森のくまさん 1
あれから、1週間が過ぎた。
幸いあの後も特に体の不調もなく、私はまたアルバイトと家を往復するだけのいつもの生活に戻っていた。
ただ、そんな中ひとつ変わった事も……あれから1日に1回、小熊さんから律儀に様子をうかがうメールが送られてくるのだ。
普段、めったに活躍の機会に恵まれない私のスマホ……。小熊さんのおかげでやっと本来の働きを示すかのようにメールを知らせる着信音を鳴らすも、それにすら持ち主である私はビクッと驚いてしまうのだけれど……。
ただ、コミュ症とはいえ、さすがの私もメールの返信くらいはちゃんと返してはいる。毎回たった一言返事を送るだけで小一時間は頭を抱え込んでいるけれど、でもこれまでプライベートでのそういう経験がほぼなかったから、何だかそうやって頭を悩ますことすらほんの少し新鮮な感じもしていた。
そんなこんなで、今日はアルバイトの日。
「あら、おはよう」
私はバイト先に向かう道をうつむきがちに歩きながらも、どことなくそわそわしていると、そう声をかけられて思わず体をビクリとすくませた。
家を出る前から心の準備をしていたはずなのに、いざ声をかけられるとどうしてもおどおどしてしまう自分が自分でももどかしい……。
「っ……! お、おは、おはよう……ございます」
尻すぼみに声が小さくなっていったが、何とか自分なりに精一杯のあいさつを返す。
「今日もアルバイト、気をつけていってらっしゃいね」
けれど、声をかけてくれたおばあちゃんは、気にした様子もなく優しく微笑むといつものようにそう言って見送ってくれるのだ。
私は、その言葉にペコリと頭を下げて通り過ぎようとしたけれど、ほんの少し進んだところでもう一度振り返ると、おばあちゃんが小さく手を上げてくれた。それにまたペコリとお辞儀をして、私はその場をあとにした。
彼女は犬飼さんと言って、私がアルバイトに通い始めて、この道を通るようになってほんの少し経った頃から、今みたいに声をかけてくれるようになった。
しかし、当時の私は今よりもっと人見知りが激しくて、最初に声をかけられた時はびっくりしてどうしようとその場で固まっていたら……。
「急に声かけてちゃって、ごめんなさいね。最近見かけるようになったからつい……。お仕事かしら? 気をつけていってらっしゃいね」
謝られたうえに親切な声までかけてくれた。それなのに、そんなおばあちゃんに対してその時の私はオドオドしたまま、何と無言で走り去ってしまったのだった……。
だけど、そんな失礼な態度をとったにもかかわらず、犬飼のおばあちゃんは次のアルバイトに行く時も、優しく声をかけてくれた。
私はそれから、ぎこちないながらも会釈をするようになり、そうしているうちにやっと挨拶を交わすことが出来るようになった。
声をかけられてすぐの頃は、一瞬、ルートを変えようかとも思ったが、犬飼さんのお宅はパステル調のミントグリーンの外壁に、手入れの行き届いた小庭からチラリとのぞくキッチンはまるで雑誌で見るような、素敵なカントリー・ハウスのような雰囲気で、ものすごく興味を惹かれた。
こういうミニチュアハウスをいつか作ってみたいと、つい思ったりして、犬飼さんの庭先を通るのを、密かに楽しみにしていたりもした。
それに、引っ越してきてから、友達も出来ず……。
いや、学生時代も学校では用事がある時はほんの少し話す事もあったけれど、遊んだりするクラスメイトはいなかった。
自分なりに輪の中に入ろうと努力した事もあったけど、ちょっとうまく行かないとすぐ自分の殻にこもってしまっていたのも事実……。好きでぼっちをしていたわけではないと言いたいけれど、心のどこかで「コミュ症」を言い訳に逃げていた部分もあった……。
だから、犬飼のおばあちゃんとはただ挨拶を交わすだけだけど、私にとっては心がほっこりするささやかな交流でもあったのだ。
◇◆◇
「それでは、最終チェックします」
ドキリと心臓が緊張の音を立てた。
持ち場の清掃が終わり、チームリーダーの鴨井さんの最終チェックの結果を固唾をのみながら待つ。
「隅まで綺麗に拭き上げてるわね。良いでしょう」
その言葉にホッと胸を撫で下ろすと、深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
コミュ症の私だけど『掃除のおばちゃん』こと清掃の仕事は、少なくとも前職より自分に合っているような気がしていた。
多少のやりとりは必要だが、業務自体は真面目に手さえ動かしていればどんどん汚れが落ちていくし、ピカピカになっていくのを見ると、小さな達成感みたいなものも感じられる。意外にもそれが精神面にも良い影響を施してくれているのか、おかげでこんな私でもやや前向きにアルバイトを続けることが出来ていた。
「森野さん」
今日も何とか無事にお仕事が終わったと、後片付けをしながらホッとしていたのも束の間、鴨井さんに呼び止められて思わずドキョキョッと心臓が飛び上がる。
「はっ、はい……!」
こうやって、ふいに呼び止められる度に、
――どうか、クビを言い渡されませんように。
と、つい心の中で祈ってしまう……。
「仕事はとても丁寧で良いけれど、もう少しハキハキとできないかしら?」
「す、すっ……すみません……!」
「ほら、それ! そのオドオドした態度とかも……まるで私がいびってるみたいじゃない」
「あ、あ、ああ……す、す、すすす、すみません……」
鴨井さんは確かに厳しいところもあるけれど、こんな自分にも根気よく仕事を教えてくれる責任感の強い人だった。
だから、ちっともいびられてるとかそんな風に思ったことはないけれど、焦れば焦るほど負の連鎖に陥り、そんな私に鴨井さんはいつも大きなため息をつくのだった……。
せっかくお仕事にやりがいを感じ始めていたのに、鴨井さんをはじめ職場の人達といまひとつ馴染めない自分に、何だか帰り道の足取りも重い。
アルバイト先の人間関係に頭を悩ませながらとぼとぼと歩いていると、突然横からヌッと大きな影が伸びてきたので、思わずビクッと体をすくませ咄嗟に足を止める。
「も……」
相手が何か言い掛けようとしていたけれど、それと同時に何だかクマ……のような大きな手がグワッと私に向かって伸びてきた瞬間……。
「ヒッ……!」
本能的な警戒心に思わず引きつったような悲鳴を上げると、私は相手を確認する心の余裕もなく、そのまま踵を返してダッとその場から逃げ出したのだった。
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