがに腹が減った――いや、違う。 肌寒い。 彼は自分の体を見下ろした。 そこにあるのは、システム標準装備のトランクス(白)一丁である。 昨日、パジャマ代わりの服を求めて初期装備を売り払い、羊毛を取るために素材にしてしまったからだ。
「……冷静に考えると、これは通報案件だな」
周囲を見渡す。 草原エリアには、朝早くからログインしている熱心なプレイヤーたちがちらほらと見受けられる。 彼らは一様に、鉄の剣や革の鎧を装備し、スライムや野犬と戦っている。 その中で、枕を片手にパンツ一丁で仁王立ちする男。 完全に不審者だ。 遠くのパーティが、こちらを指差してヒソヒソと話しているのが見える。
「装備を作ろう。急務だ」
ネムは決意した。 このままでは、安眠どころか羞恥心でストレスが溜まる。 目指すはパジャマ。 それも、肌触りがよく、かつ外敵から身を守れる強靭なパジャマだ。 素材は何がいいか。 昨日の羊毛は温かいが、直接肌に着るには少々チクチクする。 もっと滑らかで、かつ野性味あふれる丈夫な革か布が欲しい。
その時だった。 草原の奥から、地響きのような音が聞こえてきたのは。
「ブモオオオオオオオオオッ!!」
土煙を巻き上げながら、巨大な影が突進してくる。 体長三メートルはあろうかという巨大なイノシシだ。 全身が剛毛に覆われ、二本の牙は槍のように鋭い。 頭上には赤いカーソルと、ドクロのマーク。 フィールドボス『暴走イノシシ(ワイルド・ボア)』だ。
「うわっ、出たぞ! フィールドボスだ!」 「逃げろ! まだレベル5じゃ勝てねぇ!」 「あいつ、こっちに向かってくるぞ!」
周囲のプレイヤーたちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。 だが、その進路上にいたネムは、逃げなかった。 彼の目は、イノシシの「腹」に釘付けになっていた。
(あの腹……!)
剛毛に覆われている背中とは違い、腹の部分だけは白く、滑らかそうな毛皮が見える。 それにあの程よい弾力のありそうな脂肪。 間違いない。 あれは、極上の『抱き枕』の素材だ。 いや、あの皮をなめせば、最高の肌着ができるかもしれない。
「ちょうどいい。朝の運動だ」
ネムは枕を構えた。 逃げるどころか、ゆらりとイノシシの正面に立つパンツ男。 その異様な光景に、逃げ遅れたプレイヤーたちが悲鳴を上げる。
「おい! あのパンツ、逃げ遅れてるぞ!」 「死ぬぞ! あの突進食らったら即死だ!」
彼らの静止も虚しく、イノシシはトップスピードでネムに激突しようとしていた。 時速六十キロの質量弾。 まともに食らえば、初期ステータスのプレイヤーなど木っ端微塵だ。 だが、ネムの思考は違った。
(来るなら来い。俺が優しく受け止めてやる)
衝突の瞬間。 ネムは、手に持っていた『手作りの粗末な枕』を、盾のように前に突き出した。
ドォォォォォン!!
鈍い衝撃音が響き渡る。 だが、ネムの体は吹き飛ばなかった。 枕に詰め込んだ大量の羊毛が、エアバッグのように衝撃を吸収し、分散させたのだ。 もちろん、多少のダメージは入る。 だが、今のネムには『微睡みの再生』による持続回復が残っている。
「……いい弾力だ。合格」
ネムは、イノシシの鼻先が枕に埋まっている隙を見逃さなかった。 衝撃で足が止まったイノシシの首に、電光石火の早業で腕を回す。 昨日、数百匹の羊を葬ったことで体に染み付いた動き。 スキル《絞め落とし(スリーパー・ホールド)》。
「ブモッ!? ブゴォ……!?」
イノシシが暴れる。 だが、ネムは離さない。 むしろ、愛しい恋人を抱きしめるかのように、全身でイノシシの巨体に密着する。 パンツ一丁の男が、巨大なイノシシにしがみついている。 絵面は最悪だが、技の切れ味は鋭かった。
「眠れ……大人しく眠って、その皮を俺によこせ……」
耳元で囁かれる呪詛。 頸動脈を圧迫され、酸素を遮断されたイノシシの力が、急速に抜けていく。 暴れる蹄が、ネムの裸の背中を引っ掻くが、ネムは眉一つ動かさない。 痛みよりも、素材への執着が勝っている。
数十秒の拮抗の末。 ズズ……ン、と巨大な質量の塊が地面に沈んだ。
>> フィールドボス『暴走イノシシ』を討伐しました。 >> レベルが上がりました。 >> 称号《巨獣を寝かしつける者》を獲得しました。 >> 素材アイテム『ワイルド・ボアの柔軟革』『剛毛』『巨大な牙』を入手しました。
「ふぅ……」
ネムは汗を拭い、動かなくなったイノシシから手を離した。 枕を確認する。 少し中身が偏ってしまったが、パンパンと叩けば元通りだ。 そして、手元には念願の素材。
「これで、ズボンが作れるな」
満足げに頷くネム。 しかし、周囲の反応は違った。 静まり返っていた草原が、一気に爆発する。
「お、おい見ろよ! あれボスだろ!?」 「ソロで倒したぞ!?」 「しかも武器使ってなかった! 枕で突進を受け止めて、プロレス技でねじ伏せやがった!」 「あいつ何者だ!? パンツ一丁であんな……もしかして、変態のフリをしたガチ勢か!?」
畏怖と困惑の視線が突き刺さる。 だが、ネムは気づかない。 彼の頭の中は、今手に入れた革をどう加工して、いかに肌触りの良いパジャマズボンを作るかという、クリエイティブな悩みで埋め尽くされていたからだ。
「よし、次は街に戻って裁縫だ。……その前に、少し眠くなってきたな」
大仕事を終えた心地よい疲労感。 ネムは再び枕を地面に置き、消滅していくイノシシの痕跡の上で、優雅に二度寝の体勢に入った。
その姿が、後に掲示板で『草原のパンツ魔神』という不名誉なスレッドが立つ原因になるとも知らずに。




